回想のライブラリー(18)

■回想のライブラリー(18)  初岡昌一郎

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(1)


 自分の活動的人生の大半にわたる26年間、つまり29才から55才までを労働組
合運動の中で専従活動家として送ってきた。最初の7年間は、全逓信労働組合
(全逓)という郵便労働者の組合の書記局で、その後の20年間は国際郵便電信
電話労連(PTTI)という、郵便電気通信労働組合の国際組織(本部ジュネー
ブ)に雇用されていた。郵便電気通信事業において労働者として働いたことは
ないのだが、その労働組合に雇用されたスタッフであった。
 
大学を出た時には政治活動を目指していたのであって、労働組合に入ろうとは
必ずしも考えていなかった。われわれの未熟な構造改革論が、社青同と社会党に
おいて政治的なセクト的争いによって否定されたことが、政治活動中心の生活か
ら離れる契機だった。そして、狭義の政治戦略論よりも、関心はより広い思想に
向かっていった。
1960年秋に浅沼委員長が暗殺された後、その秋に委員長代行となった江田三郎の
颯爽たる登場振りは社会党の前途に大きな希望をもたせるものだった。その頃は、
私も社青同本部専従になったばかりの25才、張り切っていた。

 この年の夏、安保闘争がヤマを越えた直後、加藤宣幸、森永栄悦、竹内猛とい
う、社会党本部三羽烏に加わって「三分の一をどう破るか」というテーマで、雑誌
『世界』の座談会に出て気負ったことを発言していた。これは、この頃私と意気
投合していた岩波編集部の安江良介が行った企画だった。
 
この座談会後、懇談の席に眼光の鋭い、半ズボン姿の理知的な風貌の人が加わ
った。これが加藤周一だった。その頃、そしてその後も彼のシャープで、視野の
広い、そして理知的な評論には魅せられた。彼の代表的著作の一つである『日本
文学史序説』(上・下巻)が70年代中頃に筑摩書房から出ると、いち早く買い込
み、拾い読みした。西欧型教養主義の典型的知識人という印象を私がもっていた
加藤周一が、土着的思想から普遍的外部世界への通路をみいだそうとする視点か
ら、広い意味での日本の文学と思想をみなおしていることに、新鮮な衝撃を受け
た。それまで、自分が西欧型世界に理想のモデルをみる視点に深くはまっていた
ことを思い知らされたからであった。加藤は、日本的ナショナリズム的特殊性へ
の回帰とはまったく異なる、日本的伝統思想を普遍性への結節点としてみようと
していた。この姿勢は、今でも朝日新聞に定期的に発表されている加藤のエッセ
イに一貫している。

 加藤がその『日本文学史序説』(下)において「内村鑑三と安部磯雄」をとりあ
げた節の中でしていた「現実に超越する正義の立場にたちながら、しかもその立場
と現実の条件との緊張関係を彼みずから生きていた」という内村評は、私の求めて
いた生き方に光明を与えるものであった。
 私の場合、それはキリスト教というよりも構造改革論の帰結としての社会民主
主義であった。それは「主義」という、システマティックな理論というよりも、平
和と民主主義だけでなく、社会的公正を追求するという理念であったろう。
 60年代に入って日本が高度成長に突入して新しい時代を迎えるようになるにつ
れて、50年末から安保・三池の闘争に象徴される街頭闘争型の短期決戦から、継
続的な陣地戦に関心が移っていった。これは私にとって自然な選択だった。


(2)


 1964年10月に全逓本部書記局に入り、共闘部(政治国際部)に配属された。
全逓は当時すでに水道橋に9階建ての自前ビルを建設しており、宝樹文彦委員長
を頂点とする全盛時代で、総評の中でも屈指の有力組合だった。
私の初任給は24000円だった。それは郵便局の給与水準に準拠したもので、決し
て高いものではなかった。しかも、大学卒業後「正業」についていなかったため、
前歴計算はゼロ。同年輩では最低の賃金水準だった。
私を勧誘した青年部時代からの親友、新井則久中央執行委員(共闘担当)等が骨
折ってくれ、「通訳手当」という名目で、月2万円という役員並みの手当を付けて
くれた。その代わり、他の書記局員と違って超勤手当はつかなかった。それでも、
これは29才にして初めて手にした“まともな”賃金だった。

 最初の給料袋を手にして驚いたのは、社会主義協会機関誌『社会主義』購読代
が給与からの控除項目に入っていたことだ。社青同時代の協会派との抗争を通じ
て、私の協会嫌いは生理的なものにまでなっていたので、これにすぐいちゃもん
をつけた。この頃、すでに全逓本部内の協会離れはかなり進行していた。宝樹委
員長自身が協会を離れ、反協会の立場に移行していたので、まもなくこの控除項
目はなくなった。
全逓には共産党指導(支配)下の産別会議の中核的組合の一つとして戦後名を馳
せた前史があった。産別全逓は民主化運動を通じて分裂、そして新生全逓が生ま
れた。宝樹委員長をはじめとする幹部の多くは、この経験から強烈に共産党嫌い
であった。

全逓は結成後間もない1951年に早くも、国際自由労連(ICFTU)と国際郵便電
信電話労連(PTTI)という、いわゆる西側の国際労働団体に加盟していた。とこ
ろが、郵政省から電電公社が分離したのに伴い、全逓から分れて結成された全電
通は、これらの国際組織への加盟について異論続出でまとまらず、ようやく加盟
にこぎつけるのは、1970年代の山岸時代に入ってからだった。

 協会派など左派(共産党を含む)からの宝樹執行部に対する攻撃の矢は、当時、
主として国際関係に向けられていた。「アメリカに主導された国際自由労連という
反共団体」への加盟反対が、主要打撃の方向だった。
 
私が参加した初めての全逓大会は、1965年夏の熱海大会だった。この大会では
国際自由労連脱退決議が上程され、白熱した討論の後に、採決に持ち込まれて否
決された。それでも、約四分の一の代議員が脱退賛成の票を投じた。
その当時、組合大会出席者は和風旅館に分宿して、修学旅行生と同じように、和
室にスシ詰めになって寝ていた。本部は役員も書記局員も同じ旅館に泊っていた
が、国際問題をはじめ本部が批判されることに、快哉を叫んでいる書記が多いこ
とに驚いた。

産別時代に共産党員書記局員の主導の下に組織が引き回されたという苦い経験か
ら、その反動として書記局員を事務員扱いしようとする役員が多かったのにたい
する反撥も含まれていただろう。全逓のような単一組織は本部が使用者である郵
政省との交渉や折衝を担当しており、郵政職員ないしその出身である役員が当然
のこととして活動と運営の中心となっていた。この点が、ヨーロッパやアメリカ
型の企業外役員を中心とした組合をモデルに作られた、総同盟型組合(ゼンセン
同盟がその代表例)とは異なっていた。

 官公労では、省庁のキャリアとノンキャリア構造になぞらえて、役員をキャリ
ア組、書記局をノンキャリアとみるような風潮があった。しかし、当時の組合の
場合には、ノンキャリア組の方が学歴が高く、よりイデオロギー色が強かった。
総評や官公労では、社会主義協会の牙城であった九州大学と東京大学出身が目立
っていた。また、共産党や学生運動を経て組合書記局に入ったものもいた。
しかし、60年代以降、学生運動を経由して労働組合に入るものは激減し、次第に
皆無に等しくなった。それは、学生運動が分裂し、次第にラジカルになるだけで
なく、暴力的傾向を強めたことに大きな原因がある。組合の側でも、新左翼セク
トの潜入を非常に警戒し、公募などで学生を採用することがなくなり、縁故採用
に頼ることが通例化していった。労働組合の企業内化や、組合内でのキャリア機
会の不在が、意欲や志のある学生にとっては魅力ある働き場所とは映らなくなっ
たことも、もう一つの大きな要因である。

 ドイツの社民党やフランスの社会党などは、その国の新左翼派学生のかなりの
部分を受容して、その中から活力ある幹部、活動家を生み出した。それによって
党の活性化と新しい時代への先取り的適応をしていく。こうしたプロセスは日本
の左翼政党や労働組合にはなかった。
 プロフェッショナルとしての労働組合専従役職員という職業は、日本において
は確立していない。欧米の場合、いったん専従役員となると、多くの人達は生涯
的に労働組合に留まるので、職業としての地位やそれに伴う倫理観や自立心を持
つことになるのだが、日本の場合、多くの役員は人生の比較的短い期間を組合専
従役員として過ごし、しかる後に企業に復帰することが予定されている。またあ
る程度長期に役員として留まる人達も、やがては政治選挙に出るか、外郭団体に
移るかを期待されているし、本人もそれを意識せざるをえないことになる。
 役員の交替が特に官公労において激しいのは、役職任期の短い省庁人事文化と
無縁ではない。
 
私が全逓に入って6年後の1970年、一世を風靡した宝樹委員長とその執行部が
総辞職するという驚くべき事態が発生した。私はこの時、ニュージーランドに出
張していた。秋山実共闘部長から「執行部総辞職、安心して旅行せよ」という電報
を受け取り、思わず苦笑いしたことを思い出す。
 今から振り返ってみると、宝樹さんの「長期政権」(といっても10年にもならな
かったのだが)にたいする批判が、参議院出馬を宝樹さんが断ったことから、「人
事の停滞」打破のエネルギーという形をとって暴発した側面が強い。当時、宝樹失
脚の原因として「戦線統一論」提唱や、右翼的政治国際路線にたいする批判が喧伝
されたが、「理屈は後から貨車で来る」(後に民社党委員長となった春日一幸の名
言)であった。E.H.カー流にいえば、先行する動機がそれを実現するために都合
のよい理論を生み出すのである。
 
この見方を裏付ける例証をあげておくと、宝樹退陣以後も、全逓における自由
労連脱退論は陰をひそめ、国際関係批判もあまり聞かれなくなった。戦線統一に
向けての全逓の立場も基本的に変化せず、政治路線にも変更はなかった。ただ、
宝樹文彦という類稀な立役者を失ったために、世の中にたいする発言力を組合が
失ったことは惜しまれるべきことだった。


(3)


 全逓に入った頃は、それ以前3年間のソ連やユーゴでの生活、そしてイタリア
をはじめとする西欧社会での経験を通じ、私はソ連型社会主義とははっきり決別
していた。そのささやかな記念碑が、1965年に加藤宣幸さんの肝いりで新時代社
から出版した訳書、セトン=ワトソン『東欧の革命』だった。これは、東欧の革
命が内在的な政治的発展によるものではなく、スターリンによる膨張的世界戦略
にもとづいたソ連の軍事侵略であることを鋭く、かつ詳細に描いていた。しかし、
この本はあまり売れなかっただけでなく、ほとんど注目を集めなかった。
 
東欧の非共産党系の社会主義・社会民主主義者はもとより、民族的共産主義者
が、スターリン的支配によって、次々とパージされ、粛清された東欧戦後史は、
西欧ではよく知られていた。しかし、日本ではほとんど知られていなかった。と
いうか、無視されていた。チェコなどにおける暴力的な社共合同のプロセスによ
り社民党をつぶし、少数派にすぎなかった共産党が支配権を確立した東欧諸国の
政権に、西欧の社会民主主義政党や労働組合運動が全面否定的拒絶反応を示して
いたのがよく理解できるようになっていた。

 私にとって、当時の全逓本部は政治的に居心地の良いものだった。兄弟以上の
関係だった新井則久は上司であると共に、友人であり、同志だった。そして、共
闘部長秋山実がまた良かった。彼は、私がユーゴに留学してまもない頃、ベオグ
ラードに来訪した。ユーゴの労働組合から頼まれて数日間その世話をし、すっか
り意気投合していた。秋山の滞在中、ケネディ大統領暗殺事件が突発したのが記
憶に鮮やかだ。ユーゴ人達がすかさず「ジャクリーンが後追い自殺」というデマま
でつけて流していたことも。

思想的政治的にまだ不分明であった当時の全逓本部において、共闘部は国際的に
はICFTUとPTTIとの密接な連携の推進派、政治的には江田派的だった。それだ
けに組織内からは風当たりも強く、秋山、新井両中執は大会の度に、他の役員よ
りもはるかに多い不信任票を浴びていた。
 それだけに、党内江田派の文書が、1966年元旦の毎日新聞で報じられた宝樹文
彦論文による労働戦線統一論を「右翼的」と批判して、一線を画そうとしたことに
衝撃を受けた。これは党内力学を考慮して誰かが書いたものだったと思うが、江
田派文書として新聞に出たからには一人歩きするのは当然だった。さらにその文
書は「政党支持の自由」を主張していたことからも、社会党支持の中核的組合だっ
た全逓、特に宝樹委員長たちを憤慨させた。
 その年の夏、熱海で開催された江田派全国集会に久しぶりに参加した。誰に頼
まれたわけではなかったが、江田派文書による「宝樹戦線統一論批判」を再三、発
言して追及した。しかし、会場からはあまり反応はなかったし、もちろん撤回さ
れることもなかった。

 この集会以後、江田派の会合に二度と出ることはなかった。その頃になると、
江田派は党内闘争に敗北していたし、構造改革論も党の方針から葬り去られてい
た。私は社会党と距離をおきつつ、次第に労働組合内に埋没していった。
この頃、自分の意見をもっともよく発表した場は、創刊されて間もなかった『月
刊労働問題』だった。国際労働問題のコラムを定期的に担当していたが、それ以
外にも実名とペンネームでほとんど毎号のように書いていた。その当時つかった
ペンネームには寄場良(よせばよい)とか川並進というものもあった。後者の由
来は、その頃新橋の川並という名の小さなビルに国際自由労連東京事務所があっ
たので、そこからとったものだ。

 新産別書記長からその事務所長になった落合英一には随分と目をかけてもらっ
た。国際自由労連加盟組合ではなかったが、総評と同盟の間にあって、独自の労
働組合主義を標榜していた新産別とは特に親しくなっていた。
これは、学生時代、新産別の創始者ともいえる細谷松太の日本労働組合運動史を
愛読していたことや、社青同時代から新産別長老で政治部長だった三戸信人によ
く指導をあおいでいたことにもよる。書記長となった富田弘隆は社会党青年部の
先輩であり、特に親しくしてもらった。彼の依頼やすすめにより、新産別機関紙
にはしばしば寄稿していた。
 
この後、構造改革派は思想的には二つの方向に進んでいったと思う。一つは、
松下圭一に代表されるように、大衆的市民社会の成立を重視し、市民団体の自主
的活動と地方自治体の役割を重視する方向である。この分野は、構改派の専売特
許ではないとしても、大きな成果があげられてきた。もう一つは、佐藤昇自身が
その道を歩んだように、社会民主主義への方向であった。この分野では、それほ
ど目覚しい発展があったとは思われない。
 そして、労働組合内にいた構改派的な人達は、労働組合における戦線の統一と、
政治的には社公民路線といわれる、よりましな政権選択の道を追求するようにな
っていった。
                    (筆者は姫路獨協大学名誉教授)
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