大河ドラマ『軍師官兵衛』を地方史の視点で読み解く

【自由のひろば】

大河ドラマ『軍師官兵衛』を地方史の視点で読み解く

                         三木 基弘


 
私は、大河ドラマをホームドラマとして観ています。戦国時代を生きた人物の活躍ぶりが、現代を生きる私達の日々の生活に大きな刺激を与えてくれます。黒田官兵衛孝高(以下、官兵衛と略記します。)は、現在の感覚で言えば、地方自治体幹部が中央政界の中心人物に近づき、やがて別の地方自治体の首長となる。また、息子を別の県知事に押し上げる。そしてその最終目標は、自ら総理の座を射止めることにあった、と言えましょうか。その生き方の中で、家族の支えあいや部下との絆を確かなものとしていく。子飼いの武将の育て方を観ると、組織を起こし部下を育てる能力に長けていたと思われます。今から約四百年前の人物を登場させながら、現代人の生き方において参考となるドラマです。

1 情報戦を戦い抜く
官兵衛は、天文15年(1546)11月29日に生まれ、慶長9年(2004)3月20日に亡くなりました。享年59歳。彼が生きた戦国時代は、中世時代の終盤から近世時代の初頭です。戦国時代は、一般的に応仁の乱(1467~77)から豊臣秀吉による全国統一が完成した天正18年(1590)までとされています。官兵衛は黒田職隆(もとたか)の嫡男として、姫路城で誕生します。現在の世界文化遺産・姫路城のある場所です。もっとも黒田時代の城は砦のようなものと考えられています。また『姫路市史』姫路城編では、黒田氏(官兵衛の祖先)が砦を築いた時期を、姫路城の築城起源としています。それまでの通説では、赤松則村が元弘3年(1333)に縄張りを定め、則村の次男・貞範が砦を築いたときを起源としていました。
 
官兵衛は22歳のときに結婚します。相手は、播磨志方城主・櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘・光(てる)です。伊定は官兵衛が気に入っていたようで、朱塗りのお猪口をひっくり返したような鎧兜を官兵衛に贈りました。この現物は現存しています。官兵衛の父は、その頃御着(ごちゃく)城主・小寺政職(こでら・まさもと)の家老として活躍しており、小寺姓を名乗っていました。官兵衛の結婚を機に、父は隠居します。そして官兵衛が姫路城城主と小寺家の家老職を継ぎます。その当時、播磨は小領主が乱立している状態で、東に織田の勢力、西から毛利の勢力が伸びてきていました。小寺家でも、生き残りを賭けて、どちらの勢力に付くべきか家臣の間では意見が割れていました。

これを織田方へ着くべきと主張したのが官兵衛でした。官兵衛は、広峯神社の御師(おし)等から得た確かな情報を基に分析し、理路整然とした判断により、小寺家を織田方に導きます。官兵衛が的確な情報を得ていたことは、この評定会議の直前の事件・天正3年(1575)5月21日の長篠・設楽原での織田勢の勝利に言及していることから、伺い知ることができます。戦国時代にあって情報の正確さと迅速さは、一家が生き延びるために最も重要なものの一つです。

黒田三代目忠之の時代に、藩士・貝原益軒(藩医・儒学者)が17年の歳月をかけて著した『黒田家譜』によると、黒田家の祖先は滋賀県木之本の黒田郷あたりに住んでいました。その後、故あって備前福岡(現、岡山県長船市福岡)へ流れ、ときを経て姫路へ土着したとされています。姫路へ来てから、その地に勢力を張る広峯神社(ひろみね)と結びつく中で、御師たちの情報網を活用していったと考えられるのです。この広峯信仰は、中世時代から広い地域で人々の信仰を集めた神社です。余談ですが(以後、道草を食うことはよくあります)、平安時代に京都での疫病退散を願って、京都の八坂神社に分祀したとも伝えられています。八坂神社では否定していますが。また姫路では、神社名は広峯、小学校名は広峰、中学校名は広嶺と表示が難しいのです。
 
この戦国時代は、情報を如何に早く得るか、その情報は正確なものか、これに対してどう対処するかは、当人にとって生きるか死ぬかの時代でした。それも一家一族を挙げて生活を賭けた戦いの時代です。もしも誤った情報を基に動けば、一家が滅びる危険性がありました。実際、織田信長勢力の播磨侵攻で当時の播磨の小領主たちの内、かなりの数が滅んでいます。結果的に、官兵衛は生き残ります。官兵衛は情報を、より早く得て適切な判断を下したと思われます。私はこのドラマを、情報戦の側面に関心の目を向けながら見ています。
 
2.毛利氏との戦い~難題への挑戦
 織田信長の天下統一づくりへの過程で、毛利氏との戦は避けられない状況となりました。その最初の戦が上月城の戦いです。上月城は二度に亘って秀吉と毛利との戦が繰り広げられます。第一次は秀吉が城主・赤松政範を攻め滅ぼした戦いです。城主は、上月氏とも赤松政範とも言われています。上月城は、JR姫新線(姫路~新見)の山間にある小さな駅・上月駅を降りると、直ぐ南に位置する小山です。歩くと約30分で頂上に着きます。現在山頂には城跡を示す石碑だけが立っています。この地は、播磨(姫路を含む)と美作・備前さらに因幡への入り口にあたる交通の要所です。このため攻防は激しいものがありました。秀吉は毛利氏への見せしめのため、城に立て籠もった城兵の降伏は許さず、城に逃げ込んだ女は磔、子どもは串刺しにしたと言われています。その数約200人。秀吉は大敵毛利と戦うにあたり、人々への見せしめにしたと伝わっています。

第二次は尼子勝久・山中鹿助主従と毛利氏との攻防戦です。織田信長は、尼子氏再興を願う勝久を上月城に入れます。これに対して毛利氏は、大軍を押し出して城を囲みます。官兵衛も荒木村重らと共に、秀吉軍の一翼にあって対峙します。暫くは両軍が睨み合ったまま膠着状態が続きます。

しかしその頃の信長は全面に敵と対峙していました。石山本願寺(後、大坂城の地)の攻防など信長包囲網とも言える戦況悪化の中で、信長はついに上月城を見捨てるよう秀吉に命じます。この結果上月城は落城し、尼子勝久は自刃します。山中鹿助はその後安芸へ護送される途中、備中高梁の地で毛利家家臣により殺されます。その首は鞆の浦(広島県福山市)に居た足利義昭のもとに送られます。

当時足利義昭(足利氏最後の将軍)は、毛利氏によりこの地で庇護されていました。鞆の浦は瀬戸内の海上交通の要衝です。この街の中に山中鹿助の首塚があります。余談ですが、この後関ヶ原の戦いの前、官兵衛は戦況を知るためこの地に伝馬船を用意させています。大坂から鞆、上関を経て福岡まで約2日で情報が届きました。鞆から少し車で走ったところで、その伝馬船を展示しているところがあります。

上月に戻りますが、城の麓に戦という地名が残っています。織田と毛利の戦が始まる中で、多くの住民が犠牲となりました。また上月城主の妻は官兵衛の妻の姉とされており、官兵衛も苦悩をしたことと思われます。

3 三木城の干し殺しと「まちづくり」
 羽柴秀吉(以下、秀吉と記す。)の播磨因幡への攻め方をめぐり、「三木城の干し殺し、鳥取の餓え殺し」と後に表現される悲惨な戦いが繰り拡げられました。三木城の攻防では、城主別所長治の立て籠もる城を秀吉軍が包囲します。1年以上の籠城を経て、長治は「城兵農民の命」と引き換えに、一族共自害して果てます。このことにより、その後現在に至るも住民は別所長治公を慕い、彼の治世や領民と共に外敵(秀吉)に抵抗を続けてきたことを誇りとしています。他方で住民は敵軍秀吉たちのことも敵視していません。特にこの地で病没した竹中半兵衛(秀吉の軍師)について、住民はその墓を守り続けています。     

ところが数年前、某歴史学者が『三木市史』に、別所長治が切腹しても殺戮は繰り返された、長治一族の自決はあまり意味がなかった、という趣旨の内容を、発表しました。その結果市民は混乱し、三木市史の記述内容への反発が強まったようです。特に市民ボランティアたちは、観光客に伝えてきた長治への熱い語りに横槍を入れられた思いだったようです。結局、三木市ではその1年後にまた三木市史別冊を発刊します。

その中で、一片の新たな史料に基づいた論述だけでは別所長治がその命と引き換えに城兵農民を数多く助けた思いを十分検証できていない、今後のさらなる史料の発見や研究を積み重ねる必要があるとして、市としての考えを文中に入れました。この問題は、市史の執筆者と市民の歴史認識・市の観光政策に差異が生じるところにあります。新たな史料等を基に市史に記載されてしまうと、それが正史となります。これが市民の歴史認識と異なる場合に、摩擦が生じることになります。自分たちの住むまちの歴史を誇りにする市民にすれば、このような新たな歴史論争は、学者なら大学の紀要か自書で発表してくれ、市史を利用するなという思いになります。
 
現在三木市では「金物のまち」として、まちづくりを行っています。別所長治の時代より以前から戦に必要な金物づくりを行ってきました。三木城が開城された後も職人たちは羽柴秀吉によって保護されました。これは、秀吉の軍師の一人・竹中半兵衛(以下、半兵衛と記す。)の遺言に依ると言われています。

半兵衛は、三木城包囲網の陣中で病気の為に亡くなりますが、開城後の三木のまちについて遺言を残しました。それは、開城後は住民を殺めることなく、また商工業の保護育成に努めるようにというものでした。それを秀吉が守り、開城後は職人保護政策を地元で推し進めました。このため、領民は敵方の軍師・半兵衛に対しても、敬意を払い続けてきました。今でも半兵衛の墓は、地元住民の手で手厚く祀られ続けています。
 
因みに官兵衛は、この三木城包囲網の最中に途中で戦場離脱を余儀なくされていました。それは、当時有岡城主であった荒木村重が織田信長へ反旗を翻したことに対して、その行為を思い留まるよう説得に行き、逆に城内に幽閉された為でした。官兵衛はここで一年以上に亘り、その生死が不明のままの状態が継続します。この幽閉を余儀なくされた中で官兵衛は、人生観を大きく変える転機を迎えます。彼が荒木に寝返ったのではないかと織田信長から疑われているときに、黒田の家臣たちは一致団結します。黒田家の大きな危機の中で、家臣団は結束して内外の問題にあたります。官兵衛が救出されたとき、彼は身体障がい者となっていました。

3.一夫一婦を貫く~キリスト教への入信、情報収集
 この戦国時代にあって、官兵衛は生涯ただ一人の女性を伴侶としています。 戦国時代に妻一人で通したのは、ごく少数の武将です。同時代では高山右近の名が挙がることでしょう。側室を持たなかったのは、高山右近の勧めにより、キリスト教信者となったためとも言われています。官兵衛は戦国時代に生きながら、戦を少しでも早く終わらせたいと考えていた「軍師」だと、私は思っています。この点で、ホームドラマとしては男女関係を巡る華やかさに欠けるようです。官兵衛の夫婦中は良く取り立てて波風が立つことは無かったようです。

妻と二人で家庭を築き上げることは、そもそもホームドラマなのです。そこで二人の子(長政と熊之助)をもうけ、嫡男・長政は筑前黒田藩の初代藩主となり、次男・熊之助は慶長の役のとき官兵衛の命に反して玄界灘を渡海しようとして溺死します。次男の死は、官兵衛の家庭生活で一番の不幸な出来事だったと思われます。
 
官兵衛は、合理主義者の側面を持っています。彼は、戦国時代を早く終わらせたいという信念の基に豊臣秀吉を軍師として補佐して行きます。また、キリスト教に入信することで神父側の多大な情報を得ようとしたと考えられます。妻・光は入信していませんが、弟は何人も入信しています。室を持って子を増やすより、いざという時には弟の誰かを跡継ぎに据えたらよいという思いを持っていたと、私は思っています。

彼は、関ヶ原の戦が起き嫡男長政が東軍徳川方について戦っている最中に武装蜂起しますが、関ヶ原の勝者と戦うことを選択した限り、親子対決も辞さなかったと思われます。しかし関ヶ原の戦いは、彼の予想を大幅に覆したった一日で終わります。しかもその戦における陰の功労者は長政だったのです。歴史の皮肉というべきでしょう。
 官兵衛が亡くなったのは江戸時代初期(1604)ですが、葬儀は遺言によりキリスト教葬で行なっています。この時期、秀吉によりキリスト禁教令が出ています。秀吉は既に亡くなっていますが、ある種の反骨・気概を感じます。
 
4.秀吉の補佐役としての活躍   
 官兵衛は、秀吉に従いながら戦を続けて行きます。三木城攻めの干し殺し、鳥取城での飢え殺しなどの籠城戦は、悲惨ではありますが槍鉄砲などによる殺戮を避けた点で織田信長の戦法とは違う戦いです。
 
織田信長が本能寺の変で倒れた後、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉ですが、豊臣に統一して記します)に建策し、天下人への驀進を補佐して行きます。これから小田原城開城の頃までは、軍師官兵衛の活躍が秀吉を支えてきました。

毛利軍は、上月城落城後、兵を引き上げます。長滞陣ができないためです。一つは宇喜多勢の動向に不審が見られること(この後宇喜多は毛利から織田へ寝返ります)、その後の戦に備えるためです。一方の秀吉軍は、三木城への包囲を続けます。地元で「三木合戦」と呼ばれるこの攻城戦は、天正6年(1578)から同8年(1579)1月まで、約1年10カ月にわたる戦いです。

5.本能寺の変~社会環境の激変、秀吉の警戒が始まる
 秀吉が毛利軍と備中高松城を挟み対峙している中、秀吉陣に本能寺の変を知らせる情報がもたらされます。茶人の長谷川宗仁からの使者と言われています。元来この時代は、情報について如何に正しい内容を早く知るかが非常に大切でした。先に記しましたとおり、家の存続に直接結びつくからです。
 
秀吉は、この変を知ったとき、茫然自失状態になったと伝えられています。秀吉は信長にその才を認められて、一軍の大将まで上り詰めた訳ですから当然と言えます。この時の秀吉に官兵衛は、「ご武運が開けましたな」という内容の言葉を伝えます。今年のドラマで官兵衛役の岡田准一が苦労したところだと、発言しています。実際、信長が亡くなると各戦国大名夫々に大混乱が起こります。信長を取り巻く勢力争いの力関係が激変するのですから、当然のことです。

秀吉は、ここで急ぎ中国大返しをします。そして明智光秀と戦います。このことができた為、秀吉はその後一気に天下取りに結び付いた訳です。この苦境を乗り越え逆転劇を演じることが出来たのは、官兵衛の力が大きかったでしょう。
軍師の面目躍如といったところです。
 
しかし反面これ以降、秀吉は官兵衛を警戒し始めます。それは官兵衛が余りに冷静沈着な考えの持ち主だったからです。その判断が早いことも警戒を重ねることになりました。これを現在の組織に置き換えてみれば、社長が副社長を警戒し、潰しにかかるケースに重ね合わせることができるでしょう。出来過ぎることが、警戒心を育てました。組織内で生き残るためには、才能が無くてはダメ、出来過ぎてもダメなのです。

6 秀吉と共に戦国時代の終焉を図る~官兵衛がいなかったら戦国時代はもっと長引いていた
 ところで官兵衛は、全国を駆け巡った武将ではありません。有岡城で障害者(最近、障害者から表記が変わっています)となったからではありません。官兵衛は、小田原まで出陣しますが、それより東へは足を運んでいません。このことが、今年のホームドラマ『軍師官兵衛』の視聴率が東で低調、西でまずまずといった数字と重なります。詳しい数字は知りませんが、この傾向は変わっていないと思います。
 
官兵衛は秀吉の九州平定後、秀吉から豊前中津の地に領地を与えられます。秀吉は官兵衛を警戒し、次第に秀吉の政治権力世界から遠ざけて行きます。この地での恩賞も、他の武将と較べ少ないものでした(十八万一千石)。これは才ある者には財を少なく、という判断でしょう。またこの地での藩主の統治能力も問われます。事実官兵衛が藩主となってから宇都宮鎮房を謀殺するという後味の悪い事件が起きます。これは、鎮房による転封拒否が原因ですが、この反乱を機に藩内に一斉蜂起が起きます。これを鎮めることが出来なければ、領地召し上げとなります。同時期に佐々成政は領国肥後熊本で一揆が起き、これを鎮めることが出来ず切腹させられています。

7 福岡のその後~明治時代
 関ヶ原の戦は、徳川家康が率いる東軍の勝利となります。家康は、戦の功労者・黒田長政に筑前福岡に移封し、五十二万三千石を与えます。慶長五年(1600)十二月十一日に名島城へ入城します。そして福崎と呼ばれていた場所を「福岡」と改め、この地に福岡城を築城します。現在の大濠公園です。福岡と改名したのは、『黒田家譜』によると、黒田家の五代目・高政が木之本(現、滋賀県長浜市木之本町)から備前福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へ移り住み、その子・重隆が播磨姫路へ移住しています。さらにその子・職隆を経て官兵衛孝高となりますが、福岡時代での先祖の苦労を忘れないために改名したとされます。藩祖は官兵衛で、初代藩主は長政です。
 
時代は江戸時代を経て、明治までその子孫による治世は続きます。三代目忠之の時代にお家騒動がありましたが、とにかく明治時代に藩主が東京へ移り、子孫は現在も健在です。姫路市御国野町御着(ごちゃく)地区では、毎年四月二十九日に「小寺・黒田家合同法要」を御着城跡周辺で地元史跡保存会が行います。小寺氏黒田氏の縁者を含め、多くの人が集います(私も呼ばれて数年来出席しています)。
 
さて明治22年(1889)に福岡市が成立して翌年、明治23年(1890)2月6日第2回市会の途中で博多部選出議員から突如として「福岡市の市名を博多市と改称したし」という建議が出され、賛成者が続出して市会は異様な緊張に包まれた。以下、『福岡市議会史』から引用します。

議長は「日没につき散会」を宣して、問題を翌日に持ち越した。忽ち市内は賛否両論が沸き立って騒然となり、地元の二大新聞社も論調が二分した。2月7日の市会では、傍聴席に住民が殺到した異常な雰囲気の中で行われ、重大問題につき博多部議員2名、福岡部議員2名、計4名の取り調べ委員を選んで市名変更の得失を調査させることとした。同月14日、取り調べ委員の報告があり、討議採決の結果出席議員27名(内1名は議長、福岡部選出)、改称賛成は13名、正半数となり、市制の規定並びに福岡市会の慣例に従って議長はこれを再議に付し、採決の結果、再び13名正半数となった。

この時、自席から反対意見を述べた議長に代わって議長席にあった議長代理者・小野新路は職権をもって「市名はこのまま変更せざることに決す」と宣し、改称の建議は否決された。この日、市議は博多部2名、福岡部1名が欠席していたので、出席議員は、博多部15名、福岡部12名であった。博多部議員のうち、2名が採決のさい起立しなかったことになる。

議員による議論の中で、市制の初め本県において博多と名付けたが本省(内務省)から在来の名を以って福岡としたこと、福岡の名は黒田氏入国以来できたこと等々、様々な議論がなされた。この地は、名は福岡、駅は博多で落ち着いている。しかし、地元最大の祭り『博多祇園祭り』は、博多地区にしか山車が無い。

8 奥田八二氏の登場~未だ続く騒動
 奥田八二氏は、昭和58年(1983)に福岡県知事に立候補し、当選した。亀井光知事の5選を阻止するため、また多額の税金で建設していた知事公舎を批判し、立候補を決めた。当時奥田氏は、九州大学教授であった。そして当選後、3期その職を務めた。 その奥田氏は、大正9年(1920)生まれ。そして姫路市の出身だった。このため選挙運動中に「ヨソもん」と批判された。後に知事時代の奥田氏から私が直接お聞きした話だ。そのときは、「福岡藩祖であった黒田官兵衛も姫路出身だ。彼もヨソもんか!」と反論してきたという。昭和の時代にあっても黒田氏のことを含む話題が続いている。

9 結び
 官兵衛は、慶長9年(1604)3月20日、伏見の藩邸で亡くなった。享年59歳。時世の句は、「思ひおく言の葉なくてついに行 道は迷はじなるにまかせて」
官兵衛の遺骸は故人の遺志により船で博多へ運ばれ、キリシタンとしての葬儀が厳粛に行われる。但し、その後官兵衛とキリスト教の関係は、隠蔽されていく。現在、彼の墓は大徳寺塔頭龍光院、博多・崇福寺にある。
 官兵衛は、義に熱い人だった。先輩の軍師・竹中半兵衛の死後、その弟重門を重用している。自分を見捨てた主君・小寺政職の死後、その子に扶持米を与えている。有岡城の牢番・加藤重徳の子一成を引き取り、黒田姓を与えて重用している。さらに近年の史料の発見で、道薫(荒木村重)からの問い合わせ状に対し、丁寧な返事をしたためている。有岡城に幽閉された人たちに対して恨む気持ちは無かった。

10.余滴
 私は先に、三木市史について述べた。一片の史料が発見されたことにより、執筆者は従前の通説を覆した。その結果、市民は混乱と批判をした。自分たちの祀ってきた、自慢してきた先人の業績にケチを付けられたと解釈したからだ。
今も別所長治公を祀る法要を、開城した1月18日に毎年行っている。竹中半兵衛の墓も大切に守っている。
 
結びに問題提議したいのは、「赤穂浪士」を巡る話だ。毎年、12月14日に兵庫県赤穂市では「赤穂義士祭」が行われる。この日は、人口を上回る観光客で溢れかえる。赤穂では「義士」と呼び、四十七士の行進が目玉だ。この14日は衆議院議員選挙が行われるが、地元紙の紙面は、義士祭に従事する市職員で手一杯の状態で選挙事務に人手が足りないと、報じている。今回の選挙で一番困っているのは、赤穂市ではないかということだ。
 ともあれ赤穂義士の話を進める。平成4年(1992)12月、赤穂市議会で議員から「赤穂義士は四十六士か四十七士か」という質問が出た。これは、赤穂市が『忠臣蔵』全7巻の発刊計画を企てたが、その第1巻で執筆者が「義士は四十六士、寺坂吉右衛門は離脱した。」と記したためです。これについて、当時の大石神社宮司から「義士はあくまで四十七士である」との反論が出された。その後市民の間や地元紙で論争が重ねられた。当時の宮司・飯尾精氏は、四十七で長年通ってきたものを、いとも簡単に変更することには納得できない、少なくとも両論併記すべし、と主張した。
 
そして議会で質問が提出された。これについて、北爪照夫・赤穂市長は次の答弁をした。「今後、市がかかわります行事につきましては四十七士を顕彰してまいりますし、観光事業等におきましても同様に扱われるのが適当であろうと考えます。一方、学術面、史実の上での赤穂義士と、芸能・文芸の忠臣蔵の領域があります。特に史実につきましては、当事者が書いた資料、伝聞、後世の記録など、非常に多くありました。そのためにそれぞれの観点から、四十七士説、四十六士説が、元禄の事件直後から議論され続けており、これらは研究者の領域で議論されるべきものであると考えます。」また、「私たちの赤穂市が、国内はもとより外国にまでその名を知られているのは、史実の赤穂義士事件とともに、文芸の忠臣蔵にも由来しています。」とも記している(『赤穂義士論』平成9年3月31日発行・赤穂市)。
 
赤穂市は、一般的に播州、といえば赤穂と答えるというくらい、その知名度は高い。その赤穂市の発刊する書籍で、赤穂義士ほど市民や購読希望者に期待される分野は無い。そこで、多くの人が困惑する新説が出されたことは、反響が大きくて当然だ。東京三田の泉岳寺は、義士の墓に線香の香りは絶えない。そこにある墓は、四十七士だ。赤穂の大石神社では、参道で四十七士像が並んで立っており、参拝客を出迎えてくれる。
 
私は、高野山に行ってみた。安芸・浅野家の墓地内に四十七士の顕彰碑が建てられている、その後ろに四十六士義士碑が立っているが、それはその碑が建てられた時期に、寺坂は生きていたためだ。勿論今年の義士行列も四十七士です。では何故このような結果になってしまったのか。もっと他の表現方法は考えられないのか。どうすれば、より多くの人が納得する書籍ができるのか。
 
最後に私論を述べる。元々市が責任発刊する歴史書籍は、首長(市長)が直接、執筆者に委嘱する。この規定は、地方自治法にその根拠がある。早い話、職員が執筆できないことが多いので、専門家に依頼する。市は発刊のために組織を作り、資料を集める。執筆者は、市職員などが集めた資料も参考にした上で、執筆をする。執筆者から見れば、無から有を生み出す作業なのだ。しかし自治体史の発行には幾つかの制約がある。まず、発行期限と予算の制約だ。しかし市の歴史は、「まちづくり」の基本となる。まちづくりを進める上で、その歴史を活かして様々な政策を立案する。いわば、その市の教科書だ。

これを発行するために、首長は執筆者に委嘱する。市民は、市を信じて資料等を提供する。学者個人が直接住民を訪ねても、期待通りにはいかないこともある。執筆者にしてみれば、例えば大学の紀要に新説を発表しても、反応するのは専門家だ。その反響は、市の発行する書籍による方が大きいだろう。かといって、各自治体のも夫々の考えもあろう。

これをどう調整すると、よりよく活かせられるか。私は、この専門会議に首長自ら関心を持ち続け、必要に応じて会議にも出席した上で、各執筆者と意見交換すべきだと考えている。ここで話し合いがないから後でしまった、という話になる。騒動が発生してから、報告が無いとか、執筆に不満を述べることに繋がる。自治体史や地方史の編纂・執筆は外部の専門家や有識者に丸投げすべきではなく、首長などの自治体リーダーや職員が主体的に取り組み、住民の知識と意見を反映させ、そして地域に残る歴史の記憶を汲み上げなければならない。
           (筆者は地方史研究者、姫路市在住)


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