【日本の歴史・思想・風土】

元号に思う

平良 知二


 天皇陛下の退位が可能となる特例法案が国会で可決された。
 これにより来年、平成30(2018)年末に現天皇は退位し、2019年早々には皇太子が新しい天皇の座に就くことがほぼ確定した。各種の儀式などの細かい段取りや日程はこれから決めていくことになるのだろうが、元号(年号)も変わることになり、「平成」からどういう元号になるか、国民的関心も高まっていくだろう。

 じつはその元号に関して、日本古代史の深い闇を照らし出す重要な事実があることが知られている。一部の民間の研究者の間で長らく研究されてきたもので、大学や古代史学会など権威筋からは無視されているのだが、古代史の実相に迫る成果をあげており、注目を集めている。

 天皇家は万世一系と言われる(明治憲法)。初代・神武天皇から今日までずっと続いている(神話時代の歴史性は別として)。このような歴史は世界に類例がなく、そのこと自体で尊い、という考えである。今回の天皇退位の論議のなかでも、この連続性を強調し、天皇の役割として伝統的な宮中儀式に集中するだけでいいと述べた有識者もいた。いわば“国体”を守る役割に徹すべし、ということだ。

 その天皇家(大和朝廷)の最初の元号は「大宝」である。西暦701年が「大宝元年」に当たる。中学、高校の日本史で教わる。神武から数えて41代目の文武天皇(文武5年)のときであり、以後、元号は連綿と続き今に至っている。歴史的な事件やできごとは元号と一緒に「保元・平治の乱」「応仁の乱」「享保の改革」などと覚えてきたもので、歴史好きの人にはなじみの元号というのがあるかと思う。

 ところが、「大宝」以前にすでに元号があったというのが、民間の研究者たちの研究成果である。とくに九州地方の寺、神社などの史料にこれまで一般には知られていない数多くの元号が残っているため、「九州年号」と呼ばれたりしている。元号の数にして32個もあり、西暦517年から712年までの190年余、これも連綿として続いている(年号の数と年数には若干の異論もある)。かなりの歴史を持つ元号と言えよう。この元号の終わりが「大宝」の始まりとほぼ重なる。

 元号は時の権力が自分(の王朝)こそ唯一・絶対の支配者だと表明するために発布する。東アジアでは、中国・漢の武帝が始め、何百年か遅れて、朝鮮半島の諸国が続いた。中国の王朝は周囲の朝貢国に対しては、その国独自の元号をなかなか認めなかったようである。
 朝貢してくる国はわれわれの属国ではないか、われわれの元号を使うのは当然、ということだったのだろう。しかし、中国でも王朝が変わると支配権を確立した新王朝が新しく元号を発布した。

 元号の持つ、このような意義を考えると、「大宝」以前に公布されたこれら九州年号は文武天皇の皇祖の系列(即ち大和朝廷)とは違う政治権力(王朝)が九州地域を基盤に続いていたことを示している、と言えるだろう。
 190年余というのは大和朝廷側では、物部、蘇我の確執、聖徳太子の遣隋使、大化の改新などの時代である。この時代に九州に別の王権があって、そのつど元号を公布し、支配権を誇っていたということだ。「大宝」まで元号を有しなかった大和朝廷もその支配下にあったことになる。

 大和朝廷の史書には、「大宝」が元号のはじめと明記され、それ以前の元号はなかったとされている。九州年号が続いた190年余を“虚偽の歴史”と見たのだろう。「大宝」を建元し支配権を握ると、大和朝廷はそれまでの元号とともに、九州の王朝そのものを「なかった」如くに消してしまった。

 日本の歴史は、古代から大和朝廷が太い棒のように一本伸びてきて現在に至っている、というイメージが一般的だ。いわゆる万世一系である。しかし、それとは異なる歴史の実相が掘り起こされつつある。大和朝廷以前に、九州を中心とした王権があり、その王権が日本(倭国)を代表して中国、朝鮮と長い交渉を続けていた、という歴史である。倭の五王や白村江の戦いなどもその流れにある。

 天皇退位に向けて「平成」に代わる新元号の決定など、天皇家にまつわる話題が広がるなかで、日本古代王権の隠された史実がさらに明らかになってくれれば、と願うものである。

 (元沖縄タイムス編集局長)

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