回想のライブラリー(8)

■回想のライブラリー (8)         初岡 昌一郎

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◇(1)

 ベオグラード在住の山崎洋君が横浜に帰ってきたので、彼が離日する直前2月
中旬の土曜日、昼食を共にして旧交を暖めた。山崎君は慶応大学卒業後、ベオグ
ラード大学法学部大学院に留学し、卒業後はそのまま住み着いてもう40年以上に
なる。山崎君のお母さん、山崎淑子さんが今や91才の高齢なので、彼はこの頃年
に1、2度は帰国するようになっている。
 
 数年前に、篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」という映画を観た。篠田監督が
非常に力を入れた好作品だったが、興行的にはあまり成功しなかった。この大作
には、彼が育った時代の東京を最新のコンピュータ・グラフィックスを用いて再
現するなど、興味深いところがあった。ゾルゲ事件については尾崎秀樹の著作を
はじめ、数々の本があり、木下順二作の「オットーといわれる男」という芝居を
通じてもわれわれの世代のものにとってかなりよく知られているが、依然として
ナゾも多い。
 
 この篠田監督作品が私の個人的な興味を特に惹いたのは、映画のラストに近い
シーンに母親役(小雪)に抱かれた幼児が山崎洋君を演じているからだ。場所は
牛込で、父親のブーケリッチがゾルゲと共に逮捕され、警察に連行されてゆくの
を家族が見送る場面である。
 ブーケリッチはセルビア(旧ユーゴスラビア)出身の青年で、ドイツのナチス
系通信社の特派員となって活躍するコミンテルンのスパイ、ゾルゲの助手となる。
ブーケリッチは東京で知り合った女子大生と結婚した。それが山崎淑子さんであ
る。映画の中で出てくる出逢いの場は美術館となっている。山崎さんの父親役で
この映画に登場するのが、篠田監督その人だ。篠田夫人の岩下志麻は、ゾルゲの
友人、尾崎秀美が朝日新聞を辞してそのブレーンとして補佐することになる近衛
文麿公の奥方に扮している。
 
 山崎君によると、この映画の試写に招かれた母上からみると、事実と合致しな
い点も少なくないという。これはあくまでドラマなのだから仕方のないところだ
が、総体的にみれば、時代背景や登場人物は史実に基づいて構築しようとする姿
勢がうかがわれる。
 映画がフォローしていない部分を私の知る範囲で補足すると、この後、ゾルゲ
は死刑になり、ブーケリッチは終戦直前、網走で獄死した。残された山崎淑子さ
んは、戦後チェコスロバキアの駐日大使館に勤めながら、山崎君を育てあげたの
である。チトーのユーゴスラビア政府は、ブーケリッチの功績を認めて、山崎君
に特別奨学金を与えた。これによって彼は、1963年にベオグラードに留学するこ
とになった。

◇(2)

 私が大阪からユーゴスラビアの貨物船に乗船して、留学の旅に出たのは、1963
年8月末だった。大阪で見送ってくれたのは、当時全逓青年部長で、親しい盟友
だった新井則久君であった。1年後に、新井君にユーゴから呼び返されることに
なるとは、この時夢にも思わなかった。
 新井君とは彼が全逓埼玉地区青年部長で、お互いに社会党青年部全国委員会のメンバーとなった50年代末に知りあった。私より1才年長で、1934年生れだっ
た。本当に親しくなったのは、彼が全逓本部副部長として水道橋の本部に専従と
して着任し、私が社青同本部専従となった60年頃からだった。
 
 安保三池の闘いが一段落すると、政治経済状況の変化が顕著となり、経済発展
を背景に政治が安定に向かっているので、青年学生運動も政治課題中心の街頭闘争から新しい方向に転換すべきだと私達は考え始めていた。社会党内の構造改革論争とある程度連動して、新井君や私などは、少数精鋭的な活動家中心の社青同を、いわゆる「大衆化路線」による大衆的青年団体に転換させようと動きはじめ
ていた。これは必ずしも理解されず、社会主義協会系の人達や学生班などから
「右翼的」として攻撃されることになり、社青同内部の対立が激化していた。
 
 1963年の社青同大会では、同志であった副委員長山下勝(国鉄大井工場の活動家で、社青同結成当時、彼が東京地本委員長、私が書記長だった)と私が協会などから狙い撃ちされ、過半数をわずかに越えるぎりぎりの票でかろうじて再選さ
れた。この時、他の人々は左右両派とも圧倒的多数で選出されたのだから、そこ
には派閥的な作為が明白にあった。私の中では挫折感というよりも、このような
人々とは一緒にやりたくないという気持が一挙に高まった。
 
 西風、仲井両先輩はすでに社青同から正式には手を退いていた。後任の委員長
や書記長とはすきま風も吹いていたので、組織にはそれほど愛着はなかったが、
一緒にやってきた仲間を残して自分だけが去るのには心が痛んだ。この時、一番
理解を示してくれたのは、社青同の共闘担当だった私が一番連携していた新井君
だった。彼は、総評青婦協議長として労働組合青年部をしきっていた。彼は組合
内ではっきりと構革派の立場を表明していた数少ない若手で、人間的に思慮深く、
私に欠落していた包容力を持つリーダーであった。
 
 もう一人、理解を示してくれたのが先輩の久保田忠夫だった。当時、久保田は
社会党本部青年部長として社青同を指導する立場にあった。私は彼の推挙によっ
て、名ばかりではあったが、副部長となっていたので、彼を補佐すべき役割を持
っていた。久保田さんは組織にありながら組織嫌いで、私が組織を離れるのをあ
っさりと承知してくれたばかりか、進んでユーゴ行きの旅費まで集めてくれた。
久保田、新井両兄ともすでに鬼籍に入ってしまい、お二人には大きい借りを返す
こともできなかった悔いが私の胸中に残っている。

◇(3)

 大阪を発ったユーゴの貨物船は、名のとおり静かな太平洋を渡ってシンガポー
ルに入港した。ここにはビザなしで上陸できるとのことで期待していたのだが、
その時に拡がっていた反日暴動のため、日本人である私には上陸許可がおりなか
った。戦時中、マレー半島からシンガポールへ侵入した日本軍は、この島の多数
派住民である中国系の人々にたいして残虐な圧政をしき、かなり多くの人々が罪
なくして殺された。戦後、日本はシンガポールの公園に高い慰霊塔を建てたので
あるが、これが引き金となって「血の決償」を求める暴動事件に発展したのであ
る。
 シンガポールで1週間船中に閉じ込められていた後に立寄った、次の寄港地で
あるスウェッテンハムでは、今度はマレーのビザがないとしてトランジットの上
陸さえも拒否された。
 
 私がやっとのことで初めて下船できたのは、インド南部、ケララ州のコチンで
あった。上陸して真っ先に入ったのは、静かな港からほど近いところにポツンと
開いていた本屋である。インドの英字新聞をみつけて買ったのだが、ドル紙幣し
かない。店番のおとなしそうなお爺さんが、外貨は受けとれないので、この次に
一緒に払ってくれればよいという。明日また来ると約束して新聞をもらって行っ
たのだが、インドでは積荷のなかったユーゴ船はその夜出航してしまった。その
後、インド人についていろいろな悪口を聞いても、すぐにこのことを思い出し、
素直に相槌を打てなくなってしまった。
 
 コチンの次は、インド洋を横断してアデンに上陸した。ここは多くの船の出入
りする繁華な港で活気があった。船中で書き溜めていた絵葉書を出そうとして、
郵便局の所在を聞くとその店で切手を売っているという。店員に頼んで金を払っ
たが、絵葉書は1枚も届いていないことをあとで知った。
 スエズ運河はその後1967年に中東戦争によって封鎖されるのだが、私の船はこ
れを無事通過、地中海に入るとそれまで真夏のようだった気候が一夜にして秋冷
となった。ベニスを経由して、アドリア海沿岸のユーゴの港、最終目的地である
リエカに到着したのは10月中旬になっていた。大阪を出てから45日間の旅だっ
た。
 
 若かったこともあろうが、この船旅は少しも苦にならず、沢山持ち込んだ本を
せっせと読んだり、甲板を歩き回ったりしていた。食事は前菜と主菜だけの簡単
なもので、前者には缶詰のサケに玉ねぎを刻んで乗っけたもの、後者にはパスタ
がよく出た。私は格別の不満もなくすべてたいらげていたが、同席のイギリス女
性は不平たらたらであった。船長や上級船員と席を共にして食事したことも度々
あり、退屈はしなかった。私の少し前の世代はヨーロッパには客船の3等で行く
のが通例であった。貨物船の旅とその旅のどちらがましか比較はできないが、等
級差別がない貨物船の方が気楽なように思われた。
 
 愚行だったと後悔したのは、荷物を少しでも軽くしようと、読了した本を次々
に海中に投棄したことだった。その中には、阪本泉・有田ふじ共訳によるローウ
ィン『国際労働運動:綱領・分裂と統一の歴史』など、その後ついに再び入手す
ることのできなかった貴重な本が含まれていた。

◇(4)

 ベオグラードに到着し、青年同盟の助力によって、市内の便利な所に民家の一
部屋を借りて落着いた。この夏にベオグラード大学に留学生として私より一足先
にやってきていたのが、山崎君と高屋定国さんだった。京都の精華大学助教授だ
った高屋さんは、既婚で最年長、山崎君は大学を出たてで私よりも4、5才年少
であった。しかし、お互いに年齢を意識せずにすぐに仲良くなり、ベオグラード
にいる限りはほとんど毎日顔をあわせ、行動を共にしていた。
 
 当時、ユーゴは第三勢力、非同盟諸国の雄として国際的には大きな役割を演じ
ており、自治管理を標榜する独自の社会主義で注目を集めていた。パルチザン闘
争によってほとんど独力でナチ・ドイツの侵略に最後まで徹底的に抵抗した、チ
トーの率いる共産主義同盟は、国際共産主義運動から排除されていたものの世界
的に高い評価をかちとっていた。ユーゴスラビア政府は、国際的には積極的中立
主義の立場から活発な外交活動を行っていた。
 
 われわれはそういうユーゴのシンパであった。社会党や総評は早くからユーゴ
と交流、提携していたが、日本全体としては経済関係もあまりなく、ベオグラー
ドの日本人社会は僅かな人数であったので、ほとんどの人達と顔見知りにすぐな
った。われわれをほとんど毎週のように夕食に招いてくれたのが朝日新聞宮地健
次郎支局長、NHK加藤雅彦支局長、大使館に警察庁から出向していた武藤誠書記
官の3家族であった。
 
 駐ユーゴ大使は、安保審議当時の条約局長として攻撃の矢面に立たされた高橋
通敏氏であった。大使館の諸行事には日本人全員が招待されていたのに加えて、
われわれ留学生はよく招かれて食事をご馳走になった。高橋大使は「核武器の保
有は国際法上可能」という物騒な研究にいそしんでいるという噂もあったが、わ
れわれの連発するジョークや放談に「ワッハッハ」といたって気楽に付き合って
下さった。
 山崎君はメキメキとセルビア語を上達させており、その語学力は日本人随一で
すでに役立つ存在であった。高屋さんといえば、京都の高名な宗像神社の出身だ
けに、まことに物怖じしない、抜群の社交性を身に付けていた。ニコニコ顔での
その語り口は聞く人をしてひきつける魔力をもっていた。「公家の長袖流」とはこ
ういうことかと感心していた。
 
 高屋さんは夕方になると、これから夕食に行こうやといって、狙いをつけた日
本人宅に電話し、まず「高屋でございます」と名乗り、そして間髪を入れずに「3
人で15分後にまいります」と一方的に宣言する。その後、彼の愛車フォルクスワ
ーゲンに山崎君と私を積み込んで乗りつけ、大歓迎を受けるというシナリオを常
にごく自然に演出していた。不思議な魅力と端倪すべからぬ行動力を持つ人だっ
た。
 山崎君によると、この高屋さんも大学を引退し、今は静かに孫のもりに専念し
ているという。今回、横浜で久し振りに山崎君に会った時も、彼が高屋さんの口
まねをして、二人で腹をよじらせながら、古き良いベオグラード生活を回想した。
山崎君があの頃が一番楽しかったというのも、昨今の孤立したセルビアとさびし
くなったベオグラードから察すれば無理もない。

◇(5)

 1961年のモスクワ・フォーラム準備書記局で仕事をしてみて、ユーゴスラビア
とイタリアに一番親近感を持つようになっていた。その後の国際会議でも決議案
の作成作業などで、ユーゴ青年学生同盟、イタリア青共と私は共同歩調をとるこ
とが多かった。フォーラム終了後、私は多くの青年団体から個人的に訪問するよ
う招待を受けていたが、ルーマニア、ユーゴスラビア、イタリアの3カ国からの
招待を受け入れ、その順序で訪問した。ルーマニアをなぜ訪問したのか記憶は定
かでないが、多分、ユーゴスラビアへの経由地として選んだのであろう。モスク
ワから行くと南に位置するブカレストはその頃は明るくみえ、食物も美味しかっ
た。黒海沿岸やカルパチア山地の保養地にも案内された。そして、最後は希望通
り、ティミショアラから汽車で3時間ばかりの距離にあるベオグラードに送って
もらった。
 
 1961年の盛夏、ベオグラードは第一回非同盟諸国会議でわきかえっていた。ベ
オグラードの国会議事堂で開催されていたこの非同盟諸国会議を、青年同盟の手
配によって新聞記者席から傍聴することができた。チトー、インドネシアのスカ
ルノ大統領、インドのネルー首相、ガーナのエンクルマ大統領、エジプトのナセ
ル大統領などを指呼の間にみて、彼らの声咳に接したことは忘れがたい若き日の
思い出の一つである。
 
 この非同盟諸国会議中に、ベルリンに東西を分断する壁が築かれるという大事
件が発生した。すると、記者席にいる途上諸国からの記者を「カベ見学」に招待す
るという、アメリカのある財団から私にもアプローチがあった。私は日本人だし、
新聞記者でもないといったが、「かまわないから合流しろ」という。私のホストで
あるユーゴ青年同盟国際部に相談すると、「おそらくそれはCIAのフロント団体
であろう。それを承知の上でなら、行くのはかまわない」といわれた。アメリカ
の財団は「何も条件はないし、見返りは期待していない」というので、航空切符
をもらってベオグラードから東ベルリンに入った。

数時間後に壁の間の検問所、通称、チェックポイント・チャーリーを徒歩で越え
て西ベルリンに入り、目抜き通りのウンターデンリンデンの小さなホテルに2泊し
た。そして、西ベルリンのテンペルホーフ空港からベオグラードに舞い戻った。
9月初旬、そこから汽車でローマに入り、イタリア青共と同社青同の両組織のお
世話になることになるのだ。これはまたの機会に書きたい。
 
 ユーゴ学生連盟委員長から当時青年同盟国際部長となっていたベリッチ君は、
私が全逓国際部で仕事をはじめた頃、日本大使館に政治担当官として赴任してき
たので、あらためて家族ぐるみの親交を結ぶことになった。彼は私の結婚祝いの
会でもユーモアあふれるスピーチをし、妻に「必要な時に備えて」という前置で、
夫に痛棒を喰わせるためのスリコギをプレゼントしたけしからぬ男であった。
 
 山崎君と何年ぶりかでゆっくりと話したために、こうした思い出が次々とあふ
れ出してきた。1964年夏に急遽引き揚げた後、今日まで二度とベオグラードを訪
れる機会がなかった。ユーゴスラビアが悲劇的に解体した後、セルビア(その首
都がベオグラード)はすっかり悪者視されて、国際的に孤立したままである。山
崎君がセルビアの立場を懸命に擁護するのを聞き、それをある程度もっともと思
いながらも、ベオグラードを再訪したいという私の気持は萎えていくのであった。
 
 サラエボ(旧ユーゴスラビア連邦ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都)に
おける一発の銃弾は第一次世界大戦の引き金となった。しかし、冷戦後のセルビ
アとクロアチアの軍事衝突は、ユーゴ連邦を解体してしまい、昔からの歴史的な
怨念による対立を燃え上がらせたにすぎなかった。マルクスの言ったような二度
目の喜劇としてではなく、悲劇としてバルカン半島における分裂と対立の歴史が
繰り返されてきた。これにたいする救いの道はEU加盟を待望するだけではない
と思われるのだが。

                 (筆者は姫路独協大学外国語学部長)
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