【コラム】大原雄の『流儀』

坂口安吾から野田秀樹へ、バトンタッチされたもの
~桜の森の満開の下」には反戦の意識が~

大原 雄


★ 坂口安吾の場合

 1947年に雑誌に発表された「桜の森の満開の下」という坂口安吾の短編小説がある。これが、8月の歌舞伎座で初めて上演された新作歌舞伎の演目「野田版 桜の森の満開の下」の原作の一つになった。安吾の発想の原点は、1953年に雑誌に発表した「桜の花ざかり」というエッセイが解説してくれる。このエッセイでは、次のようなことが書かれている。

 「三月十日の初の大空襲に十万ちかい人が死んで、その死者を一時上野の山に集めて焼いたりした。まもなくその上野の山にやっぱり桜の花がさいて、しかしそこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありゃしない。ただもう桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。我々は桜の森に花がさけば、いつも賑やかな花見の風景を考えなれている。そのときの桜の花は陽気千万で、夜桜などと電燈で照して人が集れば、これはまたなまめかしいものである。けれども花見の人の一人もいない満開の桜の森というものは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げだしたくなるような静寂がはりつめているのであった。ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅にでて、満開の桜の下でわが子の幻を見て狂い死する物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花ざかりの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた」。

 この文章で安吾の「桜の森」には、戦死者の遺体の山があったのが判る。「人の一人もいない」黒焦げの遺体だらけの「満開の桜の森」を凝視した安吾は、桜の森の下に「にわかに逃げだしたくなるような静寂がはりつめている」さまを感じ取ってしまった。

 ここで取り上げている「ある謡曲」とは、「隅田川」であろう。人買いに連れ去られたわが子・梅若を探しているうちに発狂した母親で吉田少将惟房卿の妻・花御前のことであろう。上記で安吾が概略を書いているようにこの謡曲は「梅若伝説」を元にしている。この謡曲に限らず日本人の美意識では、桜の木の下には、このような死生観が漂っている。

 例えば、西行法師伝説。西行の歌。「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」というのが有名だろう。如月(きさらぎ)とは、旧暦の2月の旧名。「望月」とは、月半ば。今なら、3月半ば頃か。西行が亡くなったのは、旧暦の1190年2月16日だと知られている。つまり、12世紀の末。西行の伝記物語である『西行物語』は13世紀半ばまでには成立していたと言われている。亡くなってから、50、60年後に書かれていると見られる。

 ならば、ここで歌っている「花」とは、梅だろうか、桜だろうか。当時の桜は、もちろん江戸時代の中期から末期に開発された新品種の桜、ソメイヨシノ(エドヒガン系統とオオシマザクラを掛け合わせた。場所にもよるが、例年の気候なら3月下旬から4月に咲く)ではない。ならば、桜はまだ早いから、梅だというのか。そういう説もある。いや、この頃の桜は早めに咲くエドヒガンであっただろうから、如月半ばでも咲いていただろう。エドヒガンは、普通、3月半ばから下旬に咲く。西行の歌には、「花のもとにて春死なむ」と、「春」を強調しているため、「散りしきる花の下で美しい花びらに埋もれるようにして死にたい」というイメージにもなる。日本人の多くは、ここの「花」を桜と理解しているだろう。その方が、花と死をイメージする際の日本人の美意識としてマッチしているということなのだろうが、「散る桜残る桜も散る桜」(良寛和尚の辞世の句)である。

贅言;この句は、子ども好きの良寛が示した無常の死生観だが、これも戦前の日本では軍国主義の下で、「散華(さんげ)」という表現に収斂されて行く。本来は、仏に供養するため花をまき散らすという意味。特に、法会(ほうえ)で、読経しながら列を作って歩き、蓮(はす)の花びらにかたどった紙をまき散らすことを言う。それが「花と散る」という意味になり、戦死を美化する表現にもなった。特攻隊という戦闘機で敵の軍艦に突っ込み、死んで行く行為。しかし、そういうイメージは、明治以降の国家主義的近代化や軍国主義の推進の中で、意図的に作られてきたイメージだろう。

 桜の美と死には、そういう密接なイメージがあるならば、忘れてはいけない人と作品に梶井基次郎がいる。そして、その作品は、「桜の樹の下には」である。1928年に雑誌に発表された。冒頭の部分は、次のようになっている。

 「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ」。

 そして、坂口安吾の「桜の森の満開の下」である。すでに述べたように今回歌舞伎化された演目の原作の一つである。1947年に雑誌に発表された。以下の文章に登場する彼とは、山賊のことである。安吾が描く「桜の森」のイメージが伝わってくる。原文を何箇所か、抜粋しておこう。

 「大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖しい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して」

 「桜の森は満開でした。一足ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。それだけでもう彼は混乱していました。花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽(たちま)ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました」

 「男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄(にわか)に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました」

 「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした」

 安吾の「桜の森」のイメージは、冒頭に引用したエッセイ「桜の花ざかり」、今回歌舞伎化された演目の原作の一つ「桜の森の満開の下」を合わせ読むと、孤独と合わせて、「戦争死」による遺体の山、というものが、「桜の森」の下に大きくうずくまっているように見える。西行や梶井基次郎の「死全般」というのとは違っているように思える。

 安吾の「桜の森」のイメージは、第三者によって映像化されたことがある。1975年に篠田正浩が映画作品として映像化した。この映画は、タイトルもズバリ『桜の森の満開の下』という。安吾の原作「桜の森の満開の下」を主筋に描いている。脚本には、篠田監督に加えて、作家の富岡多恵子の名前も見える。富岡が主軸になって、脚本を書いたことだろう。映画は、当時の花見の実写映像で始まり、過去へさかのぼる。特に、盗(山)賊(若山富三郎)の男に最後には殺されるのだが、峠越えの道中で連れ合いを殺され、盗(山)賊に連れ去られた女の、その後の生き様、欲望の深さ、人間の業の怖さなどを表現した岩下志麻の存在感が、今も印象に残る。

 「桜の森」のイメージは、さらに野田秀樹に受け継がれ、今回歌舞伎化されて大きく花開いたことになる。安吾は、「堕落論」(1946年、雑誌に発表)を書き、戦前の軍国主義に抑圧された「生活様式」から「堕落」することを勧め、戦後のアメリカ化された「ウェイズ・オブ・ライフ」に早く馴染むようにと説いた。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」。つまり、「堕ちよ、生きよ」の勧めである。有名な冒頭部分を引用しておこう。

 「半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」。

 「野田版 桜の森の満開の下」の構造を理解するために、安吾の雑誌への作品発表年次を整理しておこう。

 1946年「堕落論」
 1947年「桜の森の満開の下」
 1951年「飛騨・高山の抹殺」(―安吾の新日本地理・中部の巻―)
 1952年「夜長姫と耳男」
 1953年「桜の花ざかり」

 この期間が、1945年9月から1952年4月までの連合国軍の日本占領時期とほぼ重なることに留意した方が良いかもしれない。安吾の戦後論は、被占領論であったとも言える。「桜の森の満開の下」とは、占領軍の治世下のことであったかもしれない。従って、安吾の小説「桜の森の満開の下」には、死や孤独とともに「反戦」意識(戦前の死生観とは、真逆である)が芽生えている。

 ならば、野田秀樹の場合は、どうだろうか。

贅言;確かに、桜の木の下には、物理的にも死のイメージが漂う。桜の木の下には、雑草も生えないからだろう。それは、実は、桜の木から分泌される「クマリン(桜餅の匂いの元になる芳香剤であり、殺鼠剤の原料にもなる)」という物質が草を枯らす作用があるからなのだ。

★ 野田秀樹の場合

 野田秀樹の「野田版 桜の森の満開の下」は、亡くなった十八代目中村勘三郎が生前、野田秀樹に歌舞伎化を熱望していた作品だ。勘九郎、七之助兄弟という勘三郎の息子たちを軸にして、やっと歌舞伎狂言として上演された。野田秀樹は、この先行作品として、自ら主宰していた劇団夢の遊眠社に「贋作・桜の森の満開の下」を書き下ろし、1989年初演した。

 安吾の原作「桜の森の満開の下」(1947年、雑誌に発表)と「夜長姫と耳男」(1952年、雑誌に発表年雑誌に発表)という2作品のうち、主役のキャラクターたちの主筋は、「夜長姫と耳男」から構築し、夜長姫と山賊に連れ去られた女を同一化することで、二つの物語を合体させている。それに加えて、時代を天智天皇の治世の末期に据えて、壬申の乱、さらに「夜長姫と耳男」の舞台となった飛騨地方に伝わる「飛騨王朝」伝説まで、二つの歴史的背景を仮託し演劇的な重厚さを補強している。安吾は、「夜長姫と耳男」の発表の前年の1951年に雑誌に連載していた「安吾新日本地理」で、「飛騨・高山の抹殺―安吾の新日本地理・中部の巻―」というのを書いている。この中で、安吾は、古代日本史において飛騨の地がことごとく無視されていること自体が、逆にこの地が天皇の始祖の地であり、まぼろしの「飛騨王朝」が存在したことを示すものではないかと推理している、という。さて、そろそろ、歌舞伎座の舞台をのぞこうか。

 「野田版 桜の森の満開の下」のキーパースンは、次のように図式化すると判りやすい。耳男(師匠の代理となる飛騨の匠から、真の飛騨の匠へ)と夜長姫(ヒダの王家の姉娘。二人とも「夜長姫と耳男」)=女(実は、女こそ鬼だった)と山賊(二人とも「桜の森の満開の下」)。主な配役は、夜長姫(ヒダの王家=幻の飛騨王朝、の姉娘。七之助)、耳男(勘九郎)、マナコ(山賊。猿弥)、オオアマノ皇子(大海人皇子、後の天武天皇=天武の大王。染五郎)、ヒダの王(幻の飛騨王朝の王。扇雀)、早寝姫(ヒダの王の妹娘。梅枝)、エンマ(閻魔。彌十郎)ほか。

 今回の場の構成は次の通り。

第一幕
(1) 桜の森の入り口で、耳男が鬼女と
(2) 耳男タクミに、巧みに化ける
(3) 山賊マナコ、タクミに化ける
(4) ヒダの王家、夜長姫との出会い
(5) 鬼による耳供養
(6) タクミに化けていたオオアマ
(7) 夜長姫、耳男の二つ目の耳も切る
(8) オオアマの陰謀
(9) 夜長姫と耳男、蛇の部屋
(10)夜長姫と耳男、甍の上
(11)夜長姫と耳男、古代の遊園地
(12)早寝姫の死
(13)夜長姫の十六の正月

第二幕
(14)壬申の乱明けて
(15)オオアマ、新しきミカドとなる
(16)落日のヒダの王家、牢獄での陰謀
(17)制作中の大仏の前で耳男が
(18)大仏の開眼式で
(19)鬼狩りで
(20)桜の森の満開の下

 この芝居は、20もの場面展開がある。夜長姫を軸にして言うならば、13歳から16歳まで。ヒダ王家の娘時代から天武天皇の后時代まで。輻輳するので、今回は、大雑把なあらすじのみを記録しておきたい。

 野田版では、天皇家のお家騒動と飛騨地方にあったと伝えられる「ヒダの王家」の二つのお家騒動がないまぜになって、芝居の基調になっている。
 世界は、まだ、人間の世界と鬼の世界が共存していた、という。人間の世界(ヒダ)と鬼の世界を繋ぐ道に、避けて通れないスポットとして「桜の森」がある。桜の森を通じて、人間の世界が鬼の世界を侵略する。

第一幕:
 ヒダの匠のうち、3人の名人がヒダの王に召し出された。赤名人(片岡亀蔵)は、耳男(みみお。20歳。勘九郎)の師匠。桜の森を通らなければならないと恐れ慄き狂ったようになり、止めるはずみで耳男(左右の耳がウサギのように異常に大きい!)に鑿で刺されて死んでしまう。耳男が生前の師匠の推薦もあり、赤名人の代わりになる。青名人(吉之丞)は、山賊のマナコ(猿弥)に殺される。こちらはマナコが青名人になりすます。ヒダの王家に行くと、オオアマ(染五郎)という名前の名人が既に到着している。

 オオアマは野田版独自の登場人物。3人の名人が揃ったというので、ヒダの王(扇雀)は、娘姉妹を紹介する。姉娘が夜長姫(七之助)で13歳、妹娘が早寝姫(梅枝)。娘たちの守護仏として弥勒像を彫って欲しいとヒダの王は、名人たちに依頼する。期間は、向こう3年間。一番出来栄えの良い仏像を彫った匠には、奴隷のエナコ(芝のぶ)を褒美として与えるという。夜長姫は、童顔の姫なのだが、性格はきつい。夜長姫とエナコが耳男の大きな耳をからかった上、近づいてきたエナコによって耳男の大きな左耳が切り落とされてしまう。ふたりの仕打ちに怒った耳男は、仏像の替わりに呪いを込めてバケモノを彫り始める。匠ではないマナコは、いずれ来るだろう「謀反の戦い」に備えて、刀を作ることにした。オオアマは、早寝姫に恋慕されたのを利用して、天智天皇の崩御に備えて、ヒダの王の重宝である鬼退治の巻物を盗み出すようにと姫をそそのかす。歌舞伎によくある話だ。

 耳男が蛇の血をかけて彫り上げたバケモノが第一位に選ばれる。3年が経った頃、天智天皇崩御の知らせが届く。オオアマの正体を知り、謀反への協力を拒絶した早寝姫も亡くなる。

第二幕:
 オオアマは、大願成就で、天武天皇(天武の大王)になる。ヒダの王家の女帝を狙う夜長姫は、天武天皇に迎えられて后になっている。耳男はヒダの匠の名人になっている。名人になった耳男は、天武の大王の造営する大仏に夜長姫の顔を彫れと命じられる。

 天武の大王は、鬼の国へ攻めこもうとしている。鬼の国の鬼門を鳥居に替える仏教を広める。大仏開眼式の準備をする。天武の大王に逆らったマナコは捕らえられて牢獄に入れられる。牢獄には、ヒダの王も幽閉されている。ヒダの王は、大仏の首を落とせば、世はヒダの王家の支配下になると、獄中仲間になったマナコをそそのかす。そして迎えた大仏の開眼式。どこからか現れたマナコは大仏の首を切り落とす。

 ドサクサの中で、耳男は、耳男への恋慕を告げた夜長姫を連れて、桜の森へ向かう。それを知って後を追う天武の大王と家臣ら。桜の森では、眠りから覚めた鬼女たちも戦に加わる。夜長姫は、戦場の様を桜の上から見ていたが……、耳男に胸を刺されて殺されてしまう。飛騨王朝に反逆し、父親を権力の座から追いやり、己が女帝となることを夢見ていたが、恋しい耳男の手に掛かって、殺される。夜長姫は、そうされるのをあらかじめ知っていたように、耳男に「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ」と、言う。耳男に抱きかかえられたまま、夜長姫は息絶える。耳男役の勘九郎は、夜長姫役の七之助を消し幕とともに桜の森に降り積もった桜の花びらの中へと隠してしまう。

 野田版では、原作となった安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」にはなかった壬申の乱、飛騨王朝のお家騒動が取り上げられている。権力争いと戦争が組み込まれている。天武天皇の后となったばかりでなく、飛騨王朝の権力争いの首謀者でもあった夜長姫は耳男に殺される。

 「野田版 桜の森の満開の下」の幕切れの場面の舞台は、どうなったか。歌舞伎座の広い舞台、消し幕を使った歌舞伎定式の所作(夜長姫を演じた七之助の「遺体」が消滅する演出)、荘厳に響き渡る音楽、なかなか良いエンディングで、初日には、何回ものカーテンコール、スタンディング・オベーションとなった。

 以下は、坂口安吾の原作の小説「夜長姫と耳男」のエンディングから引用してみる。野田は、かなり誠実に安吾の想定したエンディングの思いを尊重しているのが判る。

 「それをきいているうちにオレの心が変った。このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだとオレは思った。
 ヒメは無心に野良を見つめていた。新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。なんて可憐なヒメだろうとオレは思った。そして、心がきまると、オレはフシギにためらわなかった。むしろ強い力がオレを押すように思われた。
 オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。
 「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」
 ヒメのツブラな瞳はオレに絶えず、笑みかけていた。
 オレはヒメの言う通りだと思った。オレも挨拶がしたかったし、せめてお詫びの一言も叫んでからヒメを刺すつもりであったが、やっぱりのぼせて、何も言うことができないうちにヒメを刺してしまったのだ。今さら何を言えよう。オレの目に不覚の涙があふれた。
 するとヒメはオレの手をとり、ニッコリとささやいた。
 「好きなものは咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
 ヒメの目が笑って、とじた。
 オレはヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった」。

 安吾は「桜の森の満開の下」では、女の欲望に付き合ってきた山賊が、満開の桜の木の下で、鬼の正体を現した女を殺した後、一人だけ生き残った人間・山賊の孤独を描いた。「夜長姫と耳男」では、権力欲に燃え、クニの民=人間世界を軽視する夜長姫を描いた。それゆえに、危機感を抱いた耳男は愛する姫を殺すのである。野田版に登場する壬申の乱や飛騨王朝の権力争いに関連するオオアマや早寝姫などは、安吾版には出てこない。

 野田版の特徴の一つは、安吾の反戦意識を芝居の中で、より明確に形象化したことだろう、と思う。そのポイントを幾つか挙げてみたい。

 例えば、ヒダの匠3人の名人の違い;
 安吾版:青ガサ、フル釜(父親に推薦された代理で、息子の小(チイサ)釜)、師匠(師匠に推薦された代理で、弟子の耳男)。あくまでも3人の匠の技量争い。
 野田版:オオアマ(オオアマノ皇子=大海人皇子、後の天武の大王=天武天皇)、青名人(山賊に殺されて、その山賊のマナコが名人になりすます)、赤名人(誤って死亡させてしまい、耳男が代行する)。オオアマは、野田版独自の人物。従って、第二幕の壬申の乱の物語は、野田流の展開となる。
 野田版では、安吾版にはなかった「政治」が介入する。政治は、戦争をもたらす。

 安吾は、占領期の著作の中で、「反戦」を色濃くにじませた。それに裏打ちされた安吾版の独自の死生観を野田秀樹は、オオアマという政治的な人物、後の天武天皇という権力者を独創的に登場させることで、より鮮明にしたように思う。野田版の「戦時色」は、物語の大団円を鬼の世界と人間の世界の戦いとして描いたことだろう。幕開きの暗闇の「桜の森」で眠りから覚めてうごめく鬼女たち。鬼の世界に攻め込んだ天武の大王軍は、鬼門を破壊し、代わりに鳥居を建てる。鬼の世界を「侵略」した果ての、マインドコントロールに人間世界の仏教を利用しようとした。鳥居の奥には、権力の象徴として大仏を建立する。そして、新しい国を建設する。大仏開眼式は、戦勝国の新秩序づくりの象徴だろう。

 安吾が「桜の森の満開の下」で描いたのは、鬼女の正体を顕した女を殺す場面と「夜長姫と耳男」で描いた夜長姫を殺す場面であった。安吾は「女」の魔性(鬼)を殺した。野田秀樹は、耳男に夜長姫を殺させるが、これは、山賊の女殺しとは違うだろう。野田版の夜長姫は、天武の大王(オオアマ)の皇后になっている。耳男が桜の森の場面で殺したのは、夜長姫ではなく、皇后である。野田版で耳男は、皇后暗殺の大悪人となった、ということであろう。それにしては、この殺しの場面は、夢幻的で、かつ荘厳で、美しすぎる。野田美学の華が散りしきる。

贅言;野田秀樹は、1989年初演で、当時、自ら主宰していた劇団夢の遊眠社に「桜の森の満開の下」を書き下ろした。その時のタイトルは、「贋作・桜の森の満開の下」。日本史の中に偽の歴史を持ち込んで、夢の中のように自由に浮遊する。あの荘厳なエンディング。まさに「贋作」というタイトルこそが相応しい、と改めて思う。

 (ジャーナリスト、元NHK社会部記者・日本ペンクラブ理事・オルタ編集委員)

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