【コラム】技術者の視点(15)

国会事故調その後 ― 黒川委員長に聴く

荒川 文生


<国会事故調>

 福島原発事故から6年半、当時相次いで発表された事故調査報告書のうち、「国会事故調」を主宰された黒川清委員長のところに、科学技術ジャーナリスト会議の福島事故「再検証委員会」の委員9名が、その後の状況を踏まえご所見を伺いに参上しました。

 「事故調は、その仕事を終えた。後は、みなさんがその内容を如何に読み、何を為さるかが問題なのです。」というのが、黒川さんの基本的な構えでした。このお言葉は、「その後の状況をどの様にご覧に為って居られますか」という質問を一見はぐらかすもののように聴こえましたが、実はその背後にあるものが、日本の現状が示す政治的、社会的、さらには、文化的な混迷と退廃に対する厳しい批判であったのです。

◆ 1.単線エリートの陥弊

 ご所見を伺いに参上したものの心のうちに、事態解決の方策を無責任な人任せと言わぬまでも、識者の権威に委ねようとする「甘え」があったのは事実でしょう。「人災」と言われる福島事故に対し、誰もその責任を問われないという異常事態が惹起する理由は、日本社会に厳として存在する「単線エリート」にありと、黒川さんは指摘されます。官僚組織の縦割り構造、学問研究社会の「家元制」、終身雇用制に基づく企業の人間関係といったものの単線的な構造が、問題解決のための視野を狭め、多面的な分析と対応を阻んでいるという訳です。

 1950年代から70年代まで30年間の日本は、衣食住が物質的に満たされた「豊かな社会」を目指すという明らかで共通な目標に向かって努力するなかで、幸か不幸か、「単線エリート」の良い面が効果的だったと言えます。しかし、80年代からの40年間は、精神的な豊かさを見失って、混迷と退廃の弊害に陥っているのでしょう。

 更に事態を悪化させているのは、「みんな判って居るのに、現状を放任している」という無責任が横行していることです。問題に直面している人が上げる苦しみや悲しみの声を「他人事」として観て見ぬふりをしている人が如何に多いことか…。

◆ 2.日本民主主義の未熟

 国民生活に未曽有の甚大な被害を及ぼした事故に対し、その原因を調査分析し対策を講じるために、政府から独立した作業組織を立法府に設置したのは、日本に於いて「国会事故調」が初めてのことだと言われます。合衆国では、旧くリンカーン大統領がNSA(National Science Academy)を設置して、政府から独立した機関として科学の発展を奨め、その成果を政府に諮問するよう要請した例が有ります。

 国会事故調が提言した7項目の最初にある「規制当局に対する国会の監視」について、国会内に委員会設置の動きがない訳では無いのに、何ら実現への具体的作業が進展しないことは、日本民主主義の未熟を示すものと言えます。また、他の工場災害などの事故に際し、警察が訴訟に供えて直ちに証拠保全の為に立入るのに対し、福島事故ではそれが為されておらず、福島市民による損害賠償請求訴訟に対しても、司法当局が行政に阿っていると見られても仕方が無い様な対応するというのも、また、日本民主主義の未熟を示すものと言えます。

 提言5の「新しい規制組織の要件」について、原子力保安院が改組されて、原子力規制委員会が発足したものの、それが提言の内容を反映したものとは言い難い所です。特に、技術的な観点から事故の原因やその対策が明らかであることを基にした提言が受けとめられず、具体的な対策が講じられていないのは、民主主義の未熟といった大きな問題以前に、日本の現状が示す政治的、社会的、文化的な混迷と退廃を齎している行政の仕組みが在るからと言えましょう。

◆ 3.自分の問題として

 提言の内容がしっかりと受け止められ、具体的な対策が講じられていない理由の最大のものは、国民一人ひとりが問題を自分のものとして受け止めていないことだと黒川さんは指摘されます。提言が実施されない理由を行政の批判に終わらせるのではなく、民主主義社会において行政を動かすのは国民一人ひとりの判断に基づく行動に在るという認識に立って、具体的な行動を起こそうではないかという訳です。

 ただ、未来に夢を抱かせるのは、問題を自分のものとして考え、行動しようとする若者が少なからず居るという事です。具体的には、「判り易い事故調」というヴィデオづくりに共鳴して、この作業に参加している若者が居るそうです。そういう若者が創り出す明日の日本に、大いなる期待が寄せられます。

  秋空に国憂うなら立ち上がれ  (青史)

 (地球技術研究所代表)

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