国際関係から観た日本における原子力発電技術の歴史

■【原発を考える】

国際関係から観た日本における原子力発電技術の歴史

荒川 文生


◆ 1.はじめに

 電気学会は「日本における原子力発電技術の歴史調査専門委員会(NDH)」を設置し、2011年から2014年に掛けて、日本の原子力発電がどの様な経過を辿って展開されて来たかを歴史的かつ技術的な観点から調査し、その結果を分析して報告書にとり纏めました。ここでは、その第4章の一部(4・1 国際関係)を基礎とし、若干の補足と筆者の個人的見解を付記したものをご高覧に供し、諸賢のご批判を得たいと存じます。ただ、言い訳に為りますが、学会の組織的活動として纏められた報告書を基にしている為、批判的分析に不十分な点が残って居り、筆者として忸怩たるものが在ります。

◆ 2.国際的視野の重要性

 核物理の開発は、キューリー夫人に拠る発見と応用と言う初期には、化学や医療の領域における基礎的技術であったと言えますが、アインシュタインやボーアなどに拠る原子核物理の領域に於ける研究が、物質をエネルギーに変換することに拠る巨大なエネルギーの開発を可能とするようになってから、折しも第二次世界大戦に向かう国際情勢の渦の中で、原子力の開発は、戦争とエネルギーと言う極めて国際的で政治的な問題として取り組まれるようになりました。
 従って、先端的技術としての原子力開発には、特に安全性の確保など慎重な準備の上に産業化が図られるべきであったにも関わらず、軍事技術として過大な投資を受けながら、兵器生産の緊急性が求められる中で、多くの未熟な部分を残しつつ、その開発が国際競争の中で進められたという特質があります。

 つまり、原子力技術は国際的かつ軍事的な環境に取り巻かれて開発されてきた為、例えば、その安全性の問題を取り扱うに当たり、国際的な視野が重要となって居ります。特に、日本の場合は、第二次世界大戦後の合衆国を中心とする連合軍の占領下に於いて、その開発が進められた事から、日米関係を中心とする国際戦略の分析が不可欠と言えましょう。

◆ 3.合衆国の国際戦略と科学者の平和運動

 原子力の「平和利用」は、1953年12月の国連総会における合衆国大統領アイゼンハウアーの演説“Atoms for Peace”によって提唱されたとされて居ります。当時、1964年に中国が核実験を実施し、合衆国が日本とインドの核武装を懸念するようになるといった国際情勢に鑑みて、その背後には合衆国の国際戦略があったと考えられます。
 合衆国で公開されるようになった公文書のなかには、国防総省の心理作戦コンサルタントによる報告として、「原子力が平和と繁栄をもたらす建設的な目的に使われれば、原子力爆弾も受け入れやすくなるだろう」との記述があります。また、当時の国務長官ダレスの陳述として、「今の国際世論を考えると原爆は使えないが、この世論を打ち消すためにあらゆる努力をすべきだ。」というのもあります。これが東西冷戦の下に於いて原子力の「平和利用」を打ち出す戦略的背景です。特に日本において政治的にこの戦略を展開したのが、後に科学技術庁長官と為る中曽根康弘であり、メディアの分野で情報宣伝を展開したのが読売新聞社主であり、初代の原子力委員長を務めた正力松太郎です。(文献1)

 こうして、1954年に国会では、中曽根らによる政府予算案の修正動議で「原子力予算」が急遽設定されました。いっぽう、社会的には第五福竜丸被曝事件を背景とする原爆反対運動が展開される中で、日本学術会議は「公開・民主・自主」の原子力三原則を提案しました。1955年に入り、メディアのキャンペーンが活発に行われるなか、12月に日米原子力協定が承認され、原子力基本法等関連法が成立しました。その後、1968年、佐藤首相は「非核三原則」に言及し、1968年日米原子力協定が、合衆国からの濃縮ウランと軽水炉の提供などを内容として改定されました。これに続き、日本はNPTに調印(1970)し、批准(1976)もしました。(文献2)

 このような当時の国際情勢は、第二次世界大戦後の「冷戦構造」の基で核戦争の危機を強く意識させるものでした。これに対し核物理の研究者を中心として「核軍縮」の展望を図る平和運動が国際的に展開されました。中でも、1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」は、核戦争による人類絶滅の危険性と、戦争以外の手段による国際紛争解決を訴え、これに日本の湯川秀樹博士を含む東西の著名な科学者11人が署名しました。これを基に1957年、世界各国の22人の科学者がカナダの漁村パグウォッシュ(Pugwash)に集まり 、核兵器の危険性、放射線の危害、科学者の社会的責任について真剣な討議を行いました 。これが現在も続いている「パグウォッシュ会議」です。

(写真 第1回パグウォッシュ会議記念写真 左端:小川岩雄、左4人目:朝永振一郎) 画像の説明

 「日本パグウォッシュ会議」の発足は、1957年の上記会議に湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄の三氏が出席し、同年秋にその「日本グループ」を設立したことに拠ります。1975年には、日本で初めての「パグウォッシュ・シンポジウム(第25回)」が京都で、1989年には、同第56回が東京で開催されました。1995年に第45回パグウォッシュ会議が広島で、「核兵器の無い世界を目指して」をテーマに開催され、その出席者は日本からの24名を含む137名(若手15名、うち日本5名)でした。この年のノーベル平和賞が、パグウォッシュ会議とその議長のJ.ロートブラット氏に授与されました。それから10年、2005年に第55回パグウォッシュ会議が再び広島で、「ヒロシマ・ナガサキから60年」をテーマに開催され、5日間の討論に基づき「広島宣言」が発表されました。

 福島事故直後の2011年7月には第59回パグウォッシュ会議がベルリンで開催され、日本からは “The Fukushima nuclear accident: lessons learned (so far), and possible implications” と題する発表が行われました。(文献3) その内容は、日本原子力委員会の役割など原子力安全に関わる日本の組織や規定、3.11福島事故の状況と環境への影響や人々の受け止めなどに触れつつ、原子力安全と核不拡散のための示唆として、原子力の未来がより不確実になったことと、福島の事故に拠り、特に緊急時対応として、国際的に共通した措置が効果的であることが実証された事の二点を挙げ、締め括りの言葉として次のように述べています。

・If we cannot control nuclear power, how can we control nuclear weapons? We should overcome this manmade disaster with humble attitude towards nature and science/technologies
・As Hiroshima and Nagasaki have become symbol of peace, Fukushima should become a symbol of Recovery from nuclear accident.         ( Tatsujiro Suzuki )

◆ 4.日本の政策と技術

 日本における原子力開発は、太平洋戦争中に始まっていました。理化学研究所の仁科芳雄を中心とするグループが取り組んでいた核分裂の研究が、「ニ号研究」として陸軍航空本部の直轄研究として推進されました。しかし、ウラン資源が乏しい等の条件下で、その進展は進まず敗戦を迎えました。
 第二次世界大戦後の原子力発電技術開発を巡る国際関係は、広島と長崎への原爆投下を「実績」とする合衆国の東西冷戦下における核戦略の中で展開されました。この状況の下で、1952年4月に発効した「サンフランシスコ平和条約」に於いて、日本は航空機と並んで原子力の開発研究の実施を認められました。この衝に当たった科学技術庁は、当初、英国から「ガス炉」の技術を導入する方針で、日本における原子力発電を開発し推進しようとしました。その中で技術的には、炉心を構成する黒鉛ブロックの耐震性などの研究で成果が得られました。この過程で、日本の産業技術が得意とする「国産化」の能力が蓄積される事が期待されましたが、商業用の1号炉は、合衆国からの「ターンキィ方式」で導入されることと為りました。

 この様な国際的政治情勢を背景とする原子力発電開発の急展開の背後には、上述の合衆国の国際戦略に基づく政策的理由があったと考えられるいっぽうで、技術的には、後述の「日米原子力協定」締結の背後にある核戦略と、原子力発電所から生み出されるプルトニウムを含む放射性廃棄物処理・処分技術との不可分な関係が、厳しい制約条件として課せられることと為ったと言えましょう。さらに、自主技術の発展と言う視点に立てば、この急展開により、日本の研究者と技術者が、原子力発電の技術を基礎から積みあげる機会を奪われたと言うのが「現場の実感」でしょう。しかも、その後の「高度経済成長」を支えるエネルギーとして、原子力発電に掛けられた大きな期待が、着実な技術の進展を「安全神話」で糊塗しつつ、多数の原子力発電所を無数の断層の上に設置するという結果を齎したと言えましょう。また、日本学術会議などで展開された原子力技術の危険性を踏まえた開発の必要性に関する検討やそれに基づく警告も、パグウォッシュ会議などに拠る核兵器に対する反対運動に傾斜し、原子力発電のような経済的かつ実務的な開発の展開に対しては、十分なチェック機能を果たし得なかったという批判もあり得ましょう。

 さらに、技術の背景にある社会的情勢を動かしてゆく政治的な展開に於いても、「脱原発」が政争の具とされれば、その具体的措置に関する本質的な検討と対処が疎かにされることと為ります。例えば、「反原発」を謳っているかの如く見える政党の綱領に、「原子力平和利用」の意義が謳われていたりするのです。つまり、「脱原発」と一言で言っても、その方向や時間を考慮したプログラムには多様なものがあり得るので、これを動かして行くうえで大きな力を持つ政治団体や経済団体の実態に就いても、原子力を専門とする科学者や技術者は、的確な情報収集と判断や対応が求められます。その上でこのプログラムを、倫理的にも実践的にも事実に基づく合理的なものとして、社会一般に提示し、その合意の上に推進する役割と社会的責任が、専門職として求められます。このプログラムの提示と推進に於ける具体的措置に関する本質的な検討と対処を実践するうえで、我々科学者と技術者に与えられている喫緊の課題と今後を的確に認識する事は、我々の倫理と能力の問題として、その鼎の軽重が問われています。

◆ 5.喫緊の課題と今後

 我々科学者と技術者に与えられている喫緊の課題は、原子力発電を巡る複雑な状況と技術の多面性のなかで、極めて広く深いものがありますが、ここでは敢えて次の二点に絞って考察してみます。

(1)放射性廃棄物の処理・処分
 原子力発電所に対する「トイレなきマンション」と言う大衆的表現での批判も「非科学的」として無視し、国内電力需要の三分の一ほども賄ってきた原子力発電所からは、多くの放射性廃棄物と共に2013年末現在で44.3トンのプルトニウム使用済み燃料が排出されています。これらの処理・処分について、技術的、経済的、社会的にも的確な解決策が確立しているとは言えません。技術的には、幾つかの方策が検討されて居るとは言え、その何れも実用化の見通しが得られていない現状で、それらは、倫理的にも実践的にも、事実に基づく合理的なものとして社会一般に提示し出来るプログラムとはなり得ません。この核燃料サイクルの問題は、原子力発電所を再稼働する場合は勿論の事、「脱原発」の方策としての「廃炉技術」としても、重要な課題であることは言うまでもありません。
 現実に、日本で再処理工場と言うハードウェアが完成しても、それを稼働させるに必要な制度や社会的合意などのソフトウェアが未確立では、課題に対応できているとは言えません。この問題は、ひとり日本だけではなく、原子力発電に深く関わってきた欧米諸国に於いても共通の国際的課題であり、技術だけでは解決できない問題です。(文献4)
 このように技術の範疇を超える問題に対して、研究者や技術者も一人の国民(人間)として、取り組むべき課題があります。かつて、NASAの研究者や技術者が月に人間を送り込んだように、確固たる使命と所要の資源、そして、無駄の無い時間が有れば、大方の困難は乗り越えられるというのが、我々、研究者や技術者が密かに抱く自尊心の根底を為して居ります。ただ、その未来への途を過たないうえで、「倫理」に欠ける面があり得ることは自省すべきでありましょう。

(2)日米原子力協定の改訂
 原子力の「平和利用」が打ち出されてきた歴史に見たとおり、原子力発電技術と核兵器製造技術とは密接不可分のものがあり、「テロリスト国家」と呼ばれる国が、核兵器製造の隠れ蓑として原子力発電所の建設を使う所以もここにあります。従って、核軍縮を目指すパグウォッシュ会議のような組織が、原子力発電に対しても、その世界平和に対して持ちうる危険性を指摘することに拠って、世界平和に向けて人類の「安心」を確保する意義が存在します。
 この認識のもとで、日本における当面の課題の一つが日米原子力協定の改訂です。日米原子力協定は1955年に承認され、1968年、合衆国からの濃縮ウランと軽水炉の提供などを内容として改定されましたが、その後1970年代後半から10年を超える秘密裏の交渉を経て、1988年に「一括同意」形式により、2018年に至る30年間、プルトニウムの製造と濃縮を自由に行う技術と施設の保持が、日本側に認められました。(文献5) このことは、永らく知る人ぞ知るものでありました。しかし、3・11後の「脱原発」の大きなうねりの中で、遂に、数社の新聞がこの内容に触れ、「原発を稼働し、プルトニウムの製造を行う技術と施設を保持する事が、増大する中国の軍事力に対抗する道である」との主張を掲げるに至りました。同様に、2012年6月、日本政府は原子力基本法の改定に当たり、その第2条(基本方針)の第2項に「我が国の安全保障に資することを目的として」の文言を追加しました。

 曾て、タブーとして触れられてこなかった原子力発電技術と核兵器製造技術との密接不可分な関わりが、2011年3月11日の事故とその後の国際的緊張関係の中であからさまなものとなって来ました。原子力発電に関わる研究者と技術者は、その倫理の面でも実務的にも、こういった問題を避けて通る事が出来なくなってきて居ます。このことをはっきりと認識し、技術の専門家としてのみならず、一人の「人間」として、こういった問題に対処する事も喫緊の課題であります。

◆ 6.おわりに

 この拙文作成と掲載にお力添えを戴いたNDH委員長をはじめ各委員や、「オルタ」関係各位に深甚なる謝意を表します。

 (筆者は地球技術研究所代表)

<文 献>>

1)中日新聞社会部編:『日米同盟と原発 隠された核の戦後史』、東京新聞出版部、2013年11月。
2)山崎正勝:『日本の核開発1939〜1955』、積文堂、2011年12月。
3)http://www.pugwash.org/reports/pic/59/59_documents/PLEN.Suzuki_110703_PPP.pdf.
4)朝日新聞:「核といのちを考える」、2013年12月17日、朝刊(12版)、P.18。
5)遠藤哲也:「日米原子力協定(1988年)の設立経緯と今後の問題点」、http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h22_Nuclear1988/2_Nuclear1988.pdf.

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