回想のライブラリー(5)

■回想のライブラリー 5        初岡 昌一郎

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(1)
 暑かった今年の夏がまだ去らず、秋の気配が依然として遠かった9月中旬の日
曜日昼、「ヘンリックです。今東京ですが、明日はワルシャワに帰ります」という
電話がかかってきた。8月から「愛・地球博」のために名古屋にきていたという。
早速、夕方に彼が宿泊しているポーランド大使館に近い恵比寿駅前で待ち合わせ、
久しぶりに旧交を温めることにした。ヘンリックさんを良く知っており、特に彼
の奥さんや子ども達と親しかった藤沢初江(元PTTI東京事務所)にも声をかけ
た。
 ヘンリック・リプシッツは、ワルシャワのカトリック系大学の日本学研究所長
として日本文化と日本語の分野でポーランドにおける第一人者だ。彼は、1991
年から96年まで5年間、ポーランドの駐日大使であった。この間、時には一緒
に飲むことがあったが、私はポーランド大使館に彼を訪問したことは一回もなか
った。それは、彼とはまったく古い友人としての私的な付き合いだったからだ。
 六本木6丁目の古いビルの2階にあった「たつのおとしご」という居酒屋に私
は当時、友人、特に外国からきた友人たちと時々行っていた。これは三面がカウ
ンター席となっている小さな下町風の店で、年輩のママは元映演総連委員長の奥
さんだった。このカウンターには手作りのつまみ類が大皿に盛られていたが、客
が注文しないかぎり、飲み物も食べ物もすすめない店だった。ヘンリックさんは
特にここが気に入って、いつのまにか常連の一人になってしまった。この店は最
後まで森ビルの地上げに抵抗していたが、今やその古いビルは新東京名所、六本
木ヒルズの一部となり、この界隈はすっかり変わった。
 ヘンリックさんに初めて会ったのはもう40年以上前のこと。1964年3月、ワ
ルシャワ郊外の映画撮影所にアンジェイ・ワイダ監督を訪問した時だった。第二
次世界大戦末期の悲劇、ワルシャワ地下抵抗運動をテーマとした「地下水道」や
「灰とダイヤモンド」などは、われわれに強い感銘を与えていた。ホストである
ポーランド青年同盟にたいし、短いポーランド滞在中にワイダ監督に会うことを
強く希望し、実現したものだ。その当時ヘンリックはワルシャワ大学日本語科の
学生で、われわれ青年代表団のために通訳をつとめてくれた。まだ日本語もたど
たどしく、おとなしい小柄な青年だった。
 この青年代表団は、後に『危険な思想家』というベストセラーを書く山田宗睦
や、全逓の法律顧問だったが後に田中角栄の裁判で弁護人を引き受ける松崎勝一
弁護士、千葉大教授となって少数派労働運動の研究を続けた河西宏祐など多士
済々だった。団の主力は全逓、全林野、電機労連、全電通などの総評・中立労連
系の青年部幹部で、ほとんどが社青同のメンバーであった。団長は、全逓青年部
長の新井則久で、彼と私は親友であり、運動上の盟友だった。

(2)
 1980年から81年頃、衆議院副議長だった岡田春夫を囲む昼食会がいろいろな
人を招いてしばしば行われていた。この会の世話役はやはり仲井富さんで、私も
常連の一人だった。80年の春だったと記憶しているが、衆議院の代表としてのポ
ーランド訪問から帰ってきたばかりの岡田さんが「連帯」労組の誕生と政府との
鋭い対立関係、そしてそれが生み出した波紋を興奮気味に話してくれた。その時、
同席していた富塚事務局長が「岡田さん、われわれはどちらを支持すればよいの
かね」と質問した。私たちは、「トミさん、弾圧している方ではなく、ストライキ
をしている方を支持するのが総評では」と笑ったものだ。ところが、富塚さんは
一旦納得すると行動は迅速だった。翌年の5月には世界の注目の的となっていた
連帯議長レフ・ワレサを総評が日本に招待し、旋風を巻き起こした。
 そのワレサの通訳として同行してきたのがなんとワルシャワ大学教授となって
いたヘンリック・リプシッツであった。ヘンリックさんはそれだけではなく、同
年9月に東京で開催された国際郵便電信電話労連(PTTI)世界大会にポーランド
代表団に同行して来日した。大会は当時全電通書記長だった山岸章をその組織委
員長として、私が実務担当責任者をつとめていたので、そのときもゆっくりと話
しをする機会はなかった。ただ、くしき縁での再会を喜び合っただけだった。
 この頃、アンジェイ・ワイダは連帯の後援者として「鉄の男」「大理石の男」な
ど連帯を支持する映画を次々と世に送り、話題をなげかけていた。彼は、日本か
らの賞を基金として、古都クラコフに日本芸術館を独力で建設した。次にポーラ
ンドに行く機会があれば、これを是非みたいものだ。

(3)
 当時は、私が働いていたPTTIは国際労働組合運動の中でも先進的な行動力と
ずば抜けた組織力を持っており、権利闘争の領域で運動をリードしていた。少な
くとも私たちはそう自負し、燃えていた。郵便と電気通信産業別労働組合の国際
組織であったものの、労働組合の権利と人権の分野では労働運動の全体の課題を
正面から取り上げていた。南アフリカの反アパルトヘイト闘争支持、チリの反独
裁闘争の犠牲者支援、そしてポーランド連帯支持の活動がその頃の三本柱であっ
た。
 こうした方針展開は、当時ステファン・ニジンスキーという卓越した能力を持
ち、権利の確立を基本とするという確固たる信念に燃えた指導者をPTTI書記長
として擁してお蔭であったと、今にしてつくづく思う。やはり、組織と運動は何
よりも人だ。そして、地位の継承は容易だが、指導力の継承は不可能である。
 ニジンスキーはポーランドで1919年に生まれた。これはILOが創設された年
として記憶されている。余談ながら、南アフリカの初代大統領となったネルソン・
マンデラとアメリカ大統領ジョセフ・ケネディの生まれも同年だ。シュトル・ウ
ント・ドランク(嵐と激動)の時代を生き抜いた人たちには、その時代と共に限
りない関心をそそられる。
 ニジンスキーの自伝は、1980年代に全逓新聞に連載され、その後『国際労働組
合運動に生きて』(日本評論社、1992年)として出版された。中国社会科学院に
香山健一を記念する香山文庫が開設されたいきさつは前に書いたが、その文庫の
中にこの本を見つけ、訳者としてうれしかった。
 独ソ分割の後、社会民主主義派の学生であったニジンスキーは、国を逃れよう
としてソ連軍につかまり、その後シベリアに抑留され、筆舌につくしがたい困難
を経験した。彼と一緒に旅行した時、乞食をみる度に小銭をやる彼に、私は疑問
を投げかけた。「私はソ連で物乞いをして生きていたことがある。だまって見逃せ
ないのだ」というのが彼の答えだった。しかし、独ソ開戦によって彼はポーラン
ド人義勇軍に入ることを許された。各地を転戦し、イタリア戦線で終戦を迎えた。
共産党政権がソ連の力で樹立された祖国ポーランドに帰ることを断念し、彼はイ
ギリスに亡命した。その頃、ほとんど英語ができなかったという。
 ロンドンの郵便局で下働きをしながら、名門のロンドン大学経済学部(ロンド
ン・スクール・オブ・エコノミクス)を卒業し、博士号まで取得していることか
らみて、彼がずば抜けた才能をもっていたことがわかる。若き社会主義者であっ
た彼は、自分の所属する郵便労組(UPW)の調査担当スタッフになる。この組合
はPTTIという戦前からの長い歴史を持つ国際組織を第二次大戦後に再建する中
心であった。それを縁として、彼はスイスのPTTI本部に書記次長として働き始
め、国際労働運動で頭角を現すことになる。
 国際自由労連(ICFTU)の組織部長、書記次長をつとめた後に、1964年に書
記長として古巣のPTTIに帰ってきた。親友だった新井則久が全逓の政治国際担
当中執になった時、彼のすすめによって私が全逓信労働組合書記局に入ったのも
この年であった。その翌年の1965年、PTTIアジア地域大会(ニュージーランド)
で初めてニジンスキーに会った。私にとってこれは運命的な出逢いだった。
 宝樹委員長等の執行部が総辞職した後の1971年、私は全逓を辞める決意を固
め、ILO本部にスタッフとして応募するために準備をすすめていた。これは、当
時のILO労働側理事原口幸隆全鉱委員長(元総評議長)のすすめによるものだっ
た。それを知ったニジンスキー書記長からILOではなく、PTTIでスタッフとし
て働くよう熱心に説得された。私も遅まきの結婚をし、子どもが生まれたばかり
の時だったので、外国生活を始めるのには大きな迷いをもっていた。そこで、本
部直属のスタッフとして採用するが、ジュネーブ本部ではなく、東京に事務所を
置いて活動できるという彼の出した条件は魅力的だった。また待遇も国際労働界
では破格のもので、ジュネーブのスタッフを上回るものであった。
 全電通の加入によって、PTTI内で日本語グループが英語グループに次ぐ勢力
になったこと、日欧米を組織の3本柱とするという展望を彼ははっきりと思って
いた。1970年代初めにはまだ日本は国際的には主たる勢力として認知されておら
ず、まして日本の労働組合は国際的にみるべき力とみなされていなかった。ニジ
ンスキーの先見性に日本加盟組合の全逓と全電通などのその後の行動は十分に応
えるものであった。1985年のPTTI世界大会(スイス)は、山岸章を会長に選出
した。彼は連合会長になるまで再選されてこの職にあった。日本人が国際労働団
体のトップになったのはこれが初めてだったし、それ以後も例がない。PTTI東
京事務所の20年間は、国際的にはニジンスキー、国内的には山岸章という、類
まれな傑出した指導者に密着して働くことのできた個人的には幸せな時代であり、
自分としては人生の最も充実した時期であった。これらのことはこの稿のテーマ
と離れるので、別の機会にあらためて回想したい。
 ただニジンスキーについてもう少し紹介しておきたい。彼は自分の祖国がポー
ランドであることを隠さなかっただけではなく、国籍を決して放棄しなかった。
スイス人と結婚し、スイスに居住しているのだからスイス国籍をとるのは容易で
あり、その方が国際活動にははるかに便利だったのにも拘らず、国連の難民パス
ポートでおしとうした。その他に、他のどの国に出張するにも一回一回ビザを相
手国から取得しなければならなかった。
 連帯政権が誕生したことは、彼の人生にとって最大の喜びだった。しかも、彼
が70才でPTTI書記長を引退するその年、1989年に連帯が政権につき、それに
よって彼の国籍が回復され、祖国へ自由に往来できることになった。
 ニジンスキーは早くから自分の祖国で生まれたポーランド連帯運動と接触を持
ち、特にその初期において名実共に連帯の海外代表をつとめた。彼はPTTIとい
う郵便電気通信労組の国際的組織の最高責任者であっただけではなく、国際的な
産別労働団体をたばねたITS総会議長を長年にわたってつとめ、国際産別労組全
体のスポークスマンであった。またその資格で、国際自由労連本部執行委員会の
有力なメンバーであった。
 彼はアメリカAFL-CIO会長のミーニーやカークランドからも特別に信頼され、
アメリカの組合から強い支持を得ていたが、それは彼の体験に基づく共産主義に
たいする真正面からの批判が、国際労働組合運動の中でも突出していたからであ
ろう。しかし、彼は単純な反共論者ではなく、私が彼と異なる立場をソ連や特に
中国にたいしてとることを「理解」するというよりも「許容」してくれていた。
ニジンスキーや山岸さんから冗談半分ではあったが、「PTTI内中国派」と私はか
らかわれていた。
 ニジンスキーがポーランド連帯支持の旗を国際的に振った時、一番先にそれに
呼応したのはアメリカの組合と日本の全逓、全電通などの加盟組合であった。ポ
ーランド連帯への支持がまだ国際的にみて初期的段階にあった頃、PTTIの極秘
の要請に応じて、日本の加盟組合はその連帯基金からファクスと高性能の印刷機
をヨーロッパで購入し、いくつかに分けて複数の地下ルートから連帯労組に送る
プロジェクトの資金を負担したこともあった。

             (4)
 1981年12月、ヤルゼルスキー政権によって連帯は弾圧を受け、非合法化され
た。多くの幹部活動家が逮捕、投獄された。わがヘンリックさんもあまり政治的
な人ではないのに逮捕されてしまった。ヘンリックさんのユーモラスな口調によ
ると、「刑務所で日本酒を楽しんでいましたよ」ということになる。誰かが牛乳の
テトラ容器に小さな穴をあけ、そこから注射器で日本酒を入れ、ミルクとして差
し入れたそうだ。その頃、ワルシャワには少数だが日本人社会が健在であった。
その人たちの当時の暮らしぶりは、大学の日本語教師としての生活の中で見聞を
つづった工藤幸雄『ワルシャワの七年』に詳しい。この本は後に『ワルシャワ貧
乏物語』として文春文庫に収録された。工藤さんの奥さんの久代さんによる『ワ
ルシャワ猫物語』(1986年)も文春文庫に入っている。
 工藤さんは日本の通信社の記者として1963年頃東欧を回った時、ポーランド
が気に入ったのでジャーナリストを辞め、日本語教師としてワルシャワに行った
人だ。その頃、ベオグラードにいた私も一晩一緒に語る機会があったが、とても
文学者的な人だった。彼は帰国後、多摩美大教授となり、まだ時々健筆を振って
いる。その奥さんの久代さんは以前はポーランド学の日本における第一人者だっ
た梅田良忠夫人だった。梅田さんはその子どもさんを義務教育が終了するかしな
いかの頃からワルシャワに留学させていた。この梅田青年は連帯の熱心な活動家
で、連帯メンバーと何回も訪日したことがある。また、連帯を訪問する日本代表
はたいてい彼の世話になっていた。
 しばらく音信の途絶えていたヘンリックさんがひょっこり東京に前触れもなく
やってきたのは、1984年夏だった。日本の奨学金がとれて東大に留学することに
なったのだ。そして、もう1カ月すれば奥さんと二人の子どもさんも合流すると
いう。だが、宿舎は決まっておらず、これから探すという呑気さだ。信じられな
い。しかし、聞いたからには何かしなければならない。「頼まれたら手を貸す」と
いうのが私の尊敬する当時の組合幹部達のよき特性だった。私の事務所は全電通(現NTT労組)会館にあったので、まず財政局長の園木久治に相談。園木さん
は政治国際部長も歴任し、後に山岸さんの後任の委員長になった人だが、私と同
じイノシシ年で思想的にも人生観でもウマがよくあった。
 園木は、自分が住んでいた組合小金井寮に空き部屋があることを確かめ、それ
を無料で提供するよう取り計らってくれた。行ってみると、昔の都営住宅風の平
屋で古い。しかし雨露はしのげる。だが、家財道具も必要だ。自治労書記局の中
嶋滋(現ILO理事)などが「なに、武蔵野周辺の清掃関係活動家に頼めば、粗大
ゴミの中から良いものをすぐに集めてくれるよ」と乱暴なことをいいながら努力
してくれた。有志の協力があって小さな部屋があっという間に耐久消費財で一杯
になってしまった。奥さんはこの生活にあまりなじめなかったようだが、近くの
普通の小学校に入学した子どもさんとヘンリックさんはそれなりに生活を楽しん
だ。
 ヘンリックさんの研究テーマは、日本の古典ドラマ、特に歌舞伎だった。私に
は彼の人生そのものがとてもドラマティックに思えてならない。その時の滞在は
1年弱で、その間、彼は政治的経済的状況が依然として厳しいポ-ランドに帰国
するか、それともアメリカかイスラエルに移住するか非常に悩んでいた。彼はユ
ダヤ系ポーランド人で、彼の家族はヒットラーとスターリンという世紀の二大独
裁者の支配下で筆舌につくしがたい悲劇を味わってきたからだ。
 わき道にそれるが、ポーランドにおけるユダヤ人の苦難とそれから脱出してア
メリカで苦労の末成功した人たちの姿は、ジェフリー・アーチャーによる『カイ
ンとアベル』など彼のポピュラーな小説に活写されている。彼の小説のほとんど
は角川文庫に収録されており、私は旅行中にこれらを愛読した。ポーランド系ユ
ダヤ人の暮しと意見だけではなく、アメリカやイギリスの政治の仕組みが実にわ
かりやすく描写されているので、格好の入門書にもなる。これは著者がイギリス
保守党の副幹事長をつとめた経験があるからだろう。

               (5)
 1989年6月、ポーランドで初めての部分的に自由な総選挙が行われ、統一労働
党が惨敗、「連帯」出身のマゾヴィエツキーが首相に就任したことで状況が大きく
転回した。翌90年には連帯議長のレフ・ワレサが大統領に当選した。こうした
状況をわれわれは胸躍らせながら注目していた。
 1991年11月のある日、突然ヘンリックさんから電話があった。「今東京です
が、今度はしばらく居ますよ」という。今度は何の目的と質問すると、「駐日大使
になりました」というではないか。まったく驚天動地とはこのことだ。
 彼は96年9月までの5年間、大使として滞日生活を十分にエンジョイしたよ
うだ。たまに彼と会っても、音楽会や展覧会のことばかり。経済のことなど、わ
からないというより、関心がまったくなかった。私も姫路に毎週通う生活をして
いたので、それほどしばしば会うことはなかった。彼の離任がせまってきた96
年夏、「何か心残りはないか」と問うと、なんと「出雲の阿国の墓参りがしたい」
という。姫路で合流して、二人で松江に行き、ラフカディオ・ハーンゆかりの皆
美館に泊まった。ヘンリックさんはハーンを読んで日本語と日本文化に興味をも
つようになったからだ。その後、出雲市で探し歩いたが、阿国の墓は見つからず、
ゆかりの寺で遺髪をみたことでこの旅は終わった。
 私がポーランドを最後に訪問したのは1994年6月、連合会長だった山岸
さんに随行して、ジュネーブのILO総会からワルシャワに飛んだ時だ。
PTTI引退後にポーランドの市民権を回復し、アメリカAFL-CIOの駐ワル
シャワ代表となっていたニジンスキーに出迎えを受けた。彼と山岸さんが
ワレサ大統領と会見したその日、日本からとんでもないニュースが飛び込
んできた。細川内閣が辞任し、村山内閣が成立したという。細川連立内閣
の生みの親の一人だった山岸さんがポーランドを訪問せず、もし日本にい
たらと思った瞬間だった。

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