坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』を読んで

■現代史を別の眼で見る

―坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』を読んで

     (ちくま新書:2004年2月刊)         工藤 邦彦 
─────────────────────────────  この7月11日に行われた第20回参議院選挙は、 1)自公勢力の「現状維持」 (内実は自民党の本格的崩落の始まりのようである)、2)民主党の「大」躍進、 3)社共勢力の深刻な低迷、という結果に終わり、総政治状況はまた一目盛り大きく 右に動いた感があるが、今から70年ほど前の昭和12年(1937年)4月30 日、日中戦争勃発のわずか2カ月前に実施された総選挙では、当時の社会主義政党で ある「社会大衆党」が大躍進し、議会や言論界では「改革」と「民主主義」、「平 和」、そして「反ファシズム」の人民戦線さえ公然と論議されていた…ということ を、今どれだけの人が知っているだろうか。本書『昭和史の決定的瞬間』は、この昭 和12年4月の明治憲法下での第20回総選挙(男子普通選挙)を軸にして、その前 年の昭和11年2月20日に実施された第19回総選挙、その6日後に起きた二・二 六事件、同年8月の五相会議による新国防計画「国策の基準」の決定、明けて昭和1 2年初頭の衆議院論戦、さらに「宇垣内閣」の流産等をへて、同年7月7日の日中全 面戦争突入にいたる約1年半の政治状況を、これまでの日本現代史の概説書とは全く 異なる視点から解き直そうとした快著である。

【著者の着目点から】  どこが「全く異なる視点」なのか…。著者の異説あるいは独自の着目点と思われる ものの一部を、次に要約抜粋して挙げてみよう。

1.美濃部達吉の「天皇機関説」は、昭和8年から「政党内閣制」とイコール でなくなっていた(美濃部達吉=天皇機関説=議会制民主主義の擁護という戦 後歴史学の図式の美濃部自身による否定)。

2.昭和9年10月の陸軍パンフレット(「国防の本義と其強化の提唱」) は、その内容において決して復古的ではなかった(対ソ戦を前提にした高度国 防化+修正資本主義による国民基盤の強化)。

3.(ふつう二・二六事件への口火として語られる)昭和10年8月12日の 相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺に対し、自由主義者として知られ る東大経済学部教授・河合栄治郎は、その日記に「同志がやられたという感が して、一日頭を離れなかった」と書いた。この永田鉄山という人物を「昭和 史」はまだ描ききれていない。

4.戦後の「昭和史」研究では、戦争とファシズムの分析に偏ってきたために、昭和 11年2月20日の総選挙と2月26日の青年将校の反乱がほとんど同時に起こった ことをあまり重視してこなかった。1000万人を超える有権者が、二・二六事件の 6日前の総選挙で示した民意には、ほとんど注目してこなかったのである。しかし当 時の人々は、その同時性に気づいていた(ちなみにこの選挙では466議席中、政友 会など右派陣営が76議席減だったのに対し、中道・左派は民政党78議席増、社会 大衆党ほか無産党は17議席増で、民政党と社会大衆党ほかを足すと、過半数まであ と7議席だった)。

5.これまでの日本近代史研究では、この選挙後の第69特別議会(昭和11年5 月)で「粛軍演説」をした民政党・斉藤隆夫が善玉で、社会大衆党書記長の麻生久は 悪玉である。しかし国民生活の窮乏に対して、斉藤と麻生のどちらがより「民主的」 であったかといえば、軍配は麻生に挙がる。二・二六事件の鎮定直後に麻生がかかげ た9項目の具体的政策項目は、すべて社会民主主義的要求として恥ずかしくないもの だった。しかし国民大衆の生活難の問題から、戦争反対、軍拡反対、軍国主義反対の 問題に移ると、両者の関係は逆転する(社会大衆党は前記「陸軍パンフレット」を歓 迎して、「資本主義打倒の社会改革において、軍隊と無産階級の合理的結合」を説い ていた)。

6.今日では、昭和10年の「天皇機関説」排撃以来、日本人は報道の自由、批判的 言論の自由を奪われており、戦争とファシズムへの動きについて全く知らされていな かったから、あの戦争に反対できなかった、ということを信じている人が少なくな い。しかしこれは当時の資料を直接読まなかった結果作られた、誤った「伝説」にす ぎない。いったん戦争が始まってしまえば、反戦・反ファッショの言論は禁止される が、報道と言論の自由がなかったから戦争が始まったのではない。二・二六事件から 7月の戒厳令解除までの5カ月間を除けば、「天皇制」「軍部」「戦争」などの言葉 が伏字になるだけで、「反ファッショ人民戦線」などについて堂々と論じることは可 能だった。

7.戦後の日本ファシズム研究では、「上からのファシズム」論が、いかにも戦後史 学の発見のようにして説かれてきた。事実は、「急進ファッショ」と「上からの漸進 的ファッショ」の区別は、同時代の常識だったのである(例えば「人民戦線」派の労 農無産協議会=日本無産党の前身の昭和12年1月議会闘争方針)。

8.戦後の歴史学にあっては、一方の極に「平和と反ファシズムと資本主義」 があり、他方の極には、「戦争とファシズム」があることが前提とされてき た。しかし当時の日本では、「広義国防」をかかげて躍進をつづける社会大衆 党を「ファシズム」として片付けてしまう識者は、決して多くはなかった。社 会大衆党の改革要求、資本主義批判を「ファシズム」の側に組み込んでしまっ ては、当時の日本の政治社会を理解できない。

9.昭和7年の五・一五事件から昭和11年の二・二六事件にかけての中心的な政権 構想は、1)政党官僚の協力による挙国一致内閣の「立憲独裁」と、2)過半数政党 ・政友会主導の内閣をめざす「憲政常道」であり、どちらも一長一短のものだった。 従来の通説的理解は、五・一五事件により政党内閣時代は終焉させられたとなってい るが、同事件で海軍青年将校が倒した犬養政友会内閣は、そもそもの成立時から後の 陸軍皇道派と深い関係にあり、満州事変に対しても強い支持を表明していた。「立憲 独裁」は議会と政党の軽視だが、政策内容的には平和重視であり、「憲政常道」は形 式的には民主主義的だったが、その政策は対外・対内ともに危険である、という矛盾 に、この時代の日本政治は悩まされつづけたのである。

10.「憲政常道」も 「立憲独裁」も機能しなくなったあとに残された道は、1) 政友会と民政党の二大政党の支持を得た宇垣一成の「協力内閣」か、2)文字通りの 「軍部独裁」かのどちらかだった。昭和12年1月の宇垣への組閣の大命と、それを 挫折させた石原莞爾ら陸軍中堅の動きは、当然の成り行きだったのである。実現され なかった宇垣内閣構想では、議院内で競争原理は働かなくなるが、軍部や官僚が突出 してくる危機の時代においては、民意にもとづいた政権であり、この政権の不成立 は、日本の将来を「平和」から「戦争」に転換する上で、決定的な意味をもつもので あった(著者はこれを「『反ファッショ内閣』としての宇垣内閣の流産」と表現して いる。宇垣自身、「私は今は、ファッショか日本固有の憲政かの分岐点に立ちありと 信ずる」と言っていたと、著者は当時の資料をもとに記している)。

11.昭和12年2月の林銑十郎内閣の成立は、昭和7年の五・一五事件以後、政治 秩序の安定化をめざして試みられてきた三つの政権構想(憲政常道、立憲独裁、協力 内閣)が、対外危機の増大と陸軍の国内政治への発言力の増大とにより、すべて挫折 したことを象徴するものだった。同内閣は政民両党から一人の入閣もない「軍部独裁 内閣」だったが、1)三井財閥で財界巨頭の池田成彬の日銀総裁就任、2)対米英ソ 協調の佐藤尚武の外相就任があり、その条件下で陸軍は将来の戦争準備のための軍拡 に専念する「狭義国防論」に転換した。このとき参謀本部の石原莞爾が池田に協力を 求めた陸軍の「重要産業五カ年計画要綱」の骨子は、「国防上重要なる産業」の重点 的育成と、計画達成のための広い分野にわたる統制の必要だったが、その核心とも言 うべき性格は「帝国現在の資本主義経済機構に対し急激なる変革を作為するはこれを 避くべし」というものだった。

12.自由主義の立場に立つ政治評論家・馬場恒吾は、1937年という時点で、す でに「独裁主義」国家(ドイツ、イタリア、ソ連を含む全体主義国家)の経済的失敗 を鋭く批判するという先見の明があった(「7、8年前の経済恐慌は米国に端を発 し、欧州に波及し、日本に及んで、昭和7年からの非常時局が始まった。その後日本 は貿易の躍進によってまず景気の恢復を見、英米も今は好景気を謳歌しつつある。た だ、独裁政治国のみは、これらの特権の政治によって、不景気を恒久化しつつある。 彼らが独裁政治になった原因は、経済的悲境を切り抜けるためであったが、今は独裁 政治を捨てなければ、経済的恢復ができないとなれば、それらの国民も何日かは独裁 政治の桎梏から逃れる工夫をするであろう」:『中央公論』昭和12年4月号)。

13.林内閣は予算案も増税案も議会を通過したにもかかわらず、衆議院の反省を求 めるとして、会期の最終日に突然同院を解散させた(食逃げ解散)。この解散に対し 既成政党も言論界も大反対したが、すでに内閣成立時から「林内閣は、軍備拡張と国 民生活安定の矛盾に悩む軍部と金融資本との抱合密着によって反動政権と化した」 と、同内閣との対決姿勢を明確にしていた社会大衆党は、「未曾有の厖大な予算案 は、国民生活安定に立脚するわれらの返上論にもかかわらず、解散を畏怖する既成政 党の屈服によって……衆議院を通過した。本予算案は、国民生活安定と国防充実とを 調和並行せしめんとする広義国防の立場を完全に放棄し、国民生活を窮迫のどん底に 追い込むものである」として、軍部=財界の癒着と共に、その「狭義国防予算」を承 認した政友・民政両党をも併せて批判する論理を確立した。同党だけが3月31日の 突然の解散に対し、総選挙への準備ができていた。

14.当時の言論界で「人民戦線派」の論客として知られていた労農派マルクス主義 者の大森義太郎は、この選挙に対し、1)まず無産政党の候補者を議会に送れ、2) 無産政党の候補者が幾人かある場合には、より明確に反ファッショ的である人物を選 べ、3)次には既成政党内の反ファッショ的な少数分子に投票を考えよ、4)「しか し、そういう候補者すら見当たらないときはどうするか、僕は、普通の既成政党の党 員に投票することを、あえてすすめる」との方針を示し、「無産政党の候補者を議会 に送れ! ファッショ候補者に絶対に投票するな!」と呼びかけた(『改造』昭和1 2年5月号)。

15.この突然の解散を受けた同年4月30日の第20回総選挙(戦前最後の正常な 総選挙)で、社会大衆党は得票数93万票を得て、36名を当選させ(うち19名は 各選挙区のトップ当選。1年前の総選挙の18名からさらに倍増)、より左派の日本 無産党(旧労協)も1名当選した。この社大党の躍進は、素直に考えれば敗戦直後の 日本社会党の躍進の歴史的基盤として、もっと注目を浴びて良いものだった(しか し、そのわずか2カ月後に日中戦争が勃発したために、同党の「広義国防論」は総力 戦思想の一翼と理解され、その躍進は「社会民主主義勢力」の躍進としてではなく、 「国家社会主義」すなわち「ファシズム」の勢力増大と見なされてきた)。

16.歴史的偏見を捨てて資料を読んでいけば、この選挙における社大党の躍進が、 当時、もっと素直に歓迎されていたことがわかる。河合栄治郎は「現実に天下に啓示 されたる民衆の意志」を重視する立場から、この選挙の結果(=社大党の前進)に “歓喜”し、英国労働党の1906年の選挙に比すべき「日本政治史上において特筆 すべき重大な事実」と書いた。彼は「社会大衆党を以って唯一つの革新的政党」であ ると規定し、さらに、 1)革新を標榜してその実現を独裁的に図らんとするファシズ ム、2)民衆の意志によることを標榜しながら現状維持に汲々たる、既成政党や財界 を支配する古きリベラリズムに対し、3)これに抗流するものは、「その実現の方法 において民衆的であり、しかもその実質において革新を標榜する…社会民主主義であ る」とした。そして、これこそ日本の現在が要望するものあり、「日本の暗黒を打破 すべき希望は、ただ一つこの政党の膨脹にかかっている」とまで評価した(『中央公 論』昭和12年6月号)。河合はもちろん、社大党内の「警戒すべき危険性」を見逃 していなかった(「広義国防」に含まれる親陸軍性)。そのうえで、同党に真っ向か ら「反戦」を期待していたのである。

17.左派の知識人として著名な戸坂潤も、この第20回総選挙とそれに続く一連の 地方選挙での社会大衆党の躍進を踏まえ、それをそのまま日本における民主主義の躍 進としてとらえていた。「膨大な軍事予算と国民生活安定予算との矛盾をば、狭義国 防と広義国防との対立として衝いたのは、社会大衆党などであった……つまりこの矛 盾(膨大な軍事予算と国民生活安定予算との矛盾)への注目は、国民の時代常識で あったわけだ。これが現下の日本国民の常識であるという歴然たる事実を認めまいと するものは、まず何らかの意味でのファシストであると断じて誤らない。……自由主 義ないしデモクラシーが今日の日本国民の政治常識であるという事実を、まげること はできぬ。選挙演説などの有様を見ると、この事実は疑う余地なく実証される」。 (『改造』昭和12年9月号)。

18.「平和と民主主義」が一つのセットであると信じてきた戦後の日本人には、 「デモクラシーが今日の日本国民の政治常識である」という状況下で昭和12年7月 7日に日中全面戦争が勃発したなどということは信じられないかもしれない。戦争は ファシズムが勝利したときに起こるもので、民主主義が盛んならば戦争は起こらない と教えられてきたし、また教えてきたからである。しかし、戦前日本の民主主義の一 つの頂点で日中戦争を経験した哲学者(戸坂潤)は、そうは考えなかった。彼は、 「戦争」が「民主主義」を亡ぼしたと結論している(「一体政治常識というものは執 拗なものである。これが形の上だけでも無視され放逐され得るためには、よほど莫大 な何らかのエネルギーが必要である。しかもこのエネルギーには、単なる言論や思想 のエネルギーでは事足りない。もっと物質的なエネルギーが必要なのである。北支事 変(=日中戦争)がそのエネルギーを提供した」)。昭和12年7月7日の蘆溝橋事 件については、、詩人/文学者の中野重治もきわめて的確に事態を把握していた。 「(北支事変は)一事件であるに止まるであろうか?……それはその性質上、(日清 戦争以来の)過去のすべての「事変」よりも大きく、重く、過去のすべての事件が解 決し残した全問題の解決のためとしての「事変」であるであろう」(同上誌)。な お、当時の政界上層部や言論界、さらに陸軍内でさえ、多くは差し迫る日中戦争を予 感せず、また、この勃発した「事変」を長期全面戦争の始まりとして理解しえたもの も少なかった(事変勃発時の内閣である近衛内閣の登場についてもあまり予期されて いなかった)。

19.著名な軍事評論家・武藤貞一が蘆溝橋事件の2カ月後に刊行した『日支事変と 次に来るもの――日本国民はこれだけの事を覚悟せよ!』(新潮社:昭和12年9月 7日刊:この本は、定価1円で初版5万部刷られていた)は、一方で日中戦争を肯定 しながら、その日中戦争が世界大戦に直接に連なる大事件になることを正確に予言し 警告していた。「…世界は全く一つの戦争の坩堝に入ってしまった。日支戦局は何か 意外なドンデン返りを打たざるかぎり、行くところまで行かざるを得ない情勢にあ る。……支那と緊密なる関係国が一歩でも乗り出せば、ここに日支間の局面は、須臾 にして世界的大事変の口火に点火することとなるであろう」。武藤の本のすごさは日 中全面戦争を予想し、その世界大戦化を予想したことに止まらない。彼は「長期戦 争」が日本国民にもたらす災厄の大きさを、まるでタイム・マシンに乗って太平洋戦 争末期の日本を見て帰ってきたような正確さで、予想したのである(「…戦争の苛烈 は時に一国を焦土と化せしむるかも知れず、一首都を壊滅の運命に置くかも測り難 い。すべての破壊力が揃ったのが今日の戦争だ」「本格的の戦争に入ったら、差当り 日本国内にはどんな新事態が発生するか。大体それは、関東大地震の時を髣髴せしめ るものがあろう」。そのほか、物資の徴発、米の配給、女子の徴用、焼夷弾攻撃か ら、モンペの着用まで、武藤の戦争未来図は正確だった)。

【結論と残された問題】  以上の要約引証に見るように、著者は本書において、「昭和11年2月20日の第 19回総選挙から、昭和12年7月7日の蘆溝橋事件までの約1年5カ月の期間を対 象として、ファシズムと民主主義、戦争と平和、自由主義と社会民主主義の入り組ん だ対立を分析」し、ほぼ次のように結論している。

1.一方の極に「戦争とファシズム」があり、他方の極に「平和と民主主義」がある という単純な図式も、また前者が一方的に後者を追いつめて日中戦争に突入したとい う図式も、筆者が調べてきた史実と一致しない。

2.戦後民主主義時代の歴史家の責任で、日本では保守派も進歩派も、戦前日本の 「伝統」を、本書が幕を閉じた日中戦争勃発以後の8年間を中心に語ってきた。日中 戦争によって日本人の民主化努力が抑えつけられた後の8年間だけを軸に戦前日本の 「伝統」を語れば、鳥肌の立つような「超国家主義」か、胸躍るような愛国的な献身 が「伝統」になる。しかし本書が明らかにした昭和10年から12年までのわずか2 年間だけ見ても、われわれが教えられてきた「超国家主義」など、日本を支配しては いなかった。軍国主義だけでなく、自由主義も、社会民主主義すらも、結構いい線ま で行っていた。「戦争は民主主義の躍進のなかで起こった」(本書第5章の表題)の である。

3.昭和20年8月15日の敗戦で、昭和12年7月までの軍部と自由主義者と社会 民主主義者の三つ巴の対立図式から「軍部」がなくなれば、残るのは自由主義者と社 会民主主義者だけで、両者合わせればそのまま戦後民主主義になる。唯一の相違は、 獄中から出てきた共産主義者が加わったことだけである。  

著者は最後に、二つの問題を自身に対して残している。 1.「民主化の頂点で日中戦争が起こり、その戦争が民主化を圧殺した」という仮説 については、さらに検証を深めていきたい。より正確に言うと、「将来の対ソ戦争に 備える」ということと「国内の民主化の進展」とは、必ずしも矛盾しなかったが、 「眼の前の対中全面戦争」は、国内の民主化を圧殺したのである。 2.これに関連した筆者の一つの心残りは、参謀本部が対ソ戦準備に専念していたこ とは明らかにできたが、「日中戦争」の方は、東条英機率いる関東軍の動向を、十分 に明らかにできなかったことである(このために、武藤貞一とは違う意味で、日中戦 争は「関東大震災」のイメージに近くなってしまった。本当のところは、今もってわ からない。ことによると戦争は、地震と同じように、だれも予期していない時に、ぐ らりと始まるのかも知れない)。  これはおそらく本書に向けての最も本質的な問いである。ここで著者自身によって 指摘されている自動機械のような「戦争」への突入と転回こそ、この「決定的瞬間」 のみならず、昭和史の(そして日本近/現代史の)基本動力であり、その機制と過程 が解き明かされなければならない。

そのほか政治史の個別問題としては、1)「権力 としての天皇」の位置づけ(とくに本書で二・二六事件後の天皇の孤立感と弱体化と されているもの)、2)昭和期の社会状況と右翼革新「諸思想」の関係、3)「日本 版人民戦線」という概念は成立するか、4)「広義国防論」と国家社会主義の異同性 (=国家社会主義の再定義)、5)無産政党の運動的・社会的背景(とくに昭和10 年代の都市住民との関係)、などについても今後のより一層の究明を期待したい。  最後に一つだけ記しておきたいことがある。それは、著者が巻末で「その当時の学 者や知識人の知恵を借りる」あるいは「資料を通じて歴史像に迫るという私の研究方 法」と言っている問題である。ここにその一部を紹介した著者の数々の新しい着目点 と、思いがけない指摘は、その根本の意想が、戦後の「左翼的な」歴史学・社会科学 へのアンチテーゼにあることは間違いないだろうが、それよりも何よりも、この「何 ものにもとらわれず、現実にあったことを見る」という、歴史研究者としては当たり 前の作法こそ、本書の成果を生んだ一番大きな点であると思われる。もちろんその 個々の選択や、意味づけ、評価については、それぞれに異見があるであろうが。  それにしても、そのようにして本書に採用された資料の中で、衆議院議事録や陸軍 の文書、関係者の日記、特高資料や政党の政策方針などの基本資料とともに、最も多 く目につくものは、当時、読もうと思えば誰でも手に取ることができた『改造』や 『中央公論』などの総合雑誌であり、そしてまた公刊された出版物である(当時の 『中央公論』は部数6万部前後で、毎月の新聞には今日以上に大きな広告が出てい た、と著者は記している)。何故にこのような公然たる天下の言論が、わが戦後歴史 学の基本前提としてこれまで十全に記述・蓄積されて来ず、いま改めて「再発掘」さ れて、見直され、仮説が述べられ、このような新書版の形で私たちの手に入らなけれ ばならなかったのだろうか。読者としての私たち自身の怠慢の念と併せ、むしろその ことに今更のように驚きを感じるのである(く)。