地球環境問題解決へのアプローチ(2回目) 

■ 地球環境問題解決へのアプローチ(2回目)

                          阿野 貴司
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 物質の大量消費に走る根底には、大量生産をしないといけないと信じ込んでいるという背景があります。大量生産をすれば、豊かになれ、幸せになれると信じているのです。ですから、地球環境の諸問題は色々とありますが、それら問題を
引き起こす原動力は、大量生産、大量消費、大量廃棄という経済活動にあり、さ
らに、そういう大量廃棄の経済活動を行う背景には、自分さえよければ、組織さ
えよければ、わが国さえよければという欲望があります。

 つまり、環境破壊につながる大量廃棄の経済を推進する究極の原動力は、自分
さえよければ他人はどうでもいいというエゴにあり、その結果、ドンドンと自我
がエゴになり、肥大化していくわけです。ですから、一人一人、個人個人の気持
ちは、別に環境破壊を引き起こしたいわけではなく、根源は自分たちが幸せにな
りたいという自然な感情の発露にあるという点が問題の原点にあります。

 こういうことは、ある程度豊かになった先進国においては、倫理観の欠如、と
いうような概念で説明ができ、特に昔のわが国であれば、言わなくてもいいくら
いに常識として身に付いていた内容です。自分さえよければ、我が社さえよけれ
ば、我が国さえよければ、というようなエゴの拡大は、自然と恥ずかしいことと
捉えられ、そういう方向にいかないことに美徳を見出していたわけです。それが
一生懸命にエゴを減らしましょうと言わなければいけないということは、言わな
くてもいいぐらい常識だったものが、言わなければいけないというような状況に
なってきているということです。

 ですから本来は自我が減れば減るほど、我々は精神的に成熟した社会を築いて
いるという指標になります。つまり、取り決めは無くても常に相手のことを考え
るため、ことさらに取り決めを増やさなくてもうまくやっていけるというのが、
本来の人として成長した人間が形成する社会の在り方のはずです。それなのに、
法律などの決まりが増えているということは、いかに我々はそういうものに頼ら
ないといけないかという精神的レベルの低下を引き越しているという証拠になっ
ています。その結果、気持の交流というつながりが益々減ってきています。

 実は「つながりの減少」により、様々な関係性が見えなくなってきているという
ことが、幸せ感、豊かさ感が感じられなくなってきている本質的な原因なのです。
幸せ感、豊かさ感というのは、物の所有そのものではなく関係性から来るものな
のです。つまり、幸せの本質は、関係性にあり、関係性は、人と人、人と物、
人と自然、というようなそれぞれの間に存在するのです。


■【幸せの源泉】


  例えば親子でも恋人同士でもいいのですが、幸せはどこに感じているのでしょ
うか。物質レベルで考えて、彼氏や彼女の炭素原子とか筋肉とかという物質その
ものを愛しているのでしょうか。そういう物質そのものに幸せと感じているわけ
ではなく、幸せは、彼や彼女の、笑顔とか、優しい声とか、おもいやりとか仕草
とか楽しさとか笑いとかという、お互いの間にある関係性に存在しているのでは
ないでしょうか。

 物との関係においても、「自分の物」という所有そのものではなくて、自分の好
きな楽器が奏でてくれる音楽、そのものにしかできない役割をしてくれることに
対する、感謝や愛着が、自分の物というものから得られる幸せや豊かさの本質で
はないでしょうか。自然との関係においても、見た景色に癒されるとか、吹いて
くる涼しい風の感じや、夕陽の美しさなど、自分と自然との間に築かれる関係性
が豊かであればあるほど、我々は幸せだなー、豊かだなー、ありがたいなーと思
えるわけです。

 これに対して、自分さえよければということは、これらの人と人、人と物、人
と自然との間に築かれた豊かな関係性を断ち切っていくことになります。幸せ、
豊かさの本質である関係性を、ドンドンと失っていくわけですから、自らドンド
ンと幸せでない方、豊かさの源泉が枯れていく方向に向かうことになります。そ
うすると益々、孤立感を感じるようになり、その寂しさを癒すために、幸せにな
りたいという気持ちを、物質の消費に求めることになります。

 幸せは物の消費にあると信じ、大量消費に走るわけですから、大量生産のため
に、もっとたくさんの資源、もっとたくさんのエネルギーが、必要となります。
その結果、たくさんのゴミが廃棄され、環境問題が益々進んでいくことになりま
す。

 そして関係性を失った人達はそれがストレスになり精神的に問題が起きたり、
病気という形で今までになかった精神を病む病気が増えてくるというようなこと
にまで繋がってくる場合があります。根本的原因として、関係性の貧困化、欠如
があるということが、きちっと分かるようにならないといけないわけです。

 誰との関係性の欠如が根源にあるかというと、最も最初の重要な関係性は、「
自分」との関係性です。今、自分が嫌いな人が増えていると言われています。で
すから、先ず大事なことは、自分にとって自分ほど素晴らしいものがない、この
今生きているというありがたい事実を認識して、自分自身が生きていられるとい
うことを感じ、自分を好きになることが最初の出発点なのです。

 自分との関係性が見えてくると、次に、親子、兄弟、友達等々、楽しいな、有
難いなと感じられる繋がりが段々と見えてきます。このような豊かな関係性の中
にいると、普通は自分さえよければとはならないのです。一番分かりやすいのが
母親と赤ちゃんの関係です。お母さんは、エゴで赤ちゃんに何かを期待して育て
ているわけではないのです。この子が大きくなったら、いくら回収できるかなど
と思って一生懸命育てているわけではないのです。うんこしようが、おしっこし
ようが、泣こうが、わめこうが、すべてを包み込んで全部可愛いいから、ただた
だ、無償の愛で育てているのです。

 無心になっていく中でお母さんのエゴというのは、極限にまで減らされていく
のです。そして、その中でお母さんは、最大限の喜びを赤ちゃんから貰えるわけ
です。ですから正式な関数かどうか分かりませんが、反比例の関係ですね。自分
がドンドンエゴを減らせていけばいくほど、赤ちゃんからお母さんは最大限の幸
せを得ていくのです。そして赤ちゃんとお母さんの間には繋がりが形成されて、
豊かな関係性が築かれます。この関係性が豊かになることにより、本当の幸せ、
本当の豊かさ、本当の幸福というもので包まれていきます。

 このお母さんのような、人に優しい気持ち、利他愛にあふれた気持ちで、人に
接することができるメンバーが増えてくると、自分さえよければではなくて、み
んなと一緒に幸せになりたいというふうに、幸せになりたいという欲望の質と方
向性が変わっていきます。そうするとそういうメンバーが集まった会社は、他社
とともに発展したいというふうに同じ欲望でも自分の会社さえという発想ではな
く、発想そのものが変わります。


■【大量生産から必要最小限へ】


  このような変化が世界中に拡がっていくと、欲望とはエネルギーの一種ですか
ら向上心というふうに言い換えたっていいと思のですが、地球全体でみんなが幸
せになれるようにという方向に変わってきます。そういう人達が行う経済活動と
いうのは、もはや大量生産、大量消費、大量廃棄ではなくて、必要最小限の経済
に変わってきます。大事なことは、必要最小限というのは我慢したり、貧しくな
ったりするのではなくて、満足度は減らないということです。つまり、満足度
100パーセント、すなわち一つ欲しいときに一つ消費する、三つ欲しいときに
三つ消費するという経済ですから、常に満足だということです。

 今の大量廃棄は、一つ欲しいときに安いから三つ買って、二つは腐らせるとい
う経済です。いままでは三つ分の売り上げがあるということに重きが置かれてい
ますが、大事なことは幸せ感、豊さ感ですから、基本的に一つ欲しいときに一つ
供給があれば良いわけです。この結果、不要なものが生じずゴミが出ない必要最
小限の社会となっていきます。

こういう経済活動の中では不必要なゴミが減ってきますから、大量廃棄に支え
られた地球環境問題は、問題そのものが消失してしまいます。必要なときに必要
な分だけが消費され、なによりそれらを分かち合う友達、親子、人間関係、会
社、国家間、人類あるいは自然との共生というような意識の中に、我々は、幸せ
感、幸福感をみることになります。幸せの本質は、関係性の豊さにあるというこ
とをはっきり見切って、ただそれを実現するのに物質の力をある程度借りる。着
るものがあるとか必要最小限の物質は非常に重要ですね。

 しかし、豊かさ感の本質は、関係性にあるということを見抜いていけば、ドン
ドン豊かになります。この結果親子関係は、より豊かになり、友人関係ももっと
楽しくなり、笑顔がさらに増えていきます。このように職場も楽しくなり、なに
より生きて行くこと自体が楽しくなっていきます。

 物質の消費量が多いと幸せ、消費量が少ないとそうではないという近代主義の
価値観自体をそろそろ見直して、本当の幸せ、豊かさは、こういう豊かな関係性
の中に本当はあるんだよ、だけど豊かな関係性を得るには、ある程度の物質は大
事だよねということに気づくことが大切です。当然、一人一人好きなものは違い
ますがその違う幸せ、違った関係性を持つ。そしてその違った関係性を持った人
との関係性がまた豊かさを増すわけです。

 自分と同じものばかりだったらつまらない。もっともっと広く深い関係性が出
てくると思います。ではそういう関係性が本当に存在しているということを、我
々がもっと自分に対して言い聞かせるために、科学という比較的客観性が高いと
考えられている方向から見ていきましょう。科学的データから考えていくと、ど
のような関係性が我々の回りに存在しているのか、我々はどのような関係性に包
まれているのかということがわかるのでしょうか。多くの科学的に証明できる関
係性の中に我々が存在することを知り、我々は本当は非常に豊かな関係性に包ま
れているんだよということを、自分自身に言い聞かせることができるとどのよう
に意識の変化が起こるのでしょうか。


■【様々な関係性:生命40億年の歴史】


  我々は非常に多くの関係性の中に存在しています。ただそれを"あたりまえ"と
いう五つの文字で普段は消去しているだけです。例えば人類の歴史を生物の系統
樹というものから考えると、地球上の全生物と進化的に関係があることがわかっ
ています。また、ミトコンドリアというものを聞かれたことあるでしょうか、我
々が、酸素呼吸が出来るようにエネルギーを生み出すための器官として、細胞の
中にミトコンドリアというものがあります。

これが、不思議なことにお母さんからしか受け継ぐことができないのです。お
父さんに由来するミトコンドリアは持っていないのです。ですからずっと人類の
先祖を辿っていくと、ミトコンドリアイブといって最初のお母さんというところ
まで到達します。このようなことが、ミトコンドリアDNAを解析すればわかるの
です。このような解析によりアフリカで発祥した数少ない人が、我々のご先祖様
であるということが科学的に分かってきています。

 我々は今、白人だ、黒人だ、黄色人種だ、言葉が違う、文化が違うなど、肌の
色や言語など色々な違いについて注目していますが、要はそのミトコンドリアイ
ブであるおばあちゃんという共通祖先を持つ兄弟じゃないかという認識ができる
と、遺伝子DNAの共通性という意味でものすごい関係性があることに気がつきま
す。

 人間同士はもちろんのこと、霊長類、よくニュースにもなりましたチンパンジ
ーですね、このチンパンジーと我々でも98パーセント以上のDNAが一致してしま
ったという衝撃的というか、いささか悔しいような結果が科学的に明らかにされ
ています。要するに、遺伝子を構成するDNAの塩基配列のレベルでは、科学的に
はほとんど変わらないのです。

霊長類としてのチンパンジーと我々ですらこの僅差ですから、我々人類の個体
間にある差異は、0.1%程度であり、違いを論ずる前にいかに似ているかという
共通認識を持つ方が、科学的データからは理に適った認識といえるのではないで
しょうか。99%以上の共通性を持つという事実に共感できる感性の上に、僅かな
差異をお互いの特徴、個性として認めていくという新しい相互認識に今後の新し
い方向性があるように思えます。

 いずれにしましても、人類の民族差は、共通祖先から比べればDNAレベルでは
ほとんどないといっていい位に一緒なのです。ほんのちょっとの違いが、こうい
う我々の肌の色とか背格好の差などという特徴を生み出しているだけなんだとい
うことですから、もっと我々が自分たちに言い聞かせるべきは「共通祖先を持
つ」という事実です。

これは別に宗教でもなんでもなくひとつの事実です。単に科学的事実ですか
ら、共通祖先を持つということは、人類は広い意味で兄弟だったのだ、親戚なん
だということになり、もしこのように思えば、我々は対立とか違いを見出すほう
に一生懸命エネルギーを注ぐのではなく、そのエネルギーを同じかそれ以上に、
一緒なんだという共通認識に向けることができると、もっと豊かな関係性が開か
れるヒントあるいはチャンスになってくることでしょう。

 それをもう少し科学的に説明しますと、進化系統樹というもので理解すること
が出来ます。DNAという遺伝情報物質は、GATCという四文字で書かれているとい
うことを聞かれたことがあると思いますが、我々のDNAとかチンパンジーのDNAを
比較する場合、この四文字の塩基配列として並べます。すると99%同じであると
いうことは、G、次がA、そして、A、T、C、C、・・・というような配列が一方に
認められると、もう一方にも全く同じ配列が現れ、100塩基に1個くらいの割合
で、異なる塩基配列が現れるということになります。たまにある場所がCで、片
一方がTでとか、というように違いが認められるわけです。

このように似たような配列を示す部分を並べて比較していきますと、どこが違
うのか、さらにその異なる配列を示す場所がいつごろ違いを生じたのかというこ
とが分かってきます。そしてその違いが生じたのが何百万年前というようなこと
が進化のスピードから分かりますので、順々に進化状況にあてはめていきます
と、その何億年前にこれとこれとが遺伝子的に分岐した、次にこれとこれが分か
れたというようにキチッと出てしまうわけです。
 
このような比較を多くの生物間で行いますと、生物の進化やその分かれた道筋
が、枝分かれした樹のような図として示すことができます。枝分かれは分岐を示
し、枝の長さから進化後の時間経過を知ることができます。このようにして何パ
ーセントが人間と違うといようなことを調べると、我々とカリフラーでも結構似
ているというようなことが分かってくるわけです。

 それぐらい地球の生物はすべてDNAを遺伝情報物質として用いているという意
味では共通です。大腸菌から、アサガオ、ゾウに至るまで、同じ物質が用いられ
ています。ですから、もし我々がDNAレベルにまで浸透するような意識を持てた
ならば、どれほどの一体感をあらゆる生物に対して感じることが出来るのでしょ
うか。違いを見つけて争うのではなく、共通性に共感し一体化を感じるという、
このような意識を持つ新しい人類に進化出来るかもしれないということです。

 そしてミトコンドリアイブを(論理的に)理解した上で、感じることが出来れ
ば、人類は共通の祖先から分かれた一つの種であるということが分かりますし、
他のあらゆる生物も、DNA型生物であることが本当に分かれば、地球の生物は皆
兄弟であるということが科学的事実としてわかることと思います。

 先祖を敬いましょうという我々の持つ常識的感覚を時間的に、何万年、何百万
年、何億年という単位で、少し延長して理解する範囲を広げるだけです。これは
証拠もあるし科学的に今のところ認められている事実です。

今までは差異、違いに目を向け過ぎてこんなに違うんだっといって敵対関係を
作ることにすごくエネルギーを使ってきたのですが、共通点に目を向けて、これ
までと同じかそれよりちょっと多目のエネルギーを、こんなに似ているんだぞ、
だからそんなに喧嘩する必要なんてないんだぞという意識を我々が作る方向にも
し向けたとしたら、人間として共通の祖先を持っている、人類というひとつの大
家族、親戚にすぎないという事実が分かっています。

 そうすると今起こっている歴史的な差異、国家、民族、言語、肌の色、等々の
違いというものは、違うといっても何万年か、何百万年前か程度の違いになりま
す。しかし、生命誕生後40億年の生物進化という歴史の中で生物を捉えますと、
この何百万年程度の差や、ここ何千年の歴史上の差異や問題などは小さなほこり
かゴミのようなものです。

ですから、自然科学的に全生物は、DNAレベルで見れば共通の物質を有し、人類
はひとつの種にすぎないのだということにもっと大きな意識が向かうと、様々な
差異はほんの小さなことで、そのほんの小さなことに、ことさらにエネルギーを
使って、拡大して、拡張して、もうワザと違うんだというふうな形でここまで争
いの種を作っているということが見えてきます。本当はもっともっと似ているの
です。

 ですからもし科学的な事実をきちっと見据えてそこから出発すれば、恐らくこ
れらの違いというのは非常に小さな違いだと思います。DNAということからいけ
ばほんのわずかな違いです。そういう事を知っているのに、その科学的事実を日
常の感覚に反映させることができるか、つまり意識の進化が出来るかどうという
ことが問われているのです。科学的な事実は、60数億の人間は全員、ヒト科、ホ
モ・サピエンスという一つの種に属しているということですね。

 ここでなぜ"種"という概念をわざわざ持ち出したのかといいますと、例えばバ
ラとチューリップを見ても、綺麗な花ということで、ことさらに違う、違うと、
違いを強調しないと思います。どちらも綺麗な花だと我々は素直に言えます。し
かし、実は科学的には、バラ科とユリ科というふうに分類上の「科」というレベ
ルで違うのです。科というのはどういうことかというと生物を動物、植物という
ふうに分けて、次第に細かく分類していくと、この科、ファミリーというところ
まできます。

 ここでバラ科とユリ科という違いは、生物学的には大きく違うのです。ところ
が、地球上の全人類は、同じヒト科の中のホモ属、サピエンス種というさらに細
かい、細かい分類レベルに完全に含まれます。つまり、地球上には、ホモ・サピ
エンスというただ一種が存在しているだけなのです。赤いバラと赤いチューリッ
プの差と、我々人類の差異は、その違いのレベルがまったくちがうということを
知って頂ければと思います。

 ヒト科、ホモ族サピエンス種、ホモ・サピエンスですから、分類を住所に例え
ますとバラとチューリップが国名(科)のレベルで違うのに、ヒトの差異は、何
々県(ホモ属)、何々市(サピエンス種)、まで同じで、町名のレベルでようや
く違いがみられるという程度の話になります。要するに、このように小さな、小
さな、何丁目の中の違いに差異を見出して争ったり、競争したりしているのです。

 バラとチューリップは国が違うぐらい違う。だけどそっちは許しておいて、あ
るいはどちらも美しい花と認めておいて、人のときだけこの何丁目の違いで差異
を言うということは結局、何丁目と何丁目の争いのようなものです。丁度、町内
会の運動会みたいなことを大々的にミサイルなどの武器を使ったりして争ってい
るという話になります。これくらい我々は、科学的根拠に基づかない「差異」に注
目しているのです。


■【様々な関係性:ご先祖様の数】


  いきなり生命40億年の歴史や、ミトコンドリアイブまでいくような大きな流れ
の中での関係性をイメージしたり理解することが大変な人は、もう少し身近なと
ころ、つまり我々は、必ずお母さんお父さんから生まれてくるという事実から理
解されるといかがでしょうか。

そのお父さん、お母さんも、おじいちゃん、おばあちゃんから生まれてくるわ
けです。今生きておられる、おられないは別にして、必ず生きているうちに命の
バトンを伝え、子孫を残されたわけで、どのおじいちゃん、おばあちゃんにも、
必ずお父さんお母さんがおられたわけです。

 そして、一世代が仮に三十年とします。昔はもっと短かったかも知れませんが
仮にそうすると三百年というと十世代です。十世代ということは、ご先祖様の
総数は、2×2×2×・・・、と10回掛けるってことは、二の十乗、つまり千
二十四人ですから約千人です。一人の人間を十世代さかのぼると、約千人の直系
のご先祖様がおられることになります。さらに十世代さかのぼりますと、さらに
掛ける千ですから百万人、もう十世代で十億人です。三十世代、一世代三十年で
計算しますと約九百年前ですから、とりあえず平安時代ぐらいですね。

 平安時代の人口ってどんなものでしょうか、今の日本で一億人ですから、まあ
多くて一千万人程度、というようなレベルではないでしょうか。そのときに一人
につき十億人のご先祖様ですから、仮にあなたと私が完全な他人になるには、二
十億人の人口が必要なわけです。このようなことがありえないということは、我
々は基本的にどこかで親戚にならざるを得ないということです。このように千年
程度の長さで考えても私達は完全に関係しているわけです。

 私達は親を大事にしなさい、おじいちゃんおばあちゃんを大事にしなさい、ご
先祖様を大事にしなさい、くらいまでは常識として分かるのです。さらに遺伝子
DNAレベルでいくともっと多くの生物が進化的に関係していることが分かってき
ますから、結局、ご先祖様を大切にする感覚をちょっと延長して、生物のご先祖
様を敬うという感覚を持つだけで、人間を大事にしなさい、だってみな兄弟なの
だから、生物を大事にしなさい、だってみんなご先祖様なのだから、親兄弟なの
だからというようなことが理解できます。

我々の意識というのは、慣れ親しんだ考え方に執着する傾向があります。この
ため、このような新しいことを聞くと、「えっ」とか、あるいは「なに言ってい
るの」とかと最初は思うものです。しかし、段々と慣れてくるとそれはそうだ
なっというようになり、実際に身に着くと昔の感覚がひどく野蛮で稚拙な感覚で
あったというような変化があらわれるのです。
このような意識の進化を遂げる為にも、科学的事実に基づく教育が大切になっ
てくるのではないでしょうか。
   <以下次回に続く> (筆者は近畿大学教授)

※この原稿は2010年7月24日・東京明治大学で行われた社会環境学会セミナーの講
演をオルタ編集部が整理し著者の校閲を受けたものですが文責は編集部にあります。

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