■ 大震災から学びたい                横田 克巳

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  地震、津波、原発の三連大災害は、いまだ被害概要さえ把握できない未曾有の
事態が引き続いている。私も当日新幹線に8時間閉じ込めたれた小さな被害者の
一人だったが、被災地では時がたつにつれて生存生活の仔細にわたり深刻さを増
してゆき、回復過程の困難さを想像するにつけわが身の小さきを思い知らされる。

 「天災は忘れる前にもやってくる」ことの歴史的証明だとも思えるのだが、ミ
レニアムに一度の大震災だからと慰めても役にはたつまい。マグニチュード9.0
というエネルギーは、日本の精密な震度計で波動が地球を四周したそうである。
マグマを包む薄皮饅頭のような地球の表皮だからさもありなんと思うのだが、「
地震国日本」を日ごろ自認していながら、この未知なる恐怖と不安が巨大に連鎖
する事態とどう向き合えばいいのだろうか。
 
  人知を超えた仕方のない運命なのか、政治・経済・文化力を動員して防御可能
であったか、この答えが出せないから天災といい、社会的納得を手にしようとし
てきたのだろうか。しかし、今般の大災害の一角には、原発の管理・依存という
人災の側面があり、大量なホームレス化が不安と問題の深刻さを増幅している。
核のあり方は、数十万人が被災していまなお後遺症を引きずる広島・長崎の原爆
にはじまり、第五福竜丸やチェルノブイリでの被爆など人類社会への危険性が指
摘され語り継がれてきたはずなのだが・・・。

 放射性物質による汚染や危うさと引き換えに、便利な電力エネルギーに依存し
て省り見ようとしない産業化社会とその文明を、セーブし見直す機会にしたいも
のである。その契機はいくつもの事象として見えてきている。その第一は、放射
性物質の環境および人体への汚染、コミュニティを崩壊させる加害性によって生
存生活の継続を危機に陥れる関係の具体的理解が、市民社会全般に浸透する。第
二には、電力不足による「計画停電」の実施が、企業を含む社会的協調に限ら
ず、生活者・市民の良識にもとづく節電効果の大きさが証明されている。
 
  この際気づくのは、公・共施設等の節電で照明が薄暗くなっても不便を感じな
かったことである。「ハレの日」と「ケの日」の区分を忘れてきたような都市生
活に根づいた習性を変えたいものである。さらにドイツのメルケル首相が、日本
の現状を憂慮して自ら策定した原発増強計画を直ちに取り止めるという勇気ある
決断は、今後世界の原発政策に強く影響する選択として期待でき、敬意を表した
い。

 東京電力の尖頭電力は、お盆と夏の甲子園の時期で、約5,700万KWにもなり、
平常より1,000万KW以上高くなるとかつて聞いたことがある。それをまかなうた
めには、原発2ヵ所で約1兆円が必要になるという。私は戦後の停電時代を経験し
て久しいのだが、物事の"限界を自覚し計画停電のリスクを「協同引き受け」す
る社会的モラル"を拡充して、参加型の問題解決力を高めることが急ぎ必要だと
考えたい。政治は社会的リスクの増大に対してポピュリズムにおもね、問題解決
を請負い続けようとするのか、市民社会の同意のレベルの成熟を促し、その健全
性に依存するのかが問われている。「新しい公・共」の内実が高まっているとは
思えず、本気で考えてほしいものである。
 
  脱原発で環境やエネルギー問題を克服するには、太陽光や風力、水力など自然
エネルギー利用の拡充は言うまでもない。しかし、この産業化社会での生存生活
レベルを持続しようとすれば、「燃料電池」の社会・経済的普及を急ぎ「スマー
ト・グリッド」システムなどによる電力の相互協力網の形成をはかることであろ
う。この技術開発の成果が遅々としており、なぜ社会化できないでいるのか。既
得権益を守ろうとする伝統的専門集団=行政府の立遅れでなければ幸甚なのだ
が。
    2011年4月10日

             (筆者は生活クラブ生協神奈川顧問)

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