八月残暑日乗

【横丁茶話】

八月残暑日乗               西村 徹

【前号おことわり】

前号拙文につき部分訂正および補足;「第四高等学校理科の生徒は愛知県鳴海の三菱に」は「三菱」ではなく「住友金属工業(株)」。特攻ゼロ戦用シリンダーヘッドの鋳込み作業に従事。共に働いた徴用の朝鮮人は体格が大きくドンブリ一杯の食事では足りず、いつも食堂では乱闘さわぎ。風呂場で見る海軍工作兵は精神棒の傷痕が生々しかったという(私家版『戦中戦後の四高時代』2001所載の理科から文科に転じた平松伸一郎氏らの寄稿による)。

注目すべきは海軍工作兵に関する件である。海軍は一貫して朝鮮人を受け入れなかった。したがって海軍工作兵はすべて日本人である。その日本人が日常的に樫の棍棒で殴打された。加害者は大日本帝国であることに変わりはないが奴隷扱いされたのは朝鮮人だけでなく日本人も含まれていたのである。

¶8月17日 「海上自衛隊幹部候補生学校」
毎土曜夕刻に「報道特集」という民放の番組がある。今夕の番組で「海上自衛隊幹部候補生学校」に防衛大学校以外の一般大学出身者が年々多く入学してくる様子を、そしてきびしい訓練を受ける様子を映していた。一般大卒の動機は割り切ったもので入学は就職を保証するものだからという。競争率は13倍。今年の入学は防衛大98、一般大97の比。昨年は一般大のほうが多かったそうだ。江田島の、昔の海軍兵学校そのものが校舎で、防大卒2名、一般大卒2名の4名がセットで同室の戦友となる。防大卒は、スパルタ式の兵営生活に不慣れな一般大卒に、戦友として(実質上先輩として)何かと手助けする。

この風景に私はたいへん感銘を受けた。江田島湾15キロの遠泳を辛うじて泳ぎきった一般大卒の女子に、戦友の防大卒女子が寄り添って優しくねぎらいの言葉をかけていた。遠泳の途中も強い者は弱い戦友の足を押してやって、その分自分が消耗して速度が落ちるのをかえりみない。義を見てせざるは勇なきなり。このように弱きを助ける友愛の精神が自衛隊と一般市民とを結んでいるかぎりは安心だと思う。防衛大学校の教育がよくよく優れているからだろう。

戦時中も昭和17年から一般大学の学徒も海軍予備学生として江田島の兵学校に入るようになった。その折は「兵学校の伝統が汚された。股開け、歯を食いしばれ」といって一号生徒(上級生)が拳骨で殴ったと聞く。まさに今日の転入生に対するいじめである。兵力不足を補うために本来の学業を捨てて助太刀にはせ参じた学徒兵には感謝して、これを歓迎するのが武士道であろう。現在の江田島とくらべて「海軍あって国家なし」の旧帝国海軍はなんと醜悪に歪んでいたことか。

¶8月20日 「古い扇風機」
古い扇風機が燃えたという新聞記事を見た。テレビも扇風機があっという間に燃える有様を映していた。そこでわが家の扇風機の年代が気になった。なんと、ひとつは1972年製、もうひとつは1976年製だとわかった。1977年以前のものは経年劣化で発煙発火する恐れがあるという。しかし、ふたつとも機嫌よく回っている。モーターも格別熱を持ったりしていない。

原発をあきらめきれないアベちゃんの気持ち、ちょっとわかる気がする。気がするが、それでは済まない。フクシマにはならなくてもフクチヤマになってもたいへんだ。暑さも続く。来年だと消費税も上がることだし買い換えて少しだけアベノミクスに貢献(?)することにした。ただし二つでなく一つだけにした。72年製は廃炉にしたが76年製は再稼動させることにした。我ながらケチだな!

¶8月21日 「三輪明宏:ヨイトマケの唄」
今日は旧暦の7月15日。ほんとのホントの盂蘭盆会。満月だが、月見に興じるには暑すぎる。そこでテレビを見たら三輪明宏のヨイトマケの唄をやっていた。というか黒柳徹子とおしゃべりしていた。さすがだと思ったのは、ヨイトマケは苦し紛れの歌だと言い切ったことだ。労働歌は労働の苦しみを軽減しようとして歌い飛ばす行為だ。歌うことによって苦痛を浚渫するのは労働者のぎりぎりの知恵だ。洋の東西を問わない。危機的なときに自分を分割して一方の自分が他方の自分を追い出そうとするものだ。近頃流行りの脳科学でいうメタ認知とかいうのも、イマイチよくは判らないが特別なものではなくて、ヨイトマケに似た心の働きではないだろうか。 

自身は金満で、結城の着物なんか着流している国粋好みの批評家が、「日本人は労働を苦痛と考えない。むしろ労働を亨楽する。田植えのときの早乙女の唄などを見ればあきらか」みたいなことを言った。もちろん適度の軽労働は趣味道楽として亨楽できる。そんなときの鼻歌はヨイトマケや田植え唄とは根本が違う。労働が享楽なら過労死もなくブラック企業に潰されて自殺する若者もありえない。重労働をしたことのない能天気な批評家と長崎で被爆した三輪明宏とでは大違いなのも致し方ないが、戦争を知らない連中が無神経に戦争を挑発するのを見ていると、致し方ないではすまない気がする。知らないことに嘴を入れると大怪我をする。

¶8月22日 「国防軍」
新聞の声の欄に77歳の女性が自衛隊を国防軍にするのはやめてくれ、国防婦人会を思い出すと書いていた。国防婦人会が主流だったが、ほかに愛国婦人会というのもあった。区別の意味合いはよく知らないが、私の郷里では、国防のほうは主に主婦で地味、愛国のほうは芸妓などがいて派手な感じだった。検索すると愛国のほうが古くて、1932年になって日本軍は新たに大日本国防婦人会を作り「愛国婦人会は大日本国防婦人会と激しく対立した」などとあるから、どっちもどっちだろう。

さて自衛隊を軍と呼ぶことに私は必ずしも反対ではない。名前を変えるついでに中味まですっかりアメリカ軍国主義に組み込まれるものに変えようとする企みがあるらしいので、それでは困るが、世界第4位の予算規模を持つ巨大武装集団なのだから軍には違いない。しかし国防軍は国防婦人会を思い出させるからいやだというのももっともだと思う。

愛国軍も困るだろう。愛国はブッシュの愛国者法を思い出させる。愛国無罪もこまる。自衛軍でもよいし、平和軍とか不戦軍とか、あるいは九条軍とか、何かいい名前はないものだろうか。自由軍でも、民衛軍でもいい。防衛省とか防衛大学校と言っているのだから他に知恵がなければ防衛軍でもいいのではないか。とにかく国が出てくると胡散臭くなる。国は国民を欺く。エジプトを見よ。国防軍はしばしば同胞に牙を剥く。グンは許せるがコクコクと言わないでくれ。コク(state 国家)はクニ(country郷土)とはちがう。

ついでに兵隊の位も昔どおり大将とか中佐とか少尉とか軍曹とか、懐かしい「のらくろ」漫画に揃えたほうがいいと思う。「のらくろ」は二等兵からだんだん昇進して最後は大尉まで行く。少佐にしようとしたら軍が横槍をいれたそうだ。ケチな話だが、今のように兵を陸士、水兵を海士など、ちょっと欺瞞がすぎるではないか。言うに事欠いて新兵を陸士など、旧陸士出身者は横槍を入れたくなるだろう。兵隊の位は位取りがわかりやすい。山下清画伯も、ものの評価の基準として兵隊の位を好んだ。

¶8月25日 「自虐史観と被害史観」
BS1スペシャル:オリバー・ストーンと語る「戦争×原爆×アメリカ」という番組を見た。締めくくりに藤原帰一氏は言った。「戦争を語るとき、どこの国も自国民の被害が中心になる。外国でおこなった加害についての説明が欠落する」と。藤原氏が折に触れて言っていることで、まったくそのとおりだが、なんのことはない。自国の行った加害について語ることは自虐史観の名の下に激しい攻撃にさらされてきた。南京虐殺事件さえ無かったかのようにシラを切る、自虐史観否定勢力が勝利して権力を掌握しているのが現実である。「自虐史観」は被害よりもむしろ加害を記述していた。それでも十分ではなかったと藤原氏は言っているのである。

広島と長崎への原爆投下について、「それが戦争を終わらせた」と言って正当化するアメリカ世論に日本人はいら立つ。しかし日本に侵略あるいは植民地化された国の人々の反応はまったく異なる。溜飲を下げた人々は多い。2001年9.11のWTCのビルが崩れ落ちる映像を最初見たとき、心ひそかに溜飲を下げた日本人は少なくなかった。エノラゲイからは広島の地上の現実は見えないのと同じく、テレビモニターの前ではWTCの屋内の現実は見えない。2001年9.11にOMGと叫んで驚倒するアメリカ人は1973年の9.11(チリ・サンチャゴの惨事)には思いも及ばないのである。人の想像力は残念ながらその程度なのである。そのあたりのことを忘れるなと藤原氏は言っているのに違いない。

¶8月28日 「姫路城の猫とフィレンツェの公園猫」
姫路城に野良猫が300匹もいるという。猫は年に二三回、一度に五~六匹産む。その猫に餌付けする人が大勢いるという。餌付け人は排他的で、自分の猫に他人が餌を与えるのを嫌がるのだそうだ。身勝手きわまるはなしだ。猫が好きならもっと博愛的であって当然だろう。こいう身勝手な餌付け人はフンの始末をするためしがない。ために世界遺産の管理をしなければならない姫路市は困り抜いているという。

先日「世界・街歩き」とかいうテレビ番組でフィレンツェのアルノ河を挟んでウフィッツィの対岸、ポンテヴェッキオを渡った辺りを映していた。公園の小高いところにやはり猫がいた。餌付けをする人がやってきて数匹が集まったが姫路のときのように数十匹ではなかった。ボランティアが市の補助金を得て当番が決まっているのだそうだ。近くに猫のための冬の家が設けられている。りっぱなものだ。

フィレンツェはいたるところに猫がいる。人を恐れず実に自然に客として人の社会に溶け込んでいる。動く点景をなして少しも過剰な感じはない。たぶん避妊手術も市の助成でなされているのであろうし、トイレの躾もなされているのだろう。でなければあんなに適度の数でおさまるはずがない。そこにくると日本の猫は飼い猫でも他家の庭にフンをする。植えた草花の新芽が出ようとするようなところを狙ってフンをする。それにしても猫のフンはなぜあんなに強烈に臭いのだろうか。犬の比でない。

ちなみにわが住む堺市は地域猫活動に携わる人々に「水場・エサ場・トイレは地域住民の理解が得られる場所に設置」することを促し、「地域猫の不妊去勢手術費用の一部を助成」しているが、どこまで普及しているのだろうか。猫の躾もできない日本人の公共心はどうなっているのだろう。トイレ無し垂れ流し原発を作ってしまうのと共通する精神構造があるような気がする。
         (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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