臆子妄論   西村 徹

女は武装すべきか

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■大学の語学教師


 退職して十一年になる大学から、七年しか勤めなかった私のところに、紀要というのか『英米評論』という冊子がいまだに送られてくる。もったいないことであるが、また申し訳ないことであるが、あまり目を通すこともない場合が多い。
英語教師が無理やり書いている、あるいは書かされている冊子で、もともとが大学のなかで語学担当は愚者の楽園といわれて3等教員、せいぜい2.5等級の英語屋さんには、論文を書くなど、日常の3K業務の上にさらに積み増しされる超過重負担である。年に5~6回も行われる入試の問題作りに年がら年中心身をすり減らしていて(近頃は外注もするらしいが)、夏休みには短期留学とかいって修学旅行の団体さんを海外に引率するツアコンダクターもこなさなければならず、国際センターとかいって英語パンフレットや留学生の面倒も見なければならず、専任の幾層倍にもなる、おびただしい数のアルバイト講師(この種の派遣会社はまだないらしい)を常に手配しなければならない。

 そのうえ大学は会議が大好きときている。四六時中いろんな種類の会議をしている。委員会があってその中の小委員会があって委員会を減らすための委員会まで出来たりする。会社の打ち合わせミーティングとはちがって、ときには夜中まで海苔巻きを食ったりしながら延々とやっている。もう終わるかと思って腰を浮かすと今まで寝ていたのがむっくり起き上がって急に元気にしゃべりだす。研究も屁たくれもあったものでない。ただしこれは十年前までのハナシ、いまは知らない。


■フェミニズムと暴力


 さりながら珍しくこの春の号に目を引く論文があって読んだ。「『アメリカのフェミニズム』の暴力志向を考える――憲法修正第二条と民兵と脱国家世界の市民像」という長い表題の、中身も30ページに及んで長い力作であった。勉強になった。
 フェミニズムについて私は知るところ少ない。敬遠というのでないが能動的に知ろうとする努力を怠ってきた。フェミニズムに関わる人、生業とする人が周囲には多くて耳にすることは割りと多かったというほどの受動的耳学問にとどまる。今回この論文を読んだのは数少ない能動的努力の一つに数えられる。だから勉強になった。

 いまだに引きずっているかもしれぬアジア的野蛮および明治以後日本帝国のアジア諸民族に対して行った残虐非道を棚に上げてのことではあるが、かねがねアメリカ人はブルータルだという、全く理論的でない、たぶん浅薄な生理的先入主が私にある。旧大陸の白人に較べてもアメリカのデブはデブの性質がちがう。あの図体、あの動物精気にはかなわない。デブにかぎらずアメリカ人がその人格的暑苦しさを全開にして、豚が土を掘るような鼻息で自分の価値観を押し付けてくることがしばしばある(注)。もちろん例外のアメリカ人もたくさんいる。四捨五入してのハナシであるのはいうまでもない。その四捨五入したところが私のアメリカ理解にも影を落としている。

(注) 森田実氏のメールマガジンによると、ジェラルド・カーティス氏は東京新聞(9月2日)紙上で「民主党のつまずき」と題し、民主党が提出した郵政民営化凍結法案とテロ特措法延長に対する反対は日米関係を損なうものだとして、まるで親分が子分をたしなめるようなことを言っている。このような要らざる家父長的容喙にもアメリカ人の暑苦しさはうかがわれるであろう。ここでいう「日米関係」とは、じつは日本の対米従属関係にほかならない。子分は親分と対等であってはならないというわけだ。

 そしてさらに朝日新聞(9月17日・大阪「私の視点」)にも、テロ対策特措法について、「民主党も何でも『ノー』を突きつけるのでなく」「論議を尽くして妥協点を見いだし、日本が責任ある行動がとれる新法を作る」べきだと痒いところに手の届くようなご指図をくださっている。ご親切さまで苦笑のほかない。この人は富田メモのときも朝日新聞紙上で似たような物言いをしていた。そしてそのような厚かましさと裏腹に底の抜けたような人のよさが同居している点でもカーティス氏は格好の標本であろう。

 この先入主をほじくればいろんなものが出てくるだろう。まずもって圧倒的な勝者の前で負け犬が尻尾を巻いて身を縮めれば勝者はますます大きく見えるに違いない。戦争の勝敗に先立って嘉永六年以来の対欧米コンプレックスがあるだろう。もうひとつまわりくどいのがある。戦前戦中内地で食い詰めて「満州か朝鮮へでも」高飛びして急に羽振りがよくなった連中を日本内地から見るまなざし。これとよく似たまなざしをイギリス人はアメリカ人に対して持っている。西欧、わけてもイギリスから、そっくりそのまなざしまで学んでしまったというスノブな側面も潜んでいよう。さまざまにほじくることはできようし、当たるも当たらぬも、そのいちいちに反対するつもりはない。さりとて私の先入主を捨て去る理由が必ずしも揃うわけでもない。ミッテランに倣って「それで?」(Et alors ?)というのみ。都合のよい心理分析だけで「ハイサイデスカ」と直ちに生理に変化を生じさせるわけにはいかない。


■アメリカン・フェミニズムの暴力性


 アメリカのフェミニストは何故あんなに兵隊になりたがるのか。全米軍の制服組に占める女性の割合は世界一の14パーセントだそうだ。それも軍医や衛生兵あるいは通信などの後方勤務だけではないようだ。アリストパネスが描いたような方向に的を絞らずに、どうしてアマゾネスの道を選ぶのだろう。男も徴兵を忌避し、うっかり志願した後にさえ脱走するようなものにどうしてなりたがるのだろう。なんとも不思議で、ばかばかしくて、およそ愚の骨頂のように思えるが、なぜそうなるかをこの論文は説明しようとしている。

 まずヨーロッパおよび非西欧圏からのみならずアメリカのフェミニスト内部からさえ発せられる、その暴力志向に対する違和感、およそ常識で納得できるかぎりの違和感が紹介される。アメリカン・フェミニズムの暴力志向はアメリカのフェミニズムのすべてではなく、そのうちのリベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニズムのみにあてはまるものであるらしい。したがってすべてが暴力的なわけではないが、やはりここでも四捨五入するとアメリカン・フェミニズムは暴力的だということになるらしい。

 女の武装はまるきりアメリカの特産かというと、いきなりアメリカに突然変異的に、にょきにょきと新種が生えてきたわけでもなくて、国民国家の誕生とともにあらわれたものであった。国民国家の市民として男と同じ権利を主張するには男と同じ義務をも引き受けざるをえない。市民の義務は納税と兵役である。したがって女も兵士とならざるをえない。ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」(1830)がすでにそれを象徴している。かち取った革命体制防衛のためにその敵と戦うときの危機的昂揚から、それは自然に生れてくるものでもあろう。

 フェミニストであるないにかかわらずレジスタンスの女は男におとらず勇敢であったし、あり続けている。祖国防衛戦争渦中のソ連軍女性兵士は男と変わらず果敢であった。中国解放戦争中には女紅軍とか紅色娘子軍というのもあった。スペイン市民戦争における女民兵はヘミングウェイに素材を提供した。チャンドラ・ボースのインド国民軍(INA)には続々志願する女性のみによってたちまち一個連隊が編成され、後方勤務だけでなく戦闘訓練もおこなわれた。寸土を死守して自爆をあえてするパレスチナの女性もいる。イラク侵略の米軍女性兵の比ではない。

 つまり、これらはアメリカにかぎることではない。というより、ほとんどアメリカにはあてはまらないことである。アメリカ革命において、すなわち対英反税闘争において、アメリカの女性兵士による格別の寄与があったとは聞かない。アメリカン・フェミニズムの暴力志向はこのように献身的、自己犠牲的なものではない。もっと自己中心的で自己陶酔的に見える。したがって女性兵士の存在はアメリカ固有の、アメリカン・フェミニズムに固有の異常を説明するものにはならない。というより筋違いである。


■アメリカの特異性


 国民国家の成熟につれて自然権としての個人の武装は次第に必要性を失って常備軍と警察の手に委ねられていった。英国では自己防衛のための武装は1920年に禁止された。逆にアメリカでは1921年に「退却義務」(襲われたら反抗するよりも先に逃げる義務)が解除された。ここにもアメリカに特異な個人の武装を積極的に容認する傾向はうかがわれる。そのようにこの論文は書いている。それが憲法修正第二条に権利章典として確実なものになったとか、民兵の意義とか、アメリカ史に関する記述は英文サマリーには省かれているが客観性があってたいへん勉強になった。そのような歴史的展開に即してフェミニスト側にも多様な対応があったし、あることの記述もたいへん勉強になった。権利章典によって保証されている以上フェミニストが武装権を主張してなんの不思議もないことも納得できた。書かれている限りの主張を、女民兵にフェミニストの理想形を見るというラディカルであるよりラプソディックな主張をも、すべて一応は認めるとして残る疑問を書いておきたい。


■残る疑問


 第一に憲法修正二条は銃保持の権利について男女を区別しない。したがって女が銃保持を主張することは初めから持っている権利を行使しようというだけのことで、改めて主張するほどにラディカルなことではありえない。むしろ既得権をあえて放棄し、それを、ジェンダーを超えてのものに高めることのほうがラディカルなのではないか。
 第二に銃を防衛の道具としてしか語っていないが、銃は本来人を殺傷する攻撃のための道具である。それは全く触れられていない。
 確かに開拓時代には自衛のために銃は有効であったろう。しかし開拓時代とは実は略奪征服の時代であった。銃は先住者の抵抗を打ち破る攻撃の道具として、ジェノサイドの道具としてはるかに有効であった。ラテン・アメリカ史をほんのちょっと振り返れば明らかだし、グローバライゼーションと並行して現在地球上にばらまかれた銃がどのように機能しているかを見れば明らかだろう。
 しばしば美化されるミリシャについても、自衛に先立ち先住民を武力排除するための組織であったし、黒人は奴隷たると自由民たるとを問わずミリシャから排除された。

 最前線で銃を構えて戦闘行動に従事する米軍女性兵士をテレビで見ることは幸いにしてめったにないが、アブグレイブの刑務所で捕虜を虐待している女性兵士はテレビで見る。リンデイ―・イングランドとかいう憲兵隊の女性兵士が捕虜のイラク人に対して性的虐待を行って悦に入っていた。と言うよりは悦に入っているところを、あるいは演技にもせよ、わざわざ見せるという武装した従軍慰安婦的役割を果たしていた。それを放任した、あるいは演技させていた刑務所長も女性の少将であった。

 92年10月17日ハロウィーンの夜ルイジアナ州バトンルージュで日本人留学生銃殺され、加害者無罪であった。95年4月19日オクラホマシティー連邦政府ビル爆破はミリシャ関係者によるもので、死者168であった。99年4月20日コロラド州コロンバイン高校で13人が犠牲となった。07年4月16日には米バージニア州ブラックスバーグのバージニア工科大で銃の乱射事件で32人の犠牲者を出した。
 
 いま日本の若者に「戦争になったらどうするか」とアンケートをとると「逃げる」と言う回答が70パーセントを超えるという。あの猪突猛進「玉砕」いってんばりの愚かな馬車馬軍国が60年を経てしなやかで賢い「オタクで女の子な国」に様変わりしている。逃げるのは攻める以上に勇気を要する。日本人は逃げることを決断している。ラディカルな決断である。「決断することを回避しつづけている」のは銃にしがみついて自縄自縛に陥っているアメリカのほうではないか。過去の栄光が恥部に変わる場合もありうる。
  この論文が紹介する女の対抗武装論は、前後倒錯というのか、よくよく修辞の厚化粧を落としてみると、じつは木に竹を接いだような、きわめて単細胞な「目には目を」的俗論にすぎず、それがラディカルであるとは、残念ながら、ついにさっぱり分からなかった。

       (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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