【コラム】
大原雄の『流儀』

埋め立て都市の原風景

大原 雄

 「埋め立て都市」と言えば、私は、東京湾沿岸の埋立地に造形された都市をイメージする。例えば、私が住んでいる千葉県は、浦安、市川、船橋、習志野、千葉などと東京湾の沿岸に接する地域は、皆、埋め立てて造成された土地である。航空写真で見ると、これらの地域は、海岸線が四角く切り取られているように見える。そういう不自然な海岸線が続いている。東京湾は、東は千葉県の房総半島、西は神奈川県の三浦半島に囲まれた湾で、浦賀水道が、東京湾の湾口となっている。つまり、東京湾は、首都圏南部を北に、湾口が南に向けて開いた状態になっている。沿岸の行政区域は、東から千葉県、東京都、神奈川県となる。

◆ 東京湾の歴史

 12万年前の東京湾は現在より海水面が高く、房総半島は島であった、という。この頃の内海を称して、現在では「古東京湾」と呼ぶようになった。現在の「東京湾」という表記は、明治維新後、江戸が東京と呼ばれるようになってから使われるようになった。また、明治維新以前にも、東京湾が「江戸湾」などと呼ばれたことはない。「江戸湾」という用語は、近年作られた造語であり、近世以降の東京湾を称して「江戸湾」という語を使うことはなかった。
 江戸時代には、この湾域は「江戸前」「江戸前海」などと呼ばれ、「江戸前」とは、漁場を指す言葉であり、主に、佃沖の漁場を指した。「江戸前海」は、品川沖から葛西沖辺りまでを含んだ、という。その外側は、「房総沖」と呼ばれた、という。そして湾全体は、単に「内海」と呼ばれ、そういう表記の記録が残っている、という。

 最近では、東京湾の歴史的な呼称を区別するため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」とか「奥東京湾」と呼び、中世から近世までの湾域を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多くなったという。

◆ 東京湾沿岸の埋め立ての歴史

 2020年、東京で開催される歴史上2回目のオリンピック・パラリンピックは、東京湾の埋め立て地がなければ成立しないだろう。東京のど真ん中で、競技施設という空間を確保するためには、東京湾の埋め立て地がなければ、不可能だった、と思う。その東京湾の埋め立ては、どのような推移を経てきたのだろうか。

 専門家によれば、海の埋め立てで土地を造成するには3つの方法がある、という。
 1.浅瀬などを埋め立てて陸地を海側に引き延ばしていく。
 2.水深のある海域などを埋め立てて新しい島を造成する。
 3.海岸にある湿地帯や湖沼、池などを埋めて区域を全て陸地にしてしまう。

 今の東京湾の埋め立ては、1590年、徳川幕府の手で始まった。当時の江戸は、政治経済の中心として人口が爆発的に集中し始めた。それに伴い、ゴミ、つまり、廃棄物が、大量発生した。徳川幕府は、人口の集中に対応できる土地の造成と人口集中に伴って増えたゴミを処理するために埋立地を利用することを思いついたのだ。

 東京湾の沿岸部は、水深2~4メートルの浅瀬が続くため、埋め立てがしやすかった。また、浅瀬のために大型船などが入る水路が作れなかったのが、埋立地造成によって交易に適した港湾を作れるようになった、というわけだ。埋立地造成は経済効果もあった。

◆ 例えば、浦安

 東京湾沿岸都市の中でも、海面埋め立てで陸地を海側に引き延ばす政策を積極的にとってきたのは、千葉県浦安市だ。東京ディズニーランドや東京ディズニーシーなどのエンターテインメント施設があることで知られる。浦安市は、1964年から始まった「公有海面埋め立て事業」によって、市域をそれ以前の約4倍にも拡大してきた、という(浦安市のホームページ参照)。

◆ 浦安と海

 勝鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうちなびく玉藻(たまも)刈りけむ手児名(てこな)し思ほゆ

 この歌の万葉仮名の「勝鹿」は、「葛飾」という地名。「真間」は、今も地元の市川市(千葉県)に残る地名。真間は、今は市川市の内陸部にある地域だが、万葉集の時代は、ここまで海辺で入江になっていた。「玉藻刈り」は、海中に育つ藻の古称。特定の藻種を指す言葉ではない、という。「玉」は美称。「手児奈」は、奈良時代以前に真間に住んでいたという伝説の若く美しい女性の名前。この歌の詠み人は、海中で、肌を出して藻を刈る娘らの初々しく美しい姿を描いたか、思い出したのだろう。

贅言;「手児奈伝説」。一説によると、手児奈は、「国造」(くにのみやつこ。大化の改新前の古代日本の行政機構の一つ。地方を治める機関、官職。地域の有力者が世襲した)の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の「国府」(政務を執る施設が置かれた地域の中核都市)と嫁ぎ先の国との間に争いが起こったことから逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、「出戻り」(差別語! 離婚により嫁ぎ先から帰された女性)という体験を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育てながら、静かに暮らしていた。しかし、男たちは手児奈を巡り再び争いを起こしたので、これを厭った手児奈は真間の入り江で入水自殺したと伝えられている。古くからの伝説が都にも伝播したことから、万葉の歌人たちの想像力をかきたて、幾つもの歌が残された。

 このほか、万葉集に詠まれている玉藻の歌をいくつか拾ってみよう。

 「今日(けふ)もかも沖つ玉藻は白波の八重(やえ)折るが上(え)に乱れてあるらむ」
 「水底(みなそこ)に生(お)ふる玉藻の生ひ出(い)でずよしこのころはかくて通はむ」

 これらの歌でも判るように、玉藻が生えている場所は、白波の上であったり、海底の浅いところに根を張ったりしている玉藻が、透明な水の中でそよいでいたりする様がよく判る、というものだ。

 このように、市川や浦安は、海辺の地域であった。市川も浦安も、万葉の時代に海浜だった地域は、近世の埋め立てにより、陸地になった。特に、浦安は、葛飾郡の浦安「町」から浦安「市」へ、海を飲み込みながら、市域を拡大していった。浦安市は、「公有海面埋め立て事業」だけでも、半世紀以上かけて海に陸地を繋げていったことになるが、ならば、浦安の原風景とは、海なのか、陸なのか、という問いに答えて行きたいと思って、この小論を書き始めた。従って、ここまでの論述は、芝居でいう序幕に当たる。

◆ 浦安の原風景を探る

 浦安の原風景は、海か、陸か、私は悩む。旧江戸川河口付近に広がるデルタ地帯が内陸から移民してきた農民の住処となった。デルタ地帯の先の浅瀬地帯は、西国から移民してきた漁民の住処となった。浦安市のホームページによると、1890年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3つの村が合併して「浦安村」が誕生した。当時の戸数は1,040戸、人口5,946人。村名「命名の由来は、当時漁村であった当地の「漁浦の安泰」を祈願するという意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれてい」る、とホームページは、説明する。

 浦安村には交通手段がなく陸の孤島同然であった。当時の村の主な交通手段は、1895年に開航した川蒸気船であった、という。陸地ながら、船が唯一の交通手段であった、という。まさに陸の孤島。1919年には定期船(「通船」)が東京の高橋(たかばし、東京・深川地区)-浦安-行徳間に就航し、東京と浦安を1時間から1時間半で結んだ、という。浦安側の発着場となった船着場(現在の猫実5丁目。旧江戸川の地下鉄鉄橋付近)は、「蒸気河岸」と呼ばれ東京への唯一のエントランスとあって、東京方面に行商や通学に行く人々などで大変な盛況ぶりだった、という。
 その後、1940年に浦安-葛西間に浦安橋が開通すると、浦安でも自転車、自動車の普及が進んだ。これとともに長い間、浦安の重要な足として親しまれた船による交通手段は廃止され、都バス(当時は、東京市バス。「青バス」と呼ばれた)に役割を譲った。

 昭和初期の浦安の産業は、東京湾の恵まれた浅瀬を利用した海苔の養殖やアサリ漁など水産業が中心であった。地域を流れる境川などでは、「べか舟」と呼ばれる船底の浅い小舟がひしめき合って行き交っていた。

贅言;「べか舟」とは、東京湾の浅瀬で養殖の海苔を採る一人乗りの舟。 長さ12尺(3.6メートル)、幅2尺8寸(84センチ)くらいの薄板で造った小舟。 幅が狭いのが特長。これは、海苔採りをする時、養殖棚の間隔4尺(1.2メートル)の幅に自由に入りやすくなるよう工夫した。

 東京の近郊ながら、遅くまで陸の孤島同然の交通事情を強いられていた浦安は、そういう土地柄や住民たちの人情が独特の人懐っこさを生み、多くの作家たちを魅了し、引き寄せた。

贅言 1);青春時代。私の大学のゼミの年かさの同級生は、当時、東京近郊のストリップ劇場回りをしていたが、東京メトロの東西線が開通する前(東西線は、1969年、中野-西船橋間で全線開通)の浦安は、公共交通手段は乗合バスしかなく、陸の孤島同然であった、という。都電が、1972年11月まで、浦安の西隣、東京の東端・江戸川区にある葛西橋(旧葛西橋のことか。江東区南砂町=荒川放水路=と江戸川区小島町=中川=を結んでいた。町名は、当時。現在の橋は、1963年開通)と東京の神田・須田町間で通じていた(錦糸町など経由して乗り継ぐ)。旧葛西橋の電停から浦安までは徒歩など(時間は、1時間以上かかった、という)。それにしても、不便であった。地下鉄東西線の開通は、浦安の住民にとって、「文明開化」というか、初めて、電気が点いた時代に似たような感動を与えたかもしれない。2019年は、東西線全線開通50年であったが、特に印象に残るイベントは開催されなかったようである。

 千葉は、ストリップ劇場が多いところだったが、同級生は「浦安ミュージック」というストリップ劇場を訪れる際、総武線のどこかの駅から延々とバスで劇場のある場所(ストリップ劇場はとうに無くなっているが、劇場があった場所は、今なら、東西線の浦安駅から徒歩3分と、ほど近い)を往復した、という。神奈川県在住だった彼が、都心・下町に近い東京の近郊で、こういう鄙びた街が、1960年代後半の時代にも残っていた、ということを、ストリップの感動よりもさらに大きな感動の思いを込めて、私に話をしてくれたことを今も鮮明に思い出す。

贅言 2);「浦安ミュージック」
浦安の「当代島(とうだいじま。柳町通り商店街)」には、ストリップ劇場があったが、劇場名が定かではない。今回調べてみると、「浦安劇場」、「浦安ヌード劇場」、私の記憶に残る「浦安ミュージック」などは、正確ではないらしい。正式には、「ザ・浦安サスペンス劇場」(略称「ザ浦安」)で、当時の入場料は3,000円であった、という。1960年代から90年近くまで営業していた(あるデータによると、1969年3月開館:「浦安ヌード劇場」、1984年改称:「ザ・浦安サスペンス劇場」、その後閉館となるが、閉館時期不詳)ようだが、詳しい情報は判らない、ということであった。件の年かさの同級生が通っていた頃は、1969年3月であったか(69年3月大学卒業)。
漁師町だった当時の浦安の漁師たちは、一人でべか舟を操り朝早くから海に出て作業をし、陸に戻ると浦安の繁華街「一番通り(現在の「フラワー通り」)」で映画を観たり、芝居を観たり、落語を聞いたりした、というが、中には、当代島に繰り出した大人たちもいた、という。

 『○本 噂のストリッパー』(まるほんうわさのすとりっぱー)という映画がある。1982年公開。日活ロマンポルノ作品。正式なタイトルは、○の中に本の字。「丸本物」といえば、人形浄瑠璃を生かした歌舞伎の古典演目という専門用語なので、正道ストリッパーものという自負がうかがえるようなタイトルである。監督・脚本は、森田芳光。森田監督としては、日活ロマンポルノの初監督作品であった。映画では、当代島にあったストリップ劇場で撮影が行われた、という。映画の中では主人公のストリッパーが浦安の街を闊歩するシーンも収められている、という。

◆ 『青べか物語』

 1962年公開の映画『青べか物語』(新藤兼人脚本・川島雄三監督作品、森繁久弥主演)のオープニングとラストに映しだされる橋は、浦安橋。ただし、映画の浦安橋は1939年に建造された初代の橋で、現在の浦安橋は1985年に再建された二代目である。浦安といえば、映画の原作になった『青べか物語』(1960年刊行)だろう。山本周五郎原作の小説。冒頭の、昭和初期の浦安の風俗や雰囲気の描写が良くまとまっている、と思うので引用しておこう。小説の中では、浦安は、「浦粕」として登場するなど、ほかの地名も架構になっているが、描写は、かなりリアルである。引用部分は、頭に*印を付している。

*浦粕(うらかす)町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔(のり)と釣場とで知られていた。町はさして大きくはないが、貝の罐詰(かんづめ)工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして、魚釣りに来る客のための釣舟屋と、「ごったくや」といわれる小料理屋の多いのが、他の町とは違った性格をみせていた。
 町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は船躰(せんたい)を白く塗り、片方は青く塗ってあった。これらの発着するところを「蒸気河岸(がし)」と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった。
 西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、「ごったくや」、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署――と云っても旧式な手押しポンプのはいっている車庫だけであったが、――そして町役場などがあり、その裏には貧しい漁夫や、貝を採るための長い柄の付いた竹籠を作る者や、その日によって雇われ先の変る、つまり舟を漕(こ)ぐことも知らず、力仕事のほかには能のない人たちの長屋、土地の言葉で云うと「ぶっくれ小屋」なるものが、ごちゃごちゃと詰めあっていた。
 町の中心部は「堀南」と呼ばれ、「四丁目」といわれる洋食屋や、「浦粕亭」という寄席や、諸雑貨洋品店、理髪店、銭湯、「山口屋」という本当の意味の料理屋――これはもっぱら町の旦那方用であるが、そのほか他の田舎町によくみられる旅籠宿(はたごやど)や小商いの店などが軒を列(つら)ねていた。その南側の裏に、やはり「ごったくや」の一画があり、たった一軒の芝居小屋と、ときたま仮設劇場のかかる空地がある、というぐあいであった。

 山本周五郎が描き出した街の様子は、地形的なことから推量すれば、今も住所表記とは別に地元で「元町」呼ばれている地域と一致するように思う。

*「沖の百万坪」と呼ばれる空地が、この町の南側にひろがっていると書いた。私は目測する能力がないので、正確にはなんともいえないが、そこは慥(たし
か)にその名にふさわしい広さをもっていた。畑といくらかの田もあるが、大部分は芦(あし)や雑草の繁った荒地と、沼や池や湿地などで占められ、そのあいだを根戸川から引いた用水堀が、(略)荒地に縦横の水路を通じていた。

 山本周五郎が書くような荒地と沼沢地が続く広大な場所は、如何にも、埋め立てられるのが、土地の活用としては、いちばん、良策のように思える。

*私はその町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた。

 小説では、「あしかけ三年」と山本周五郎は書いているが、実際には、1928年から29年(昭和3年から4年)にかけて1年余り、浦安で過ごしたらしい。山口瞳は、生前、写生のための小旅行で、国立市の自宅から浦安へ海を見にきた。

◆ 山口瞳『酔いどれ紀行』

 1979年に2回、浦安を訪れている。1回目は春。全集に入れる山本周五郎の本の装画を頼まれ、その写生のために浦安に行き、5泊した、という。2回目は同じ年の8月。「別冊小説新潮」に連載していた「酔いどれ紀行」の写生旅行であった。この時、山口瞳は浦安で10泊している。絵心のある山口瞳は、遠浅の海を見ながら絵筆を取り、写生をするのが楽しみであった。山口瞳は、浦安駅南側の定宿に泊まり、夜は、贔屓にした寿司屋などに通い、うまい酒を飲み、地元の人たちとの会話を楽しんでいた。山口瞳は、お気に入りの店を一軒見つけると、そこに通い続ける、というタイプの客であった。エッセイでは、その様子を楽しげに書いていた。

 例えば、山口瞳『酔いどれ紀行』から引用してみよう。

*べか舟のあるところがいい。工場があって、その工場の高い塀が延々と続いていて、道に埃が舞いあがっているところがいい。古い工場と古い塀と人の通らない道。その突堤で一人で釣をする少年。曲がりくねった旧街道……ああ、私には。もう書けない。私は、こういうところに住みたいと願ったものである。この町には匂いがあるはずである。山本周五郎とは関係なく。

 山口瞳は、山本周五郎をだいぶ意識していたみたい。「関係なく」とこだわっていることからも、かえって、それがうかがえる、というものだ。作品に登場させたり、浦安に所縁のあったりする作家や詩人では、草野心平や大庭みな子などがいる。

◆ 行徳も、ついでに

 ついでながら、港湾の埋立地が続く。浦安の隣町の行徳は、宮尾登美子『きのね』に登場する。貧しい家庭で育った主人公は、行徳の出身で、「口入れ屋(職業紹介所)」で歌舞伎役者の家の家事の「下働き」の仕事を見つけ、「女中」(差別語! 家政婦)として住み込みで働くことになる。歌舞伎の成田屋の家に住み込んだ主人公は、そこで、「坊っちゃま」と知り合う。「坊っちゃま」は、後の十一代目團十郎。歌舞伎役者・團十郎の妻となる人を主人公として描いている。
 十一代目團十郎の妻は、十二代目團十郎の母になる。それから数十年。「坊っちゃま」は、最初の妻との結婚と離婚、愛人の出産、度重なる病気、戦災体験などすべての出来事において、不器用であった。神経質で、癇癪持ちの「坊っちゃま」を主人公は、支え続ける。主人公は、妻として迎えてもらえぬまま、「女中」の立場で二人の子(男・女)を出産する。十一代目の江戸歌舞伎宗家という大名跡を襲名するに当たり、主人公はやっと正式に妻として披露された、という。

 行徳には、三島由紀夫も訪れている。「やがて一行は並足に戻つて、長い木橋を渡りだした」。市川側から木橋の行徳橋を渡って、行徳にある御猟場へ向かう場面を入れた「遠乗会」という乗馬小説を書いている。25歳の三島由紀夫である。

◆ 『青べか物語』世界の伝承か、断絶か

 さて、浦安に戻ろう。『青べか物語』系統では、写真家・北井一夫の写真集『境川の人々 ―浦安一九七八年―』を抜かすわけにはいかない。古き良き浦安を味わうには、山本周五郎から北井一夫へ繋げなければならない。北井一夫は、旧江戸川から水門で分かれて街中を流れる境川にカメラを向け、その成果を「境川の人々」という写真集にまとめた。
 境川は、地域住民の用水に使われていたため、幅の狭い川の両岸には住宅が密集している。漁業が最盛期の頃は、川の水面には、べか舟が数珠繋ぎのようになって、ひしめくように行き交い、沖に広がる広大な浅瀬(干潟)での漁を終えて竿を納めた船は、それぞれの舟着場に浮かんでいた。両岸の人家の玄関は、いわば、表通りである境川の方に向けて作られていた。
 写真集北井一夫『境川の人々』は、当時の浦安町長(当時は町制だった。現在は浦安市)の要請を受けて、山本周五郎が描いた昭和初期から50年後、1978年の浦安ではあるが、浦安の人々の日常生活を印画紙に定着させ、写真集としてまとめた。写真集の刊行は、1979年。漁場、貝や海苔の養殖場、船宿、海苔干し場、貝むき場、缶詰工場、貝灰工場などで働く人々、船大工、行商に行く人々などを活写した。消え行く漁師町の面影を求めて、境川周辺の人々の生活を撮影したことだろう。そういう意味で、北井一夫が切り取った写真は、山本周五郎の小説が描いた昔の浦安の生活に直接繋がっている、と思う。そういう意味で、人間くさい写真が満載されている。

 一方、昔の浦安から断絶した埋め立て都市の原風景を撮影した写真家がいた。現在も変貌を続ける埋め立て都市としての浦安は、東京ディズニーランドなどや高層マンション建設などの現況を写し取ることでも可能かもしれないが、昔の浦安から断絶し、新しい浦安が始まる前の、この時しか見ることができない浦安を写真で記録した写真家がいる。大塚勉。『SITE 埋立地1971-2019 生成する場』(2019年11月刊行の「大塚勉写真展(浦安に生まれて)」カタログ)。
 写真展は、浦安市郷土博物館で、2019年11月2日から12月8日まで開催された。写真展開催に伴って、カタログが刊行された。大塚勉は、1951年、浦安市生まれ。父親の稼業は、漁業。1971年、東京写真大学(当時)を卒業後、写真家として活躍し始めた。当時は、浦安町堀江在住で、その後、浦安町海楽在住から、現在は、東京都に移り住んでいる。

 北井一夫の写真が、山本周五郎から昔の浦安を「伝承(繋ぐ)」する作品だとすれば、大塚勉の写真は、昔の浦安からの「断絶」を宣言する作品だろう。ならば、大塚の写真群を見ておこう。

 展示された50枚を超える大塚の写真は、1971年から2019年までの浦安を写し取っている。ただし、大塚のカメラは、ひたすら埋め立て地や埋め立て予定地にファインダーを向け続ける。従って、大塚の写真に定着された浦安の原風景は、文字通り、荒涼とした光景ばかりが続く。

 写真展に展示された最初の写真(写真展カタログの最初のページでもある)は、「埋立予定地に浮かぶ『べか舟』」(1971年)というキャプションがついている。東京湾の浅瀬の水中に取り残された杭とその向こうに漂うべか舟。その二つの直線(べか舟は、横、杭は、縦)が、ちょうどクロスしたところでシャッターを切っているので、二つの直線は、十字架のように見える。

 「見明川から見た鉄鋼団地」(1971年)は、造成地で作業中の重機や作業員たちが川向こうに遠景で写っている。ヘルメットをかぶった作業員は、兵士のように見える。米軍基地を塀の外から、そっと写しているようなアングルではないか。
 「第一期埋立地」(1971年)は、あちこちに水溜りのある造成途中の埋め立て地。区画が違うのか、撮影者の手前にコンクリート聖地見られる四角い板が、何枚も連ねて、横一線に造成地に打ち込まれている。その向こうに無人の未造成地が広がっている。その向こうに、さらに広々とした海面が見え、対岸も見える。
 「舞浜地区(現在の舞浜2丁目)から見た鉄鋼団地」(1971年)は、造成途上の工業団地予定地に重機が駐っている。別の「第一期埋立地」(1971年)では、草茫々で手つかずの荒地のままの土地の手前に、朽ち果てたべか舟の残骸の板が、バラバラになって、浅瀬か、舟着場か、不明な場所(水溜り?)で、朽ち果てようとしている。遠く、送電線の連なりが遠望される。

 「富士見地区」(1972年)では、撮影者が立つ道路が未造成で途中で消えている。辺りには、ゴミが散らかったまま、放置されている。埋め立ての区域を示す堤防か。それが、水平線のように見えるが、堤防の向こう側に造成作業を請け負っている建設会社の看板の頭が見えていて、水平線ではないことがばれてしまう。
 「東野地区、右奥の建物はNTT東日本浦安ビル」(1971年)では、道路がローラーで平らにされた埋め立て地に建つ高い電信柱が2本並んで見える。その下に、腕を組んで何かを見ているか、何かを考えている中年の男が立ち止まって仁王立ちになっている。写真の左には、この中年男が乗ってきたと思われるバイクが停めてあるのが判る。
 大塚の埋め立て地の写真では、電信柱が、よく目立つ。この写真では、遠くに送電線の鉄塔、そして、キャプションにあるように、右奥にNTT東日本浦安ビルが見える。埋め立て地造成では、建設のエネルギーとなる電力の確保が、急務なのだろう。

 「入船地区の堤防、その先が第二期埋め立て地」(1972年)では、草茫々の荒れ地、水溜りのある荒れ地に脱ぎ捨てられた片方の靴、左手奥に大きな土管が一つ、残されたままになっている。その向こうに石垣の堤防が、水平線のように横切っている。後に東京ディズニーランドなどができる「舞浜地区」(1972年)では、ひび割れた広大な土地が広がり、その遥か向こうに街路樹の長い列が見える。さらに、その向こうは海だろう。生活感や人間の匂いのない写真が続く。土砂で幾分汚れた道路を乗用車やトラックが行き交う。道路の背景には、平屋建ての住宅が密集している。二階屋も一軒だけだが平屋建ての中に混じって見える。キャプションには、「元町方面を望む」(1971年)とある。この写真展カタログとしては、数少ない人間味を感じさせる写真だろう。

 海面を地面に変えるため、浦安は、時間的接続を一旦チャラにされた。埋め立て都市の原風景から出発させられた。その貴重な一瞬を写真家・大塚勉が、密かに切り取り続けていた。大塚の写真は、無人が多く、広角のレンズで遠い風景を撮り続けた。写真の中の浦安の表皮は、赤く剥かれ続けていた。モノクロの写真は、色彩を拒否しているが、黒色のプリントの中に、私は赤く爛れた内皮を見る。浦安の地面は、陸地ではないのだ。海面が秘められたままだ。いつ海水が噴き出してくるか判らない。爛れた皮膚は、治療もされぬまま、厚化粧されて、今の浦安に変えられてしまったようだ。

 埋め立て都市の原風景。これは、浦安だけの原風景ではない。戦後の、新都市建設では、全国どこでも同じような風景が作られ、そして、変貌(厚化粧)していったことだろう。

 写真展開催を記念して「写真家 北井一夫 × 大塚勉」対談が、19年11月17日、浦安市郷土博物館で開催されたので、私も聴きに行った。対談のタイトルは、「浦安をめぐる2つの視点 ~1970年代~」という。70年代の原風景は、そっくりそのまま、2020年の今年に繋がる。それは、もう半世紀以上過ぎた昔のことだ。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)
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