【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

天皇制が異常発熱した皇紀2600年に朝鮮に生まれて

柏井 宏之


 私は天皇制が異常発熱した皇紀2600年に朝鮮に生まれた。父母は私が2歳の時、引き揚げてきているので朝鮮の記憶はない。ただ父が勤めた小学校の古い卒業写真に昭和14年には生徒名が3字、昭和16年は4字の創氏改名された名前で載っており、日本が朝鮮で行った言葉まで奪った植民地支配がなんであるかを子ども心に感じてきた。とくに「教育勅語」のほかに「国民精神作興ニ関スル詔書」や朝鮮神社参拝の写真があり、天皇制が異常発熱した雰囲気のなかで出生したことに胸をいためてきた。大島渚の家父長制を描いた映画『儀式』に登場する満州男という少年に自分を重ねたりした。
 にもかかわらず、私は小学校1年生の国語の教科書が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」から「みんなよい子」に代わったこともあって、戦後民主主義世代第1号の自負を持って育った。戦後民主主義はその意味では戦前の帝国天皇制をシャットダウンする役割を果たした。加藤勝美は60年安保の時の大阪市大全学執行委員長であるが、彼は自ら「安中派」世代と称し「戦後世代」と一線を画す考えを早くから投げかけていた。「安中派」世代である「戦後革新」は、近代という名の「明治維新」とその後の日本のアジア侵略史についての自己切開を怠ってきたのではないか。

 戦後70年の首相談話が注目されたが、本当は日本の在野の市民社会が、朝鮮の植民地支配と「満州国」建国、第一次世界大戦後の「南洋群島」の委任統治についての真摯な歴史的反省が問われた今であったように思う。また国レベルでの50年前の「日韓条約」の不備を改訂し、様々な分野での個人分野への謝罪と補償をおこなうこと、作家・金石範や詩人・高銀がいう南北統一の環境づくりに寄与することと戦後70年間、戦争で死者を出さなかった憲法9条の非武装を実行していく誓いが共同テーブルで発せられればよかった。

 そしてそのことに切り込んだのは、原田伊織の『明治維新という過ち ― 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ)である。今年1月の改訂増補版で10刷りを重ねる。彼は70年の時、全共闘や民青と闘った側にいた人だ。つまり保守の側から「私たちは、明治から昭和にかけての軍国日本の侵略史というものを、御一新の時点から一貫してなぞって振り返ってみるという作業を全く怠っているのである。それをきっちりやれば、吉田松陰が神格化されることも、坂本龍馬の虚像がはびこることも、致命的な欠陥を含む司馬史観なるものが歴史観を支配することもなかったはずである」、「日本人は、テンション民族だといわれる。いわゆる“明治維新”時と大東亜戦争敗戦時にこの特性が顕著に顕れた」、「長州・薩摩の世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャッカから南方に至るエリアに軍事進出して国家を滅ぼした」と。また「維新」至上主義の司馬遼太郎が日露戦争から大東亜戦争までの40年間、あるいは昭和元年から昭和20年までの20年間は「連続性を持たない時代」、「異常」として「欠陥」「幼稚さ」というが、原田は根本的な「過ち」なのだと展開する。

 思想家・松陰は山縣有朋のでっち上げた虚像、我が国の内閣総理大臣は「暗殺集団」の構成員、戦争を惹き起こすためのテロ集団・赤報隊・奇兵隊、テロを正当化した「水戸学」の狂気、会津の惨劇~ならぬことはならぬ~と進めた筆は会津藩・米沢藩への残虐非道な行為を「人道に対する犯罪」とし、青森の下北半島へ流罪というべき藩ごと移住させられる姿を描く。ここで重要なことは「勝てば官軍」として「維新」「天誅」の名ですべての蛮行が許された「官軍教育」の風土だという。それはそのまま対外侵略の日本軍の行動様式の原型となったことが容易に推察できる。
 西郷隆盛も例外ではない。岩倉具視と結んで土佐藩の山内容堂を「短刀一本あれば片が付く」と「昭和の極右勢力にまでつながる問答無用の事の進め方」と手厳しい。
 左翼、あるいは革新といわれる立場が、「明治維新が欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、明治維新があってこそ日本は近代化への道を歩むことができた」という「官軍教育」をなぞっている限り、植民地支配への自己批判はできないといわれているように見える。

 そこで、坂野潤治の『西郷隆盛と明治維新』(講談社現代新書)を読んでみた。西郷は「征韓論者」とされるが、使節派遣で対韓戦争論ではない、江華島事件を長年の両国間の交流を無視した卑劣な挑発として非難しており、「軍部独裁と侵略戦争の元祖」は作られた虚像とするものであった。西郷を「攘夷」論にあまり関心を持たない「国民議会」論者、二重の「合従連携」論者として新たに評価する。そして西郷は「保守派」を選択することはないが「中道派」と「革新派」の間で迷い続け、戊辰戦争は保守派と革新派の正面衝突で英雄になったとしている。
 しかし西郷は廃藩置県で二重の「合従連携」論が消え、自ら育てた薩摩軍団が封建幕府を打倒した後の「革命軍」は「外戦」それもロシア、中国、朝鮮との局地戦争を望む時代に入り、長州がその道を突き進む時、鹿児島への武装解除の挑発に乗って西南戦争に突き進み田原坂で372名と共に自決した。

 薩長が「革新派」という規定でよいのだろうか。それは大院君と東学農民戦争の全琫準(チョン・ボンジュン)、福沢諭吉や頭山満、大阪事件を引き起こした自由民権派までが推した金玉均を想う時、そう単純ではないように思う。原田伊織の投げかけたものを噛みしめたい。

 (筆者は共生型経済推進フォーラム事務局長)


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