多民族国家の共生を考える〜インドネシアへの旅

【自由へのひろば】

多民族国家の共生を考える〜インドネシアへの旅

北岡 和義


 8月27日、久しぶりに東南アジアへ向け南下した。バリの空港には同僚の吉田正紀・元日大教授(現非常勤講師)が出迎えてくれた。バンドン工科大、インドネシア教育大での彼の講義が予定されていたが、その前にバリで休養していた吉田に合流する事でインドネシアの旅を決めた。

 この国には長年の熱い思いがあった。1976年、シンガポールまで行きジャカルタを目前にして引き返したことがある。この年7月27日、ビルマ、タイを取材していたぼくはチェンマイから夜行バスでバンコックへ戻り、安ホテルで眠っていた。田中角栄が逮捕されたことを朝日特派員・猪狩章の電話で知り朝日バンコック支局へタクシーで駆けつけた。
 猪狩に急かされて『朝日ジャーナル』の副編集長をしていた筑紫哲也(故人)に国際電話を入れた。

 「北さん、そんな所で何やってんだ。すぐ日本へ帰って来い」と大事件を捌いている筑紫デスクの声。角栄元首相逮捕で日本中大騒ぎ、帰国して取材を手伝えという。切符を買ってしまっていたのでシンガポールまでマレー半島を列車で下った。残念だったが目前のジャカルタを断念した。エア・サイアムに飛び乗り、そそくさと帰国した。
 以来、インドネシアに足を向ける機会はなかった。

 吉田の誘いで急きょバリ〜バンドン〜ジャカルタへ旅することになった。
 今年は戦後70年、いろんな意味で敗戦と戦後を総括する節目の年である。ぼくがインドネシアを目指したのは個人的な思いがある。大戦下、実父・保次が鉄道員でインドネシアのバンドンの駅長に軍属として赴任したという事情があった。

 父はよくジャワの話をした。召使いのような人も含めて部下が30人はくだらない集合写真を見せられた。酔うとジャワの国民歌ともいうべき「♪…ブンガワン・ソロ〜」を歌った。だからぼくはいつの間にか覚え、今も歌うことができる。

 ジャワの思い出話は子供心にはとても興味深く好奇心をそそった。母は父の海外赴任に強く反対したそうだが、父は当時の日本男子の通例で「お国のため」を口にして太平洋を南へ下った。妹が母のお腹に宿っていたというから1943年の秋ころだったと思う。
 「戦争に勝っていたらカズヨシ、お前にジープ買ってやれたのになあ」とちゃぶ台の父が悔しそうに言う。
 「そんなことになっていたら革命が起きて日本人は皆殺しになっていたと思うよ、お父さん」とぼくは嗤って、からかい気味に反論したことを覚えている。
 敗戦の翌年だったと思う。父は抑留生活を終え、復員船で帰国した。なんの前触れなく突然、帰ってきた親父を幼かったぼくは他所の人と勘違いした。「カズヨシはお父さんに石をぶっつけた」と父が飲むたびに口にした。運よく生還できた父なのに、幼児のこととは言え実の息子に石を投げられことはよほど堪えたらしい。

 父のジャワの思い出は「いい生活」であった。日本軍占領下のインドネシアである。多くのジャワ人を部下に使い、優雅な生活ができたのは容易に想像できる。戦時中、陸軍では“ジャワ天国、ビルマ地獄”と言われた。オランダの植民地だったインドネシアは日本軍が上陸した際、戦闘になったが、オランダ軍がすぐ降伏した。以来、終戦まで戦闘らしい戦闘は無かった。軍政の下、軍属だった鉄道の駅長にはほどほどの役得があったに違いない。熱帯のインドネシアだが、バンドンは高地で涼しく暮らしやすい。父は駅長さんとして、大尽の生活を送ったのであろう。ぼくら家族は伊勢の二見に疎開していたからジャワ時代をまったく知らない。親父の話を聴くだけでジャワにあこがれた。

 2006年8月、27年近くに及んだアメリカ生活から帰国した。縁あって日大教員となった。手を差し伸べてくれたのが、同じ学科の吉田教授だった。大学を外から眺めていた自分が初めて内側の人間となった時、仰天するほど驚いたことが多い。まったく大学とは常識はずれの知的空間で、戸惑うこと多く、吉田が親切にいろいろアドバイスしてくれた。
 吉田は立教大学を卒業してアメリカへ留学、イリノイ大学で文化人類学を学びインドネシアの研究家となった。インドネシア語が達者な彼におんぶに抱っこという形で世話になることを前提の旅だった。

 インドネシアは人口2億5,546万人(2013年)で世界第4位、88.6%がモスリムという世界最大のイスラム国家である。ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン(ボルネオ)島、バリ島など、大小1万7,508の島々でなる島嶼国。加えて1,128の民族、745の言語という多民族多言語国家である。共通語としてマレー語に近いインドネシア語が使われている。
 東西に5,110キロメートルと北米大陸の東西海岸の幅を超える。発展途上国ながら近年、経済成長が著しく2014年で5.0%、安くて豊富な労働力、石油、天然ガスなど豊富な資源がこの国の可能性を大きくしている。

 もっとも近年、石油は輸出国から輸入国に転じ、労働力も賃金が上昇して、けっして「安い」とは言えなくなり進出日本企業は苦慮している、というのが国際交流基金ジャカルタ事務所長・小川忠の指摘である。
 「多様性の統一」が国家理念とされる。移民国家・アメリカ合衆国と相似である。アメリカのコインには「自由」と「神」と「多様性の統一」というラテン語が刻まれている。多人種、異文化、宗教の異なる人々が世界各地から移民して作り上げた人造国家である。価値観が異なる人間が喧嘩せず共生する知恵は、自分とは違う文化、宗教などを認め合うことである。「共生」そのものである。

 ジャワ島はジャワ人とスンダ人が共存する。スマトラ島にも多くの異人種が住んでいる。ジャカルタ郊外の少数民族が住む家々が立ち並ぶテーマ・パークがある。一見してデザインが違う。西スマトラ州の高地に住むミナンカバウ人(ミナン人、パダン人とも呼ぶ)は女系社会である。土地、財産は母から娘に相続される。伝統衣装は赤い逆三角形のターバンのような頭巾を被っている。ジャワ人とスンダ人が結婚すると子供は父の実家へ行けばジャワ語、母の実家ではスンダ語を話す。インドネシア語は共通語という。人種はマレー系が多く、インドネシア語もマレー語に近い。

 既述したとおり宗教は9割近くがイスラム教だが、観光の島・バリだけが例外で、インドネシアで唯一のヒンズー教である。ホテルは観光地で賑わうコタの海岸と反対、東側の鄙びた海岸に面していた。正直言って清潔とはあまり縁のない発展途上国そのものの雰囲気の安ホテルだった。このホテルは吉田のお気に入りで、毎年、何日か休暇としてゆったり過ごすことにしているそうだ。

 タクシーを雇って観光客向けのバリの踊りや銀製品とか絵画を売る村に連れて行ってもらった。バリ料理は想像していたより美味しい。
 ぼくの目を惹いたのはヒンズー教の総本山の大きな寺院。ブサキ寺院という。約30の寺院の集合体で、仏塔や彫刻、石造などがあって、一見の価値あり、ガイドが気転を効かせて腰巻とバリの帽子を持ってきてくれたので、観光客が入れない奥の本殿まで行くことかできた。

 信者たちが頭に供え物を乗せて貸し切りのバスでやってくる。本殿で一族郎党集まり座って祈っていた。街中ではどこもかしこも神へ供える祠のようなものがあり、供え物は常に欠かすことがない。供え物は市場でもどこでも売っている。
 バリの祝祭はヒンズー教と深く関わっている。まさに宗教が生活に根付いているのを実見した。吉田の知人の大邸宅は想像以上に大きく、邸内に家族だけのヒンズー寺院が建っている。息子さんがじっと座って祈っていたのが印象的だった。

 2002年10月12日、この島で爆弾テロがあり死者202人を出した。さらに2005年10月1日、自爆テロで犯人含め23人が亡くなり196人が重軽傷を負った。デンパサール空港に近い国際観光地、ジンバラン・ビーチ近くに大きな慰霊塔がある。今は観光客でごった返す平和な観光地で血生臭い爆弾テロが起きたとは想像もできない。
 空は満天の星、熱帯特有のぬくい砂浜のテーブルで魚貝類を焼く。ステージでは踊り子がバリ特有の踊りを披露している。ワインが一段と美味しい。

 バリ島で3日間、至福の時を過ごし、8月30日、ジャワ島のバンドンへ飛んだ。降り立った所は国際空港というにはあまりにもお粗末な古くて狭い空港で、出口を出たら幅10メートルくらいの道が一本、広場もない。空港へ集中する人とオートバイと車がごちゃ混ぜに凄いスピードで走り回っている。
 危ないなあ、というのが最初のバンドンの印象である。

 9月1日バンドン工科大学で吉田がシンポジウムに参加、翌日インドネシア教育大学の開講式でユドヨノ前大統領の講演を聴いた。ぼくらはユドヨノ大統領夫妻のすぐ後の招待者席に座らされた。ぼくには理解不能のインドネシア語の講話だったが、スクリーンに時々、英語表示が出て、何を話しているかは大よそ見当がついた。
 「平和を創造するのは戦争を始めるよりはるかに難しい。君ら若いインドネシア人学生は世界平和に心してほしい」といった趣旨の講話だったと思う。
 父が駅長だったバンドン駅はそのまま現在も使っている。

 駅前に昔の古い蒸気機関車が展示してあり、その周辺は家賃の値上げに抗議するデモ隊でごった返していた。テレビのカメラが回り、リーダーにインタビューしている。
 駅の待合室は最近、改装されたらしく小奇麗でごみはなかった。改札口の脇にモスリムのための祈りの空間が設けてあるのがいかにもイスラム国家らしい。20畳くらいの部屋で、多くのモスリムがメッカの方向へ向かい祈っていた。

 ぼくらを案内してくれたインドネシア教育大学の学生も「チョット、待ってね」と言って祈りに行ってしまった。祈りを済ませ10分くらいで戻ってきた。
 鉄道の営業は「インドネシア国鉄PT.KAI」という会社、本社がバンドン駅のすぐ脇にあった。1991年1月に公社化、1999年6月民営化された。従業員約2万7,000人という大きな企業である。

 もともとインドネシアの鉄道は宗主国のオランダ人が敷設したもので、日本で最初の新橋〜横浜間(明治5年9月)より5年も早かったという。ジャワ島とスマトラ島に総延長4,148キロメートル。

 スラバヤ総領事館の首席領事・古賀俊行が稀代の鉄道ファン、いわゆる“鉄キチ”で『インドネシア鉄道の旅 魅惑のトレイン・ワールド』(潮書房光人社)を上梓している。古賀が休暇で帰国した10月、東京で会ったが、なかなかの勉強家で彼が書いた鉄道の本はやたら詳しい。

 同書によれば世界無形文化遺産に指定された「バティック」(インドネシアのろうけつ染、ジャワ更紗)のデザインを客車にほどこした「バティック車」が走るのだそうだ。
 ジャカルタ初の地下鉄の建設が2013年10月着工された。コタ駅から市の中街スディルマン通りを南へ走る南北線の開通は2018年とされる。総工費1,500億円の財源は日本の特別円借款である。

 バンドン駅からジャカルタへは鉄道で移動する。改札口でパスポートの提示を求められた。氏名を確認する。まるで空港並みの厳しいチェックである。発車時間はダイヤ通り正確だった。車窓は拭かないのかとても汚い。車内で買った弁当はぼくらの座席まで運んでくれた。なかなか美味であった。

 ジャカルタ〜バンドン間に高速鉄道建設が計画され、日本と中国が受注合戦を繰り広げたことは耳新しい。ジャカルタ〜バンドン〜チレボン〜スマラン〜スラバヤ間、全長730キロに新線を建設、時速300キロで走る構想。まず旅客需要が確実に見込めるジャカルタ〜バンドン間144キロから着手する。完成すれば3時間かかっていたこの区間が37分に短縮される新幹線構想である。

 日本と中国が受注の名乗りを上げた。日本はフィージビリティ・スタディ(実現可能性調査)をやり新幹線の技術を導入することで事実上、決まりかけていた。
 ジャカルタに着いた9月3日、インドネシア政府は新線建設計画を白紙に戻すと発表し、日本企業の駐在員はその話で持ちきりだった。交渉の最終段階で白紙となり、しかも唐突に中国の受注が決まった。

 ソフィアン国家開発企画庁長官が9月27日来日、菅義偉官房長官に中国決定を告げた。菅長官は激怒、例になく強く抗議したというが後の祭り。巨額の建設費を中国が全額出資し、工期も日本の試験運転期間を含めて5年より速い3年を提示、イ政府の債務保証はしない。要するに中国の金と技術とリスクで全線建設するという、常識では考えらない好条件だった。

 この破格の提案では日本が勝てるはずがない。これまで投じてきた調査費は全額無駄となり、日本の努力はすべて徒労に終わった。しかも提出した調査結果を中国が参考にするらしいというもっぱらの噂である。
 ジャカルタ首都圏、近郊の電鉄は「ジャボデタベック」が運行しているが「アジア危機後の2000年には、わが国の都営地下鉄から冷房つき中古電車72両が譲渡され、現在の日本製中古電車全盛の礎が築かれることとなった」(前述の『インドネシア鉄道の旅』)。だから今、ジャカルタで都営三田線で使った電車が走っているのである。
 こうした日本の善意ある協力がありながら高速鉄道建設は中国に決定というニュースに日本政府の怒りは収まらない。

 流れが変わったのはインドネシアの政権交代だった。2014年10月20日、大統領に当選したジョコ・ウィドド(通称「ジョコウィ」)はジャワ島だけにインフラ投資を集中するのは避けたい。もっと貧しい小さい島々のインフラを整備するのが先決という政見公約だった。

 もともと家具商だったジョコウィは中部ジャワ州ソロ市出身、イスラム教徒で53歳と若い。2005年ソロ市長に当選、2010年には90%の支持を得て再選された人気の市民派政治家、ジャカルタ特別州知事選に鞍替えして当選、さらに2014年10月の大統領選に出馬、当選した。インドネシアでは初めての庶民出身である。
 なぜインドネシア政府が高速鉄道の建設を中国に委ねたのか。中国のASEAN(東南アジア諸国連合)への接近戦略と考えるのが妥当だろう。詳細は不明だが、“裏の話”があったらしいともっぱらの噂である。

 インドネシアの歴史を紐解けば350年に及ぶオランダの植民地支配があり、日本は日米開戦とほぼ同時にマレー半島に上陸、シンガポールを占領、スマトラの石油を狙ってオランダ軍を攻め落とした。

 日本の敗戦で1945年8月17日、スラバヤ生まれの民族主義者・スカルノが独立宣言したが、オランダはこれを認めず再度、インドネシアへ武力侵攻した。対蘭独立戦となり、800数十人の残留日本兵が支援参戦したという事実がある。(後藤乾一著『東南アジアから見た近現代日本』)ほぼ半数が戦死したという。

 大戦下では「兵補」と呼ばれる現地のインドネシア人を徴用、訓練し、日本軍と戦ったインドネシア青年が数万人いた。彼らは30年も前から日本政府に未払い給与のなどの補償を求めているが、日本政府は平和条約・賠償協定で解決済と拒否している。(『毎日新聞』2015年7月26日)

 実際にオランダが手を引いて独立が果たせたのは1949年だ。
 スカルノ大統領は“建国の父”、デビ夫人が日本人であることはあまりにも有名だ。日本の対インドネシア賠償はインドネシアの青年を日本へ留学させるなどのプロジェクトがあり、日イ関係はより深まった。バンドン工科大学で日本語を学んでいる学生は現在400人と聞いた。インドネシア青年たちの日本に対する熱い視線を痛切に感じる。
 ぼくらを案内してくれたインドネシア教育大学の学生二人は日本語がよくできた。一人は在ジャカルタの大手旅行社に採用されることになっているそうだ。

 インドネシアにおける日本車のシェアは現地産含めて96%、日本製オートバイは99%、米欧や韓国製車を圧倒している。日本人大好きを標榜するアジア最大のプロ・ジャパンの国である。住民感情はイ経済を掌握している華人に厳しいと聞いたが、今回の新幹線建設をめぐる大逆転劇は中国の実力を見せつけた結果となった。交渉の裏に何があったのか知る由もない。
 新幹線建設が完成すればそのメンテナンスなどで中国が深く関与することになろう。

 1955年4月、スカルノ大統領はインドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、中国の周恩来首相といった第三世界の指導者らとともにバンドン会議を開いた。東西陣営ではない第三勢力としてのプレゼンスを世界に示した会議として歴史に残る。「アジア・アフリカ会議」と呼ばれ、日本を含む29か国が参加した。反帝国主義、反植民地主義と民族自決、人種平等、世界平和などを訴えた。東西どちらにも属さない非同盟諸国が初めて国際社会で声を上げ、大きな波紋を投げかけた。

 バンドン会議が開かれたジャカルタの会場は現在、記念博物館となって公開されている。
 2015年4月22日から3日間の日程でバンドン会議60周年を記念するアジア・アフリカ首脳会議が開かれ、80か国以上が参加した。安倍晋三首相はこの会議で演説し「共に生きる」ことを強調した。まさにバンドン会議のテーマは平和と共生だった。

 また、ことしは“9・30事件”から50周年である。1965年9月30日、6人の将軍が暗殺された事件を契機にスハルト少将が実権を握った。将軍殺害はインドネシア共産党員の仕業だという情報を流し、苛烈な弾圧を加えた。その犠牲者は50万人とも100万人ともいわれている。(松村高夫・矢野久編著『大量虐殺の社会史』第5章、倉沢愛子「九・三〇事件とインドネシア共産党撲滅」』)

 2015年10月1日付『産經新聞』の吉村英輝記者は「全土で50万〜200万人が虐殺された」と書いた。正しい数字は不明なのだろうが、大量虐殺があったことは確かのようだ。
 さらに前著、倉沢愛子・慶応大学教授の研究によれば「ユアン・ブアヤの古井戸から将軍たちの遺体が引き上げられたときその遺体は、性器が切り取られ、目玉がえぐられ、激しい損傷を受けていたというメディア報道であった」「スハルトにバックアップされた国軍が巧みな情報操作によって人々の憎しみを煽ったと考えられるのである」。この事実は後日、米国コーネル大学のベネディクト・アンダーソンが医師の検視結果を入手し公表したが、性器や目玉への虐待の跡は記録されていなかった」(前記論文)

 ソロ川が殺された犠牲者の血で染まったと言われる。今もその時の恐怖を人々は忘れない。
 共産党の消滅を図ったスハルトの強権政治は開発独裁と呼ばれ30年余続いた。賄賂が公然とまかり通り、政権の腐敗、汚職が蔓延したことに反発する国民の政権不信、怒りが暴動となってスハルト体制は崩壊した。
 以降、インドネシアが民主化されてから未だ17年に過ぎない。

 日本の対インドネシア経済協力は、もともとインドネシア賠償と深く関係する。1958年1月20日、岸信介内閣とインドネシア政府の間で成立した平和条約・賠償協定では「803億880万円に相当する生産物および役務」とされた。
 賠償の内容は事実上、「投資」の側面があり、4つのホテルやショッピングセンターを日本の企業が建設した。1960年から1964年にかけて日本への留学生を日本政府が受け入れた。賠償留学生である。

 賠償協定により日イ関係は緊密になり、留学生がその橋渡し役となった。同時に日本の商社がビジネスとしてインドネシアに進出した。
 現在、ジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)には日本企業966社が加盟(2015年6月末現在)、ジェトロが発行している『日本企業ダイレクトリー』には1,496社が掲載されている。インドネシアの在留邦人17,893人で、ジャカルタの中心ビジネス街とブロックM街には多くの日本食レストランがオープンしていて、イスラム国なのにとんかつも食べられる。現地食に比べると格段に高いが…。

 今回の新幹線受注の真相を解き明かすにはかなり時間かかるだろう。日本の常識は通らない、インドネシアと中国である。日本を抜いて世界第二の経済大国になった中国、途方もない資金力でアジアにおけるプレゼンスを高めて来た中国がここでも日本に大きく立ちはだかった。

 『アジア情報フォーラム』のホームページに「ジャカルタ通信」を書いている国際交流基金ジャカルタ事務所長、小川忠を訪ねた。インドネシアの経済成長は著しいが、現地でインドネシアの実態を眺めている視線は冷静で、かつ厳しい。
 中間層の勃興といっても貧富の差は限りなく大きい。中央政界の汚職は末端にまで広がっている。新幹線受注にいくら動いたのかは知らないが、アンダー・マネーを否定する人はいないだろうという。
 小川は『ジャカルタ通信』に書いている。
 「外からインドネシアを眺めると、急速な経済成長によって国民生活の底上げが進み、国民は満足しているように思われがちだが、中にあると相変らぬ政府高官の汚職続発、急速な物価上昇、格差の拡大に対する不満は、民主改革への期待が高かった分だけ、激しい競争にさらされている擬似中間層のあいだで鬱積している。ホーが民主改革を『偽善』とみなす気分が擬似中間層に拡がる時、インドネシア民主化はタイのような試練に直面する可能性がある」

 2013年釜山国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した「JALANAN(街路の片隅で)」という音楽ドキュメンタリー映画を、小川は「シネマ21」系列の映画館で観た。その感想である。「ホー」とは主人公3人のストーリート・ミュージシャンの一人の名である。

 2015年10月19日、イギリスを訪問した中国の習近平国家主席は、エリザベス女王主催の晩餐会に出席し乾杯を交わした。習近平主席とキャメロン英首相は原発や新幹線建設に関する中国からの巨額の融資を話し合った、と報道された。
 アヘン戦争から175年の現実である。

 アヘンという人格破壊の麻薬で大もうけした大英帝国の歴史。英・中国家元首の宴はぼくら日本人には馴染めない、なんとなく違和感を抱いてしまう。
 「共生」はまだ遠い夢なのだろうか。

 最後にインドネシアのイスラム化について6月21日付「ジャカルタ通信」(40)で小川が書いているので紹介しておきたい。

 ことしのラマダン(断食月)は6月18日に統一され(イスラム組織によって昨年まで1日ずれていた)た。「1970年代末期以降、インドネシア社会に『イスラム意識の覚醒』、『イスラム化現象』の巨大な波が押し寄せている」という。宗教省の統計では寄宿制の伝統的イスラム教育機関「プサントレン」が、1981年5,661だったのが2012年には29,535に激増、寄宿生も938,397人から3,876,696人に増えた。「伝統的イスラム教育を実施している機関」が18,233に対し、「近代的イスラム教育を実施している機関」が5,483、「伝統・近代をミックスした教育を実施している機関」が5,819。圧倒的に「伝統的イスラム教育」が多い。

 「バリ爆弾事件に関与したテロ組織ジャマー・イスラミアの精神的指導者、アブ・バカル・バアシルが中部ジャワの古都、ソロ近郊に創設した『プサントレン・アル・ムクミン』だ。イスラム法に基づくイスラム国家の樹立をめざすカリキュラムが過激派イスラム主義者を育てている、として、警察や情報機関が厳しく監視している」
 「プサントレンでは、10代、20代の若者が一つの屋根の下で寝食を共にしながらイスラムの教えを学ぶ。「外部からの連絡が断たれた環境の中で狂信的な指導者が、純粋無垢な若者たちに一方的に彼らの教義を吹き込むことで、テロリスト予備軍が形成される」

 ここにも「共生」というコンセプトに欠ける教育が行われる可能性があり、貧困や腐敗の実態とともに現政府を拒否する過激な暴力を生み出す危険を指摘できるかもしれない。
 スマトラ島の北部、アチェやニューギニア島の西半分を占める西パプア州の分離独立への動きなどもあり、この国が抱える「多様性」は限りなく複雑だ。資源開発、環境問題、汚職、自然災害など問題は錯綜している。

 インドネシアという多民族、多文化、多言語のイスラム国を旅して、複雑多岐な問題を乗り越え、「共生」という人類史の目標をどう実現してゆくのか、道のりは遠い、というのが素人ながら僕自身の観察である。
 異文化結婚(国際結婚)という真に特異な研究をしている吉田が「共生」への期待、憧れに対し、きっぱりと言い切っている。

 「異文化や他者の理解に終着駅はない」(『アジア共同体の創成に向かって』、吉田正紀論文「あらゆる結婚は異文化結婚である」)
 だから吉田は言う。

 「異文化や他者に対する理解を発展させる一つの方法は、実際に異文化と格闘している人たち、異文化結婚を営む人たちから学ぶことである。この人たちは、グローバル化が進行する現在、また多文化共生が叫ばれる今日、多文化のなかで生きていくための新たな知恵と方法をわれわれに与えてくれるのではないかと思う」(前掲書)

 (筆者は元読売新聞記者・ジャーナリスト)


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