【自由へのひろば】

安倍首相の靖国参拝は憲法違反

                       篠原 令

 私の友人にドイツ人の女性と結婚した人がいる。かれから聞いたところによると、彼女は敬虔なキリスト教徒なので、日本に来てから一度も寺や神社に足を踏み入れたことがないという。そして子どもたちが大きくなり、学校で京都、奈良の修学旅行に行く時期がくると、担任の先生に会いに行き、我が子は絶対に寺や神社の中に入れないでくれと頼んだそうである。日本人はこれを奇異な行動と考える人が多いと思うが、実は私の家内(韓国人)も日本の神社には絶対に行こうとしない。彼女は仏教を信じているから、日本の訳の分からない神様がいる神社を忌み嫌っている。もちろん子どもたちにも行かせない。私は信仰というものは本来こういうものだと思う。キリスト教徒であるドイツ人の女性から見れば、信じてもいない仏教の寺院や、神道の神社に足を踏み入れることは自らの神に対する冒涜であるとともに、仏教なり神道を尊重するから信者でもない自分がそれらの宗教施設に勝手に入り込むことは逆にそれらの神に対する冒涜となるから自ら自制しているのだろう。

 私は昔、タイのバンコクで仏教寺院を見て回ったとき、本堂の中でタイ人たちが真剣な祈りをあげている姿を目にしたことがある。するとそこにどやどやと観光ツアーの日本人たちがやってきて、お祈りをしているタイ人たちを一顧だにせず、バチバチと金色に輝くご本尊をカメラで撮りまくるのであった。私はそのとき深く反省したのだが、寺は信仰する人々が来るところであり、観光の対象にしてはいけないのだと思った。日本では坊主自らが金儲けに余念がなく、「拝観料」という名の入場料をとって本尊を見世物にして恐れることがない。罰当たりな坊主たち、神などいないとわかっていながらそこに神がいるかのごとくふるまう偽善者の神主たち、かれらは本当の信仰というものを知らない。知らないから平気で神仏を売り物にする。地獄へ堕ちるべき存在である。

 さて、そこで日本国憲法第三章、国民の権利及び義務の第二十章を見てみよう。(1)には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあり、続いて「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とある。(2)は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」とある。そして(3)では、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」となっている。一読しただけで首相や大臣の靖国参拝は憲法違反であることがわかる。もちろん伊勢神宮の参拝も「国及びその機関」である首相や大臣は憲法違反になる。「戦争で犠牲になった英霊に尊崇の念をあらわす」ということは立派な宗教行為である。

 国家神道というのは明治新政府が神社神道と皇室神道を結びつけ、神道を国民精神のよりどころとし、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務付けたものである。その結果、死ねば靖国に祀られるとして多くの有為の若者が尊い命をなくしていった。安倍首相は口を開けば「戦争で犠牲になった英霊が祀られている」というのだが、仏教的な視点から見れば、全くのたわごとでしかない。戦死した人の霊というのは一般に救われずに迷っている場合が多い。いわゆる亡霊であり怨魂である。その迷って救われない霊たちが「靖国」行けば誰か自分たちを救ってくれるのかと思って「靖国」に来てみても、集まっているのは自分たちと同じ亡霊たちの怨嗟の声ばかりということになる。偽善者である神主たちがいくらお払いをして祝詞をあげてみたところで、かれらに迷った霊たちを救う力はない。戦犯たちの霊を合祀したというのも観念論であり、形式にすぎない。死者の霊たちをあちらに行きなさい、こちらに来なさいと思うように動かせる霊力のある人など神主たちの中に一人もいない。霊を祀るとかなんとか言っても、所詮は気休めに過ぎず、その架空の物語をさも真実かのように受け入れろというのは二十条二項の「強制」に該当する憲法違反である。仏教徒やキリスト教徒に神道の概念を強制させようということはかつてのナチズムや日本の国家神道に相当するファシズムへの道である。日本人というのは正月には神社に詣で、結婚式はキリスト教の教会で行い、死んだらお寺の世話になるという具合で、全く宗教的な節操のない民族である。そこに国家神道が入り込む隙ができてしまう。中国や韓国が靖国参拝に反対するのはその歴史認識からして当然のことだが、日本人自身ももっと「宗教とは何か」「信仰とは何か」といった根本的なところからこの問題を考えてみたらどうだろう。

 ところで安倍首相は第二次世界大戦末期の激戦地となった南太平洋の島国を歴訪して日本人戦没者を慰霊し、遺骨収集活動を強化したいという。海外における日本の戦没者は約240万人いて、そのうち50万人近くが南太平洋に集中しているというのだが、では残りの200万人近くの戦没者はいったいどこで亡くなったのか。安倍首相は知らないかもしれないがその答えは中国である。日本人の多くは先の世界大戦では日本はアメリカに負けたと思っている。それは戦争末期の三年八ヶ月のいわゆる太平洋戦争のことであり。盧溝橋事件から数えれば八年、満州事変から数えれば十四年間、日本は中国と戦争をしていたのであり、最終的には中国で大敗したのだということが何故か無視され、忘れ去られようとしている。

 大東亜戦争という呼び方をしてあたかも日本がアジアの国々を植民地支配から解放してあげたかのように言う人々もいるが、これも歴史の歪曲である。満州事変にしろ、盧溝橋事件にしろ、なぜ日本軍がよその国の中に駐屯していたのか、これひとつみても「侵略」であることは明らかなのに「侵略の定義は定まっていない」と寝言のようなことを言う人間が日本の首相でいることを国民はもっと恥じるべきだろう。日本人が200万人近く命を落としたのは中国の戦場であり、中国の国民党の軍隊もまた百数十万人の犠牲を払った。こうした事実に目を向けることが歴史を直視することである。中国や韓国に喧嘩をふっかけておきながら「いつでも首脳会談に応じる準備があります」というのは国民をあざむく戯言でしかない。この政権はもう退散してもらうしかない。次の政権によって日中関係、日韓関係の改善を行い、隣国民同士アジアの安定と世界平和に向けて努力していきたいものである。

 (筆者は日中ビジネス・コンサルタント)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧