【コラム】中国単信(60)

天皇と皇帝

趙 慶春

 日本の「天皇」と中国の「皇帝」、一文字の差ではあるが、その違いは大変大きいと言えるだろう。
 大化の改新前、日本の政治体制は有力豪族、いわゆる氏族の連盟政治体制だった。天皇家はその中の一番有力な一族だが、完全支配とは言えなかった。この時代、日本はまだ完璧な「封建主義体制社会」にはなっていなかった。平安時代になると、天皇の統治とはいえ、実際は摂政、関白などが実権を握っていることが多かった。
 幕府時代に入ると、多くの天皇は自分の意思にそぐわなくとも、勢力のある将軍を「征夷大将軍」に任命せざるを得なかった。これを現代的に言えば「業務委託契約」とでもなるのだろうが、日本に二つの政府を建てたことと同じであり、しかも軍を持っていなかった天皇は、事実上の国政執行者に対する発言権はあまり強くなかった。
 明治維新後、天皇は国づくりの過程で重要な地位についていたが、戦後は日本という国の「象徴」となっている。

 だが中国の歴代の皇帝は、国政の完全な実行権を握っていたし、実務を担当する官僚も軍隊もしっかりと掌握していた。日本の「天皇」と「将軍」が合体したような、名実ともに備えた国のトップだった。
 「普天之下,莫非王土,率土之濱,莫非王臣」(普天の下、王土にあらざるはなく、率土の浜、王臣にあらざるはなし)。『小雅・北山』にあるこの言葉、「すべての土地は皇帝のもの、すべての人民も皇帝のもの」と言っているのである。絶対の所有、絶対の臣従を表すこの言葉を中国の歴代王朝、官僚、知識人を含めて誰も疑う者はいなかった。

 権力の「大・小」のほかに、天皇と皇帝の相違点はその他にもいくつか見ることができる

①日本の女性天皇は中国の女性皇帝より多かった。
 日本の歴史では、八人の女性が一〇度、天皇の地位に就いている。一方、中国で皇帝になった女性は武則天(ぶそくてん)一人のみだった(分裂時代の小国や辺鄙な少数民族政権は含まず)。西太后(せいたいこう)は権力こそ握ったものの、摂政にとどまり、皇帝になれなかった。
 唯一の女生皇帝武則天については、周知のとおり、妃の身分で権力を握り、そのまま「皇帝」になろうと企んだが、「正統派」大臣らの猛反対で実現できず、やむを得ず「周」と国号を改めて、ようやく皇帝の位についた。しかし武則天が亡くなると、すぐ「唐」の国号に戻されたので、この唯一の女皇帝は「正統」とは見なされなかったことがわかる。
 もし武則天が男性だったら「周」という国は存続し、武則天もその建国者となり、「唐」の名称は消滅してしまっていた可能性も考えられる。中国の宗法制度では女性が完全に除外されていたことが伺える。

②天皇の生前退位は珍しくなかったが、中国の皇帝は基本的に死亡しない限り交代はなかった。
 もっとも中国皇帝の生前退位が皆無だったわけではない。たとえば安史の乱で都から逃げ出した唐の玄宗は動乱後、都に戻っても新皇帝から皇位が返還されず、逆に監禁され、不自由な身の「上皇」となった。また清の乾隆(けんりゅう)皇帝は六〇年間、皇帝の地位にあったが、「自分の祖父である康煕(こうき)皇帝より長く在位したくない」「のんびりお茶を楽しみたい」という理由で皇位を息子に譲った例もあった。唐の玄宗皇帝のように強制退位させられたケースを除いて、みずからの意志で禅譲した例は乾隆皇帝のみである。日本の天皇の生前退位より遥かに少なく、聖武天皇のように壮年期に退位した例は皆無である。
 日本では陽成(ようぜい)天皇が「非礼乱行」で退位させられ、三条天皇が「目の病でほぼ失明の状態」のため退位したことから、日本の天皇には「象徴性」もあったためか、人格や完璧さが求められたことが伺える。一方、中国の皇帝は至上の権力があったためか、権力に執着して生前退位が少なかったと思われる。

③日本では政権を握る者が替わっても、天皇家は替わらなかった。そのため天皇家には苗字は必要なかった。しかし中国では、政権が替わると皇帝家も替わったため、歴代王朝の皇帝の苗字も変わった。
 秦の皇帝家苗字は「嬴(えい)」、漢の皇帝家苗字は「劉」、三国鼎立(ていりつ)の三家苗字はそれぞれ「曹」「劉」「孫」、晋の皇帝家苗字は「司馬」、隋の皇帝家苗字は「楊」、唐の皇帝家苗字は「李」、宋の皇帝家苗字は「趙」、元の皇帝家苗字は「奇渥温」、明の皇帝家苗字は「朱」、清の皇帝家苗字は「愛新覚羅」だった。
 かりに分裂時代の小国を含めれば、皇帝苗字の数は数十に及ぶだろう。つまり血統が異なる二桁に届く宗族が次々に皇帝になったのであった。しかも皇帝の出身もさまざまで、諸侯や貴族もいれば、地方権力者や武将もいた。国内の少数民族もいれば、敵対する異民族もいたのである。特に明の創始者だった朱元璋は乞食の出身だったが、どのような出身、家系であろうと皇帝となるのにはまったく支障がなかったのである。
 「日本の天皇家は永続」、「中国の皇帝家は変転」は天皇と皇帝の最大の違いと言えるだろう。しかもこの相違から生ずる影響は極めて大きい。

 日本では絶大な権力を握っても、いつか自分が天皇になろうとの野心を持った人間は基本的にはいなかっただろう。しかし中国には「皇帝輪流作、明年到我家」(皇帝は順番で務めるもので、来年は我が家の番に回ってくるかもしれない)ということわざがあるように、「皇帝となる夢」を見ている中国人は少なくない。現代でも「可能ならばあなたは皇帝になりたいか、それともなりたくないか」という問いかけはたびたび聞こえてくる。余談だが、この問いかけに対して、皇帝になりたい人たちからは「美人の妃を娶れる、金に不自由しない、すべて自分で決められるから」、なりたくない人たちからは「宮殿から勝手に出られず、自由に動けないから」という声がよく聞こえてくる。

 さすがに真剣に「皇帝夢」を持つ人間はごく少数だろうが、「権力欲」「出世欲」と言い換えれば、その意識は一般民衆にまで浸透している。中国には「寧作鶏頭、勿為鳳尾」(雞頭となるとも、鳳尾とならず)ということわざがある(「鶏頭牛後」とも言う)。大手企業や大部署の末席より小企業や小部署のトップの方がましだ、という意味で、中国人には常にトップを目指そうとする傾向が強くあり、「トップ」こそ最高という価値観が根強い。頑張れば「皇帝」にだってなれるという上昇志向の発想は中国社会に広く行き渡っていると言えるだろう。

 一方、日本では武士の子は武士に、町人の子は町人に、農民の子は農民になるのが社会の基本なので、自分の身分、自分の社会的地位に甘んじて、社会が自分に与えている「枠」から飛び出そうとは考えなかった。その「枠」の中で生きることを当然として受けとめていた。

 こうした伝統的な思考パターンがそのまま現代に直結しているのか明白ではないが、最近の若者に対する「社長になりたいか」というアンケート調査で、日本の若者が社長になりたい割合が二割少々、諸外国中で最低だったのに対して中国は七割近くが「社長になりたい」と回答したそうである。
 なかなか興味深い結果だと言えるだろう。

 (女子大学教員)
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