【コラム】技術者の視点(17)

吉本隆明と原子力 ― 三上 治さん出版記念会 ―

荒川 文生

◆ 1.出版記念会
 去る10月20日に催された三上治さん出版記念会(『吉本隆明と中上健次』)のご案内を頂戴致し参上しましたところ、とても心に沁みるお話が伺えたばかりではなく、思いがけぬ方がたにお会いする事もでき、深く感謝申し上げております。

 「三上、吉本、中上の三人には、それぞれ意見を異にするところがあったものの、人は何故生きるのかという事をとことん問い詰めていたことが、共通していたのではないか」と三上さんがご執筆の動機を述べておられました。その内容の深さは、各ページごとに考えさせられる事が多く かつ重く、読み進む途がなかなか捗りません。取り敢えず第1章で、吉本隆明が原子力を如何捉えていたのかが論じられているので、此れに就き想うところを述べたいと存じます。

◆ 2.科学技術は後戻りできないか?
 三上さんのご所見によれば、原子力発電に関して吉本は、梅原猛と中沢新一による鼎談集『日本人は思想したか』(新潮社/1995年刊)のなかで、「原発の技術的克服という問題に留保していた所が在った」のです。その後、TMIやチェルノヴィルに続く福島の事故について、吉本は宍戸護による取材談話(毎日新聞2011年5月27日/夕刊所載)の中で「技術や頭脳は高度に為る事はあっても退歩する事は無い。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も無くなってしまう。」と言っています。

 もとより吉本は、1995年1月の阪神・淡路大震災と同年3月の地下鉄サリン事件に遭遇して「今、我々はむき出しの『死の風景』に出会い、そこで『精神の断層』を体験した。」としながら、「大体あと十年か十五年でこの社会は死ぬぜ、と思っています。」、だからこの二つの事件は「日本の社会の<死>の兆候を象徴的にしめしており、我々が次の社会に移行するために指針として持つべき新たな社会倫理を突き付けているのです。」と言っています(吉本隆明著、『世紀末ニュースを解読する』マガジンハウス/1996年刊)。こうして、将にその15年後に惹起した福島事故は、吉本の言う「次の社会」へ移行する契機と為るべきものですが、吉本は『思想としての3・11』(河出書房新社編集部編/2011年刊)のなかで、「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」としつつ、更に原発事故に関して、「武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使う所まで来たことをよくよく知った方がいい。そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった。」と言うのです。(下線は筆者)

 ここで問題と為るのが、「科学技術は後戻りできないか」と言うことです。もとより、若くして技術者と為るべく訓練されてきた者にとって、「科学技術は後戻りできない」ということは、ごく自然に納得できます。何故なら技術者は、科学技術が、失敗も含めて、先達の残したものに自分たちの努力を積み重ねる事で発展するものであると実感しているからです。科学的研究成果が時の支配的宗教倫理に悖るからと言って、ガリレオ・ガリレイとその研究成果を抹殺することは許される事ではないと考えます。

◆ 3.人間に許された限界
 しかし、こと原発に関しては「科学技術と原発の存続は直結しない」として、三上さんは吉本の見解に疑問を呈しておられます。つまり、「吉本の見解は、原発の是非の問題を科学技術の是非の問題に収斂させすぎてしまう。現在の原発の問題が、原子力の産業化の問題であることがあまり語られない。」と言う訳です。現在の原発存続理由は、これまで原発投資で形成されてきた(原子力ムラ)や政界の一部で出来上がっている既得権益の維持であって、その産業的な発展と言う社会的根拠は失われているばかりではなく、その科学技術としての現実性も、原子力エネルギーの制御技術や使用済み燃料の処理問題を取って見れば、「いかに危ういかは明瞭である。」(『吉本隆明と中上健次』P.28)

 三上さんは、更に、原発を推進してきた体制を問題とし、原発が戦後の高度成長と無縁でないと言う観点から、「しかし今、高度成長経済から成熟経済への転換は不可避であり、原発の経済社会的基盤は減衰している。」(同上P.30)として、その社会性喪失を指摘しておられます。

 科学者のなかには、ここで指摘される問題の危うさを回避する途が必ずあると主張する人たちも居りますが、「現実」を踏まえる技術者としては、その危険性を現時点で回避できる道を具体的に提案できなければ、原発の推進を主張する根拠を失う事に為ります。更に技術者倫理の観点からは、「原子力は人間に許された限界を超えているか?」と言うより本質的な課題に立ち向かわなければなりません。

 三上さんは、吉本が原子力エネルギーを人類究極の課題として捉え、文明が原子力を利用する方法やその危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するようになったとしながら、「原子力は人間に許された限界を超えている」と言う認知には至っていなかった理由として、吉本にはかつて科学技術者であったこだわりが強くあるのだろうかと問いつつ、山本義隆の著書から次の一節を引用しておられます。

 「経験主義的に始まった水力や風力と言った自然動力の仕様と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用は、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみに基づいて生み出された。(中略)その結果はそれまで優れた職人やキャパシティーの許容範囲の見極めを踏み越えたと思われる。実際、原子力(核力エネルギー)はかつてジュール・ヴェルヌが言った(人間に許された限界)を超えていると判断しなければならない」(山本義隆著、『福島の原発事故をめぐって いくつか考えたこと』、みすず書房/2011年刊)

◆ 4.脱原発は「転向」か?
 経験主義的に、先達の残したものの上に自分たちの努力を積み重ねる事で技術が発展するものであると実感してきた技術者にとって、純粋に物理学理論のみに基づいて生み出された原子力に就いて、その許容範囲の見極めが適わなかったと言う指摘は、安易な言い訳には為るものの、技術者倫理の観点からは、「原子力は人間に許された限界を超えているか?」と言う、より本質的な課題に立ち向かうべきことを厳しく問うものと為っています。

 かつて原発を容認してきた吉本が、戦後の小林秀雄の発言(自分は戦争を反省しない)を取り上げ、3・11後もそれを容易には反省しないと主張していたことに就いて、三上さんは、「吉本には、脱原発の運動への多くの人々の参加が戦後の転向のように映ったのかもしれない」(『吉本隆明と中上健次』P.32)としながら、それには違和感を示しておられます。若くして原子力技術者に為る事を夢見つつ、「安保闘争」に敗北感を抱いていた者からすると、「転向」と言う吉本の胸に映る言葉には、痛く心を突かれるものが在ります。

 「吉本ならどう考えるだろうか」との問いを常に胸に抱きながら、原発再稼働への抗議行動に参加する若い世代をご覧に為っておられる三上さんは、吉本が追究してきた「自立」をそこに観る事から、吉本も此の運動を評価している筈だとお考えです。ますます独裁政権化する世界各国の危険な兆候のなかで、この抗議行動に民衆の自己決定的な側面が色濃くあると言う三上さんの御指摘は、個人の思想的「転向」を止揚する新たな発展を齎すものとして受け止めることが出来ます。そこでこの御指摘は、「原子力は人間に許された限界を超えているか?」という技術者倫理の観点からのより本質的な課題と取り組むうえで、技術者にとって大きな心の支えと為っています。
 (エンジニーア エッセイ シリーズ 7)

  日暮しの声を支えに独り立つ  (青史)

 (地球技術研究所代表)

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