【コラム】酔生夢死

家族

岡田 充


 台湾生まれで日本育ちの東山彰良が今年上半期の直木賞に輝いた。受賞作は1970年代の台湾を描いた「流」。朝日新聞のインタビューに彼はこう答える。「台湾にいても、日本にいても、(中略)どちらの社会にも溶けこめるのだけれど、けっして受け入れられはしないのだという漠たる不安をいつも抱えている。そんなわたしに残されている唯一揺るぎない場所が、そう、家族なのだ」。
 「どちらの社会にも受け入れられない不安」を抱く彼にとり、揺るぎないアイデンティティとは家族。多くの「華人」は国家や政治を信じず、国と自分と一体化させない意識が強い。日本人と最も異なる点でもある。「単一民族」「単一言語」の幻想から抜けきれない日本人は「みな同質で一体」という意識が強い。それは「無自覚な意識」でもある。だから国家と自分を一体化させる思考が身についている。社会問題が起きると、家族や地域社会をすっとばして、国家を論じるのはそのためである。

 9月初め、クアラルンプールで開かれた月刊誌の創刊6周年のパーティに出席し、常連のコラムニストと意見交換した。ある女性コラムニストのつれ合いは華人系マレーシア人。彼に、自身と家族のアイデンティティについて訊いた。原籍は広東省。3人の子供は中華学校に入れ北京語を学ばせた。移民第3世代の彼のコンプレックスは、中国語が書けないためだ。子供たちは日本籍の母親とは日本語で、父親とは北京語と広東語のチャンポン・コミュニケーション。
 アイデンティティについて彼は、すこし考えながら「マレーシア」と答えた。これは「マレーシア国民」を指し、「民族アイデンティティ」とは別物であることは自明だろう。アイデンティティは、時間と空間によって変化する。彼は「マレー人は気の毒ですね。我々(華人)は何かあればどこにでも逃げられるけど、彼らに逃げ場はないから」とも言った。これは「民族」に同一性を求める認識だ。それを聞いて一瞬「矛盾した発言では?」と感じたのは、私が紛れもなく特殊日本人の証明であります。

 では彼らに「揺るがないアイデンティティ」はないのか。東山の言う「家族」がその答えであろう。子弟に民族教育を受けさせ、いざとなれば国を捨てて逃げる—。そうした意識と行動の「単位」は家族である。一方、日本では「核家族」も分裂し「個人化」が進行中。家族がらみの事件も多発している。NHKアナだった下重暁子の新書「家族という病」がベストセラーになったのも、家族が揺らぎ始めているからだろう。
 本の内容紹介には「日本人の多くが『一家団欒』という言葉にあこがれ、そうあらねばならないという呪縛にとらわれている。しかし、そもそも『家族』とは、それほどすばらしいものなのか」とある。国家も政府も信じられず、おまけに家族も揺らいでいるとすれば、日本人は一体、どこに拠り所を求めればいいのだろう。夏休みの宿題。

 (筆者は共同通信客員論説委員)


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