加藤宣幸さんを悼む
---54年のお付き合い、『オルタ』での“加藤ゼミ”は格別でした

浜谷 惇

 その突然の訃報に言葉を失い、そして通夜、告別式は辛いものでした。ご家族からいただいた「御会葬御礼」に同封された二つ折りの「加藤宣幸 2018年手帳から」を開くと、加藤宣幸さんが何よりも大切にされてきたモットーが記されていました。

——「永遠に生きると思って今勉強しよう。明日死ぬと思って行動しよう。」ガンジー
——「一人ひとりが半歩前進することで世の中をかえてゆくしかない。」丹羽宇一郎

 胸にずっしりと響きます。メッセージが伝わってきます。そして加藤さんとの思い出が脳裏をよみがえっては過ぎ去っています。

 加藤さんと初めてお会したのは、私が社会党機関紙局『社会新報』の採用試験を受けた時のことでした。後に54年間のお付き合いさせていただくことになる加藤さんは、当時経営局長で面接官であって、私にとっては雲の上のような方でした。
 加藤さんは1969年に社会党本部をお辞めになられ、以後それぞれ仕事が忙しく、お会いする機会が遠のいた時期を挟んだ後、90年代の中頃から時々再会するようになり、ここ10年くらい前に『オルタ』に誘いを受けてお会いすることがぐんと増えてきました。

 『オルタ』の会合や勉強会のみならず、加藤さんは周辺で開催される研究会、シンポジウム、講演会など、また加えて○○さんに会うので一緒に来ないかとよく誘ってくれて、次々と多くの方との出会いや語らいの場を広げてくれました。それらの前後に加藤さんとの歓談に恵まれてきました。

 その一つ。毎号『オルタ』に寄稿されている荒木重雄さんが主宰される「仏教に親しむ会」に誘っていただき、毎月ご一緒に荒木さんの講話を謹聴させていただいてきた体験は、私が縁遠いと思い込んできた仏教や宗教を、身近な関心事にできるきっかけをつくってくださいました。

 また、その終了後に加藤さんと竹中一雄さん、山田高さん、そこに私も加わってお酒を酌み交わしながらの歓談はまさに楽しい一時でした。加藤さんと竹中さんのお二人が「過去と現在と未来」のとらえ方、モノの見方についてしてくださるお話は、生徒二人が聞くにはいつももったいない思いでいっぱいでした。
 とりわけ、加藤さんが『オルタ』の編集・発刊・配信について次々と繰り広げられる具体的なアイディアに富んだお話からは、オーラのようなものさえ感じていました。私にとって『オルタ』との関わりは、さながら“加藤ゼミ”があって、そこで楽しく鍛えていただいた生徒の一人であったと言えます。

 もう一つ。縁あって私は、加藤さんによる「回顧談を記録」する作業をお手伝いすることを続けていました。加藤さんからの「聞き取り」は,・戦前の軍部ファッシズム時代に加藤さんが体験、見聞されたこと、・戦後誕生した社会党本部にあって青年部や組織部で活躍されたこと、・党の機構改革や江田三郎さんと構造改革論争を主導されたこと、・無から百数十名の職員を抱える機関紙局や高速輪転機を備える印刷局(当時最新鋭のコールドタイプ印刷工場)を創設し、『社会新報』の週二刊を実現させるなど社会党に近代的運営(経営)手法を導入されたこと、・社会党本部を去られた経緯やその後のこと、・『オルタ』のこと——におよぶものでした。

 録音テープ起こして再構成し第一次草稿メモとして、加藤さんにお届けし、手を加え、追加の「聞き取り」をすることになっていましたが、ご承知のとおり加藤さんは『オルタ』の編集、発刊であまりにもお忙しく、「回顧談の記録」に費やす時間はとてもつくることができなかったようです。日時は過ぎ、残念なことに「回顧談の記録」は未完となってしまいました。

 加藤さんの声がいまにも聞こえてくるようです。あれから54年、長い間ありがとうございました。 合掌

 (一社・生活経済政策研究所参与、オルタ編集委員)

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