女性の役割の再構築を目指してできること(8)

【ジェンダー】

女性の役割の再構築を目指してできること(8)

高沢 英子


4)明治中期の女権運動とその明暗
  ―「日本キリスト教婦人矯風会」の活動―

 日本で、最初に女権運動が団体として組織されたのは意外に早く、明治19(1886)年のことである。現在も存続している公益財団法人「日本キリスト教婦人矯風会」がそれで、発会のいきさつ、及びその後の活動のあらましは「清泉女子大学人文科学研究紀要」第3号に宇津恭子氏が「佐々城豊寿 再考」と題して発表された論文に詳しく書かれているので、参照させて頂きながら、勘考してみたい。(佐々城豊寿は、会の発足以来の最重要人物であった。)

 それによると、発会のきっかけは、この年7月17日「世界キリスト教婦人禁酒会」第一回派遣員として来日したアメリカの遊説員レビット女史の演説会が、明治女学校で開かれたことで、その力強い演説を聞いて触発された日本の女性クリスチャンを中心に、この会の日本支部として、日本婦人禁酒会設立の動議が持ち上がったことであった。

 レビット女史の演説の終了後、明治女学校の取締役だった木村鐙子の発案で、有志30数名が集まり、意見交換がなされ、日本にも会の支部を作って活動する動議が出される。

 8月7日には規約制定準備会に漕ぎつけるが、直後、東京を襲ったコレラの流行で、不幸にも感染した鐙子は倒れ、翌日急逝。有力メンバーのひとりであった佐々城豊寿の3歳の長男も罹病する。計画は一旦中絶したが、豊寿の子息は母の献身的看護で持ち直し一命を取りとめ、会組織の案は、再びメンバーの熱意で取り上げられて進展し、その年12月6日「日本キリスト教婦人矯風会」の発会式が佐々城豊寿の所属する日本橋両替町の教会でもたれた。

 56名の新入会員もあり、会長には年長の女子学院初代校長矢島楫子が就任、佐々城豊寿は副会長格の書記となる。豊寿の夫で医師であった佐々城本支も特別会員として協力したという。佐々城豊寿は当時34歳、当初から積極的に参加してきたが、その年9月、彼女が女性同士の交流の場として自主自立の気を養うことを目標に発会した「婦人紅網(あみもの)会」の会員60名も合流し、「矯風会」という名称も彼女の発案だったといわれる。
 会長の矢島楫子は、彼女自身、別れた元夫の酒乱に苦しめられた体験をもち、殊更禁酒の問題には無関心でいられなかったであろう。協力した会員の大部分も、当時としては高い意識を持つ目覚めた婦人たちだったと考えられる。これを機縁に、依然として大手を振って許容されている日本の男性本位の非合理な女性迫害社会の慣習に立ち向かう力となろうと、団結を誓い合って結成されたのである。

 従って目的は、禁酒だけに留まらず、女性蔑視の常識に対する挑戦でもあり、この後、この会は、廃娼運動や、さらに婦人参政権獲得運動などの活動をも精力的に展開していく。当面、具体的には、からゆきさん問題や、帝国陸軍兵士の性病蔓延の改善、など、キリスト教精神にもとづく純潔生活を目指して実践活動に着手した。

 しかし時代は、前年の明治18年、伊藤博文が憲法公布を目指して政治体制の大改革を企画、12月に内閣が組織され、薩長出身の実力者が完全に政治の実権を握る体制ができ、初代文部大臣となった元薩摩藩士の子弟森有礼は、かつては「明六社」の有力メンバーだったが、「良妻賢母教育こそ国是とするべきである」という声明を出し「生徒教導方要項」を全国の女学校に配布、国家による女子教育統制を着々と進めてゆく。天皇制を基幹とする憲法が発布されるのは、3年後の明治22年であるから、いったんは明るい兆しを見せていた自由民権思想及び女権思想に陰りが出て、昔日の勢いを失いはじめた時期でもあった。

 さらに「婦人矯風会」は、発会当初から会の目指す方向に二つの流れがあった。ひとつは、矢島楫子が代表する保守的妥協的勢力で、もういっぽうは、仙台の武家出身の佐々城豊寿や信州飯田市出身の潮田千勢子が代表する進歩的な立場を取る勢力で、どちらも最初から相容れない別の路線を目指していた。

 矢島楫子はのちに大宅宗一に「肥後の猛婦」と呼称され、保守王国熊本の富農階級惣庄屋の5女として生まれ、極端な男性社会の中での度重なる女児の誕生は歓迎されなかった、という生い立ちを持っていた。(徳富蘇峰・徳富蘆花の兄弟は矢島楫子の姉久子の息子で、楫子は彼らの叔母に当たる。しかし徳富蘇峰は終始むしろ佐々城豊寿のよき理解者であり続けたようである)

 矢島会長は、あくまでも禁酒運動を優先させることを主張、これに対し佐々城豊寿側が、当面の女性の人権問題として、まず「廃娼」を優先させるべきとし、翌年2月の議員会でも2派に分かれて論議の末、豊寿の判断が会員の圧倒的支持を得て「廃娼」を第一とする活動方針が決まった。  

 もともと当事者の自覚に依拠する飲酒禁制は、上から目線の改革運動であるが、「廃娼」は、弱い女性を苦しめる悪法に対する抗議活動であって、貧困層の不幸な境遇を見て見ぬ振りをし、それにつけこんだ男性社会の手前勝手な女性迫害を手助けしている法の撤廃を求めるために、女性自身が立ち上がる以外解決できない緊急課題であることを、会員の多数が先決問題として理解した結果であろう。

 矢島楫子の禁酒に対する思いは強く、こういうなりゆきに納得できなかったようである。しかも佐々城豊寿が、その前後「女学雑誌」に矢継ぎ早に論文を寄稿、数々の問題提起をし、20年5月の62号には書記の名で、「東京婦人矯風会主意書」を発表し、(1)男尊女卑の風俗及び法律撤廃(2)一夫一妻制確立(3)妻妾全廃(4)家制交際改革(5)飲酒喫煙放蕩遊惰の悪習を刈る、等5項目にわたって活動の目的を掲げた事に関してもこだわりをもち、8月、同じ「女学雑誌」70号に廃娼運動云々を無視した「東京婦人矯風会主意書」を掲載、大量に印刷して全国に頒布手配し、それが大々的に新聞報道され、豊寿の主意書を抹殺してしまうという挙に出た。

 早くも分裂の危機に直面した矯風会では、会員の中から、矯風会と禁酒会は名称を分離すべきではないかという発議も出たが、矢島会長はこれを廃案とし「矯風会の趣旨を問う」という動議を起こした会員は、答弁を謝絶されたという。

 その後も2つの路線はことごとに互いに対立するようになり、豊寿の姪に当たる相馬黒光の回想記「若き日の遍歴」の中に、姉蓮子の不幸な事件が記されている。明治20(1887)年10月、 黒光の姉で豊寿の姪の星蓮子は、かねて矢島楫子の息子と婚約し、姑になる予定の矢島楫子のもとで一生懸命に嫁の心得を受けていたが、10月17日の結婚式を前に、楫子から突然破談を宣告されて、帰された。蓮子は叔母の佐々城豊寿と矢島楫子の関係悪化にともない、そのとばっちりで結婚が破棄されてしまったらしい。黒光は「矢島楫子は蓮子は良い嫁になると期待していたのだが、叔母豊寿の態度が大きくなって気に入らなくなり、それを豊寿にぶっつけるわけにいかないから、弱い立場の蓮子が犠牲になってしまった」と書いている。数年後、蓮子は狂死した、とのことであった。

 両者の対立の異常なまでの深さを思うとき、筆者は明治の女子教育の第一人者と自他ともに認める矢島楫子が、息子の結婚問題にこれほどまでに介入し、女性の人権を踏みにじる行為を平然としたことについて、いまだに明治社会の、家制度の非人権的倫理や歪んだ権利意識を良識と心得ている時代病理に、どっぷり浸っていたことがうかがわれ、日本においては、女権問題に進む以前の意識改革がいかに必要であったか、をますます痛切に感じるのである。

 本稿では、是まで余り知られなかった女性活動家の一人として、まず、佐々城豊寿に焦点を当て、旧態依然の保守反動と自由民権思想入り乱れた明治の混乱期に、毅然として進歩的路線を貫き、虐げられた女性の側に立つことをめざし、婦人の権利獲得のために果敢に行動した女性として、事実関係を検証しつつ、考察してみたいと思う。

A)「隅の石」を目指して
   ―誤解とスキャンダルにまみれた勇気ある女性、佐々城豊寿―

 佐々城豊寿は1853年(嘉永6年)仙台藩の武家屋敷で、藩の評定役で勘定奉行でもあった星雄記の5女としてうまれた。すでに述べたように東京婦人矯風会の創立以来のメンバーで、女権運動に関しての活動で矢島楫子をしのぐ実力を備え、終始筋の通った論旨で疲れを知らぬ活動をし、49歳の若さで世を去った女性である。

 しかし、佐々城豊寿については、後世別の姿で残されているものの、その実像については、殆ど知られていない。彼女の出自の仙台は、江戸後期にも只野真葛(1763~1825)という稀有な女流思想家の住んでいた土地である。1817(文化14)年「独考」というユニークな論考(上中下三巻)を著し、社会批判を行った先駆者であるが、殆ど世に知られること無く、原本は関東大震災で消失、残念ながら現在上巻の写ししか残っていないという。中山栄子氏の伝記「只野真葛」(昭和11年)やメリー・R・ピアード女史に社会経済論として取り上げられているが(注:参考図書、日本女性史論集 教育と思想 吉川弘文館(1998年刊)宮沢民子氏の「幕藩制解体期による一女性の社会批判」―只野真葛の『独考』を中心に―)門玲子氏による(江戸女流文学の発見」(1998年、藤原書店刊)で一般にも知られるようになった。江戸後期、医師の娘とし江戸に生まれ、教養の高い両親に養育され、仙台藩の武家の後妻となって仙台で生涯を終えた女性である。

 聡明で心優しく生来ものを書くことに興味があり、江戸詰めの夫の勧めもあって、留守の時間を利用して物語や紀行文などを書いたが、1812年夫が江戸で急死、孤独のなかで思索に励み「独考」というユニークな思想書を著し、師と仰いだ滝沢馬琴に送り、評を乞うて世に問おうとした。

 おりしも『里見八犬伝』執筆中の多忙の中で馬琴は、最初は親切な助言をしていたが、一年後添削を乞われ、猛然と20日間をかけて博学を駆使した批判書を書き上げる。「独考」は「不学不問の心を師として・・・まことの道を知らざりける」と徹底的に酷評され、挫折したまま、寂しく埋もれてしまった女性である。―光有る身こそくるしき思いなれ世にあらわれん時を待つ間は―という1首を残している。

 原文は読んでいないが、門氏の解説でおよそ推測するに、あの時代の女性が、儒教や仏教の教えは総じて「人の心にしまりがあれば、とりあつかい仕よきゆえ しめ縄をかけて道引く仕方なれども」とした上で、「鼻にもかけぬわるものどもが 勝手次第にはたらくときは心を締められたる方、劣らねばならず、常に損をする事・・・」などと大胆に述べ、武士道や、女大学など、いかなる規範書にもよらず、天地のリズムに呼応して自由に生きる営みこそよし、と、独りで徹底的に考え抜いて独自の哲学を編み出した、その自恃の強さ、見事さに驚かされる。仙台という土地柄は、気概に溢れた女性をも育み解き放つ包容力をもっていたのであろうか。

 佐々城豊寿も生来気象鋭く、向学心に燃え、早くから殆ど独学で英書に親しみ、父母に東京遊学を懇請する。最初はなかなか許さなかった父も遂に認め、明治4年、母と下男に付き添われ、男装して数百キロの難路を徒歩で上京したという。既に19歳で、年齢的に、東京には彼女を受け入れる女学校がなかったので、横浜のフェリス女学院の前身「ミス・キダ-の学校」に入り、初めて聖書に接した、という。「後年の彼女の婦人運動の根元にある男女平等、一夫一婦の思想は、まずこの環境の中で育くまれたものである」と宇津恭子氏は分析している。20数名の女生徒たちが勉学していたが、彼女は苦学生として、年少の少女たちの世話をして暮らしていたという。のちに夫となる佐々城本支も同じ横浜におり、すでにキダーの学校の会堂で洗礼を受けていたので、2人が会う機会があった、と推測されている。

 上京したのち彼女は当時非常な評判であった「西国立志伝」の訳者でキリスト者であった中村敬宇(正直)の門に入り、そこでスチュアート・ミルの「婦人の従属(日本訳・男女同権論)」や「自由論」をテキストとして学び、思想的感化を受けるとともにキリスト教への理解を深めた。そしてその後、医師となった佐々城本支と結婚、三児の母となる。末の男児の死を契機に悟りを啓き、明治18年、宣教師タムソンにより洗礼を受けた。

 翌年、キリスト教婦人矯風会の設立に関与、書記として活動を始めたことは前述のとおりである。しかし、矢島楫子との意見の相違から、活動は思うようにスムーズには行かなかったようであるが、豊寿はひるまなかった。のちに述べる潮田千勢子や賛同する会員とともに必要とされる地区に赴いては講演会や相談会を開催、麹町区飯田町に「修身職業英和女学校」を開設、極貧家庭の子女には無月謝で職業教育を施し、自活の道を開き、売春婦の根絶を目指した。

 また21年に、女性の手による月刊誌「東京婦人矯風雑誌」を創刊、自ら編集に当たり、論説や自作の賛美歌を掲載する。発表した多くの論説は、女性の自立と積極的行動の重要性や、女性自身の意見を開陳する必要を主張したもの、男尊女卑の家庭や社会の現状、男性の身勝手を指摘したもの、夫婦間の「財産中分権」の要求など多岐にわたり、矢継ぎ早に精力的な執筆活動をしている。

 さらに、同年、婦人にも言論の自由が与えられていることを聖書の章句から説明しているアメリカ婦人禁酒会印刷会社発行のナショナルリーフレットを翻訳「婦人言論の自由」として矯風会から出版している。しかし、7月には「東京婦人矯風会雑誌」4号をもって編集委員を辞職、開設間もない「修身職業英和女学校」も秋に廃校となっており、宇津氏も、理由はおそらく内部の人間関係からであろうが、定かなことは不明と書いているが、豊寿自身、巌本善冶の「女学雑誌」に友に宛てた書簡の形で「諸種の障妨ありて廃止するに至れり。今尚遺憾に堪えざるなり・・」と書き、内外の妨害攻撃の激しさが窺われるのである。のちに豊寿は時事新報に「攻撃は外部に少なくして意外にも同性の女子より非常の反対を受けたり」とか「同性婦人に反対多くして陰々密々に妨害せられたるは何故なるか解し得ざるも畢竟嫉妬より生じたるなるべし」と書いている。豊寿はその後も屈することなく信じる道を突き進み、幾多の成果を挙げ、多くの苦しむ女性たちの救済と女子の権利獲得、啓蒙、生活支援と、疲れを知らぬ活動を展開してゆく。

 21年7月、辞任の後、豊寿は一時仙台に帰省し、松島で静養するが、その間に、植木枝盛の「東洋之婦女」の序文を書き、『女子を男子と同様に敬重し、同等に教育して天与の才を磨かせ、「社会の光」とならせてこそ一国の文明は発達することを強調した』(宇津氏論考より)という。植木はその年、高知県令に「娼妓公許廃止」建議案を提出、可決させていた。矯風会では矢島会長、佐々城書記連盟で感謝状を送っている。是を機縁に植木枝盛と矯風会は親交を深めていた。この年秋には三男を出産した豊寿は、前記紀要によれば「乳児を抱き、上の子供たちの養育に心を配りながら親しい会員と連絡を取り、来るべき年の仕事に備えていく」と、驚くべき活力を発揮している。

 ところで、同じ年の8月に、番町教会で開かれた婦人矯風会の演説会で、内村鑑三が「クリスチャンホーム」と題した演説を行って「ホームのホームたることは第一に其の家の妻君即ち女王にある」と強調、次のように述べたことが 鄭 玹汀氏の『天皇制国家と女性』に紹介されている。対比すると興味深いので、ここにあわせて引用しておく。
 「ホームを支配してホームにおいて小児を教育し夫を慰め家を守りて行くべき細君たる者が此世界に無くてならないもので御座ります。一寸と浅く考えて見ますれば誠につまらないことです。1方の人は数千人の衆を集めて或は禁酒の効を説き男女の同権を唱え或は女子も投票権を有する所以を論じ或は神の救の道を講じて居る、・・・併しながら斯く考える人は人間と云うものは必ずしも人を集め公に立たない宇宙を動かすことが出来ると云うことの分からぬものであります。…基督信者の婦人にして公け会を主(つかさど)りて世の中に立てば演説も出来万事様子もよいが其人の家に帰りて見れば家は乱れて朋友親戚にも不義理の借金を拵えた婦人を私は存じております。若しこう云う考が我が日本に少しでも起こりましたなれば、日本国はとても楽しきホームを作ることは出来ません」
 また別のところでも彼は「婦人が社会運動に率先さるる如きは神の聖意に合ふたことではありません」などと主張したという。

 後述の潮田千勢子の回想によれば、こうした非難攻撃は日本では牧師や教師の間にかえって激しく、なかには「矯風会なる名称はこれ誤りにして必ず狂風会なるべし。我妻はかかる会員に入るを欲せず」などと言い出すものもあり、「内村鑑三氏の如きは・・極力攻撃の人なりき」と書いている。

 明治22年帝国憲法が発布され、翌年には教育勅語が公布され、日本政府はますます保守反動の姿勢を強めていく。
 このような時代情勢の中で、明治22年、佐々城豊寿が新たに婦人白標倶楽部を設立して、より広汎な女権運動を始めようとしたとき、倶楽部の精神的よりどころとしたのは、聖書イザヤ書28:16「見よわれシオンに一つの石をすゑてその基となせり これは試みをへたる石たふとき隅石かたくすゑたる石なり これに依り頼むものはあわつることなし」や詩篇(118:22)の「石作りの捨てたる石は隅の石となれり」という言葉であり、彼女はそれを終生の座右銘として用いた。

 白標というのは白いリボンの象徴で、心の穢れや身の垢を清める神の御旗をあらわしたという。「隅の石」を精神的基礎におき、誤解や非難を恐れず婦人社会の礎になろうとしたのであると宇津氏は解説している。倶楽部の運動は内事、外事、風紀、慈善の4部に分かれ「規則に拘泥せず、規則の奴隷とならず、規則に束縛されず、時機により、時勢に従い、社会国家の必要に応じて活動する」「従来の矯風会の狭い枠をはずし広く社会、国際、道徳的諸問題にわたって臨機応変の行動を展開したいと考えていた」という理想主義的抽象的な規範を持っていたようである。

 こうした彼女の活動の目標について、宇津恭子氏は具体的には次のように説明している。
 「豊寿の活動の主眼は、明治の婦人が男子と対等の人権を回復し、自主自立して社会における天賦の役割を果たすよう、自覚をうながし障害を取り除くことにあった。そこでまず、女性自身の言論活動によって世論を喚起し、社会のメンタリティーを変革する必要を叫び、また廃娼運動を東京婦人矯風会の主要な活動とすべきことを主張した。当時日本では一夫多妻、芸娼妓の公認等、女性の人格無視、人権蹂躙が慣習化していた。それを根元から改めるには、キリスト教の愛、人格の平等、一夫一婦の思想を社会に浸透させ、またその思想によって政治家に働きかけ、公娼制度の撤廃にこぎ着けなければならないと、豊寿は考えたのである」

 新島襄の同志社建設募金運動にも協力、これは矢島楫子の甥に当たる徳富蘇峰からの要請だったという。蘇峰は叔母の楫子と豊寿との確執は知っていたと思われるが、終始豊寿に協力し、友人として快く相談に応じていたらしい。

 募金にあたって豊寿は広告文を考え、蘇峰の添削を経て次のような主意書を印刷配布する。(宇津氏の論考に引用記載されている広告文で、彼女の教育に関する熱意を吐露している文なので、以下仮名遣いなど少し現代風に改めて書き写させていただく)。
 「このとき(新島襄の学校開設募金運動)に当たりていやしくも吾々同胞の姉妹たるもの雲煙過眼徒ら之を看過せば あに吾々姉妹が世に処するの一大義務に欠く所なからんや 教育は文明の神髄なり 一国教育の事業は独り男子専有の事業にあらざるなり」

 こうして豊寿は日本初の市民相手の音楽会開催に奔走、木挽町厚生館で開かれた「音楽慈善会」は成功を収め、3日間で純益103円22銭を新島宛に寄贈することが出来た。新島襄からは社会事業に経験の乏しい婦人の手になる義捐金ということで、特に感謝の電報が届いたとのことである

 佐々城豊寿の体は決して頑健ではなくやがて明治26年、健康上の理由や、東京の矯風会での軋轢と孤立化による行きつまりを打開し、尊敬する新島襄の遺訓に答える意味もあって、北海道に退いて「開拓に従事しながら、新天地が必要とする女子教育をおこし、女権拡張の初志を貫こうとし」26年4月婦人白標倶楽部は矯風会に合併させ、日本婦人矯風会が全国組織として成立したのを見届けたあと、老母と三児を連れて北海道に移住する。

 そしてかの地で心を新たにして学校建設に奔走するが、しかしせっかく企画した女子家政学校も、時あたかも明治政府の「高等女学校令」ができ、潰されてしまう。労多くして成果の乏しい挫折続きの足かけ8年後、明治34(1901)年、再び東京に戻り、かつて彼女が中心となって作った女子授産場(慈愛館)の拡張のために奔走、義捐金を募り、上野音楽学校でのチャリティ音楽会を成功させるなどの活動のさなか夫を喪い、自身も1ヵ月後に世を去った。49歳であった。

 佐々城豊寿に関しては、これまでその真の姿は殆ど知られず、ある虚像だけが一人歩きしてきた。これは日本の女権運動の歴史を考える上で、興味深い示唆を含んでおり、見逃すことはできない。

 まず、彼女自身及びその女権獲得活動に関したその虚のイメージとは、有島武郎が1911年1月「或る女のグリンプス」というタイトルで雑誌「白樺」に連載し、のちに「或る女」と改題して出版した小説に見ることができる。

 それは一人の美しく才気に満ちているが、我がまま放題の若い女を主人公にした転落物語で、そこに出てくる彼女の母親、女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長という肩書きを持ち、キリスト教婦人同盟の事業に奔走して家庭を顧みない、傲慢で気丈な中年有閑夫人のモデルが、佐々城豊寿であった。半ばフィクションとはいいながら、作中の事件や人物たちの動静は、大部分が、狭い社会で実際に起こった出来事であったこと、当時相当評判をとった作品であったことなどから、作中の女主人公及び母親は、そのまま実在の人物と重ねあわされ、世間に刻印されてしまった。筆者なども少女時代に始めて読んだとき、これが婦人矯風会なるものの実態なのか、と思い込まされ、心に焼き付けられてしまったほどである。

 余談ではあるが、「或る女」の女主人公の葉子(奔放な男性遍歴の末、病に呻吟しながら死んでしまう、という結末になっている)のモデルとなった豊寿の長女信子は、宇津氏の調べたところでは、母亡き後、弟佑氏の覚書によると「栃木県真岡でつつましく日曜学校を続け、聖書を教え昭和24年70歳で帰天し」ということで「人に尽くすことを第一義とし、一生重荷を背負って歩き続けた・・」と書かれているという。

 これは、明治の日本人の女性に対する規範像や当時の一般社会意識とは余りにかけ離れた、進んだ意識と感性の持ち主だったかもしれない親子の悲劇といえるかもしれない。また、俄かに取り入れられたキリスト教に関しての日本の知識人たちの、欧米におけるような神学や哲学の古層を持たない理解の程度を考察する、ひとつの資料にもなるかもしれない。今後の課題としてあえて紹介させていただいた。

 豊寿が北海道に移住したのち、日本婦人矯風会は、ますます国家への協力体制を強め、日清戦争が勃発するや、積極的に協力する姿勢を見せるがいっぽうで、矢島楫子は、1898年、木下尚江から「婦人矯風会は、何故婦人参政権問題を提唱なさらないのですか」と質問されたとき「矯風会は政治には関係いたしません」と答え、木下尚江を唖然とさせる。

 しかし矯風会は日露戦争ではさらに「看護婦人矯風会」などを結成、ますます積極的に戦争協力活動に乗り出す。これに関して木下尚江は、明治38年4月発行の「平民新聞」第2巻12号に「醒めよ婦人」というタイトルで寄稿し、激しい調子で、反戦論を披瀝し、「婦人矯風会」の面々が政治にかかわらずといいながら、進んで戦争に協力していることに関して、「諸君が余りに見易きの理を心着かざるを傍観しては、義として黙過すること能わず」と諄々と彼女たちの行動の理に合わぬ矛盾点を説き、批判の声を上げた。

 これまで進んで女権運動や婦人参政権問題、廃娼問題に協力してきた木下の無念さがにじみ出た文章で、詳細な筆致で、当時の国民感情に寄り添う矯風会の比較的境遇に恵まれた婦人達の、時代に迎合した、上ずった興奮振りが目に見えるように描写されている。本文を紹介できないのが残念であるが、またの機会に譲ることにしたい。

 次回は佐々城豊寿の終始よき友であり、常に行動をともにして支え続けた潮田千勢子の活動と思想を紹介しつつ 考察を試み、引き続きさらに幾多の世に埋もれた知られざる女性たちの活動の生涯を掘り起こしながら、日本での女権運動のありかたを考察してみたいと思う。

 (筆者は東京都在住・エッセーイスト)


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