【世界の動き】

危機に瀕するカシミール

拓 徹


◆◆ 1.カシミール紛争の基本的なかたち

 世界各地の紛争には、それぞれ独自のかたちがある。
 インドとパキスタンの間で1947年から続くカシミール紛争。この紛争の舞台はインド最北部、峻厳なヒマラヤ山脈の中に位置するカシミール渓谷である。この渓谷の面積は約1万6千平方キロメートル、日本でいえば、岩手県より少し広く、四国より少し狭いといった規模だ。この渓谷に、現在約7百万のカシミール人が住んでいる(この数字は、日本でいえば愛知県や埼玉県の人口に、海外でいえば香港やラオスの人口に近い)。カシミール人は比較的寒冷な気候の影響か、北インドの人々より一般に肌の色が白く、顔立ちも中央アジア的で、整っている人が多い。話す言葉も、北インド諸語とは大きく異なる独自のカシミール語である。宗教は、かつては仏教やヒンドゥー教だったが、14~15世紀に住民の大部分がイスラム教に改宗し、現在は3~4%のヒンドゥー教徒と1%未満のスィク教徒を除くほぼすべてのカシミール人がイスラム教徒である。

 カシミール渓谷は、その美しさから、ながらく「地上の楽園」と呼ばれてきた。カシミールの首都スリナガルのほとりには有名なダル湖がひろがっているが、雪を戴いた雄大なヒマラヤの峰々が湖面に映るさまは絶景である。秋にはカシミール名物の高木チナール(スズカケノキ)があちこちで黄色く色づき、景色を染めあげる。春にはまだ白いヒマラヤを背景に、花々や新緑の彩りがあざやかに映える。

 そんな風光明媚なカシミール渓谷は、1947年のインド・パキスタン分離独立以来、インドのジャンムー・カシミール州(以下JK州)の一部となっている。カシミールがインドに帰属することになった経緯は複雑だが、その一番大きな理由はおそらく、当時のカシミール最大のリーダーだったシェイク・アブドゥッラーがネルーの盟友であり、個人的にパキスタン建国の父ジンナーとは折り合いが悪かったことだろう。しかしカシミールはその住民の大多数がイスラム教徒であり、しかも地理的にパキスタンに隣接しているため、「イスラム教徒の国」としてインドから分離独立したパキスタンはカシミールを自国に含めようと繰り返し試み、これがインドとの間での一大紛争となってきた。具体的には両国の間で、第一次印パ戦争(1947~49)、第二次印パ戦争(1965)、カルギル紛争(1999)がカシミールの領有をめぐって争われている。

 加えて、カシミールでは1960年代、「カシミール人」民族意識の高揚とともに民族自決(カシミール独立)の政治的要求が芽生え、これが背景となって1989年、カシミールのインドからの分離(カシミールの独立もしくはパキスタンへの併合)を求めるゲリラ闘争がカシミール人の手によって開始され、現在に至っている。

 こうした諸事情により、カシミール渓谷には、パキスタンの侵入を防ぐため、および分離主義ゲリラの活動を抑えるため、インド軍を含むインドの治安部隊が多数駐留し、警護にあたっている。その数は公表されていないが、JK州全体で約70万人のインド治安部隊が駐留していると推定される[注1]。JK州全体の人口は1255万人(2011年統計による)なので、州平均で住民20人に対して治安部隊の兵士が1人いる計算になる。しかし実際には、治安部隊は州内でもとくにカシミール渓谷に集中して駐留していると考えられるため、カシミールにおける治安部隊のプレゼンスはこれよりはるかに大きいと推測される。カシミールが「世界で最も軍事化された地域」と呼ばれる所以である。

 問題は、こうしたインド治安部隊の兵士たちのあいだに、反イスラム教徒・反カシミール人の偏見・感情がひろがっていることである。インドでは、インドが歴史的に長くイスラム教徒に支配されたという被害者意識などから、主にヒンドゥー教徒のあいだで、マイノリティーであるイスラム教徒への偏見・差別が根強く存在する。加えて、カシミール人はインドからの分離を求める「非国民」とみられている。このため、例えば住民デモへの治安部隊の対応も、インドの他の地域なら催涙弾を使って追い払う程度であるのに対し、カシミールでは実弾を使うこともしばしばである(当然死者が出る)。1990年代ゲリラ闘争期のカシミールにおける犠牲者数は約7万人と推測されているが、その多くはこうした敵愾心に満ちたインド治安部隊の手にかかったカシミールの一般市民だった。治安部隊兵士によるカシミール人女性へのレイプ事件も多数報告されている。

 そして数々の悪法の存在により、治安部隊による人権侵害は不問に付され、少しでも分離主義活動の疑いのある者は逮捕状なしで拘束・投獄される。日常的にも、例えば道で治安部隊の車を追い越したというだけの理由で、カシミール人運転手がインド人兵士によって殴られる光景を、筆者もカシミールで何度か目にしたことがある。多くの学校や施設が治安部隊によって占拠され基地と化し、銃を持ったインド人兵士たちが町や村のいたるところでつねに住民を監視し、威圧している。インド支配への抗議デモがあるたびに(治安部隊の発砲により)死者が出て、その後何日も戒厳令やストライキが続き、ビジネスや学業は中断される。そんな状況が基本的に1950年代以来ずっと続き、とくに1989年のゲリラ闘争開始以降は状況がさらに深刻化し、現在に至っている。美しいカシミール渓谷は、遍在するインド治安部隊による日常的な暴力と、そこからの解放への鬱屈した夢とで閉ざされた悲しみの谷という顔も持っているのである。

 そのカシミールが、今年7月以来、再び混乱に陥っている。後述するように、今回の事態はさまざまな意味でこれまでに増して深刻であり、危機的である。JK州の政治は破綻し、インド中央政府はカシミールの抗議運動を力で封じ込めることしか考えていない。カシミールをめぐる状況は国際的にも危うくなってきている。これに対し、日本政府はどのような見解を示してきたのか、また、どう対処すべきなのか。本稿は、カシミール紛争の現在について、またこれに対する私たち日本人の姿勢について、あらためて考えてみる試みである。

◆◆ 2.今年7月に至るまでの経過:平和的抗議活動の挫折

 1989年にゲリラ闘争が勃発し、1990年代から2000年代初頭にかけて暴力の連鎖に苦しんだカシミールだったが、2005年頃までにゲリラ活動はほぼ終息し、カシミールには比較的平和な状況が訪れていた。2001年の9・11事件以降、アメリカの圧力によりパキスタンからカシミール・ゲリラへの支援が激減したことを受け、2002~05年にJK州首相の座にあったムフティー・サイードが持ち前の敏腕さを発揮し、ゲリラの駆逐に成功したためだった。

 社会から暴力の要素がかなり消え、久々に自由な空気を吸って落ち着いたカシミール人たちが次に始めたのは、平和的手段によってカシミールの(インドからの)自由を求める運動だった。2008年夏、カシミールで巻き起こった空前の大規模市民デモは、ゲリラが姿を消したことによりインド治安部隊やカシミール警察が油断していたため可能になったのだが、あらためてカシミール人の民族自決への意思をインド内外へ示すかたちになった。2010年の夏には、インド軍による不正事件(カシミール人市民3名を殺害し、彼らはゲリラだったと偽って報告した)とこれへの抗議デモに治安部隊が発砲し17歳の少年が死亡した事件をきっかけに、治安部隊とこれに投石で対抗するカシミールの若者たちの熾烈な争いが3カ月余り続き、結果的にカシミール人の側に約120名の死者が出た。インドのメディアはカシミールの若者たちの投石行動をこぞって「暴力的」と呼び非難したが、2010年の運動は基本的にカシミール人が非武装でインド治安部隊の暴力に抗議し、インドからの自由を求めた市民運動だった。ゲリラ諸団体もこの時期(2008~10年)はカシミール市民による平和的かつ非武装の抗議活動を支持し、停戦を宣言していた。

 しかし、平和的な抗議運動は多数の死傷者のほか、カシミールに何ももたらさなかった。そればかりかこれ以降、抗議活動への弾圧は強まった。2010年の秋以降、カシミールのローカルTV局によるニュース報道はすべて禁止された。分離主義政治家・活動家の多くが投獄もしくは自宅軟禁の状態に置かれ、自由な活動ができなくなった。デモや投石行動への対応も厳しさを増し、多くの若者が逮捕・投獄された。カシミールは表面上の平穏を保ったが、治安部隊による人権侵害の事例はその後も続いた。

 こうした状況下、カシミールではゲリラに加わる若者が静かに増えて行った。2015年9月の時点で、カシミールで活動するゲリラの総数は約200名と推測された[注2]ことからもわかるように、その規模は決して大きくはない。しかし、カシミールにおけるゲリラ関係の事件数は、2013年にゲリラ闘争開始以来の最小値を記録したのち、徐々に増えつつある[注3]。そして次節で見るように、彼らが持つ社会的影響力には看過できないものがある。

◆◆ 3.ブルハーンの死と抗議運動の始まり

 今年7月以降のカシミールの抗議運動と非常事態は、まだ21歳だった新世代ゲリラのリーダー、ブルハーン・ワーニーが治安部隊によって殺害されたことをきっかけに始まった。それでは、このブルハーンとは、どんな人物だったのだろうか。
 南カシミールの比較的裕福な家庭で、学校長の父と理系の学位を持つ母のあいだに生まれたブルハーンは2010年夏、理由もなく警官と治安部隊の兵士に殴打されバイクを壊された事件をきっかけにゲリラになったといわれる。2011年に16歳でゲリラ団体ヒズブル・ムジャヒディーンに加わったブルハーンは、2013年秋の時点ですでにゲリラのリーダーとして多額の賞金をその首にかけられるまでになっていた[注4]。しかし彼の存在が広く知られるようになったのは、彼がビデオ・メッセージをソーシャルメディアに流すようになり、これが話題となった後のことである。

 これまでのカシミールのゲリラはアイデンティティーを隠すため、写真撮影などの際には覆面をするのが普通だったが、ブルハーンは顔を隠さなかった。それどころか、しばしばスマートフォンを持った姿で写真やビデオに現れ、仲間のゲリラたちと自撮りを楽しむ場面までソーシャルメディアに流した。ビデオ・メッセージでは、非常にソフトな語り口で、ときに笑顔を交えつつ、カシミールには自由と正義が必要であり、そのために自分はすべてを捨てて立ち上がったこと、同じカシミール人なら(警官を含め)ともに戦ってほしいこと、カシミールにあるヒンドゥー教の聖地を攻撃する気はないこと、カリフ制の必要性などについて語り続けた。ハンサムで親しみやすいその姿はソーシャルメディア上でよく映え、インドのメディアが「自撮りもするゲリラのニューフェイス」として報じた2015年の夏までには、ブルハーンはカシミールの若者のあいだで絶大な支持を誇るカリスマと化し、抗議デモのたびにその写真が掲げられるようになっていた。

 ブルハーン率いる新世代ゲリラの特徴は、パキスタンと接点を持たない点だった。昔と違って衛星放送を通じていくらでもパキスタンの情報に触れることのできる彼らの世代は、パキスタンに憧れや幻想を抱くことはなかったし、昔のゲリラのように停戦ラインを越えてパキスタン側でゲリラのトレーニングを受けることもなかった。武器は自分たちで警察や治安部隊を襲って調達した。ゲリラの総数が少ないことから楽観的な見通しは持たず、最初から死を覚悟し、自分はもうすぐ死ぬので探さないでほしいと親兄弟に言い遺している者が多いのも特徴である。

 カシミールのとある知識人が評したように、ブルハーンはカシミールの抵抗運動に「人間性を取り戻した」[注5]。例えば、彼がソーシャルメディアに流した最後のビデオの一つはクリケットのビデオだった。南アジアで最も人気のあるスポーツであり、カシミールでも子供や若者がいつも空地でプレイしているクリケットを、ブルハーンと仲間のゲリラたちが身を潜めた森の中でプレイする様子をビデオで撮り、流したのである。映像から居場所が特定される危険を冒してまで彼がこれを流したのは、自分たちゲリラは決して特殊な存在ではないこと、クリケットをして楽しむ時間を含む日常の中でこそカシミール人は立ち上がる必要があることをアピールしたかったからだろう。ブルハーンという人物は現在、インドでは危険な暴力の伝道者=テロリストと見られ、パキスタンでは反インド運動の英雄と見られているが、実際には特定の政治イデオロギーの信奉者というよりは、カシミールの日常に根差した抗議の実践者だったのである。

 今年7月8日の夜、そのブルハーンが、仲間のゲリラ2人とともにカシミール南部の農村で治安部隊に包囲され、銃撃戦のすえ殺されたというニュースが写真とともに流れた。いつも屈託なくカシミールの正義について語っていたおなじみの顔が、薄目を開けた死体となって地面に転がっていた。それはあまりに残酷な写真だった。これを見たカシミールの民衆が激昂し我を忘れたのも無理はなかった。

 報せを聞いた人々はその夜のうちに続々とブルハーンの出身地トラールに駆けつけ、当局による取り締まりにもかかわらず、翌日のブルハーンの葬儀は2008年デモ以来の大きな人の波で覆われた。同時にカシミール全土で抗議デモが沸き起こった。デモは当然インド治安部隊と対峙するかたちになり、治安部隊の発砲などにより最初の3日間だけで32名が死亡、1365名(政府発表)が重軽傷を負った。時間が過ぎ、死傷者が増えるにつれ、ブルハーンの死を悼んで始まった抗議デモは、いつしかカシミールの自由を求める市民運動へと変貌して行った。

◆◆ 4.2016年の特徴

 今回の抗議運動では、7月9日から11月8日までの4カ月間に96名のカシミール人市民が犠牲となり、重軽傷者は1万5千人を超えると推測される[注6]。それはある意味、過去の抗議運動の延長線上にあるわけだが、今回のカシミールの抗議運動およびこれへの当局の対応には、これまでにないいくつかの特徴がある。

 第一の特徴は、今回のカシミールの人々には、インド政府から何らかの具体的かつ根本的な解決策が示されない限り、抗議運動をやめるつもりがないらしいということである。2010年の抗議運動は、インド中央から著名な政治家たちの使節団がカシミールを訪れ、彼らが腰を低くしてカシミールの分離主義政治家たちの自宅を訪れる様子をカシミールの人々がテレビで見て留飲を下げることで終息したのだが、今年9月初めに同様の解決を狙って使節団が送り込まれた際、分離主義政治家たちは彼らへの面会を拒否し、和解は成立しなかった。(使節団がカシミールを訪れた時点で、主な分離主義政治家はすべて獄中か自宅軟禁の状態にあり、この状況で和解への協議をする気にはなれないと答えた。また2010年にインド政府が彼らにした約束の数々は果たされておらず、この意味でも分離主義者たちは協議に応じるわけにはいかなかった。インドのメディアは、対話に応じない分離主義者は非民主主義的であるとして非難した。)11月8日には主な分離主義政治家たちとカシミールの経済界、法曹界、宗教界を代表する諸団体が集まって会合を開き、運動の継続を確認している。抗議運動の勃発から4カ月余りが経過した現在も、カシミールの人々は自主的なストライキを続行中であり(日中のみ。商店は夕方開く)、デモも続いている。カシミール社会は疲弊し、我慢の限界に達しているが、2008年と2010年のように成果なしに運動を終結させる事態だけは避けたいというのがカシミールの民意であるようだ。

 第二の特徴は、今回の抗議運動が、これまでデモや投石行動の見られなかったカシミール渓谷内の多くの地方へも広がっていることである。警察や治安部隊の監視の目も、こうした地方・辺境部で自主的に開かれる抗議集会までは届かないことが多く、これが運動全体の持続に一役買っている。こうした事実は、民族自決や政治的自由への意識が、カシミール社会の周縁部まで浸透しつつあることの表れであると思われる。

 第三の特徴は、インド治安部隊のカシミール住民への敵対性がこれまで以上にひどくなっていることである。分離主義活動の疑いのある住民の家屋に侵入し破壊や略奪におよぶ行動はこれまでも見られたが、今回の治安部隊の蛮行は、負傷者を運ぶ救急車を襲ったり、デモのあった通り沿いの住民家屋に投石し窓ガラスを割って回ったり、変圧器を壊してあたり一帯の住民に電気を使えなくさせたりといったレベルに達しており、もはや治安を守る役割を果たしていない。筆者は今年8月末にスリナガルを訪れたが、筆者や旅行者が訪れることのできる治安のよい地区の、地元カシミール人の警察でさえ、突然恣意的に道路を封鎖したり、通行止めになった箇所を通してほしいと懇願する市民に警棒を振りかざして威嚇したりするなど、これまでになくアグレッシヴになっているのを目にした。

 第四の特徴は、今回の治安部隊によるデモ対策にペレット弾が多く使われ、その残忍性がインド内外で問題になった点である。ペレット弾とは、もともと野生動物の狩りや害獣の駆除に使われる小粒子の散弾(鉛)で、一回の発砲で数百発が銃口から飛び出すといわれている。痛みを与える一方、死に至らしめることは少ないことから、カシミールにおける治安部隊の発砲による死者の多さ(および主に海外からのこれへの批判)を憂えたインド政府が2010年8月に導入した。ところが今年の抗議運動に際し、治安部隊がペレット弾を無差別に使用した結果、失明者が続出した。スリナガルの二大病院だけでも、この4カ月間でペレット弾を眼に受けた1,126名の患者を治療しており、このうち52名は両眼に被弾している[注7]。ペレット弾を内蔵に被弾し死亡する者も出たが、最も問題になったのは若い失明者の続出という、カシミールにおける新たな悲劇のかたちだった。そのあまりの評判の悪さから、インド内相は8月末、ペレット弾の不使用を約束したが、代替案のトウガラシ弾を導入したところ効果がないことが判明し、ペレット弾は今でもカシミールで使用されている。

 第五の特徴は、政府による情報規制と弾圧が一段と深まったことである。インターネットや(携帯)電話回線の断続的な遮断はもちろんのこと、7月16日にはスリナガル発行のすべての新聞の印刷が禁止され、その後5日間、カシミールは地方紙なし・インターネットなしの状態に置かれた(前述のように、カシミールのローカルTV報道は2010年から禁止されている)。9月30日にはリベラルな姿勢で知られたスリナガル発行の英字紙『カシミール・リーダー』の出版が禁止され、同紙は現在に至るまで活動できずにいる。また、これまで問われることのなかった人権活動も弾圧の対象となり、9月15日、ジェノヴァで国連人権委の会合に出席するため航空機に搭乗しようとしていたカシミールの代表的な人権活動家クラム・パルヴェーズがデリー空港で拘束され、翌日逮捕された。彼は現在も獄中にある。この処置はインド中央政府の意向によるもので、誠実な人権擁護活動で知られたパルヴェーズの逮捕にJK州首相は乗り気ではなかったといわれる。その後、アムネスティやヒューマン・ライツ・ウォッチのような人権団体はむろん、ノーム・チョムスキーやアルンダティ・ロイを含む知識人らも彼の釈放を求める声明を出したが、インド政府が動じる気配はない。

◆◆ 5.カシミールにおける政党政治の崩壊

 今日のカシミールにおける政党政治を主に構成しているのは、JKナショナル・コンフェレンス党(以下NC)とJK人民民主党(以下PDP)の二つの地方政党である。1999年にPDPが結成されて以来、この二大政党が選挙に出て、勝った方が州政府を構成し、行政を担当してきた。(これまで言及のあった分離主義政治家たちは、不正のあった1987年州議会選挙以来、選挙をボイコットしているので、ここでは触れない。)

 NCは20世紀カシミール最大のカリスマ的政治家シェイク・アブドゥッラー(1905~82)のレガシーを受け継ぐ政党で、2008年末のJK州議会選挙にはその孫のオマル・アブドゥッラーが党の看板として出馬し、勝利してJK州首相となった。当時まだ30代後半と若くフレッシュだったオマルの政治家としての器量は未知数であり、人々は彼に一抹の期待を寄せた。しかし2010年の抗議運動の際は治安部隊の横暴を止めることができず、2014年9月にカシミールが大洪水に見舞われた際は完全な無策ぶりを露呈し、2014年末に再び州議会選挙を迎えた時点でオマルと彼のNCの評判は地に落ちていた。

 この結果、2014年末のJK州議会選挙ではPDPが第1党となった。だが、問題はJK州内でカシミール地方に次ぐ地位を占めるヒンドゥー教徒主体のジャンムー地方でBJP(インド人民党)が大勝し第2党となったことであり、PDPが政権を取るためには、第2党BJPか第3党NCのどちらかと連立する必要があることだった。

 PDPにとって、地元の宿敵NCとの連立は論外だった。BJPは2014年春のインド下院選挙で大勝し、インド中央ではモーディー政権が誕生していたが、モーディーという人物は地元グジャラート州における反イスラム教徒暴動への関与が疑われるうえ、ヒンドゥー至上主義団体RSSの生え抜きであり、カシミールでは嫌厭される存在だった。とはいえ、州内第2の地位にあるジャンムー地方の民意を無視するわけにもいかず、またインド中央の与党であるBJPとの連立拒否は、この先インド中央からの支援を受けにくくなることを意味した。PDPのムフティー・サイードは2カ月かけて交渉に交渉を重ね、政策面で最低限の協調が可能であることを確認したうえでBJPとの連立に踏み切った。致し方なかったように見えるこの連立政権の誕生は、地元カシミールではすこぶる評判が悪く、マイルドな分離主義的言説に訴えてカシミールのみで票を集めてきたPDPにとって、ヒンドゥー至上主義政党BJPとの協力は当初から致命的に見えた。

 以上のような経過を経て州首相の座に就いたサイードはしかし、今年(2016年)1月に他界してしまう。長年彼をサポートし、2002年州議会選挙での勝利を実質的に導いた実績もあるサイードの娘メフブーバ・サイードがかわりに州首相の座に就いたが、モーディーのBJPとも渡り合える老獪さを持ったサイードの不在は不安を呼んだ。今年7月に始まる騒乱においてこの不安は現実のものとなり、実質的にBJP中央政権の意向にまったく逆らえず、カシミールにおける治安部隊の非道の数々を許すばかりか、カシミール人の感情を逆なでする失言を繰り返すメフブーバとPDPのカシミールにおける評判は現在、このうえなく低下し、底を打った状態にある。

 このようなわけで現在、インド中央とカシミールを結ぶパイプ役を務めるはずのカシミールの二大地方政党NCとPDPは、カシミールにおいていずれも再起不能なまでに信用を失った状態にある。これまでのカシミールでは、度重なる不正によってもともと選挙制度への信頼は失われていたが、選挙制度と政党政治のかたちだけは何とか保たれ、一定数の人々が投票に参加し、これによってインド中央の傀儡的な州政府がかろうじて成立し、行政が行われていた。今後のカシミールで同じことが可能かどうかは不透明である。

◆◆ 6.カシミールをめぐる国際社会および日本政府の動き

 国際的には、国連ほかの舞台でパキスタンがカシミールにおける人権侵害を非難し、インドがこれに反論するという、おなじみの光景が今回も出現した。今回はこれに、アメリカと中国の対立と世界の分極化の要素が加わった。有名な「真珠の首飾り」の構図で近年パキスタンを政治・経済の両面で強力に後押ししている中国は、新疆やチベットでの自国の行いを棚に上げてカシミールにおける人権侵害を非難し、ロシアやトルコがこれに同調した。対するアメリカは、カシミール紛争は印パ二国間で解決すべきというこれまでの持論を今回も展開し、カシミールにおける人権侵害への言及を避けた。アメリカは、かつて冷戦下ではソ連に近いインドを牽制しパキスタンを支援していたわけだが、冷戦が終わりインドが経済自由化した状況下、大国インドをないがしろにしてまでパキスタンを支持する理由がなくなり、今世紀に入ってからはとくに親インドの姿勢が顕著になっている。しかし7、8月とカシミールで死傷者の数が増え続け、国連も印パ双方への人権査察団の派遣を要請するなど、カシミールでの人権侵害は徐々に無視できない案件となりつつあり、パキスタンは9月、国連の舞台で攻勢をかけた。

 このとき起きたのが、9月18日のウリ事件だった。この日の早朝、カシミールの停戦ライン付近にあるウリの町のインド軍基地をパキスタンから越境してきたゲリラ4人が攻撃し、結果的に19名のインド軍兵士が亡くなった事件である。これをパキスタンによるテロ攻撃ととらえ、インドは国際舞台でパキスタンによるテロリズム批判を展開し、国際的な反テロの風潮を味方につけ、形勢は一気に逆転した。その後の国際舞台でカシミールの人権侵害が採り上げられることはほとんどなくなった。11月にパキスタンで開催されることが決まっていた南アジア地域協力連合(SAARC)の会合はインド他の不参加表明によりキャンセルされ、印パ関係は一気に冷え込んだ。9月28日にはインド軍によるパキスタン領内ゲリラ基地への「越境攻撃」が実施され(ただしこの作戦の詳細は不明)、停戦ラインおよび印パ国境における印パ両国軍の砲撃の応酬は激しさを増し、主にジャンムー地方の停戦ライン・国境付近の村々の住民が大挙して避難する事態に至った。

 こうした中、日本政府はどのような見解を示し、どのように対応したのだろうか。まず9月19日、外務報道官談話として「インド陸軍基地におけるテロ事件について」が出され、「テロとの戦いに取り組むインドへの連帯の意」が表明された。翌20日にニューヨークで行われた安倍首相とパキスタンのシャリフ首相との首脳会談では、パキスタン側から「カシミールの状況に関する説明とともに、平和的解決に向けた日本の役割に期待する旨表明」があったが、日本側からのこれへのコメントはなかった。9月23日には日本・インド友好議員連盟の使節(連盟会長である自民党の細田博之の他、民進党の岡田克也らが出席した)がニューデリーでモーディー首相を訪問し、やはりウリ事件の犠牲者に哀悼の意を表すとともに、インド政府によるテロ撲滅の取り組みに連帯の意を表明した[注8]。モーディー首相の来日と日印首脳会談に伴い11月11日に出された日印共同声明でも、「あらゆる形態・目的のテロを最も強い表現で非難」すると同時に、「両首脳は、ダッカ及びウリを含む最近のテロ攻撃による両国の被害者の遺族に対して哀悼の意を表明し」、「両首脳は、両国間の現行の対テロ対話に留意し、両国間でのより多くの情報及びインテリジェンスの交換を通じた強化された協力を求め」、「両首脳はまた、パキスタンに対し、2008年11月のムンバイにおけるテロ攻撃及び2016年のパタンコートにおけるテロ攻撃を含めたテロ攻撃の犯人を処罰するよう求めた」。とくにこの最後の部分に関しては、翌日パキスタン外務省の報道官が産経新聞に対してコメントしており、「両事件はパキスタンによって懸命に追跡されており、声明での言及は無用だ」、声明がカシミールにおける人権侵害に触れていないことについては「残念で失望させる」と述べた。

◆◆ 7.日本はどのような態度を取るべきか

 現在の日本にとって、南アジアの大国インドとの関係が非常に重要なのは言うまでもない。米中や印パの対立に拍車をかけるのは世界の不安定化につながり望ましくないが、日本がアメリカ依存から脱却するためにも日印関係の強化は歓迎すべきことであり、この観点から、日本がパキスタンに同調するかたちでカシミールの人権侵害を非難するのは得策ではない。

 では、日本は現在のカシミールの状況に対し、知らず存ぜずを通せば良いのだろうか。
 ここで強調したいのは、現在インド政府がカシミールに対してとっている政策は、インド自身にとって最も害が大きいという点である。カシミールにおける治安部隊をひたすら増強し、カシミール人を力で押さえつけようとするインド現政権のやり方は、長い目で見るとカシミールの分離主義勢力を利するだけで、インドにとって何の益もない。しかしインド現政権とBJPは現在、身動きが取れない状況にある。来年初めにウッタルプラデーシュ州(インド最大の人口を誇り、インド政治の中枢をなすといわれる州)の州議会選挙を控え、モーディーとBJPはパキスタンとの緊張関係を維持し、反パキスタンを叫んでヒンドゥー教徒の愛国心を煽り、「ヒンドゥーのインドを毅然として守り戦う」BJPへの票につなげる心算なのである[注9]。そんな彼らにとって、カシミールの「イスラム教徒」と妥協するなどもってのほかだ。インド政府が現在カシミールでとっている政策はこうした短期的で狭い視野から出ているのであり、日本を含む国際社会までこれに同調してしまったら、身動きのできない状況下で本心ではカシミールへの圧政(=失政)など望んでいない良識派のインド人たちを見放し、窮地に陥れることになる。

 また、カシミール紛争は、例えばカシミールが独立すれば解決するといった類のものではないことにも留意すべきだろう。カシミールの分離主義者の多くは、印パで分断される前の旧JK藩王国の領土全体を独立もしくはパキスタンに併合させる気でいるが、これはどう考えても現実的ではない。この領土の中にはインドの内にとどまりたいヒンドゥー教徒主体のジャンムー地方や仏教徒主体のラダック地方が含まれているし、1990年にカシミール渓谷から逃げ出し難民化したカシミールのヒンドゥー教徒(カシミーリー・パンディットと呼ばれるカシミールのマイノリティー。その大部分はインド帰属を希望)の問題もある。また、ジャンムー地方のカシミール寄りの一帯にはイスラム教徒(カシミール文化を共有している)とヒンドゥー教徒が半々の地域が広がっており、カシミールとジャンムーの境界線を引くのは容易ではない。なにより、たとえカシミールが独立に成功したとしても、地理的にこれを取り囲む印パ両国が反目を続ける限り、カシミールに平和は訪れないだろう。

 こうしたことは、むろんカシミール人たちも知っている。だから、彼らは「カシミールの自由」を叫ぶけれども、カシミール紛争の解決策について具体的なヴィジョンを持っているわけではない。ただ、インド治安部隊に支配された現在の状況に耐えられず、抗議の悲鳴をあげているのである。カシミールの日常に根差したブルハーンのヴィジョンや抗議活動が、インドやパキスタンの公式な政治イデオロギーとかみ合わないのは、そうした既存のイデオロギーの中に現在のカシミールの抑圧された日常を解決する糸口がないためである。

 だから、日本を含む国際社会は、カシミールの人権状況の改善を目指すことが、パキスタンやインドといった国(およびそれらが奉じる公式イデオロギー)の利害とは関係のない、まったく別の次元に属することなのだということを、まずはっきり言明する必要がある。でないと、とくにインド政府を不安にさせることになってしまう。そのうえで、国連人権委のような中立的な機関によるカシミールの人権状況の調査とその改善への取り組みを後押ししていくべきだろう。そしてカシミール紛争の解決策については、印パや日本を含む世界の市民社会が、互いに協力し合って考え、議論と協議を続けていくほかに道はないはずである。

<注>
[1] JK州に駐留するインド治安部隊の詳細については、カシミールの人権団体による次の報告書を参照。
    http://www.jkccs.net/structures-of-violence-the-indian-state-in-jammu-and-kashmir-2/
[2] http://www.thehindu.com/news/national/hizbul-now-biggest-militant-group/article7646317.ece
[3] http://www.thehindu.com/news/national/violence-rises-again-in-valley-in-mysterious-unusual-patterns/article7660116.ece
[4] http://www.greaterkashmir.com/news/gk-magazine/death-and-funerals-in-tral/157954.html
[5] http://raiot.in/the-restored-humanity-of-the-kashmiri-rebel/
[6] http://www.greaterkashmir.com/news/front-page/day-124-agitation-enters-into-5th-month/232998.html
[7] http://www.greaterkashmir.com/news/front-page/in-4-months-pellets-damage-eyes-of-1178-persons/233000.html 
   ペレット弾の概要については次の記事を参照。
    http://www.thehindu.com/news/national/other-states/what-are-pellet-guns-and-why-are-they-lethal/article8880015.ece
[8] この使節のモーディー首相訪問については、次のページを参照。
    http://www.pmindia.gov.in/en/news_updates/delegation-of-japan-india-parliamentarians-friendship-league-calls-on-pm/
[9] ウッタルプラデーシュ州で、BJPはパキスタンに「我々はお前を殺す、必ず殺す」と宣言する好戦的な街頭広告まで出している。
    http://www.thehindu.com/news/national/other-states/bjp-banners-across-up-laud-surgical-strikes/article9185068.ece

<筆者プロフィール>
2000年から2010年までインドのジャンムー・カシミール州立ジャンムー大学に留学。現在、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授、人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター研究員。専門は現代カシミールの政治・社会史。


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