【コラム】

対馬の神々と記紀神話

栗原 猛

◆対馬の神々、5世紀に奈良に移る

 日韓の古代史に関心を持つ小グループで、昨年秋、対馬を訪ねた。対馬にはなぜ古事記や日本書紀に出てくる神社と同じような名前の神社が多いのか、何か手がかりがつかみたかった。韓国の歴史書、『三国史記』には紀元4年に新羅の初代、朴赫居世王が亡くなって、許曽(こそ)を作って祭ったとある。許曽とは神社のこととされるから韓国にも古くは神社があったことになる。

 対馬は南北に細長く、朝鮮半島に近い方が上県(かみあがた)で、福岡に近い方が下県(しもあがた)と呼ばれるのも不思議だ。聖徳太子時代、遣唐使は対馬を経て朝鮮半島に渡り、港伝いに北上して、遼東半島から山東半島に渡り、そこに船を置いて陸路、長安に向かったという。

 厳原で遅い昼飯に入った食堂には、我々と一緒にカーフェリーから降りたばかりの韓国の若者たちが大勢いた。若い女性の店員は「景気はよくないですが、韓国のお客さんで持っているところがあります」と笑った。
 まず市の文化財保護委員会を訪ね、担当者から話を聞き、次の日程に進んだ。バスは1時間以上待たないと来ないということなので、タクシーを呼んでもらい、分乗して島内を回ることにした。
 対馬市が編纂した冊子を見ても、対馬には古事記や日本書紀に登場する神々が多い。高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)、神御魂神社(かみむすびじんじゃ)がある。驚いたのは記紀神話に登場する海幸、山幸を祭る神社、山幸の奥さんの豊玉姫と同名の豊玉町もある。島の南端と北端にあるユキ宮とスキ宮については、大嘗祭に作られる悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿との関係をうかがわせると指摘する歴史学者もいる。

 大昔から港だった島の中ほどの美津島小船越西漕手に、阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)がある。タクシーに待ってもらって、いわくありそうな粗削りな石段を百段ばかり上ると、やや広い平地に阿麻氐留神社がある。神社というより民家風の感じで、ガラス戸が閉まっている。いわれを書いたしおりが欲しいので周囲を回ったが、人が住んでいる様子はなかった。奈良、京都にも同名の神社があり、伊勢神宮のアマテラスとの関連も知りたかったが、ともに太陽神であること以上のことは手掛かりはつかめない。
 太陽神と言えば、朝鮮とは、朝日は新鮮で鮮やかだという意味で、新羅(しらぎ)は、朝日は新鮮で四方を網羅するという意味だと言う。釜山は半島で一番早く日の出が見られるので迎日湾と呼ばれる。太陽信仰は古くから朝鮮半島にもあったのだ。

 対馬と壱岐は大昔、大陸から亀卜(きぼく)が伝わって盛んだったが、日本書紀には「5世紀にこれらの神々は磐余(奈良)に遷座した」とある。そのためか、対馬の神社はどこかさっぱりした感じを受ける。恐らく亀卜師も一緒に移ったのだろう。ではなぜ奈良朝廷は神々を移したのか、奈良と対馬の神社はどちらが古いのか、朝鮮半島との交流はどうか、などを考えると、まだ何度か来なければならない感じがした。

 (元共同通信編集委員)

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