回想のライブラリー(9)

■回想のライブラリー(9)              初岡 昌一郎

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●(1) 
 この3月の定例ソーシャル・アジア研究会は、九段下のグランドパレス・ホテ
ルのそばにある連合総研会議室を借りて行われた。この研究会は発足してからか
れこれ13年を迎えるのだが、発足以来、言い出しっぺとして自らかってでたボラ
ンティア的代表幹事をつとめている。事務局長はPTTI時代からコンビを組んで
いる藤沢初江さんで、研究会の連絡先は彼女の自宅となっている。

 今回の研究会の講師は、栗山尚一外務省顧問であった。栗山さんは条約局長、
マレーシア大使、外務次官、そして最後は駐米大使を歴任した。同氏は外交官と
して終始主流を歩んできた経歴にもかかわらず、非常に学究的な雰囲気を持って
いる人である。退官後は最高裁判事の呼び声も高かったのだが、官職や天下りに
見向きもせず、早稲田と国際キリスト教大学の客員教授を短期間つとめただけで、
現在は悠悠自適する高潔な士である。
 栗山さんは地味だが、外務省切っての論客であった。地味というのは、ジャー
ナリズムで華々しく発言するのを好まない人という意味である。しかし、これま
でも安全保障などの問題で、抑制された論調ながら保守本流的な平和主義と憲法
擁護を貫く意見を総合雑誌にも発表しており、私も刮目して読んだ記憶がある。

 この栗山さんが、外務省の外郭団体の発行する月刊誌『外交フォーラム』の2006
年1月号と2月号に注目すべき論文を発表している。これは正月明けの朝日新聞
で、靖国神社参拝問題で小泉首相を元外務省高官が批判したというアングルで紹
介された。しかし、栗山論文は際物ではなく、靖国問題は彼の論文の一部で、日
本外交全体の基本的なあり方を問題としたものである。

 栗山論文のタイトルは「和解-日本外交の課題」であり、(上)では「反省を行
動で示す努力を」という副題がつけられている。リードの部分で「私の主張は自
虐的歴史観ではない。国家が過ちを犯しやすい人間の産物である以上、歴史に暗
い影の部分があるのは当然であり、恥ずべきことではないからである。むしろ、
過去の過ちを過ちとして認めることは、その国の道義的立場を強くする」と述べ
られている。
 2月号の(下)は「和解の実現を目指して」という副題がつけられており、リ
ード部分では「和解は相互的な努力により初めて実現する。しかし、和解のため
には「普通の国」になりたいというナショナリズムを抑える忍耐が必要だ」と主
張されている。

 栗山さんのいうとおり、支配者と被支配者の和解、加害者と被害者の和解には、
前者がイニシアティブをとることが不可欠だ。こうした和解は国と国の外交が回
復されたことによって終わるものではない。「加害者にとっては、過去と正面から
向き合う勇気と反省を忘れない努力」によってはじめて実現する。
 栗山さんは講演の中で、1995年8月15日に終戦50周年を記念して出された総
理大臣談話(いわゆる村山談話)を高く評価した。これは村山首相個人のもので
はなく、閣議決定の上で出された談話なので政府の公式な立場を表明したもので
ある。栗山さんは「反省と謝罪」はこれにつきているので、今後はお詫びの繰り
返しではなく、行動と態度でそれを実行することが必要と結論づけている。

 新潟経営大学の学長をしている蛯名保彦(元平和経済計画会議事務局長)、新井
力連合国際局長、小島正剛IMF元駐日代表、前島巖東海大教授、谷川進治三井化
学常務取締役、阿島征夫国際労働財団専務理事、小野寺良前NTT労組委員長らが
発言し、この研究会は盛り上がった。

●(2)

 栗山さんには、以前姫路獨協大学でも講演してもらったことがある。この時は
昌子夫人もご一緒であった。昌子さんには私のクラスで講演してもらったが、巧
みな話術で大好評だった。その後、夫妻を姫路の名刹、書寫山圓教寺に案内し、
重要文化財に指定されている壽量院で精進料理を楽しんでもらった 。
 栗山大使に個人的面識はなかったのだが、実は昌子夫人が大学時代に同級生で
ある。栗山さんの父上は最高裁判事であり、奥さんの昌子さん(旧姓藤田)の父
上も同時期の最高裁判事だった。昌子さんは色白の美人で押し出しがよく、物怖
じしない活発な人だった。外交官夫人として内助の功に甘んずることなく、国内
外で活発な社会活動をしてきたことで知られている。栗山さんがマレーシア大使
時代、その両国の友好促進という功績により、マハティール首相から彼女にも勲
章が贈られたそうだが、さもありなんと思った。

 1970年代末頃だったが、アメリカ公使邸のインフォーマルなレセプションで、
昌子さんにバッタリと出逢った。大学卒業後20年ぶり位に初めて会った彼女の発
した一言は「あんたこんなこところで何してるの」だった。これには恐れ入った。
左翼的学生として学内で知らぬものがなかった(?)私とアメリカ大使館とが結
びつかなかったのであろう。実際のところ、私は反米主義者であったことはない
のだが、自分の対外経験がソ連からはじまったので、反米とみられたことはしば
しばあった。実際には、キリスト教や人道主義的な思想の影響下に育ったので「す
べての国の人々と仲良く」という素朴な国際主義を信じていたし、それを今日ま
で実践しようとしてきた。

 栗山昌子さんと遭遇したアメリカ公使公邸は今はなくなっているが、当時は広
尾のドイツ大使館から近い閑静な住宅街にあった。その主であったロバート・イ
マーマンと親しくつき合っていたし、そのつき合いは今日にいたるも続いている。
駐日大使館で政治畑が長かったイマーマンは国連公使を最後に国務省を早期退職
し、ニューヨークの私宅から近いコロンビア大学東アジア研究所に上級研究員と
して籍を置き、世界を自由にかけ回っている。左腕から繰り出した小さな字で綴
られたユーモアあふれる文章の絵はがきが年に何回かは舞い込むので、消息は絶
えることがない。

 私が姫路に行き出してから最初の10年間、夏と冬の二回、私の大学で国際関係
論を彼に集中講義してもらった。その後も、日本外務省のプロジェクトや、コロ
ンビア大学の仕事などで、たいてい2,3回は日本にやってくるので、その都度、
一緒にバードウォッチングに行くか、その暇がなければ夕に一献を傾けて歓談し
ている。

 私達の間ではイマーマンさんというよりも、ボブさんで通っている。ボブと最
初に会ったときのことは今も良く憶えているが、後に火災で悲劇の場となったホ
テル・ニュージャパンの喫茶店でおちあった。1970年の春頃だったと記憶してい
る。紹介者は社会党政策審議会書記の藤牧新平さん(後に東海大学教授)だった。
藤牧さんは当時の社会党本部に多かった東大卒組の中でも国際通の博覧強記でき
わだっていた人で、英語、ドイツ語、ロシア語に通じていた。
 
 話がまたまた横道にそれてしまうが、藤牧さん、コロンビア大学パッシン教授
(故人)の3人で、麹町の鳥料理屋「さいとう」にあがって食事をしたことがあ
る。もう10年以上前になるだろう。この時は、2人の大先輩を相手に日本の農業
を擁護して貿易問題で大論戦をしてしまった。パッシン先生はアメリカ占領期に
島根県に配属され、そこで青年団のリーダーだった竹下登を知ったという、戦後
史の生き字引のような人だった。また食通としても知られ、ニューヨークの先生
のお気に入りのいくつかのレストラン、特にチャイナタウンの特定の店などで
「パッシン先生のメニュー」というと、特別な食事にありつけるといわれていた。
私も試して噂の真実を確認したことがある

 この「さいとう」は知る人ぞ知るわけありの店だった。戦後、政治家達の夜の
舞台として有名をはせた「福田家」のかつては分店で、上智大学の近所にある紀
尾井町福田家、アメリカ大使館官舎の出入口前にある赤坂福田家と並んで、番町
福田家といわれていたそうだ。東京には珍しい京風のしもたやで、パッシン先生
は戦後一時期、ここに居つづけで泊まっていたらしく、古手の仲居さん達に顔な
じみだった。
 この福田家を名古屋の芸者として浮名をながした斉藤のママ(彼女が死んだと
き、各紙が死亡記事を出したのでそれを知った)が買い、「さいとう」となった。
このママこそ戦後初めて日本料理店をニューヨークに開店した人である。今はな
くなっている、その「さいとう」は国連ビルにほど近く、ジャパン・ソサエティ
から数ブロックのところにあった。

 外貨規制の厳しい当時、これをかいくぐっての出店には当然有力な政治家の後
盾があった。斉藤のママのビザ申請は、はじめて赴任した東京で領事部に勤務し
ていた、若き日のボブさんによって一旦は「不可」とされた。しかし、与党の大
物政治家の要請を受けた大使館上部の決定によって、これは数日後に覆えされた
そうだ。このエピソードは随分後になって、当事者から直接聞いた実話である。

●(3)

 ボブさんに初めて会った契機は、原水爆禁止協議会(原水禁)の依頼で、3人
の被爆者のエスコートとしてアメリカに約1ヶ月行くことになって助言を受けよ
うとしたからであった。
 これが私にとって初めてのアメリカ訪問であった。このミッションの受入れは、
「アメリカン・フレンド・サービス」というキリスト教系の財団であった。この
財団はクエーカー教徒が創設したもので「和解」と平和を主たる目的として社会
活動を行っている由緒ある団体である。クエーカー教徒はアメリカ建国時代に大
きな役割を果たしたが、絶対平和主義によって今日でも広く知られている。クエ
ーカー教徒は戦時の徴兵を免除されていて、その代りに社会福祉サービスに一定
期間従事することが認められていた。ただし、アメリカではベトナム戦で徴兵制
が廃止され、湾岸戦争やイラク戦争は志願兵制下で行われている。

 私の大学時代の指導教授であった鮎沢巌先生は16才の時、フレンド財団平和奨
学生としてアメリカに留学し、日本ではクエーカー教徒の先覚者であった。日本
の無教会の平和主義に通じるものがあり、私はクエーカーに親近感を持っていた
ので、先生のゼミに入ったのは私にとって自然なことだった。鮎沢先生はコロン
ビア大学院を卒業した後に、1923年からILO本部に入り、1934年から38年ま
でILO東京支局長であった。戦後は初代中労委事務局長となり、末弘厳太郎と共
に日本の労働法の骨格を築くのに中心的役割を果たした。
 
 先生は、大学をサボって学外の活動に熱中していた私に寛大だった。ただ、先
生の思想はフェビアン社会主義的なモデレートなもので、当時の私にはやや物足
りなかった。卒業間際に、あわてて書き上げて出した「戦後日本労働運動の力学
的構造」という、題名だけが気負った卒論は、アドルフ・シュトルムタールの『ヨ
ーロッパ労働運動の悲劇(上・下)』(岩波書店)と、細谷松太の『日本労働組合
運動史』を下敷にした粗末な作文だったが、先生は笑って及第点を下さった。ア
メリカに初めて行った翌年の71年5月、ILO会議(第1回公務合同委員会)に出
席する機会が与えられたので、ジュネーブ空港から近いフランスの田舎で引退生
活を送っておられた鮎沢先生夫妻を見舞った。先生は、私がILOと関係を持つよ
うになったことを、とても喜んで下さった。これが先生との最後のお別れとなっ
てしまった。1972年10月に帰らぬ人となった鮎沢先生の葬式は、港区のフレン
ド学園で行われた。

 鮎沢先生は、私が国際キリスト教大学に入学した年の学内誌『ICU』1954-55
年号に次のように書いていたことを見つけ出した。
 「現在なお法的にみとめられている大量殺人行為であるところの戦争というこ
とを、各国家が権利として-「主権」の名において-行いうるようになっている。
それをすみやかに、効果的にあらためなければならない。そうならない限り、(国
際)連盟のもとに戦争の起こったと同じく、国連のもとにも、随時戦争が起こり
得る。国連がそれをやめさせようとして、国連自体が戦争の当事者になり、しか
も負けて引き下がるようなことも起こり得る。

 国連を強化するために、国連に各国よりも強力な武力をもたせる必要はない。
そうすることは却って悪い。各国の武力を制限し、各国の武装解除されることが
行き方である」
 鮎沢先生は絶対平和主義者であり、社会的不公正が戦争を誘発する原因になる
と考えて労働問題に取り組んだ。

●(4)

 話をモトに戻すが、最初のアメリカ訪問はまことに刺激的なものだった。サン
フランシスコをゲイトウェイとして私達の旅は始まった。フレンド・サービスの
事務所は高級住宅街にあり、中産階級の雰囲気をただよわせる優雅なものだが、
彼らの持つコンタクトの幅広さに驚かされた。
 私達の訪問先には、様々な平和団体・グループや市民・労働団体などの他に、
カリフォルニア大学バークレー校でベトナム反戦運動をしているヒッピー達とも
会った。ロスアンゼルスでは、ワッツ暴動の主役となった黒人団体の本部を訪問
した。会談の後で記念写真をとる時になると、彼らの事務所に装備されていた自
動小銃を手にして一緒にスクラムを組もうと言い出した。われわれは「非暴力主
義」の平和運動だからと、それを手にするのをあわてて辞退するという一幕もあ
った。「ひざを屈して生きるよりも、立ち上がって死ぬ」というのが彼らのスロー
ガンであった。その数日後、新聞に出た記事は、私達が訪問した彼らの本部は警
官隊に急襲され、リーダー達が逮捕されたことを伝えていた。掲載された写真は、
ヘリコプターが上からその事務所をサーチライトで照らしている中を突入する警
官達の姿を映していた。

 次に行ったシカゴでは、黒人意識運動として注目を受けていたマルコムX達の
ブラックムスリム本部を訪問した。下町の大きな倉庫の中にあったこの事務所で
は、マルコムXその人には会えなかったが、リーダー達の革命的熱気に圧倒され
た。また、シカゴでは、カリフォルニアの農園におけるメキシコ人農業労働者を
組織し、賃上げと労働条件改善のストライキに大きな成功を収めて注目されてい
た「ユナイテッド・ファーマーズ」の大集会に出席し、挨拶した被爆者代表の通
訳をつとめた。

 ニューヨークでは下町のオンボロホテルを拠点として、国連本部から始まって、
様々な団体や大学を訪問した。案内者は、以前国連で働いていた平和活動家のコ
ルビー女史だった。彼女は原水禁大会で広島に来たことのある、小柄だがまこと
に精力的なおバアさんであった。強行日程ですっかり疲れ果てた私達を「平和の
闘いに終わりはない」と叱咤するのである。ある日、ニューヨークの下町、ハー
レムでの集会に行った帰路、高層アパートの上からわれわれめがけて物体が投下
され、足下でくだけた。驚きふためくわれわれを尻目に、コルビー女史は平然と
「エニシング・クッド・ハップン・ヒア(ここでは何が起きても不思議はない)」
と言い放った。

 このアメリカ旅行を通じて印象づけられたことは、アメリカでは多様な団体が
異なる考え方の人達によって組織されており、これがアメリカだと一面的に断定
できないことであった。よくアメリカは「メルティング・ポット」であるといわ
れる。それは様々な構成要素が溶け合って一体となっているという意味であろう。
しかし、私がみたアメリカ社会は、それぞれの構成要素が混ざり合っても、融合
しないサラダボウルのようだった。また、マイノリティやリベラル派の運動に社
会主義諸思想の影響が根強く投影されており、少数派ではあっても左翼ラジカル
諸派が活発に動いており、アメリカのリベラルとは日本では左派を意味すること
だった。

 この旅行から帰国して間もなく、アメリカ大使館文化交流部から、国務省のビ
ジターズ・プログラムでもう一度アメリカに行かないかという誘いを受けた。丁
度その頃、国際郵便電信電話労連(PTTI)に全電通労組が加盟し、この組織の中
で日本が二番目に大きな加盟人員を擁することになったために、その東京事務所
を設置することになり、本部からその任にあたるよう私に白羽の矢が立っていた。
全逓労組本部書記局のある水道橋から、72年3月にお茶の水にある全電通会館へ
と私の活動拠点が移ることが予定されていた。

 こうした事情にもかかわらず、PTTI本部ニジンスキー書記長は、私のアメリカ
行きを快く承知しただけではなく、アメリカの電気通信と郵便の労働組合に受け
入れ方を手配してくれた。こうして、PTTIに雇用された最初の月である1972年
4月から約1ヶ月、PTTIの仕事をまだろくに始めもせず、アメリカへと二度目の
旅に出かけた。

 国務省のこのプログラムは実にフレキシブルなもので、通例は45日間の予定を
被招待者の希望を入れて編成してくれ、それに通訳とエスコートがつくことにな
っている。私は、45日はいくらなんでも留守にできないので、30日間に短縮して
もらった。また、通訳の配備を辞退する代りに、エスコートをアメリカのPTTI
加盟組合から出してもらうことをお願いした。当時のPTTI会長はアメリカ通信
労組(CWA)ジョセフ・バーンであり、この組合の副委員長を退任したばかりの
ルフィーバー(フランス系の人で、フランス語読みではルフェーブル)を私のた
めにつけてくれた。

 この旅は実に楽しかった。ワシントンを振り出しに、ニューヨーク、ボストン、
シカゴ、テキサス州のエルパソ(ここではアメリカ被服労組が長期のストライキ
を組織していた)、ロスアンゼルスとゆっくりした日程で回った。ワシントンでは
国際金属労連日本協議会(IMF-JC)の小島正剛と合い、彼と共に全米自動車労組
(UAW)ビクター・ルーサー国際部長(兄のウォルター・ルーサーがこの組合の
創設者であったが、その時にはもう亡くなっていた)に招かれて、ワシントンの
高級イタリア料理店でご馳走になった。UAWは当時、AFL-CIOから脱退し、
アメリカ最大の労組でありながら、マフィアとの関係が噂され、異端児となって
いたチムスター労組とアライアンスを組んでいた。ルーサーはこの組合を私が訪
問するよう、その場ですぐに手配してくれた。

 チムスター労組は国会議事堂(キャピトル)のすぐ向かい側にある立派なビル
を所有しており、フィッシモンズ会長の部屋に案内されて入ると、じゅうたんが
あまりに厚く、毛が深いのでおもわずタタラを踏んでしまった。ここでも、役員
用レストランでフランス料理をご馳走になった。しかし、巨大なオフィスの中で、
役職員に一人の黒人やマイノリティがみあたらないのが気になった。チムスター
が組織する運輸労働者はマルティレイシャル(多人種)なはずなのに。

 ボストンのハーバード大学を訪問した時は、国務省の長期研修プログラムで留
学していたゼンセン同盟の和泉孝に出会った。彼は後に、ゼンセン同盟国際局長
から国際自由労連アジア太平洋地域組織(ICFTU-APRO)書記長となり、シンガ
ポールをベースに長年にわたって活躍することになる。IMF東アジア事務所長と
なる小島正剛や同盟本流の立場にある和泉孝とは、同じイノシシ年生れというこ
ともあり、組合運動上の立場を越えてその後国内外の運動の場で協力しあうこと
になった。また、彼らと共に結成したイノシシ会は、政労使の国際担当者が私的
に集うクラブとして今日まで連綿と続いている。

 シカゴに行った機会を利用し、そこから飛行機でひと飛びして、イリノイ州シ
ャンペーンにあるイリノイ大学を訪問した。それは、大学時代に熟読した『ヨー
ロッパ労働運動の悲劇』の著者アドルフ・シュトルムタールに会うことが目的で
あった。その数年前に、私は隅谷三喜男先生と共訳という形で彼の近著、ワーカ
ーズカウンシルを『工場委員会』として日本評論社から出版していた。しかし、
シュトルムタールはヨーロッパに行って留守。なんと彼の研究室には、サバティ
カル(1年間の研究休暇)で滞在中の隅谷先生が陣取っておられた。その後、シ
ュトルムタールは、日本労働協会の招きで訪日した。数カ国語に翻訳された彼の
著書の訳者達はいろいろと質問してきたそうだが、その時に「質問なしに翻訳を
進めたのは君だけだ」と彼からやられてしまった。

 この二度目のアメリカ旅行は、アメリカの労働組合について知ることができた
だけではなく、多くのアメリカの組合幹部に会い、その縁がその後の活動に非常
な助けになった。多くのアメリカ人が、相手をその役職によってというよりも、
人間性や人間的なつき合いによって判断する傾向にあることもよくわかった。ア
メリカ人が人間関係を日本人に劣らず重視することがわかったこと、また、意見
が異なっていてはげしく論戦しても、日本人間におうおうとあるようなわだかま
りがあまり残らないことを実際に体験したことなどは、この旅のもう一つの収穫
だった。その意味からして、アメリカ嫌いのアメリカ人好きという心象が形成さ
れたというべきかもしれない。
               (筆者は前姫路独協大学外国語学部長)

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