宗教、儀式・・・色濃く残るマゼランの足跡

【北から南から】フィリピンから(5)

宗教、儀式・・・色濃く残るマゼランの足跡

麻生 雍一郎


 マゼランンがマクタン島の戦いで酋長ラプラプの部隊に殺害されたのは1521年4月27日。セブ島に上陸してから20日後のことだが、この短い滞在の間にマゼランは多くのことを行い、それは5世紀を経た今日でも伝統や儀式、人々の暮らしの中に根を下ろしている。

 マゼランの艦隊が接岸、上陸した海岸沿いの広場にマゼランクロスと呼ばれる八角形の建物があり、セブの観光名所の一つになっている。マゼランはセブの酋長たちにキリスト教への改宗を薦め、洗礼の儀式を行っていった。マゼランクロスは文字通りマゼランが作った木の十字架で、この十字架の下、セブで(ということは当時のフィリピンで)最初にキリスト教に改宗したフマボン王とフアナ女王が洗礼を受けた場所として知られる。王と女王の改宗に倣って、このとき、臣下や一族1300人も洗礼を受けたといわれる。
 ただ、改宗は説得だけで行ったのではない。沖合に停泊していた5隻の艦船から大砲の空砲を打ちならして驚かせ、抵抗する集落は焼き払ったりと、武力と恫喝を伴っていた。これに反発し、武力で抵抗したのがマクタン島の酋長ラプララプだった。
 マゼランの十字架を包み込む形で八角堂が建てられたのは1834年。この十字架を削って、削った部分を身につけていると、万病に効くという噂が広まり、削り取る人が後をたたなくなったため、八角堂を建て、十字架にはカバーがかけられた。八角堂の天井には、マゼラン上陸時の洗礼の儀式を物語風に伝える絵画が一面に描かれている。

 スペインによるマゼラン以後のフィリピン遠征は失敗が続いたが、44年後の1565年、スペイン本国ではなく、植民地メキシコから太平洋を渡る比較的短いルートを取って遠征してきたレガスピが植民地化に成功する。彼はマゼラン同様に住民の改宗と居留地の建設にとりかかったが、住民はやはり強く反発した。怒ったレガスピは住民を武力で集落から追い払った。空っぽになった集落の一軒の家から隊員がきれいな服を着せられた幼子の木像を発見した。何と45年前にフワナ王妃にマゼランが贈った幼子キリスト(サントニーニョ)の像だった。王妃はマリア像よりこの幼子の像を所望し、マゼランから贈られると、それまでの偶像から取り替え て拝むことを約束し、深く感謝したという。
 レガスピは45年前のサントニーニョ像が見つかった奇跡に感動し、像の足下にぬかずいて接吻したという。遠征隊に同行していたアウグスチヌス会の神父が早速、近くに教会を建て、像を聖堂に安置した。マゼランクロスのすぐ近くにあるサントニーニョ教会がそれである。住民たちは、この像は奇跡を起こす力があるとして、マゼラン隊がスペインに向け去った後も深く敬っていたらしい。

 病気快癒、家内安全、商売繁盛、豊作大漁、結婚、子宝・・・サントニーニョは幸運を招く守護聖人となり、これを敬う信仰はセブから次第にピサヤ地方全体に広がり、いまでは毎年1月、フィリピン各地でサントニーニョを祝うお祭りが開かれる。最も代表的なものが9日間続くセブのシヌログ祭りだ。サントニーニョ教会の野外礼拝堂では早朝から盛大なミサが行われ、人々は赤い服を着せたサントニーニョ像を大事に抱いて参加する。ビバ・サントニーニョ!(サントニーニョに栄光を)のかけ声が響き渡る。最終日には市中の目抜き通りを山車、巨大な人形、カラフルな衣装をまとった高校生のパワーあふれるダンスなどが練り歩く。お祭りのハイ ライトだ。
 シヌログの語源は「水の流れのように動く」だという。先頭のミスコン優勝者は幼いキリスト像を抱いたり頭上に掲げたりしながら波のように優雅に身体を動かし、フィリピン各地はもとより、海外からもやってきて沿道を埋めた見物客の拍手と歓声を浴びる。サントニーニョ信仰が盛ん地域はレイテ、セブ、パナイ、マニラなど不思議なことにマゼランとレガスピが通った所と重なっているという。

(写真 幼子キリスト(サントニーニョ)像を頭上に掲げ、優雅に踊りながら歩くセブのシヌログ祭り) 

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 (筆者は日刊マニラ新聞セブ支局長)


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