儒教は変革の思想になり得るのか

■ 儒教は変革の思想になり得るのか       荒木 重雄

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 本誌の連載執筆者である初岡昌一郎・ソーシャルアジア研究会代表を準備委員
長、権重東・韓国ILO協会会長を名誉総長とし、日本中国国際教育交流協会な
どの協賛による「安東自由大学」が、昨年9月、韓国・慶尚北道の安東市で三日
間に亙って開催された。
  この「安東自由大学」とは「東アジア市民社会」の創造をめざそうとする日本・
韓国・中国の市民有志による自主的な研究と交流の場として企画されたものであ
り、初日に催されたパネルディスカッションにおいて、「東アジア市民社会」の構
想にむけて当面議論されるべき課題が四つの視点から示された。まずそこから述
べていこう。


◆ 「東アジア市民社会」の構想にむけて


  その一つは、日・韓・中の国際関係全般の動向とそのなかにおける市民交流の
現状である。欧州における進展を引き合いに東アジアでも地域協力や地域統合を
志向する声が高い昨今ではあるが、「政冷経熱」という言葉に象徴されるように、
企業レベルの相互依存は強まっているものの、国家間の関心もいまだ経済と安全
保障の分野に限られ、それも、靖国問題や教科書問題、閣僚の不適切発言など日
本側から引き起こされた歴史認識にかかわる問題から交流が頓挫・停滞する事態
がくりかえされてきた。

 そうしたなかで、交流の基本となるべき市民交流はどうであろうか。たとえば、
日本では、韓国や中国のテレビ番組や映画は普通に観られるものとなり、ソウル
や上海に遊びに出かけるのも日常のこととなっている。逆に、日本の漫画やアニ
メ、音楽やファッションも韓国や中国の若い世代にひろく受け容れられている。
このようなポップカルチャーや生活文化の相互受容ではかなりすすんできている
が、しかし、そのようなメディア資本や興行資本が提供する消費文化や娯楽文化
の背後にある、各々の社会の歴史や抱えている課題の理解となると、きわめて心
許ないのが現状である。
 
二つめは、交流や協力の基盤となるべき東アジア市民の共通性をどこに求める
かである。「同文同種」や「漢字文化圏」に言及するむきもあるが、一定の歴史や
文化の親近性は認められながらも、無自覚にそこに寄りかかれるものでないこと
は東アジアの現況からして明らかである。
  「東アジア市民社会」の構築という観点からは、むしろ「同時代性」、すなわち、
ともに同じ時代の困難や課題に直面する者として、その克服・解決に取り組み、
よりよい世界を拓こうとする努力にこそ、新たな積極的な共通性を見いだすべき
であろう。
 
では、東アジアの市民がいま共通に抱えている、取り組まなければならない問
題とはなにか。それはいうまでもなく、グローバリゼーションという名でよばれ
ている、「経済」がもつほんらいの意味を失わせるような利潤や市場の絶対化、市
場原理・競争原理の無批判な信奉・崇拝であり、それが社会制度としてもたらす
格差の拡大、弱者切捨て、伝統的価値観や文化の喪失、社会意識や社会的連帯の
崩壊、そして人類社会の危機さえ予感させる資源枯渇や環境破壊である。
  さらにこうした格差社会・弱者切捨て社会では、大衆の不満・不安のはけ口と
して偏狭で排他的なナショナリズムを生みやすく、また、それに迎合しさらには
煽って自らの勢力を拡大しようと企むポピュリズム(大衆迎合主義)の政治家を
簇出させる。これは東アジア市民社会の可能性を根底から覆すきわめて危険な兆
候である。

 三つには、上のこととも関連して、歴史の捉え方である。日清戦争以来の50
年に及ぶ日本の行動が非道な行為に満ちていたことはいうをまたない。しかし歴
史を捉える視点としては、過去の出来事の検証だけでなく、未来の目標やあるべ
き姿から、すなわち、あるべき東アジア市民社会構築への道筋から照らし返して
過去を検討し、意味を探り、教訓を引き出し、将来への道しるべを見いだす、「未
来の理想・未来の連帯からの歴史」「未来の理想・未来の連帯のための歴史」とい
う方法もあるのではないか。
  日・韓・中それぞれの国の思惑で色づけられた歴史認識を超えて、未来の東ア
ジア市民社会から照らした東アジア共通の歴史を描く試みを、困難な道程であろ
うと着手するべきである。

 そして四つめは、上記二番ともかかわりながら、東アジア固有の価値観・思想
文化をどう活用するかである。たとえば儒教である。儒教は民衆の支配と収奪の
装置という負の側面が強調されやすいが、一方でそれは、「仁」や「礼」を基本に
己を修めて人を治め、その治められた社会が「天」(自然の理法すなわち普遍的な
真理・正義)に合致することを求める高い道徳性と大きなスケールをそなえた世
界観・社会思想でもあり、グローバリゼーションの経済効率至上主義・競争原理
至上主義への有効な対抗思想へとつながる側面ももつのではないか。
  とりわけこれは、自由大学が構想された安東という土地が韓国における儒教の
聖地としての特性をそなえるところからも、問われるにふさわしいテーマである。
  そこで次に、その安東と儒教のかかわりを簡単にスケッチしておきたい。


◆ 安東は韓国儒教の聖地


  安東は、「東方の朱子」「朝鮮儒学の最高峰」と称えられ、現在の1000ウオン
紙幣の絵柄にもなっている16世紀の大儒学者・李退渓の故郷であり、彼の薫陶
を受けた壬申丁酉倭乱(文禄慶長の役)当時の宰相・柳成龍や柳の命で対日交渉
に当たった金誠一など勝れた儒者を輩出した土地柄であり、また、多くの有力な
両班(儒学の素養をもつ支配階層)が割拠した地域でもあることから、儒教に特
別な関心が払われている。
 
  儒教の体系的な調査・研究の上に「韓国文化の世界化のために国学を再定立し、
未来社会の精神的な座標を確立する」という壮大な目的をもった韓国国学振興院
をはじめ、ハイテク展示技術を駆使して儒教の啓発や儒教を「愉しむ」よう企画
された儒教文化博物館や伝統文化コンテンツ博物館、さらに、儒教にもとづく礼
法や生活の作法を教える伝統礼節学校など、ユニークな施設が市内各所に点在し、
これらは李退渓や柳成龍など著名な儒者が遺した学問所である「書院」や両班宗
家の邸宅、さらには伝統的な仮面舞などと併せて有力な観光資源ともなっている
が、両班儒者たちの「志」とでもよべるものがもっともよく示されているのは昨
年6月に落成した安東独立運動紀念館であろう。
 
  安東は独立運動で重要な位置を占めている土地である。1894年、朝鮮王朝の封
建的収奪と日本の侵略に反対する大規模な農民反乱である甲午農民戦争(東学党
の乱)が起こり、これが朝鮮における本格的な民族主義運動のはじまりとされる
が、安東の人たちは「安東甲午義兵」と称してこれに参加し、政府および日本の
連合軍と戦っている。抗日運動の主体はやがて両班の儒者たちが率いる「義兵闘
争」に転じ、三・一独立運動の高揚期を迎えて上海に亡命政府を樹立し、やがて
は社会主義勢力が台頭し、祖国を追われた満州でのパルチザン闘争と国内での民
衆運動が呼応し、と展開するのだが、その過程のすべてに安東の両班たちが主要
な位置でかかわっている。
 
  興味を惹かれるのは、1920年代以降、社会主義思想が台頭するなかで、ほんら
い対極にあると思われる両班たちが「革新儒林」と称して活動の中心を担ってい
ることである。両班のエリートとしての志の高さを示すものといえよう。しかし
そのことが、独立運動における安東人の功績が長らく認められなかった理由であ
ると安東の人びとは考えている。独立運動家は全国でも安東出身が一番多かった
のに、社会主義に与したために、独立後、無視されつづけてきた。それがようや
く時代の変化と長年の働きかけが功を奏して、ソウルに次ぐ二番目の施設として
この安東に独立運動記念館が設立された。これでようやく積年の「恨(ハン)」が
晴らせた。というのが、安東の旧両班たちがもらす感懐である。
 
新設のこの記念館の特徴は、史実を当時の写真や文献資料で冷静に示すことに
徹していて、この種の施設に多い扇情的な残虐場面などいっさい見当たらないこ
とである。中央ホールの黒曜石の銘板には、祖国の独立に殉じた、政府に認定さ
れた独立運動家310名、未認定の独立運動家685名の名が刻まれている。それら
の名のほとんどは金、権、柳、李など、この地方の有力な両班の一族に連なるそ
れである。安東独立運動紀念館はいわば、両班顕彰のモニュメントともいえそう
である。


◆ 儒教のキーワードは「仁」と「礼」


  安東自由大学の議論の深化、そして「東アジア市民社会」構想の充実にむけて
は、先に挙げた四つの視点のそれぞれを深めていく必要があるが、この小論では、
四番目に挙げた東アジア固有の価値観・思想文化としての儒教について考えるな
にがしかの材料を提出しておきたい。
 
  儒教とは、創始者とされる孔子みずからが「古の聖賢が実践した道を総合した
もの」と語っているが、その「古の聖賢」とは、はるか伝説の彼方にかすむ堯・
舜・周公などであり、そこからはじまって孔子、孟子、荀子、董仲舒と連なり、
時代が下っては朱子学を立てた朱熹や陽明学を興した王守仁に及び、これらの学
派はさらに無数に枝分かれし、そこに道教や仏教も流れ込んで、まさに近代以前
の中国の思想・文化の総体とよぶにふさわしい規模と複雑さをもっている。
 
  だがその基本にある概念は「仁」と「礼」である。「仁」とは、孔子は「己立た
んと欲して人を立てる」「己の欲せざるところは人に施すなかれ」などと説き、孟
子は、人の不幸を黙視しえぬ「人に忍びざるの心」と表現するような、人間らし
さの極致を表す最高の徳目とされる。対する「礼」は、日常の礼儀作法からはじ
まって冠婚葬祭、社会道徳や社会秩序、国家の運営にいたるまでの、「仁」を具体
化する形・システムをさす。
  この「仁」と「礼」をもって、まず己を修め、家を整え、国家・世界を治める。
これを「修身、斉家、治国、平天下」あるいは「修己治人」「修身治国」といい、
それを実践するのが儒教である。これはまた「天命」、すなわち、「天」は至上神・
宇宙・理法などの観念に祖先の要素も加わったもので「命」はその意思だが、ま
つりごとは「天命」に従うことを旨とすべしという政治思想でもある。

 ところで庶民は儒教を日常道徳もしくは処世訓として捉えてきた。たとえば孟
子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」(五倫)というが、
このような価値観をもって身を処し結束を固めれば、家の安泰、家業の繁昌、一
族の繁栄、間違いなし、ということになる。したがって庶民は「修身、斉家、治
国、平天下」を「修身、斉家」止まりで捉えたのだが、儒教のほんらいの主張は
「治国、平天下」にある。ここで注目されるのが「仁」の特別な性格である。「仁」
は子の親に対する愛である「孝」を出発点として身近なものを対象に始まる愛で
あるが、その愛が及ぶ範囲を順次拡大してゆけば、さまざまな段階を経て最終的
には人類愛に到達する。そのような「拡がる力をもった愛」「拡大の志向をもった
愛」が「仁」であって、したがって必然的に社会思想・政治思想に結びつく。そ
こで孟子は、「公共性」「社会的妥当性」を意味する「義」を「仁」と同等の価値
に置いて「仁義の道」を唱え、「人に忍びざるの心」に基づく「人に忍びざるの政
治」を実践するのが王の道と説くにいたるのである。
 


◆ 朱子学と陽明学


  中国が宋の時代を迎えると、それまでの隋・唐の貴族に代って士大夫が台頭し
てくる。士大夫とは、科挙を通って政治にかかわる官僚であり、地元では地主で
ある、知識階層。両班はこの朝鮮版である。彼らは、皇帝と人民に対して責任を
負うエリートとしていかに社会的実践にかかわっていくか、というところで「修
己治人」「修身治国」の儒教の基本的テーマに向き合っていたのだが、そこにトゥ
ングース系異民族の金が侵入してきて支配される、また、仏教の禅が大きく力を
伸ばす、という、漢族の国家と文化の危機に直面することとなった。このような
時代状況を受けて、12世紀の儒学者・朱熹が、儒教の総合的・根本的な改革を図
って生まれたのが朱子学である。
 
  朱熹は「気」と「理」の理論、すなわち、「気」とは宇宙に充満するガス状の物
質で物を形づくる源基であり、「理」はそこに内在する秩序ないしは法則性である
が、その「理」と「気」の原理によって宇宙から人間社会にいたる森羅万象のす
べてを統一的に捉える壮大な理論体系を創りだす。とくに人間についてはその
「理」を「性」として、それは孟子以来の儒教が基本徳目とする「仁、義、礼、
智、信」のいわゆる「五常」であり、したがって人間の本性は善である、しかれ
どもこの善なる本性の完全な発現は「気」によって阻害されているので、その阻
害を取り除く修養法が必要である、として、心の集中による覚りを中心とする「居
敬窮理」の修養法を示して、精神陶冶の努力を勧めている。そのうえで、そうし
て自らを高めた士大夫による社会的実践としての経世済民、すなわち「修己治人」
「修身治国」を求めているのが朱子学である。
 
  朱子学は、しかし、朱熹の晩年、当局によって偽学として禁止されるが、各地
に散った門人たちの活躍によってしだいに社会的な地位を固め、14世紀の初めに
は科挙の標準テキストになり、以後、元・明・清にわたる600年余りの間、朱子
学は国家教学の座を独り占めすることになるのである。
 
  だが、権威を獲得すると同時に形骸化していくのが世の常であり、国家教学と
なり形骸化した朱子学への批判として明の末、16世紀の初め、王守仁によって新
たな学派が興される。この学派は王守仁の号「陽明」から取って陽明学とよばれ
た。陽明学の教義は、自らを高める修養法のなかで人間本来の自己救済力をとり
わけ強調する点で朱子学と異なるが、特徴はむしろ「万物一体論」の社会観にあ
る。王陽明は、万物すべてが「気」によって構成されていることを論理的根拠に、
万物への愛に覚醒すること、万物それぞれの個性・本質が顕現する世界をつくる
ことを求める。人間社会に即していえば、個々の人間がおのおの自力救済を尽く
して人格的に自立し、そうして自立した個々人が相互に「真誠惻怛の愛」を及ぼ
して「大同」の世界を実現しよう、という、一種のユートピア思想である。
  この陽明学は16世紀に一世を風靡するが、17世紀には朱子学からの熾烈な反
撃に遭い、再び顧みられたのは清末・民国初期の激動期という経過をたどる。


◆ 儒教の朝鮮への影響、日本への影響


  儒教は早い時期から周辺の東アジア諸国に伝わり、大きな影響を与えてきた。
とりわけ、本国以上に信奉されたといわれるのが朝鮮である。朝鮮儒教の特徴は、
第一に、両班主導で導入・維持されたことである。両班は科挙の試験までの教育
の過程で儒学、とくに朱子学を身に着けることになり、それが両班の価値観や行
動原理を形づくっていた。
 
  二番目は「朱子学一尊」、専ら朱子学が信奉されたことである。朱子学は高麗時
代の13世紀末から入ってくるが、14世紀末にはじまる朝鮮王朝(李朝)時代に
は国家教学に採用され、16世紀には李退渓、李栗谷という二人の大儒学者が現れ
て、朱子学は朝鮮にしっかりと根を張ることになった。そして李朝500年の間、
朱子学一尊は貫徹され、仏教はいうに及ばず、陽明学も異端思想として厳しく拒
否され、これらを公然と信奉することは死に追いやられることでさえあった。
 
三つ目は、厳格な身分制度(両班・中人・常民・賎民)や家族制度(嫡庶の峻
別・男女の区別・年齢の秩序・父系血縁の紐帯など)を支え律する礼制を重んじ、
冠婚葬祭を朱熹が著した式次第である『公文家礼』で行うことや、国家が孝子・
忠臣・烈女の顕彰を行うことなどによって、儒教が人びとの生活の隅々にまで浸
透したことである。
  こうして朝鮮は、中国以上に儒教の国、朱子学の国となっていった。

 日本へは4世紀以降、中国・朝鮮から儒教が入ってはいたが、地位を固めるの
は近世に入ってからである。本格的に儒教によって自己の思想形成を図ったのは
16世紀の藤原惺窩や林羅山からとされ、中江藤樹、山崎闇斎などがこれにつづき、
羅山や闇斎の活躍によって朱子学が江戸幕府の体制教学となった。しかし、朝鮮
のように一つの学派が圧倒的に支配するというのではなく、多様な学派が併存し
研鑽を競うことになった。古学派も地歩を占め、伊藤仁斎は孔子・孟子に遡るべ
きと唱え、荻生徂徠は孔子も通り越して堯・舜の先王にまで戻るべきと主張した。
朱子学の批判者にはもちろん陽明学があり、中江藤樹、熊沢蕃山、大塩中斎(平
八郎)などがいる。
  このような各派併存の自由な受容に加え、礼法についても、おおかたの日本人
は冠婚葬祭を仏式か神式で行い、儒教式の冠婚葬祭はついに制度として定着しな
かったことも朝鮮との大きな違いである。
 
  さて、日本の儒教の特徴として注目したいのは、礼法に固まる朱子学を批判し
「万物一体」を革新思想として掲げた陽明学が社会思想史的にもった大きな意味
である。日本における陽明学派の始祖とされる中江藤樹は清貧のなかで求道生活
を貫いた高徳の人として知られるが、その教えを継ぐ熊沢蕃山は、諸藩に仕えな
がら、民を豊かにするすべとして自然環境の保全と農業の振興を説き、徳川幕藩
体制を批判して地方分権を唱え、武士の帰農を主張したことから、茨城県・古河
に勾留されるが、そこで植林や治水に大きな成果を挙げている。大阪奉行所の与
力という立場にあった大塩平八郎は、天保の大飢饉にあえぐ難民をよそに不正を
はたらく役人や暴利をむさぼる大商人を批判し、「万物一体の仁」を忘れた者を誅
伐すると「救民」の旗を押し立てて蜂起を起こすが、鎮圧され自害する。いわゆ
る「大塩の乱」である。

 このような社会意識の強い陽明学を中心に、儒教は、幕末維新期の思想家・政
治家を支えるバックボーンとなっていた。佐久間象山や西郷隆盛、高杉晋作らも
陽明学を学んだといわれるが、横井小楠は武力に勝る欧米列強に「仁」の道を対
する対等な外交を主張し、また、社会の平等と民衆の福利を旨とする小国福祉社
会論を唱えた樽井藤吉は、「和を尊ぶ日本」と「仁を重んずる朝鮮」が対等に合併
して欧米の侵略に「道義をもって」対抗することを説いていた。鉱毒に悩む谷中
村の農民と共に生涯を闘いぬいた田中正造も、社会主義やキリスト教にも近づい
たが、そのバックボーンはやはり儒教であった。


◆ 近代化過程における儒教


  では近代化の過程で儒教はどのような道を辿ることになったのであろうか。
  中国では、旧秩序を内側から最初に揺さぶったのはキリスト教に依拠した農
民・下層民衆の反乱である太平天国であった。19世紀中葉のこの運動は、キリス
ト教とされながら、「拝上帝教」の名に示されるように中国古来の「上帝」を唯一
至高神に仰ぎ、孔子が『礼記』で描いたような大同世界を理想として、これをキ
リスト教の枠組みで説いたものだが、儒教は「妖書邪説」として禁じられた。
 
さらに中国現代史の発端ともされる1919年の五・四運動においては、儒教は
中国の封建思想の核であるとして「打倒孔家店」のスローガンのもと徹底的に批
判される。魯迅はその著『狂人日記』のなかで儒教を「人が人を食う」教えであ
るとして、「人を食ったことのない」子供すなわち「儒教に毒されていない」子供
を救え、と書いて、新たな中国への期待を表明している。中国の近代化は儒教批
判からはじまったといっても過言ではない。

 日本でも明治維新以降の近代化のなかでは儒教の影は薄い。
  近世儒教は、幕府の学問所である湯島の昌平黌や各藩の藩校をはじめ、多くの
私塾・寺子屋などをつうじて、武士だけでなく一般庶民も教育し、高い識字率を
達成して、近代化の基盤をつくったが、封建思想として福沢諭吉や西周ら啓蒙思
想家によって否定され、それが儒教に対する社会一般の見方にもなった。
 
政府も儒教には否定的な態度を取ったが、自由民権運動の高まりに遭遇すると
態度を変え、1890年、儒教と西欧の近代的道徳思想を混ぜ合わせそれを水戸学の
国体思想によって枠付けした教育勅語をつくりだす。また、昭和に入って戦雲が
濃くなると儒教道徳を称揚して社会の統制と戦意高揚を図るなど、政治的に利用
したところはあるが、全体としてはさして重きが置かれてこなかったといえよう。

 そうしたなかで朝鮮は、前述のように独立運動や近代化が主として両班によっ
て率いられ担われてきたことから、儒教が大きな力をもちつづけてきた。韓国で
はいま、統計上は仏教やキリスト教が多くなっているが、儒教的価値観はムーダ
ン(巫女)信仰とともに依然、表面上の信仰とはかかわりなく多くの人びとの感
性や行動原理の基底を形づくっている。

 本場、中国のその後についていえば、解放後の社会主義政権によって儒教はさ
らに徹底して否定され、文化大革命期の73年には「批林批孔」のスローガンで
また蒸し返して叩かれた。社会的な力はほとんどないというべきであろう。
  しかし最近は、孫子の兵法や易経、風水などとともに儒教にも関心が高まって
きて、論語教室が市民の人気を集めたり、北京の清華大や上海の復旦大など有名
大学で企業経営者やビジネスマン向けに儒教講座が開かれたりしている。市場経
済化で増えた富裕層や中間層が、経営戦略の参考や、人生の岐路に、あるいは競
争社会を生きぬく心の拠り所として、伝統の智慧を求める傾向が出てきていると
いわれている。


◆ 儒教は変革の思想になり得るのか


  以上みてきたように、「漢字文化圏」という概念が東アジアをつなぐ紐帯として
もはや現実的でないと同様、「儒教文化圏」という発想も現実的な有効性は薄い、
といわざるをえまい。まして、「儒教を東アジアの新たな市民連帯の軸に」と考え
ることは突飛な発想の部類に属そう。しかし、世界のさまざまな弊害・矛盾が、
経済効果だけを唯一の基準にはかる「価値観の単一化」に由来している現状を顧
みれば、いま、なにより必要なのは価値観の多様化・相対化であり、その、経済
至上主義の価値観に対抗し相対化できる力をそなえる価値観のひとつは宗教や精
神にかかわるそれであろう。
 
  そうしたもののひとつとして儒教をみると、儒教に期待できるのは「高潔さ」
や「志の高さ」である。物欲や己の欲に捕われない「志の高さ」や「高潔さ」は、
「仁」と「礼」を基本とするところからは必然的に発する、自己を律する美意識
であるはずである。最近「品格」やら「武士道」やらがマスメディアでやたらに
はやっていて、その現象には胡散臭さがつきまとうが、何事もカネ次第の世の中
では、ほんとうの「品格」や「志の高さ」は、なにはともあれ求められるところ
である。
 
  儒教にはまた、「修己治人」「修身治国」の社会意識・政治意識がある。惻隠の
情にもとづく「人に忍びざるの心」による「人に忍びざるの政治」をめざし、そ
の政治が「天」すなわち自然の理法にもとづく普遍的真理・正義に合致すること
を厳しく問い、求める理想主義である。とりわけ陽明学では「万物一体」の自立
と共生を前提とした絶対的平等の「大同世界」がめざされている。このようなス
ケールの大きい、理想主義的な政治思想・社会思想というものも、現在の社会で
はとりわけ必要とされるものではないだろうか。
 
  さらにくわえれば、たとえば、西洋のマックス・ウエーバーは近代資本主義に
プロテスタンティズムを求めたように、東洋の渋沢栄一は資本主義に儒教と武士
道を結びつけようしたし、西欧の知識から真摯に近代を問うた夏目漱石も「則天
去私」にゆきついた。このように儒教的文化は、やはり日本人・東アジア住民の
DNAにどこか近しいものとしてある。儒教の歴史的功罪はさまざまあろうが、
東アジア世界では数百年に亙ってあるいは二千年以上に亙って、西洋からまった
く別種の文明の体系が押し寄せてくるまで、信奉者であれ批判者であれ、この思
想から世界の捉え方と人間のありかたを学んできたのは、まぎれようのない事実
である。
 
とするならば、これを新たな視点で検討し、新たな理念を盛り込むことによっ
て、私たち東アジア住民の心に馴染む、借り物ではない、内発的な、現代を超え
る新たな思想を生みだすてがかりのひとつを得られるのではないだろうか。

                  (筆者は社会環境フォーラム21会長)

                                                    目次へ