女性の役割の再構築を目指してできること(9)

【ジエンダー】      

女性の役割の再構築を目指してできること(9)

                        高沢 英子


4)明治中期の女権運動とその明暗
-「日本基督教婦人矯風会」の活動Ⅱ
  
前回は明治中期に日本最初の女性自身の手になる、強い組織団体を作り上げ、自発的な運動を繰り広げた日本基督教婦人矯風会の存在と、その中で傑出した見識と不屈の精神で、同志と共に粘り強い女権獲得運動と虐げられた女性の救済活動を展開し、志半ばで1901(明治34年)、急逝した女性、佐々城豊寿の事績の概略を辿った。

その間、日本政府は天皇制を基幹とした憲法を発布し(1889年(明治22年)、翌年、第1回衆議院議員選挙、集会及び政社法公布と矢継ぎ早に法制度による国家組織の強化と国民の思想統制を図り、帝国議会召集と共に、教育勅語を発布、全体主義国家の地歩を着々と進めてゆく。

1900年(明治33年)に制定された「治安警察法」では、女子は政治結社に加入することは勿論、政談演説会に出席することすら論外として禁止され、政府は女性が政治に参加する一切の権利を剥奪した。

こうした社会情勢のなかでは、女性たち自身による自発的な動きも一部の先覚的な女性の活動に限られ、広く社会問題として世論を喚起するような広汎な力は発揮できず、興味半分に取り扱われるのが関の山で、当然、公衆の意識改革には程遠く、依然として女性の地位の社会的低さは改善されるどころか、依然として人間としての価値基準の外にあった。

「女子と小人養いがたし」と切り捨てるのが社会常識という状況のもとで、旧幕時代の全体主義的な政治体制によって日常的に絶対服従の姿勢に慣らされてきた民衆の意識改革は、そう容易になされるものではなく、付け焼刃の文明開化の自由民権思想は根付かず、中期から後期にかけて、こうした国民感情を巧みに利用した明治藩閥政府のもとで、真の民主主義理念からかけ離れた依存的な存在へと再び逆行してゆく。

さらにキリスト教信徒を標榜する男性知識人たちも、女性問題に関しては、日本古来の保守的な女性観を捨てきれず、女性の活動を冷ややかな眼で牽制し、次第に体制に順応した姿勢を強めていく。

最後までこれに敢然と立ち向かったのは、ひとり社会運動家の木下尚江であった、と鄭玹汀氏は指摘している。
1903年(明治36年)、木下尚江が毎日新聞〈現在の毎日新聞とは無関係〉に発表した「妾等の疑問」と言う一文の引用を、少し借りつつ紹介してみよう。

それによると、木下尚江は政治の世界が「我儘勝手なる卑劣千万なる男の手一つに掻き廻され・・」た結果、憲法や法制度のもと、女性差別が制度化されている事実を激しく弾劾し「当今の如き盗賊同然の政治」と罵倒し「国家社会のことも婦人の手を借り候はでは、何時までも今日の鼠の巣のまま・・」と断言しているのである。

現在でも通用する大変進んだ考え方で「女性が輝く社会」などという謳い文句より余程進んでいる。女性は政治の力で輝かせて貰う「社会のアクセサリー」ではない。平等を目指す限り、それ相応の能力を磨き、責任あるポストで充実した仕事をしたいと願う一人前の人間である、という前提を、現代日本の彼らも彼女たちもどこまで理解しているのか、今もってはなはだ疑わしい。

戦後から日本でも、女性史及び女性問題研究会が全国浦々で組織され、自由に活発な活動を繰り広げて実際的な成果も挙げ、優れた研究書や報告書の労作の夥しい蓄積があるにもかかわらず、諸外国に比べ、女性の社会進出は質・量ともに大きく立ち遅れている現状を思うとき、この小論も大海の一滴に過ぎないかもしれないと思うが、亀の歩みのような遅々たる試みであっても、現場を離れて、歴史を辿りつつ認識論的考察を試みることで、何かが見えてくるかもしれないと、ひそかに願いつつ、前回に続き、明治期の先覚者のひとり、婦人矯風会の有力メンバーとして佐々城 豊寿のよき理解者であり、友であった潮田千勢子の苦闘のあとを辿ってゆくことにしたい。

B)潮田千勢子
―1粒の麦もし地に落ちずば- 
潮田千勢子は、1845年(弘化2年)信濃の国飯田藩の藩医の娘として生まれ、佐々城豊寿より8歳の年長であった。
幼少期の彼女の教育がどのようなものであったかは具体的には知らないが、当時としては高い教養を身につけた女性であったらしい。明治元年にすでに23歳、少女時代に、時代の激しい変遷を身近に体験したと思われる。
郷里の信州飯田藩の藩士と結婚し、3男2女の母となったが、たまたま空き家となった生家が、教会として用いられたことから、キリスト教の精神に触れ、明治15年(1882年)、アメリカのメソジスト派監督教会から来日していた宣教師ジュリアス・ソーパー師(1845~1937)により洗礼を受けた。ソーパ-師は青山学院の源流である「耕教学舎」の実質的な設立者で、のちに青山学院神学部の教授となり、学部長も務め、日本のメソジスト関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物だった。
生涯キリスト教信仰に堅くたち、恵まれない境遇にある人々、不当な境涯に苦しむ女性たちを擁護する立場に立ち、身を投げうって目覚しい働きをした潮田千勢子の不屈の精神は、この師のもとで培われたのであろうか。洗礼を受けた翌16年、夫潮田健次郎と死別、子女の養育のために、3男2女と共に上京する。39歳であった。
上京後、矢島楫子が校主代行を勤めていた桜井女学校(女子学院の前身)の保母科に入学、末娘を付属幼稚園に通わせながら学業を終え、幼児教育の仕事にあたると同時に、外国賛助会員会長のミス・スペンサーとともに伝道に従事した。そして、1886年(明治19年)日本基督教婦人矯風会が設立されるとき、彼女が発起人のひとりとなった。
しかし、前述したように、会の方針が、社会の風紀の乱れや、男女の倫理観を矯正指導し、あくまでもキリスト教精神に基づいた純潔生活を守るよう呼びかけることに重点を置いた矢島楫子の保守派と、積極的に女性の自覚を促し、権利向上を目指して政府に働きかけて法制度を改めさせ、弱者や女性の立場改善を求め、社会的に恵まれない底辺の女性の救済を実践目標とした進歩派の佐々城豊寿派との間で、発会当初から大きく喰い違っていたことは、前回も指摘したとおりである。
その結果、最初から会の幹部たちは二派に分裂し、やがて相互の亀裂は次第に大きくなった。しかし、佐々城派に賛同した潮田は、会内部での反対派の視野の狭い嫌がらせや妨害など、ことごとに対立する暗闘の空気の中で、常に佐々城と行動を共にし、ぶれることなく、淡々と粘り強く佐々城の主張を支え続け、佐々城が自説を貫くため、矯風会とは別に、白標倶楽部を設立した際も積極的にメンバーとして加わり、生涯よき友として共に活動したのである。
こうした進歩派の活動は鄭、玹汀氏によれば、婦人矯風会の従来の幾多の研究のなかでも触れられていることが少なかったとのことで、鄭氏は「一部の会員たちが不屈の精神で女性の権利拡張のために闘った事実を見逃してはならない」と述べている。
繰り返すように政府が1890年〈明治23年〉帝国議会の開会を前にして、7月25日、政府が発布した「集会及び政社法」第4条で「女子は政談集会二加入スルコトヲ得ズ」という条文を入れ、衆議院規則で女子の傍聴禁止」を定め女性の政治活動を全面的に禁止しようとする挙に出たときも、婦人矯風会はこの条文に反対する建白書を8月12日には提出。800名に上る反対署名を集めている。
その後、佐々城は有志21名と共に「女子の衆議員傍聴禁止」の条項に抗議。多くの議員とひざ詰め談判をし、12月3日削除を実現させた。潮田もこれに参画していたのは言うまでもない。併し、政府の理不尽な圧力はこれにとどまらず、翌明治24年には、佐々城が編集していた「東京婦人矯風会雑誌」が、かねがね政治問題を大胆に批判し、主義主張を強調している、という理由で、廃刊処分を受ける。
さまざまな圧力に屈せず対抗してきた佐々城も、精根尽き果て、翌年の明治25年、白標倶楽部を婦人矯風会と合併させて東京を去り、新天地を求めて、一時北海道に移住することになるが、潮田千勢子は彼女の後継者として、たゆまず献身的な実践活動を展開してゆく。佐々城のように華々しく論陣を張ることは無かったようだが、、あくまでも地味な裏方に徹しつつ、一粒の麦もし地に落ちなば-というイエスのことばを、自らの指針として、弱者救済に奔走し、倒れるまでやむことが無かった。佐々城が1901年〈明治34年〉49歳で世を去ったときも、葬儀のとき、心のこもった長文の追悼文を朗読、それは後に婦女新聞に分載され、佐々城の戦いの生涯を語る貴重な資料となって遺された。
ところで日本基督教婦人矯風会は、1894年(明治27年)かねてからの廃娼運動の突破口として、不幸な女性救済のため、大久保百人町に1600坪の土地を求め、そこに「慈愛館」を建設したが(当時の大久保は、まだ田舎で、広い土地を求めること比較的容易であったようだが、この土地を有していることが、現在に至るまで、矯風会の活動の物質的な基盤となっているという)この「慈愛館」の主任は潮田千勢子であった。さまざまな取り組みの中で、具体的なものとしては、社会主義者木下尚江に協力し、自由廃業で吉原遊郭から逃れてきた津田きみ子と言う女性を自宅に引き取り自立を促し、教育を受けさせるなど面倒を見ている。
潮田は明治31年の『婦人新報』18号に-「醜業婦と申しましても、一度泥土の中に陥りました者ばかりでなく、将に醜業に陥らんとする貧人を養ひたいと云う目的で建てたので御座いますが、これはなかなか困難なことで・・結果をも見ませぬ」-(大正大学研究紀要「足尾銅山鉱毒事件と女性問題」第97山田知子氏の調査による)と事業運営の苦衷を訴えている。
併しこれがのちに足尾銅山鉱毒事件の被害者救済に大きな働きをすることになる。日本の公害事件の原点ともいわれる鉱毒汚染事件についての詳細は省くが、1900年、田中正造と木下尚江の案内で、矯風会の同志4名(矢島、潮田、島田、松本)が被災地海老瀬村の視察に赴く。かねてから潮田の識見を買っていた木下の要請によるものであった。矯風婦人会のメンバーは、惨状を目の当たりにし「鉱毒地救済婦人会」の結成計画は帰途の車中でまとまったという。潮田が会長となり、直ちに活動を開始した。国会の貴族院、衆議員、両議院に檄文を配布し、全国を遊説して鉱毒問題の重大性を説いた。
足尾銅山鉱毒事件、鉱毒地救済婦人会」投獄された黒沢酉蔵への伝道
そしてこのとき、いわゆる男性基督者などが白眼視してきた婦人矯風会の働きを、不純な野望など抜きで、真実なキリスト教信仰に立ち、一貫して熱い支援を送り続けた社会主義者が木下尚江であった。病躯を押して孤独な戦いを続け、1903年(明治36年)7月4日他界する。木下は彼女を悼み追悼文をしたため「潮田老婦人の永眠によって、日本の社会は一大有力の働き人を亡へり」と書いた。(毎日新聞)
鄭 玹汀氏は「多くの男性キリスト者と異なり、木下は女性の社会
活動に大きな期待を寄せていた。「婦人矯風会が・・非難に屈することなくキリスト教に基づく社会運動を忍耐強く展開してきたことを木下は高く評価していた」と述べ「婦人矯風会をめぐる従来の研究はいくつかあるが、政治的権利拡張の運動については触れることが少なかった。だが、矯風会の一部の会員たちが不屈の精神で女性の権利拡張のために闘った事実を見逃してはならない」と強調している。のちに、木下尚江は「日本基督教婦人矯風会」の主流派が、時代に流され、帝国主義国家依存に傾いてゆく在り方を憂慮して幾多の論文で覚醒をうながす。当時の日本の「政治は女人圧制の器」と固く信じていたからである。しかし矯風会の姿勢は変わらず、失望したかれは次第に「矯風会」から離れてゆくが、潮田千勢子の働きには終始励ましと協力的姿勢を持ち続けた。彼がいかに潮田を敬愛していたかは、その主著小説「火の河」で彼女をモデルにした人物を描いていることでも分かる。
明治の開国以来日本の近代化に大きく貢献したキリスト教、今なお日本各地にキリスト教系の小学校から大学に至る教育機関が存在し、優秀な人材を社会に送り続けている事実とうらはらに、日本国民に殆ど信仰と言うかたちでは浸透しないキリスト教、その理由については、筆者も是非明らかにしたい問題ではあり、この小論の内容にも大きく関わる事柄なのだが、ここでは割愛する。
そして、キリスト者とは何か、と言う難問にずばり数言で答えたフランスのカトリック作家モーリヤックの言葉を引用させていただくことにする。
1928年の発言であり、ひとくちに東洋人といっても、今日の先進国日本人には当てはまらない、と言いたいところであるが、果たしてそうであろうか。
-キリスト者とは何者であろう。それは個人として実存する人間であり、自分自身を意識する人間である。数世紀来、東洋がキリストに抵抗するのは、東洋人がその個人的実存を否定し、自己の存在の解消を希求し、宇宙の中に没することを願うからにほかならない。東洋人は、彼が人間であることを知らぬから、自分のためにあのような血の滴が流されたことが了解できないのである-(F・モーリャック「小説論」Ⅸ 川口 篤訳)
日本の指導者層は西欧の近代国家形成の成果に足並みを揃えようと努め、一応の形は整えたが、西欧の哲学的思考教育をおろそかにした結果、全般的に意識の底に横たわるのは、明らかに人間存在への軽視であり、さらに近代化を科学的進歩とのみ捉えたに永年の人間存在軽視の悪政によって、一般市民は真の幸福追求の意欲を失い、社会全体に、体制に身をゆだねて、そこそこ安楽に日々を暮らせさえしたら、あとのことはどうでもいいとする諦念が骨の髄まで沁み込んでいること、そしてそれが日本社会の近代化にいびつな歪みをもたらし、あらゆるところに根を下ろしていることを痛感させられるのである。
女性問題は、怒りでは解決できない。今こそ喜びをもって進むべき時が来ている、と云われているが、日本では、女性はまだまだ怒ることは多々有りそうだ、と思いつつ筆をおく。

     (筆者は東京都在住・エッセーイスト)


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