子どもたちの「犯罪」に教育は対応できるか

【コラム】落穂拾記(42)

子どもたちの「犯罪」に教育は対応できるか

羽原 清雅


 川崎市の河川敷で、13歳の中学生が、18歳の青年らに殺害された。痛ましい、に尽きるが、これは「衝動」による殺害だったのか。人間には突然の怒りがある。だが、18歳の若者には通常、抑制・忍耐というブレーキが働くだろう。少なくとも、そう思いたい。

 この若者は、事件の前にも傷害沙汰を起して施設に入れられた。そこでの反省はなく、さらに非道を重ねた。ひと括りにすれば、「しょうもない不良」ということになる。おそらく、その18年の人生には、ブレーキを身につける環境がなかったのだろう。「相手の気持ちをくむ」「一歩踏みとどまり、堪える」という機能が未発達だったのだろう。その責任は「教育」にある、という責めも負わなければなるまい。

 一方、13歳で生命を絶たれた少年は、隠岐の島から上京、多忙、かつ生活に追われて子らに目の届かない境遇の親、慣れないながらも娯楽など魅惑に包まれた都会、一見親しめる兄貴分の性格を読み取れなかった未経験、優しさの届く狭い島の仲間や大人たちと大都会の個人型社会とのギャップ・・・そうしたことも総体としては「教育」に原因の一端がある、といえなくもない。

 1ヵ月も登校せずにいる子どもに対して、毎日の電話、5回の訪問をした担任教師や学校だったが、結果においては手を尽くしたとは言い難い。形式的な日常業務としての電話にすぎなかったのか、それ以上の立ち入りは不可能だったのか、その内実は不明ながら、これも「教育」の責任を問うことになる。

 「衝動」は、「教育」でコントロールできるものなのか。
 「子と向き合えない貧しさ」「校内ですら連携を欠く社会」「個人の尊重とお節介の限度」「若者の更生のための保護施設の無力」・・・さまざまな問題を浮き彫りにするのだが、それらは「教育」という狭いジャンルで解決できるのだろうか。ただ言えることは、子どもたちに最も近いポジションにある親と家庭、そして学校は、子どもの心や状況を繊細に把握するアンテナだけは磨き、迅速で広い対応の機能は発揮しなければなるまい。その点で、「教育」の責任は大きい。 
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 そんなことを考えていると、子どもたちの世界での「犯罪」はいまに始まっていない、という資料に出くわした。大正5(1916)年の事例で、今からほぼ百年前のことである。
 その事例の多さには驚くばかりである。

 *山梨県の尋常小学校で4月、高等小2年生(13)が学友の少年(15)を鉛筆削り用の小刀で刺して即死させた。幻灯機会の映画のことで口論した結果、という。
 *その翌日、東京・京橋区の高等小学校で、2年生(15)が尋常小の15歳の少年(15)の胸部を小刀で突いて殺害。「口論の末」としか書かれていない。
 *松江市の尋常小学校でも4月、尋常小3年生(10)が1年生(8)をナイフで刺し、即死。
 *東京・本所区で5月、尋常小2年生2人が同級生の眉間を突いて脳振とうを起させた。
 *新潟県中条町の小学校で5月、高等科1年生が友人を海軍用のサーベルで負傷させた。
 *同じ日、東京・本所区の尋常小学校で5年生が友人の左胸部を竹製の物差しで刺して重傷を負わせた。
 *東京・神田区の小学校で5月、6年生が友人の右腕を折った。
 *東京・小松川の尋常小学校で10月、15歳の少年が下校の途中、同級生と成績のことで口論し、鉛筆削りの小刀で斬りつけ、前頭部に長さ3センチ、骨に達する深さの重傷を負わせた。

 詳しい事情は分からないが、状況からすれば、「衝動」的といえるのではあるまいか。

 こうしてみてくると、同級生など年代の近い子ども同士が傷つける、といったケースは、古くからあったようだ。ただ、この時代のケースは、いわば「単純」で、個人的な「興奮」にいきり立っての暴行、といってもいい。川崎市の事件とは同一視できない。

 川崎など最近の事件の背景は「複雑」といえそうだ。川崎のケースもさることながら、それ以上に「殺してみたかった」式の、狂気というか、不可解な若者による事件が続発している。

 *名古屋の女子大学生の77歳女性の殺害(2015・名古屋市)
 *女子高校1年生の同級生殺害(2014・佐世保市)
 *小学6年生(11)の同級生殺害(2004・佐世保市)
 *高校3年生(17)の主婦殺害(2000・豊川市)
 *中学3年生の小学生2人殺害を含む5人殺傷(1997・神戸市)

 これらの加害者の精神医療の結果やその犯行の病理などは十分知らされていないが、決して「衝動」というものではない。

 そして、犯罪というものはいつの時代でも起こる、とあっさり片づける結論は持ちたくない。
 ただ、社会状況がより不可解な事件を引き起こし、それが子どもたちの世界にも持ち込まれる、ということはいえるだろう。社会のひずみ、心の歪み、世相の見えにくい暗い淵源、手の届きにくい子どもたちの心理構造と未熟な社会体験・・・。こうした犯罪の温床ともいうべき環境は、果たして「教育」というジャンルのみで解決の方向に持っていけるのだろうか。

 「教育」の責任を回避するつもりではない。
 社会総体の歪み、を感じ、改革する機運がもっともっと醸成されない限り、犯罪の不可解性は増していくのではないか。弱肉強食、経済優先の拝金指向、数に頼み本質に迫らない風潮、武力・権力による社会のかじ取り、「他・相手」や「少数」への配慮の乏しい環境、「個人尊重」の美名のもとの「利己」主張・・・。
「道徳」教育で治せるようなものではあるまい。

 発生する奇怪な犯罪はまだまだ起こるに違いない。100年前の子どもの、いわば素朴なケースを見ていながら、目前の事態を打開するすべが見当たらず、複雑化し、解きがたくなっていく若者の犯罪に手をこまねいている、そんなおとなで申しわけない気分である。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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