再び注目されはじめたターリバーン ~伊藤和也氏拉致・殺害事件から~

■宗教・民族から見た同時代世界        荒木  重雄

再び注目されはじめたターリバーン ~伊藤和也氏拉致・殺害事件から~

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  8月末、アフガニスタンで農業指導に携わっていたNGO「ペシャワール会」
の伊藤和也氏がターリバーンを名乗る武装集団に拉致、殺害された事件は我が国
で大きな衝撃をよんだ。
  拉致を知ると千人近い村人が捜索に加わり、葬儀には会場に入りきれない数千
人が周りを囲んだとの報道からも、伊藤氏がいかに地元民に慕われていたか推察
できよう。
  村人たちは口々に「恩を仇で返すことになり残念だ」「犯行をアフガン人の仕
業とは思わんでくれ」と語っていた。アフガン人、とりわけその多数を占めるパ
シュトゥーン人には「パシュトゥヌワレイ」とよばれる勇気、自尊心、男らしさ
、対抗意識、客人歓待などで特徴づけられる価値観・行動原理がある。伊藤氏の
拉致、殺害は、仁義と名誉を尊ぶ彼らにも耐え難い事件だったようである。

 では、犯行グループが一派を名乗ったターリバーンとは何者なのか。それをみ
るには冷戦期にまで遡らなければならない。


◇◇複雑な歴史を背負って


 1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、親ソ政権を樹立する。すると、ア
フガニスタン各地の豪族はムジャーヒディーン(イスラム聖戦士)としてこれに
抵抗し、米国やサウジアラビアの財政・武器援助とパキスタン軍情報機関の軍事
指導に支えられ、また、中東や北アフリカからの義勇兵も加わって、ついに89年
、ソ連軍の撤退を勝ち取る。後に9・11米国同時多発テロの首謀者とされるオサ
ーマ・ビン・ラーディンがこの地に登場したのもこのときである。

 ここで少々横道に逸れるが、ソ連軍の進駐の背景にも触れておこう。19世紀末
、インドを植民地支配した英国は現アフガニスタンまでを勢力圏に収めたが、こ
の地のパシュトゥーン人の反英闘争に手を焼いてその力を削ぐため、パシュトゥ
ーン人居住地域を英領インドとアフガニスタンに二分する境界線を引いた。この
境界線が1947年のパキスタン独立とともに現在のパキスタンとアフガニスタンの
国境線になったが、アフガニスタンはこの国境線を認めずパキスタンと対立した
。そのためパキスタンに国境を封鎖されたアフガニスタンは北に交易ルートを求
め、ソ連に接近する。さらに米国がパキスタンを対ソ前線国家として財政・軍事
援助を強化するにつれ、アフガニスタンは対ソ接近を加速させ、78年にはソ連と
の間で友好協力条約を締結する。ソ連のアフガニスタン進駐はこの条約に基づく
ものであり、このような経緯をみずに「侵攻」と一方的に非難するのも公平性を
欠くものとされよう。


◇◇祖国の荒廃を憂い


 さて本論に戻ろう。ソ連軍は撤退したものの、その後のアフガニスタンは、
軍閥と化したムジャーヒディーン各派が覇権を争って戦闘を繰り広げ、武装盗
賊団も跋扈して、混乱と無秩序を極めた。このようななかで、隣国のパキスタ
ンに避難してその地のイスラム神学校で学んでいたアフガニスタンの若者の一
部が、祖国の荒廃を憂い、内戦の終結と秩序の回復をめざして立ち上がった。
それがターリバーンである。
  ターリバーンとはペルシア語で「イスラム神学生」を意味する。決起のきっか
けは、パキスタンからの援助物資を積んだトラックが山賊に襲われたとき、数人
の学生が山賊を駆逐してトラックを取り戻したことにあると語られるように、若
者たちの正義感からの行動が発端であった。


◇◇ターリバーンが辿った運命


 1994年秋にはじまるターリバーン運動は、数ヵ月を経ずして兵力2万人規模の
勢力となり、治安回復を願う地域住民の歓迎を受けつつ進軍をつづけ、二年後に
は首都カブールを制圧して暫定政権を樹立した。はじめは政治的野心もない自警
団的運動にすぎなかったターリバーンがその後に辿った運命には、パキスタンと
オサーマ・ビン・ラーディンという二つの力が大きくかかわっている。

 パキスタンは、長年敵対するインドに対する戦略上の必要と中央アジアのエネ
ルギー資源へのアクセスからアフガニスタンに強い利害をもち、この地に親パキ
スタン政権の樹立を企んで、ターリバーンに財政・軍事面の援助を与えつつ全国
制覇を促した。一方、オサーマ・ビン・ラーディンは、イスラム原理主義と反米
思想で感化を与えたのみならず、多額の資金と配下の熟達したアラブ系戦闘員が
ターリバーンの全国制覇に重要な役割を果たしたと目されている。

 ところが皮肉なことに、米国が9・11テロの首謀者とするオサーマの引き渡し
の要求を拒んだが故に、ターリバーン政権は米国の報復攻撃の対象とされ、頼み
のパキスタンからも見捨てられて、01年10月の米英による空爆開始から一ヵ月あ
まりであっけなく崩壊したのである。
  オサーマを引き渡さなかったのは、政治的一致や経済的利益からではなく、「
パシュトゥヌワレイ」に基づく「客人保護」の義務観からであるとの説も根強い


◇◇状況は悪化の一途


 ターリバーン崩壊後、親欧米派のカルザイ政権と米国およびNATO主導の国
際治安支援部隊(ISAF)のもとで復興がすすめられているが、04年頃からパ
キスタン国境に近い南部を中心にターリバーンのゲリラ活動が再発し、とりわけ
この二、三年、激しさを増している。それには、アフガニスタンを構成する諸民
族のなかで多数派のパシュトゥーン人が、ターリバーンの主体であったことを理
由に和平プロセスから疎外されていることに加え、いっこうに改善せぬ民生や汚
職の蔓延、長期化する外国軍の駐留と誤爆による民間人の犠牲の増大などで、国
民に不満や怒りが鬱積していることが挙げられよう。この国の人々には、米英に
とどまらず外国人全般への憎悪や嫌悪感が年を追って高まっているといわれてい
る。
  日本についても、一般に親近感が強かったが、自衛隊による米軍への補給活動
などが知られるにつれて微妙な変化がみられるという。

 こうした状況のなかで、旧政権に繋がるものだけでなく、誤爆の遺族や現状に
怒りをもつ若者たちが新たにターリバーンを名乗り、さらには犯罪者集団までが
ターリバーンを自称して、大小さまざまな武装集団が横行しているのである。
  報道によれば、伊藤氏拉致・殺害容疑で逮捕された一人は、ターリバーンとは
無関係で「大金が得られると誘われた」と供述しているというが、謎は残る。

 このようななかで、丸腰の援助活動は危険ではあろう。しかし、丸腰で中立と
人道主義、地域密着に徹するからこその信頼と安全もある。NGOの模範とされ
る「ペシャワール会」と伊藤氏はそれを選んだのだ。この事件を機に危険地帯で
のNGO活動を規制しようとする動きも政府の一部にあるようだが、理想の灯を
絶やさぬことこそが伊藤和也氏の冥福を祈る一番の道であろう。


◇◇パキスタンを揺さぶるターリバーン


 ターリバーンの復活はアフガニスタンのみならず、隣国パキスタンにも深刻
な影響をもたらしつつある。
  パキスタン情勢については、すでに紙幅は尽きたが一言だけ触れておく。98年
の核実験にともなう制裁も与って経済危機に直面していたこの国は、対米協力に
よる国際社会からの経済援助を頼る以外に途はなく、9・11以後のムシャラフ政
権は、これまで支援していたターリバーンを裏切って、ターリバーン攻撃に向か
う米軍に前線基地を提供する役割を担うことになった。しかしこの変節は、アフ
ガニスタン攻撃を同胞に対する攻撃と捉えるパキスタン内のパシュトゥーン人を
はじめ、多くのイスラム民衆の反発を買い、ムシャラフ政権は危機に陥った。こ
れを強権的な手法でしのいできたのだが、これがさらに多くの国民の批判を浴び
て、今年2月の総選挙で惨敗し、頼みとした出身母体の軍や忠誠をつくした米国
からも見限られ、ついに反大統領派の連立政権の圧力に屈したのが今回のパキス
タンの政変であった。しかし、この9月、ムシャラフに替わったザルダリ政権も
、ターリバーンの復活に危機感を抱く米軍のパキスタン領越境攻撃を含む強引な
作戦と、それによりますます高まる国民の反米感情との板ばさみとなって、身動
きとれない状態を強いられている。

(筆者は社会環境フォーラム21会長)

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