【追悼記】

加藤宣幸さん一周忌 思い出すことなど 個人的感懐

仲井 富

◆ 昨年一月の新潟行き 新潟緑の党のインタビューなど

 加藤宣幸さんが逝ってもう1年を経た。昨年2月17日、一日たりとも子供たちに迷惑をかけず、93歳でポックリと逝った。朝5時ころ起きて新聞を読んだのち、なにか思いついたのだろうか、『オルタ』の3月号の企画書をもってパソコンのある机にむかったところで倒れて、そのまま逝ってしまったそうだ。翌日集まった息子さん三人と娘の真希子さんに私は言った。「なんという子供孝行な親なのだろう」と。

 それにしても多少の悔いが残る。それは昨年1月早々、8・9・10の3日間、新潟野党共闘の影の中心人物、新潟緑の党の中山均さんに会いに行こうと誘ったことだ。『オルタ』編集委員でもある新潟市出身の福岡愛子さんが、老親の介護にしばしば帰郷されていて、そこで地元の野党共闘の中心人物の緑の党や元県総評の幹部などと連絡を取り合うようになっていた。1955年の砂川闘争と同じ時期に、新潟でも米軍飛行場拡張反対闘争があったのだが、その関係者も生きているらしい。
 私は緑の党の中山さんに会いに行きたくなった。福岡さんに日程調整をお願いして日程を決めたとき、ふと、加藤さんを誘って見ようと考えた。戦後、社会党結党当初から青年部の中心メンバーだった加藤さん、矢野凱也さんらの最初のオルグは新潟だと聞いていたからだ。

 加藤さんは二つ返事で快諾した。そこで二人して新幹線で新潟に行き、駅前のホテルに泊まった。当時のことは、2018年2月の『オルタ』に詳述している。
 ところが後で娘の真希子さんに聞いたところによると、当時の加藤さんは年末に珍しく風邪をひいてその後も体調があまり良くなかったらしい。真希子さんは、なんで一番寒い時期に新潟に行くのかと思ったらしいが、とめても無駄だろうから、せめて雪道で転ばないようにと伝えるのが精いっぱいだったという。翌12日には、元防衛官僚の柳澤協二さんに『オルタ』での単独取材を控え、『オルタ』の次の展開が開けると、年初から緊張していたというのだから、なおさらその強行軍に心配は尽きなかったようだ。

 何しろ体調が悪いなどと言う人でなかった。私など十数年前から徘徊老人などと自称しているが、加藤さんは「老人」という言葉をきらい、年齢のせいにすることを絶対にしなかった。加藤さんの自宅には、その父加藤勘十氏による息子宣幸へ為書きの書「抱大志者不衰」が掲げてあるが、その志を受け継いだように見える。そんな加藤さんだが、1月末ごろには、めずらしく「俺もいよいよ年をとってきたな」「足の動きに心臓がついていかないみたいだ」などと漏らしていたらしい、最初で最後の不調のことばだった。

 九段北に来て四年余りのお付き合いだったが、ときおり九段下の駅から坂を上るのが億劫だという様子はうかがえた。それでも本人は95歳位までは元気でいられると考えていたようだ。
 私にとっては、新潟県の野党共闘の内実に迫るとともに、砂川、新潟、長野と戦後米軍基地反対闘争の全体像を明らかにできた旅であったが、結果としては加藤さんの寿命を縮める旅になってしまったのではないかと一年経った今もその思いは消えない。

◆ 河上民雄さんと加藤さんの親交 キリスト者としての信念

 かつて加藤さんは長く世田谷区大原に住んでいた。河上民雄さんの自宅がある渋谷区西原にもほど近い。社会党在籍時代には二人はほとんど接点はなかったようだが、その後、時々散歩のときに出会うことがあったらしい。そういう縁もあってか、晩年の河上さんは『オルタ』に何度か寄稿され、対談に出られたのだろう。その記録が『河上民雄 20世紀の回想』として、2012年7月にオルタ出版室から出されている。何回かの河上さんへのインタビューを中心にまとめたもので、その頃病床にいた河上さんの87歳の誕生日7月12日に間に合うように作られた。発行日も7月12日になっている。うれしい誕生日プレゼントだと、それを手にしたのち、9月22日に河上さんは亡くなられた。

 加藤さんが書かれた同書の「あとがき」のなかに、私の知らなかった事実があった。この回想記にも2度にわたって紹介されているように、河上さんのご尊父は日本社会党委員長河上丈太郎氏であり、戦前、大学の教授から社会運動に入られて「十字架委員長」と尊称された方だということ。加藤さんの父加藤勘十さんも戦前、雑誌記者から鉱山労働運動の指導者になり、同じく現職国会議員で日本無産党委員長として治安維持法違反、いわゆる人民戦線事件で逮捕された。戦後は日本社会党の幹部として活躍し政治生活の最後は河上派に属したということの二点だ。これも意外だった。加藤勘十さんは鈴木茂三郎の左派に属していたと私は思い込んでいた。

 加藤さんの「あとがき」によると、河上民雄さんは、機会があるごとに、1901年に結成された日本初の社会主義政党である「社会民主党」の発起人、片山潜・安部磯雄・木下尚江・幸徳秋水・河上清・西川光次郎のうち幸徳を除いた5名がキリスト者であったと話された。この冊子の『賀川豊彦論』でも述べられているが、この時代には多くのキリスト者が農民連動・労働連動・共同組合連動など社会運動の基礎を創った。
 河上民雄さんには、私も『オルタ』の研究会などで何度かお会いしていた。そして1970年代の靖国国家護持法案に最も戦闘的に抵抗したのは日本のキリスト者であり、結果として靖国法案は社会党、公明党なども挙げて反対し成立しなかった事も、河上さんのお話を聞いてようやく理解できた。あの頃、全国の住民運動を飛び歩いていた私は、無関心であり無知だったことを恥じた。

◆ 勝海舟が田中正造に与えた書き付け

 2004年の会合で河上民雄さんから、晩年の勝海舟と足尾鉱毒事件に取り組んでいた田中正造との出会いがあったという話を聞いた。このとき海舟は田中に対して「このものは百年後の総理大臣なり」という、阿弥陀と閻魔にあてた書付を渡し、田中正造はそれを大切にし、死の枕辺にも置いていたという。この話は勝海舟全集に出ているはずと教えられ、興味をもって広尾の都立図書館を訪ねた。

 『勝海舟全集』(講談社刊)は二十五巻もあり、このなかから探さなければならない。勝海舟は明治32年(1899年)に亡くなっているから、その前あたりの一巻と、第22巻の「秘録と随想」の二冊を書庫から出してもらった。最初の一冊にはそれらしきものはなく、気の遠くなるような作業だな、と思いつつ「秘録と随想」を開いた。あった。この本の533ページに載っていた。「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度惣理(総理)に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」となっていた。
 解説によるとこの話は雑誌『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第四号に田村秀明氏によって紹介されているとあった。

 これを契機に、私はもう一度、足尾鉱毒事件を勉強しようと思い立つことになる。2007年1月からの月刊『むすぶ』の連載「住民運動再訪」の旅は、田中正造終焉の地、栃木県佐野市から始まった。『オルタ』を通じて、河上さんには、いろいろと勉強するきっかけをいただいたことになる。

◆ 河上さんのお墓探し 青山墓地へ

 12年9月22日、河上さんは87歳でお亡くなりになった。かつて河上家の墓地を青山墓地に移されたというお知らせを頂いた。加藤さんの葬儀に河上夫人の京子さんが見えていてご挨拶したのを機会に、河上さんのお墓参りに行こうと思い立った。東京に住むようになって私の都区内の散歩コースは、北の丸公園、皇居東御苑、それから明治神宮内苑、代々木公園などへ広がったが、青山墓地も捨てがたい魅力がある。何しろここは散歩する人が少ないが、四季折々に桜並木の変化を楽しめる。明治以来の政治家、軍人の巨大な墓碑も並んでいるし、外人墓地もある。それらを一つひとつ見て歩くのも楽しい。

 河上家の墓地を捜しに行ったが難渋した。まず河上家だけではわからない。
 何しろ墓地所有者は14,488人(平成20年年度末)もいるのだ。墓地を持っている方の名前、住所、電話番号が必要なのである。河上京子夫人に電話で住所と電話をお聞きして墓苑事務所で所在が明らかになった。難渋した末にやっと見つけることが出来た。「河上墓」と刻まれている、まことにクリスチャンらしい小さく簡素なお墓だった。「河上さん、やっと会えました」と墓石に抱きついた。

 昨年来の酷暑のせいもあってか、砂川闘争から60年安保世代の先輩友人は多くあの世に旅立った。風呂場や道路で転んで骨折という事故も相次いだ。やがて自らもそう長くはないという予感はある。いまは与謝野晶子晩年の一首「いづくへか 帰る日近きここちして この世のものの なつかしきころ」を反芻する日々である。

画像の説明
  河上墓 撮影/雪見さん

 (『オルタ広場』編集委員 公害問題研究会代表)

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