回想のライブラリー(11)

■連載 回想のライブラリー(11)         初岡 昌一郎

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  (1)

 6月中旬の小雨ふる日曜日の午後、平和友好祭旧友会という20人ばかりの会
合があった。会場は、60年代に友好祭など青年国際交流団体の事務局が置かれ
ていた日本青年館。
 JR千駄ヶ谷駅から歩いてみると、明治公園に隣接する緑の濃いこの一帯には
新しい国立スポーツ施設などが点在しているが、風景にはまだ昔の面影が残って
いる。しかし、日青協本部がある日本青年館は全面的に建て直されており、立派
なホテルやレストラン・宴会場も併設され、面目を一新している。建て替えられ
てからもう30年になるというから、昔はよく足を運んだこの会館に30年以上も
御無沙汰していたことになる。
 
 この会合の幹事役をつとめてくれた倉持八郎君は、かつて友好祭日本事務局で
働いていた紅顔の学生だった。彼はその後日本農民組合で活躍し、近年、新潟県
の郷里において社民党公認で衆議院選挙に二度挑戦しただけあって、挨拶も司会
も堂々たるものだった。
 発起人として名を連ねていた山下勝と佐々木啓之は社青同時代に信頼しあっ
た盟友である。社青同を東京で結成した時、国労東京の拠点、大井工場の青年部
長だった山下が地本委員長で、私が書記長としてコンビを組んだ。佐々木は東京
で最も動員力のあった東交(東京都交通局)労組青年部長だった。山下はその後、
総評青年担当全国オルグとして、社青同本部副委員長を兼務した。佐々木は山下
のあとに青年担当全国オルグとなるはずだったが、社会主義協会派の妨害でこれ
は実現しなかった。当時、われわれは社青同と社会党内では紛れもない構造改革
派を公然と標榜しており、社会主義協会派と鋭く対立をしていた。
 
 国鉄労働者として職業人生を早く終えた山下は74才だが、青年時代ハンサム
だったと風貌に大きな変化がなく、まだ若々しい。佐々木啓之は組合運動から転
じて社会党都会議員となったこともあったが、今は東交労組の仲間と共に、ボラ
ンティア的「福祉タクシー」と介護福祉団体を主催し、自らも早朝からハンドル
を握って活動している。この日も、車を運転するからと一滴のアルコールをも口
にせず、早めに帰っていった。
 全逓本部元青年部長加藤芳弘(故人)の奥さん、幸子もかつて友好祭事務局に
いたので、北海道からかけつけたし、社会党本部婦人局にいた越川ます子や、同
本部青年局の吉田(旧姓貝谷)和子等も参加した。本誌『オルタ』の共同編集人
で、かつて日青協幹部だった富田さんも、同じ会館の他の会合を抜けて、旧知の
多いこの会に顔をみせた。

 しかし、かつて友好祭と深くかかわっていたが鬼籍に入った人たちも少なくな
い。久保田忠夫(社会党青年部長)、大本康之(総評青年対策部書記)、岩垂寿喜
男(総評書記、その後衆議院議員、環境庁長官)の他、ドイツ語通訳だった酒井
晨史(早稲田大学教授)や、4年前に暗殺された民主党衆議院議員石井紘基も友
好祭参加者として、かつてはこの会のメンバーリストに名を連ねていた。 
 
 60年安保闘争で盛り上がり、先鋭化した青年学生運動は、1962年にわれわれ
が平和友好祭に取り組んでいたその当時、転形期を既に越えて、統一的組織体で
はなくなりつつあった。学生運動では香山健一、森田実、小島弘等、50年代末
に共産党から決別した当時の全学連主流リーダー達は共産主義者同盟(ブント)
を結成したが、彼らの時代は安保直後に終り、まもなくブントの分解が始まった。
そして、よりラジカルかつセクト的な小グループが乱立する時代に入っていた。
1961年以降になると私達は学生運動、特に全学連との組織的な関係はほとんど
切れていた。他方、共産党路線の民主青年同盟は平和共存路線に批判的な中国の
影響をますます受けるようになり、ソ連と世界民青連が中心となっていた平和友
好祭には次第に背を向けるようになっていた。
 
 したがって、60年代初期、平和友好祭運動の日本における取組みは、総評青
年婦人協議会傘下の労働組合青年部が中心になっていた。社青同、日農青年部、
それに幅広い路線を持っていた日本青年団協議会(日青協)がそれに加わって準
備会を構成していた。平和友好祭運動についていえば、当時総評青対部書記だっ
た大本康之が中心的役割を担っていた。社会党青年部で私の先輩だった大本は政
治力もさることながら、われわれの中で唯一人、集金力を持つ男で、カンパニア
運動の組織にたけていた。組織的にみると社青同、総評青婦協ブロックの中核は、
一番まとまっていて行動力と動員力があり、そして協会派の影響力が小さかった
全逓青年部だった。この頃、社青同本部にいた私は全逓青年部とほとんど一体と
なって行動しており、その主な会議には参加していたのを通じて、地方リーダー
達の多くと友人になっていた。

 彼らの中から、全逓の中でも最強の組織力を持つ大分地区の委員長を長くつと
め、県連合会長を最後に引退した国清昿平、鳥取地区や中国地方本部の委員長と
して社公協力を推進し、江田派活動家をもって最後まで任じていた松川瑞利(故
人)、新井の次に青年部長となり、後に四国地本委員長となった渡瀬巧(故人)、
東北地本書記長を経て本部副委員長となった木村実など、最盛期の全逓、公労協
運動を担う中堅的幹部が輩出した。 

 60年代の社青同におけるわれわれの目標は活動家集団にとどまることなく、
より大衆的な運動の創出と青年の広い層との連携を目指していた。そして平和友
好祭をその一つの場として積極的にとらえていた。ソ連におけるフルシチョフの
登場とその平和共存路線、アメリカにおけるケネディ大統領の登場による平和共
存と対話路線をわれわれは歓迎し、その中で“積極的中立”という方針を追求し
ようとしていた。したがって、ソ連を中心とする国際準備会の呼びかけに受動的
に応えて参加するのではなく、自主的に、少なくとも国内的には主導権を握って
その準備を組織しようとしていた。日本準備会は民青を含めてはいたが、社青同
がその頃は完全に指導権を握っていた。

 (2) 
 1962年夏のヘルシンキでの平和友好祭国際準備会書記局には、前年のモスク

ワでの青年学生フォーラム書記局の経験を持つ私が日本準備会を代表して入る
ことになっていた。いろいろな事情から、私が実際に現地入りしたのは6月初め
で、7月下旬のフェスティバル開始はもう1ヶ月半に迫っていた。
 
 このときも焼津からロシアの貨物船に乗り、ナホトカとハバロフスクを経由し
てモスクワに飛び、そこから汽車でヘルシンキに行くという時間のかかる方法を
とらざるをえなかった。前年の友好祭国際準備会にモスクワ滞在中だった私が日
本準備会を代表して参加した時は、春まだ浅く残雪におおわれたフィンランドだ
った。私は、この平和的な国と穏やかな人々をすぐに好きになった。友好祭前後
の夏のヘルシンキは白夜に近い状態で、真夜中に少し暗くなりかけると、そのま
ままた夜があけるのだった。われわれの宿舎は学校の教室に仮設ベッドを置いた
だけのもので、食事はどこか外に出かけるか、付近で自ら調達するしかなかった。
 
 当時、私は洋食というものはまずいものだと思い込んでいた。一般論としてい
えば、ヨーロッパやアメリカで食事をして、安くてうまいというものはまずない。
この点が日本と違う。青年時代に暮らしたヨーロッパでは食費をいつも切り詰め
ていたので、美味しいものにめぐり逢う機会はほとんどなかった。労働組合の国
際活動で欧米に行き、海外の組合のゲストとしてはるかに恵まれた機会を持った
ので、料理やワインについて新しい目を開かされることになったのは30代後半
以後のことだった。

 ヘルシンキでは世界民青連本部(ブダペスト)に民青代表として常駐していた
西沢舜一が、私よりかなり先にヘルシンキに着任していた。西沢さんは東大仏文
出身のインテリで、党派性はしっかりしていたが、私が国内で知っていた民青の
リーダー達とは違い、紳士的で物腰もやわらかく、あまり違和感のない人だった。
さらに彼はかなり年長だったので、私も敬意を表していた。西沢さんは奥さんと
一緒で、ヘルシンキ郊外に素敵なアパートを借りていた。彼は親切にも、ほとん
ど毎日夕食を共にするようにと私を自宅に招いてくれ、奥さんの手料理をふるま
ってもらった。

 西沢さんには、その前年の61年3月にモスクワ・フォーラムのための記者会
見に私がパリに派遣された際もお世話になっていた。記者会見場では、フランス
語のできない私のために通訳の労もとってもらった。この当時、駐仏大使館にい
た大学時代の友人にモスクワから電報を打ち、パリでの通訳の手配を依頼したの
だが、返事さえこなかった。今になって思えば、当時の私はまったくノー天気な
ものだった。このような左翼的傾向を持つ者とはかかわりたくないという、新参
外交官の学友の迷惑顔が浮かんでくる。
 
 西沢さんは親切な人で、私が希望したわけでもないのにフランス共産党本部に
も連れて行ってくれ、日本でも名がよく知られていたモーリス・トレーズ書記長
にも面会させてくれた。そのあとで共産党機関紙『ユマニテ』本社を訪問したの
だが、そこではたまたまブックフェアを開催中で、詩人のルイ・アラゴンに会い、
彼の著書に署名してもらったことを想い出す。それは学生時代に読んだ、獄死し
たレジスタンスの闘士、ガブリエル・ペリを追悼した詩『フランスの起床ラッパ』
が記憶によく残っていたからである。各節毎に「明日も行こうまた、この道を」
というリフレインで結ばれたこの詩は、悲愴感のただようものであり、当時の左
翼的な若者達の心情にアピールするものがあった。 

 1961年、モスクワに世界青年フォーラム書記局員として滞在していた私が、
ロシア以外の国に行ったのはこの時のフランスが初めてだった。フランス往復の
切符は書記局が準備してくれたが、出張費としては一銭の金をもらったわけでは
なかった。向こうに行けばフランス準備会(青年共産同盟)が世話するからとい
う話だけを聞いて、モスクワを発った。ポーランド経由の便で、ワルシャワから
乗り込んできた若い日本人がたまたま私の隣に座った。その人と2時間ばかり機
中で雑談していたが、パリにつく間際に名刺と共にカンパとして300米ドルをさ
りげなく渡してくれた。私が無銭旅行者であることを見破り、心配してくれたの
だろう。当時の300ドルは少なくとも私にとっては大金だった。その人は、ヨー
ロッパに常駐するキャノンの商社マンだった。

 マロニエが芽吹き新緑の街路樹が新しいパリの陽光には、モスクワから着てき
た厚手のオーバーコートはあまりにもヤボったいと思えたので、この金の一部で
派手目のブルーのトレンチコートを買った。このコートはその後20年近くも愛
用していた。
 話はますますそれていくのだが、ついでにもう一つの思いでを記しておきたい。
当時、フランス全学連(UNEF)は共産党の影響下から離れており、統一社会党
という左翼の小政党を結成した活動家達が指導部を占めていた。というよりも、
当時の学生運動の中心的活動家が統一社会党を結成したといった方がより適切
だろう。カルチェラタンの一角の古いビルの狭い一室にこの党を訪問した。この
時は西沢さんの助けを借りるわけにもいかないので、一人で心細かった。幸いミ
シェル・ロカ―ルという書記が会ってくれ、彼とは英語で話すことができた。統
一社会党としてはモスクワ・フォーラムに参加することはないが、フランス全学
連(UNEF)として代表を送ることを彼は約束してくれた。
 
 この短いフランス滞在中に会った多数の人の中で、ロカールという青年には一
番強い印象を受けた。彼は国立行政学院(ENA)という最エリート大学の出身で、
非常に論理的な思考の持ち主だった。ブリリアントとはこういう人を指す言葉な
のだと実感させられた。彼はフランスの社会主義運動と社会党を根本的に革新す
る必要があると語っていた。その後間もなく、彼は統一社会党書記長として、フ
ランス社会党との合同を演出し、新生社会党幹部の一人となった。そして、後に
党内ではミッテランのライバルとして右派系の指導者とみなされることになる。
 
 それからはるか後の80年代のある時、彼はミッテラン大統領下でつとめた首
相を辞した後、短期間日本を訪問した。その時、社会党土井たか子委員長とフラ
ンス大使館の好意で、赤坂東急ホテルの中にあった「天一」で昼食を共にする機
会に恵まれた。彼と隣り合わせに座って何十年ぶりかに話したが、学生時代とは
格段に英語力を上げており、まったく自由自在の話し振りだった。その時の会話
で印象に残っていることは、彼が首相時代に推進した地方分権は理念としては間
違っていなかったが、地方自治と地方政治家の未成熟のために、多くの自治体が
ポピュリスト的放漫財政に走り、財政の破綻を招来したということだった。

 さて、話を西沢さんに戻す。彼とはヘルシンキ・フェスティバルが終わってか
ら二度と会う機会がなかった。それは、中ソ論争では中国のサイドに立った日本
共産党に指導された民青が、ソ連のリードする世界民青連の中では居場所を失い
つつあった。民青連からは加盟の働きかけもあったが、私達はその道をとらず、
友好関係に留めた。西沢さんもブダペストをまもなく引き揚げて行った。
 
 私が1962年秋に初めて大本康之と二人でブダペストにあった世界民青連本部を
訪問した時には、西沢さんはすでに去っており、佐々木一司という新しい民青代
表は私達に会おうともしなかった。西沢さんは日本に帰ってから、共産党本部国
際部で「世界政治資料」の編集にたずさわっていることを風の便りで聞いていた
が多分活躍の場はあまり与えられなかっただろう。しばらくたってから、共産党
参議院全国区候補者リストに彼の名前があるのを新聞紙上で見つけたが、当選可
能な順位からはほど遠いところにあった。
 「優秀な人材を集めてバカな使い方をするのは、共産党と銀行」という俗説を
私がかつては流布したことがあった。西沢さんも優秀な能力と得がたい経験を生
かす場を得なかった一人ではないかと思う。

(3)

 私がヘルシンキに赴任した頃には、平和友好祭のプログラムと態勢はほとんど
最終的なものとなっており、大きな枠組みに手をつける余地はまったくなかった。
それでも、私としては二つのことに的を絞って努力を試みようとした。一つは、
友好祭の枠の中で、社会党・社民党系青年組織代表の会議を組織すること、もう
一つは、共産党組織がフォーカスを当てていたキューバ革命だけではなく、非共
産党系民族組織「FLN」が主導したアルジェリアの独立革命支持を友好祭の焦点
にとりあげることだった。後者の課題は日本準備会として正式に決定しており、
カンパ活動も行ってきた。
 
 大学社会科学研究会連盟(社研連)書記局時代の親友渡部義任君(東大経済学
部)がブリュッセルに留学していたので、日本代表団の通訳ということで、彼に
へルシンキに来てもらい、主としてこの非共産系左翼・社会民主主義系青年代表
の集会の組織を担当してもらった。友好祭全体を事実上牛耳っているソ連青共
(コムソモ-ル)代表には、無駄なトラブルを避けるために、この会合について
は非公式に事前に話しておいた。彼らからは通訳を提供するとの申し出があった
が、これはやんわりと断った。しかし、独自に通訳体制を組織する力と金はない
ので、この会議はバベルの「障壁」を越えられず、あまり成果をあげることなく
終わってしまった。それでも、アルジェリア、インド、イタリア、フランス、ベ
ルギー、イギリス、オーストリアなどの青年学生代表が集まり、1日間の会合を
持つことができた。しかし、何らかの連絡組織を作ろうという提案に合意はえら
れなかった。それは、オーストリアに本部を置いていた社会主義インターの青年
団体、国際社会主義青年同盟(IUSY)との関係をさらに複雑化しかねないとい
う意見に配慮したからであった。
 
 ベルギー社青同代表として友好祭とこの会合に来たアンリ・ベルナールとはウ
マが一番あった。彼から聞く、ベルギー社会党の内部状況と左右対立は、日本社
会党によく似たものがあった。社青同が社会党から鬼っこ扱いされている点では、
ベルギーやドイツでもある程度共通していた。
 それから15年後の1977年秋、フランコ独裁から解放された直後にマドリー
ドで開催されることになったPTTI世界執行委員会に向かう途中、私は二日ばか
りパリに立寄った。それは、OECD(経済協力開発機構)労組諮問委員会書記局
の事務所を訪問し、総評のこの組織への加盟の条件をさぐるためだった。これは
当時総評国際委員会議長だった全逓石井平治委員長と打ち合わせた上の行動で
あった。
 
 凱旋門の近くにある労組諮問委員会(TUAC)事務所を訪ねると、出てきたの
はなんとヘルシンキ友好祭の旧友、ベルギーのアンリ・ベルナールではないか。
彼は大学卒業後、ブリュッセルに本部がある国際自由労連(ICFTU)本部経済社
会部にエコノミストとして入り、今はTUACの事務局長をしているという。思
い出話に花が咲いたが、「俺は友好祭の犠牲者だ」という。その意味を問いただ
すと、ヘルシンキでその時知り合ったフィンランド人女性と結婚し、その後離婚
したという。
 
 後日談としてだが、総評を国際自由労連に加盟させようと努力していた、われ
われのその頃の戦略は、まず国際自由労連系組織が中心となっている、この
OECD・TUACに前段として加盟させることを先行させるというものであった。
これは富塚事務局長時代になってようやく実現したのだが、アンリ・ベルナール
は情報の提供などでそのプロセスに積極的に協力してくれた。しかし、総評の加
盟が実現した時には、彼はベルギーの大学へと既に去っていた。

(4)

 1965年7月に、また再びヘルシンキを訪れた。それは世界平和大会日本代表
団の事務局員としてであった。その時は、ユーゴスラビアから帰国して全逓本部
書記局に入ってからまだ1年もたっていなかった。これは社青同時代の活動スタ
イルを全逓に持ち込んだものだったかもしれない。
 この世界平和大会は、激化していたヴェトナム戦争を終結させ、東西の対立を
緩和させようとして、従来の世界平和協議会(世評)の枠を越えて、哲学者バー
トランド・ラッセルや科学者J.D.バナール(大会議長)などによってとられた国
際的イニシアティブに応えて、フィンランドで開催されることになっていた。
 
 この大会に首を突っ込む契機を私が与えられたのは、当時、水道橋の全逓会館
とは反対側で、岩波映画のすぐ近所にあった一国ビルにあった、社会主義政治経
済研究所に陣取っていた前野良だった。この研究所は社会党衆議院議員だった松
本七郎が後援していたもので、月刊の資料誌を発行していた。その頃、社青同時
代に原水禁の諸会議を通じて親しくなっていた前野先生のすすめで、その資料集
に『ニューレフト・レビュー』、『ニューステーツマン』、『ネーション』など
欧米の左翼・リベラル系雑誌からの論文を毎号のように紹介していた。
 
 前野先生は、イタリアの構改派や西欧ニューレフトなど、ヨーロッパの共産主
義・社会主義運動の新しい潮流に熱心な関心を寄せていた人だった。世界平和運
動の新しい潮流に日本が貢献すべきだと前野先生にあふり、そそのかされたとい
っては先生に失礼だろう。しかし、少なくとも先生に影響されて走り出したので
あった。
 これまで、世評系の各種平和大会は共産党系の日本平和委員会が中心に取り組
まれてきており、社会党・総評系の人々は“お客様”的にこれに加わっていた。
私たちは、このような姿をにがにがしく見ていたので、出発点から主体的な方針
と組織を構想していた。まず、当時私の上司であった秋山実全逓共闘部長に進言、
彼に支持委員会と日本代表団の事務局長を引き受けてもらった。それに、吉川勇
一と私の二人が事務局員となった。
 
 吉川さんは既に共産党から離れており、「日本のこえ」系とみられていた。そ
の時、吉川は34才、私は29才であった。吉川は東大自治会で活躍した後、プロ
の平和運動家となった豊富な経験を持つ人だった。私もそれまでの経験からこれ
らの運動の組織にはある程度の自負を持っていたが、彼にはとてもかなわないと
すぐにシャッポを脱いだ。非共産党系学者・文化人、社会党や総評系組合としっ
かりした絆を維持し、そのしっかりした居場所を確保する仕事の他は、事務局の
仕事の指揮は吉川さんにゆだね、それに全面的に協力した。吉川さんはその後、
ベ平連を立ち上げ、平和運動に新風を吹き込み、活躍をつづけ有名となった。今
もまだ初志を曲げることなく、しなやかに生きておられる。

 秋山さんと相談の上、まず進めたのは日本組織委員会とその後の日本代表団の
上に立ってもらう人を探すことであった。われわれの立場が外に明示できる人だ
ということから、当時平和経済国民会議事務局長だった高橋正雄先生(九大名誉
教授)に白羽の矢を立て、お願いした。高橋先生には政治的理論的に敬意を表し
ていただけではなく、器の大きいその人柄がこういう複雑かつ大きな結集体には
最適と考えたからであった。先生は平和運動そのものをそれほど評価しておられ
なかったと思うが、われわれの要請を快諾してくださり、ヘルシンキまでも団長
として行っていただいた。そして、高橋先生は世界大会議長団の一人に選出され
た。

 この世界大会について日本代表団報告書の前がきの中で、なかなか人をくった
ところのある高橋先生が「優の下」という評価を下している。それは、これほど
意見が食い違った会議も珍しいという意味からの、先生としては高めの評価だっ
た。
 この大会には、日本からは対立する二つの代表団が参加していた。われわれの
日本支持委員会とは別に、共産党・平和委員会が少数派代表団をヘルシンキに送
ったからである。共産党は幹部会員の金子満広が代表となり、平和委は平野義太
郎がキャップとなっていた。会議中、孤立しがちなこの日本共産党系代表団を助
けて活躍したのが、留学中のパリから飛んできた西川潤(現、早稲田大学教授)
であった。
 
 外遊経験の少なくない高橋先生も、こうした大勢の団と旅行するのは初めてだ
ったようだが、新潟・ナホトカ往復の船旅(その時には既に、ソ連の客船バイカ
ル号が定期的に就航していた)、ハバロフスクまでのシベリア鉄道を経ての長旅
をゆうゆうと楽しまれた。
 
 高橋先生にはその後いろいろお世話になった。1972年4月にPTTI東京事務
所を私が開設することになり、事務所は全電通に置くことになった。しかし、当
時の全電通の事情からその用意がされておらず、困った事態になった。その時、
高橋先生が全電通会館4階にあった平和経済国民会議の会議室を半分に仕切っ
て、PTTIの臨時事務所として使いなさいと助け舟を出して下さった。もちろん、
平和経済事務局長だった友人の蛯名保彦君(新潟経営大学前学長)の力添えがあ
った。
 高橋先生の著書『マルクスとケインズの対話 - 資本論と一般理論の研究』(講
談社、1988年)は、源実朝の「神といひ、人といふも、世の中の人のこころの、
ほかのものかは」という短歌をもじった、次の歌で結ばれている。「資本主義と
いひ、社会主義といふも、世の中の人のこころの、ほかのものかは」
 高橋先生は晩年まで心身とも非常にお元気で長寿をまっとうされ、1995年10
月に、93才で逝去された。

 手元にあるヘルシンキ世界大会の記録『ヴェトナム戦争と世界平和運動』
(1966年1月)は、日本社会党機関紙局より出版されたもので、400頁を超えてい
る。その編集後記は秋山実と編集委員長前野良によって書かれている。報告書作
成の実際の仕事は吉川勇一によるところが大きかった。その本は非常に行きとど
いた包括的なもので、報告書のモデルになりうるほど良くできている。翻訳協力
の中には、日本代表団通訳団長だった風間龍をはじめ、中村文夫、武藤一羊など
のそうそうたる人々の名が残っている。
 
 私の任務の一つは、日本組織委員会と代表団の会計であった。大きな洗面袋の
中に団費のドル札をねじ込み、それをヘルシンキへと自分で担いで行ったことを
憶えている。この種のカンパニアはとかく赤字になりがちで、そうなると臨時的
な組織だけに悲惨な結果となることを過去に目撃していたので、赤字を出すこと
なく終わった時には本当にほっとした。
 組織委員会の会計監査は、共産党幹部会員を辞め、「日本のこえ」代表の一人
となっていた神山茂夫と、都職労副委員長鈴木八郎だった。68年夏前のある日、
当時私が泊まりこみ作業でよく使っていた真成館(本郷真砂町)の一室で、神山
茂夫から「ご苦労さん」と大きな判をその大きな手でついてもらって、人生でた
だ一回の「会計」から解放された。神山さんも「おれも会計監査は初めてだ」と
のことだった。
             (筆者は前姫路独協大学外国語学部長)

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