学ぶ機会をいただき感謝しています。

三ツ谷洋子

 私がフリーランスジャーナリストとして海外取材のキッカケをいただいたのが、加藤宣幸さんでした。ご子息の始さんが高校時代の同級生だったこともあり、モスクワオリンピックを2年後に控えた1978年、“ステートアマの本場”だったソ連(当時)の取材が実現しました。
 日本の新聞社は世界各国に支局を持ち自前の記者を抱えています。しかし、彼らの得意分野は政治や経済で、スポーツはほとんど見向きもされない分野です。ソ連を初めとする東側諸国のニュースはプロパガンダであるという、政治的な側面のみが認識されていた東西冷戦の時代でした。とはいえ、東側諸国の選手は日本の新聞でもスポーツ面で大きく取り上げられることがあり、強さの秘密はステートアマにあるという分析がなされていました。国家がサポートしているアマチュア選手という意味です。

 私は慶應大学を卒業した後、サンケイ新聞社(当時の表記)の社会部からサンケイスポーツ新聞に配属され、記者として仕事をしました。その後、フリーライターとなり、ソ連にネットワークを持っていた加藤さんに、現地との連絡をお願いしたのです。
 最初にいわれたのが「希望する具体的な取材先を知りたい」ということでした。日本を含む西側諸国での取材では、現地に着いてから自分で取材先に連絡をするのですが、ソ連では事前に知らせることが必要だそうで、非常に手間がかかりました。ソ連を絶賛していたのはロシア文学者だけ、批判していたのはマスコミだけ、という極端な状況で、何とかリストを作りました。
 秋には許可が下りるはずと期待していたものの、受け入れは11月27日から2週間と、寒い季節になりました。手渡された日程表には日々の取材先や訪問都市が詳細に記され、私の資料にはなかったキエフ(当時:ウクライナ共和国)やタリン(当時:エストニア共和国)といった都市も含まれていました。

 この取材でサンケイ新聞、サンケイスポーツ、毎日小学生新聞に20本ほどの記事を書きました。その後、スポーツ総合雑誌や旅行雑誌、女性雑誌など、考えられる全ての新聞や雑誌に売り込み、モスクワオリンピック取材を終えた段階で計14の媒体に80本の記事をまとめ、これらを全てコピーして加藤さんにお渡ししました。新聞社に所属していないフリーランスの記者であるからこその仕事だったと思います。

 ソ連にとって、私は日本から取材に来るスポーツジャーナリスト。私自身は、あちこちに書きまくらなければ食べていくことのできない貧乏ジャーナリストでした。しかし何よりの成果は、この仕事を通してどのようなモノ(人、事)でも、多様な側面があるという事実を学んだことでした。そんな機会を作ってくださった加藤さんには、心より感謝しています。ありがとうございました。合掌

 (スポーツビジネスコンサルタント、元法政大学教授)

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