山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜(3)

【コラム】大原雄の『流儀』

山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜(3)

大原 雄


 石橋湛山が、小日本主義を発想した原点には、彼が少年期を過ごした山梨の風土、特に、南アルプスの麓、富士川の傍という風土と関係がないだろうか、とふと思った。甲府盆地の南の外れ。南アルプスが西から迫り、釜無川と笛吹川が合流した富士川が東から迫る。石橋湛山の時代には、富士川は狭隘な谷間を激流となって南下し、やがて、太平洋に注ぐ。狭隘の地域は、そこだけで自助自立しようとする。小日本主義が、領土の拡大や軍備を放棄し、小日本を堅持する限り、その国家運営原理は、一気に、広大な普遍的な地平に繋がって行く。まさに、小日本主義の理念型のように見える。これも、また、大原流の回り道。

 その一方で、戦国の武将・武田信玄を思い出す。四囲を峨々たる山並に囲まれた盆地の中心部から北に寄ったなだらかな坂の上に、城を築く代わりに小さな堀を巡らしただけの陣屋を構えた武田信玄。「人は石垣、人は城」というように、信玄は自領の本拠地では築城しなかった。攻めの武将。攻撃は最大の防御。侵略した他領には、幾つもの城を作った。そこを拠点(植民地同様)に撃って出るという「大日本主義」のような発想の持ち主。甲州商人は、撃って出る商法だから、信玄に近いか。盆地の周縁から狭隘な山間に入る地域に育った石橋湛山は、盆地人とも発想が違う。

 もっとも、小日本主義の思想は、石橋湛山もさることながら、東洋経済新報社の社風でもあった。論陣の先達・三浦銕太郎らからの影響も大きい。この課題は、当面の私のテーマの一つだ。

 もうひとつが、当初から言っているように、軍部、大手新聞社などが音頭をとり、時代が狂気を帯びて行く中で、現役のジャーナリストとして、石橋湛山が正気を保ちつつ、筆を折らなかった理由・原因は、なにか。少部数の経済専門誌の記者だったことも大きいかもしれないが、軍部や官憲からの妨害もあり、社の倒産の危機もあった。

 社長時代(1941年から代表取締役社長に就任)の石橋湛山は、「軍部に協力するというたとて、それで果たして東洋経済新報が存続しうるや否や、疑問である(現にそうしたにかかわらず、結局存続し得なかった例があった)。また、かりに存続したとしても、そんな東洋経済新報なら、存続させるねうちはない。
 東洋経済新報には伝統もあり、主義もある。その伝統も、主義も捨て、いわゆる軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけを残したとて、無意味である。そんな醜態を演じるなら、いっそ自爆して滅びた方が、はるかに世のためにもなり、雑誌社の先輩の意思にもかなうことであろう。私はこういう信念のもとに、あえて、がんばり、内外の圧迫に屈しなかった」(『湛山回想』)と、後に書いている。
 少部数の専門雑誌ながら、少数意見を言い続ける。失礼ながら、「週刊◯◯曜日」のような雑誌で、少数意見を言い続けることの大切さ、ジャーナリストが正気を保つコツは、この辺りにありや、というようなことを改めて考えた。この課題も、引続き、当面の私のテーマの一つだ。

 私は、石橋湛山という「山」の裾野をむやみやたらと徘徊しては、ファクトを探し訪ねたい。そして、イマジネーションを働かせ、ファクトとイマジネーションのブレンドを求め、時空を経た熟成を願い、その果ての新たな地平を目指したいと念じている。

 石橋湛山は、当時の山梨県増穂村(現在の富士川町)で幼少年期を過ごしているが、『湛山回想』(岩波文庫版)では、その頃のことは、ほとんど書かれていない。「東京風のおぼっちゃんに育てられた」「自分で金をもって、物を買うということは、一切させられていなかった。だから貨幣の勘定を知らない」「木登りも、水泳ぎも出来ない」などとあり、山梨の豊かな自然とのふれあいもなかったようだ。しかし、目の前には、3000メートル級の南アルプスが聳え、かつ、迫り、甲斐から駿府を横切り、太平洋に注ぐ急流の富士川が迫る。ふれあいがないわけがない。

 湛山が少年から青年にさしかかる時期を過ごした旧増穂村(後に、旧増穂町。現在の富士川町)や旧若草町(現在の南アルプス市)では、この時代どういう人たちがいたのか。隣町などで育った同時代人をふたり、取り上げてみたい。いつもの回り道から、なにが出てくるか、という手法である。石橋湛山の山梨の同時代人を全て精査したわけではないので、私が知っている人だけを上げているという限定付きで読んで戴きたい。ほかに適切な人がいたら、ご容赦をお願いする。

 まず、生没年。
石橋湛山:1884年−1973年
名取春仙:1886年−1960年
功刀亀内:1889年−1957年

 ご覧のように、3人は同世代人である。3人の中では、いちばん先に生まれた石橋湛山が、最も長生きしている。

 名取春仙(なとりしゅんせん)は、湛山が幼少期を過ごした旧増穂村(現在は富士川町)の隣の旧櫛形町(現在は南アルプス市)生まれ。明治から大正、昭和の時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師。綿問屋の家庭に生まれるが、父・市太郎の事業の失敗により、1歳の時、東京に引っ越す。小学校時代には、同窓の川端龍子、岡本一平とともに画才を認められていた。

 11歳の時から日本画家たちに師事、1905(明治38)年、洋画家にも師事。東京美術学校においてさらに日本画も学んだが、平福百穂(ひらふくひゃくすい。1877−1933年。秋田生まれ。日本画家、伊藤左千夫と親しく、アララギ派の歌人としても活動した)に私淑して中退する。その後、「院展」(「院展」は、日本美術院の公募展の略称。公益財団法人日本美術院は、1898年岡倉天心らが創立した美術研究団体。現在は、日本画のみの美術院となっている)にも入選するようになる。

 東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描き、朝日新聞入社。4年後に退社するまで、夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いた。そのほかには森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』などの挿絵を描いている。

 1915(大正4)年から、歌舞伎役者の絵を描き始める。初代中村鴈治郎の「椀久」、「紙屋治兵衛」、六代目尾上梅幸の「お富」、「油屋おこん」、十五代目市村羽左衛門の「入谷の直侍」など。春仙の歌舞伎役者絵は、写実的ながらも、役者の美貌、役者が演じている芝居のおもしろさなどを盛り込んでいるのが特徴である、と言われる。

 春仙の作品は後に「創作版画 春仙似顔絵集」にまとめられ、1925(大正14)年から1929(昭和4)年まで刊行された。この「似顔絵集」を見たドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ(1920−28年、日本駐在)ほか日本人らが春仙に木版による肖像画を依頼、春仙もこれに応じて制作をした。

 春仙には約100点以上制作した版画がある。名取春仙は、山村耕花(やまむらこうか。1886−1942年。版画家。東京生まれ。耕花は、「初世中村鴈治郎の大星由良之助」「初世中村鴈治郎の茜半七」「七世松本幸四郎の関守関兵衛」「七世松本幸四郎の助六」「十三世守田勘弥のジャン・バルジャン」「十五世市村羽左衛門の植木屋吉五郎」など多くの役者絵を版行した)とともに「新版画」(あるいは「新板画」ともいう。現代浮世絵という意味。明治30年前後から昭和時代に描かれた木版画のこと。版元を中心として、従来の浮世絵版画と同様に、絵師、彫師、摺師による分業により制作された。浮世絵の復興と近代化を目指した)というジャンルの中で、役者の「大首絵(上半身をアップにして描く)」を描いた代表的な版画家であった。

 贅言;ドイツ連邦共和国大使館のホームページに掲戴されている「日独交流150年の歴史」には、ヴィルヘルム・ゾルフについて、次のような記述がある。
 「第一次世界大戦後、ヴェルサイユ会議(1919年)とワシントン会議(1921−22年)の結果に対する不満から日本が英国や米国から疎遠となっていったことが、日本とドイツを近づけることになりました。ドイツ帝国植民地・外務大臣を務めたことのあるヴィルヘルム・ゾルフが1920年に大使として日本に赴任し、外交関係が再開されました。ゾルフは日本で多大な尊敬を集め、日独関係再構築のため積極的に活動しました」とある。きれいごとしか書いていないので、詳細不明だが、日本趣味があり、日本画や浮世絵、版画を収集・所蔵した。

 名取春仙は1930(昭和5)年にはアメリカの雑誌に伊東深水(1898−1972年)、川瀬巴水(1883−1957年。このコラムでも既に取り上げたように、狭隘の地の河川の沿道を複数の船頭たちが縄で船を引上げて行く絵が私には印象に残る。当時の富士川のように下りは激流。上りは人力による引き上げ、という時代だったのだろう。既に引用したように、石橋湛山も『湛山回想』の中で、富士川下りの実情を描いている)らとともに版画における功績が紹介された。

 1958(昭和33)年2月、長女を肺炎で亡くして以来気落ちしたのか、名取春仙は1960(昭和35)年3月30日朝、妻とともに東京青山・高徳寺境内の名取家墓前で服毒自殺をしている。「将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝く」旨が記された遺書が残っていた。山に取り囲まれた地域で自立的に生きる山梨県人の激しさの証左か。石橋湛山も、二ヶ月余で政治家最高の地位の総理大臣の座を、体調を崩したとはいえ、早々と放棄する態度は、潔いと言えば潔いが、脆い、というか、激しい、というか、春仙の心情に近いものがあるのではないか、とも思う。

 1987年、春仙の画業を顕彰する春仙美術館が櫛形町立として開館し、合併に伴い南アルプス市立春仙美術館となった。

 もうひとり、石橋湛山が幼少期を過ごした旧増穂町(現在は富士川町)の隣の旧櫛形町(現在は南アルプス市)生まれの功刀亀内(くぬぎきない)も同時代の人。功刀亀内は、代々蚕糸業を営んだ功刀家の三男として生まれ、後に甲府で糸繭商となった。史(資)料収集家となったきっかけは、『山梨県志』(大正期の民間修史事業)の編纂所に出入りするうちに、その編纂委員のひとり土屋夏堂(つちやかどう)によって散逸しつつある古文書などの史(資)料の重要性を認識させられたからだという。

 亀内は、甲斐国(山梨県)に関する史(資)料の収集に力を入れ、こうして集められた厖大な史(資)料は、1927(昭和2)年、亀内によって「甲州文庫」と命名された。亀内は、東京に引っ越した後も稼業(布団業)は家族にまかせて史(資)料収集に取り組み続けた。

 「甲州文庫」は古文書・絵図など2万数千点に及ぶ史(資)料。その内容も庶民の生活関係、地場産業関係、交通関連など、バラエティに富んでいて、地域の庶民生活を多岐に亘って記録した史(資)料として、全国的に見ても屈指のコレクションと言える。いまでは、江戸期から近代までの甲州庶民の生活・文化の実況を伝える貴重な史(資)料として位置づけられている。

 甲州文庫の史(資)料は戦災を逃れるために山梨に疎開させたことで難を免れ、今日まで残った。その後、史(資)料の維持管理は山梨県に移され、山梨県立図書館によって20年の歳月をかけて整理された。現在は、さらに山梨県立博物館が保管、維持管理、デジタル化された史(資)料の閲覧などの活用に供している。

 私がいちばん関心を持つのは、江戸時代の歌舞伎の常打ちの小屋「亀屋(かめや)座」の史(資)料である。江戸期の甲府の庶民たちの楽しみのひとつは、芝居見物であった。当時の芝居といえば歌舞伎、甲斐国は初代市川團十郎ゆかり(先祖)の地ということもあって、甲府の当時の繁華街には、「江戸三座」に次ぐ「関東八座」と言われるレベルの芝居小屋「亀屋座」があり、江戸の有力役者が出演することもしばしばあり、歌舞伎見物は、豪商、豪農、武士たちで賑った、という。

 1724(享保9)年以降、甲州は幕府領となり、甲府城下は勤番支配が置かれ、勤番士が江戸から赴任して来るようになり、江戸の文化・風俗の流入が進んだ。歌舞伎びいきの勤番士も多かったのだろう。知り合いの役者が巡業で甲府に出向いて来る。甲府城下の芝居小屋で興行された歌舞伎芝居には、江戸で知られた役者の名前も多く見られた。

 江戸時代、江戸、大坂、京都、名古屋ほかで多くの民衆に楽しまれ育まれた歌舞伎は、この時期の甲府城下でも盛んだったと言われる。甲府城下の芝居小屋は江戸時代中後期から明治初期にかけてますます賑わったことだろう。

 「亀屋座」は裕福な町人・亀屋与兵衛によって建てられた芝居小屋で、最初は光沢寺という寺の境内に造られた仮小屋だったものが、1770(明和7)年、当時の甲府城下の繁華街・西一条町に進出・新築して興行をすることが許されるようになった。こうして亀屋座は、甲府を代表する芝居小屋になった。

 「甲州文庫」には、例えば、1812(文化9)年の芝居番付が残されている。亀屋座のもので、この時の出し物は「義経千本桜」と「戻駕色相方(もどりかごいろにあいかた)」で、江戸の歌舞伎役者、五代目松本幸四郎(現在は、九代目幸四郎)や三代目坂東三津五郎(先日亡くなったのは、十代目三津五郎)などの名前が読み取れる。

 亀屋座は間口11間(約20メートル)、奥行20間(36メートル)という小屋の規模もさることながら、出演する役者、上演演目によって江戸の芝居小屋並みと位置づけられていた。甲州で当たった芝居は、江戸でも当る、ということで、甲州の芝居通のセンスは、江戸の歌舞伎上演の、いわばバロメータ役と位置づけられていたという。明治に入ると、魚問屋の三井与平が三井座を創設、亀屋座と対抗するようになった。いまの甲府には、江戸時代の人たちのように江戸の文化をリードする、というような気概がないように見受けられて、とても残念である。

 さて、本筋。
 「湛山コラム」の3回目は、石橋湛山の「大日本主義批判」をベースに据えながら、引続き、「湛山と山梨という地域」、「湛山と大正・昭和という時代」という裾野を積極的に徘徊している。ご関心のある方はお付き合いください。

 前々回、前回も掲戴したが、連戴コラムゆえ、読者の便を考え、再度簡単な年表を掲戴する。湛山の年譜と絡む世相の主な出来事は、以下の通り。1921年、3回に亘って紹介してきた「大日本主義の幻想」初出の時期については、★印を付して読者の注意を喚起した。

「湛山と大正・昭和という時代」
1904年、日露戦争始まる。
1910年、日本、韓国を「併合」。
1911年、東洋経済新報社に入社。
1912年、明治から大正へ。
1914年、第一次世界大戦始まる。
1915年、中国に対して、対華21箇条要求を提出。
1917年、ロシア十月革命、ソビエト政権成立。
1918年、シベリア出兵。
1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動。ベルサイユ講和条約調印。

1921年、★「大日本主義の幻想」連載。

1926年、大正から昭和へ。
1931年、「満州事変」起こる。
1932年、「満洲国」成立。
1933年、国際連盟脱退。
1937年、盧溝橋事件・日中全面戦争突入。
1939年、第二次世界大戦始まる。
1941年、太平洋戦争始まる。その10ヶ月程前に、東洋経済新報社の社長に就任。
1945年、ポツダム宣言受諾、敗戦。
1946年、日本国憲法公布。戦後レジームの象徴。
1947年、衆院選に立候補し、初当選。
1956年、石橋湛山内閣発足。総理大臣に就任。
1957年、2ヶ月余で、病気引退。

 今回も引続き湛山が書いた論文「大日本主義の幻想」を読む。引用は『石橋湛山評論集』(岩波文庫版)から。1921(大正10)年7月30日、8月6日、8月13日号と3回連戴された東洋経済新報の社説である。今回は、「その3」で8月13日の社説の概要を見てみよう。

 湛山は「その1」では、データをベースにして、経済的、軍事的に当時流行の「大日本主義」と湛山持論の「小日本主義」を比較していた。「その2」では、「大日本主義」の論客になりかわって、前半では、「大日本主義」を主張してみせる。その上で、後半は、「大日本主義無価値論」を展開する。今回の「その3」では、「大日本主義無価値論」の続きである。その論を追いかけてみよう。

 大日本主義では、「列強が広大なる殖民地または領土を有するに、日本に独り狭小なる国土に跼蹐せよというは不公平であるという論」がある、と紹介した上で反論する。

1)「もはや我が国は、領土を拡げたいにも拡げられない、これを拡ぐることはかえって四隣の諸民族諸国民を敵とするに過ぎず、実際において何ら利する処なし」。
2)「列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある、彼らが、そを気儘になし得る時期は、さまで久しからずして終るだろう」。
3)「我が国は宜しく逆に出て、列強にその領土を解放させる策を取るのが、最も賢明の策である。それにはまず我が国から解放策を取って見せねばならぬ」。「我が国は人道のためなどいうえらい事ではなく、単に利己のためにも列強の海外領土は総て解放し、その諸国民に自由を与える急先鋒となるが善い」。

 「朝鮮・台湾・樺太または満洲という如き、これぞという天産もなく、その収入は統治の費用を償うにも足らぬが如き場所を取って、而して列強にその広大にして豊穣なる領土を保持する口実を与うるは、実に引き合わぬ話しである」と、貨幣の勘定を知らなかったという幼少年期が湛山にあったなどとは思えない、いかにも経済通らしい損得勘定で説得を試みる。「植民地を持っていても、お荷物になる時代が間もなくきますよ」。石橋湛山の小日本主義は、戦後の世界の状況を先取りしていたと言えるだろう。

 列強をしてその海外領土を解放させるためには、武力をもって強制するか、道徳をもって余儀無くさせるか。「道徳の力は我が国がまず我が四隣に対して解放政策を取ることによってのみ得らるる」。戦争を放棄し、軍備を持たない平和憲法に繋がる思考を湛山は、1921年に既に表明しているのである。

 ついで、列強本国との貿易と移民問題を論じる。「一人の労働者を米国に送る代りに、その労働者が生産する生糸をまたはその他の品を米国に売る方が善い」。「広大なる領土を有する国が、その国境を閉ざすであろうという心配は無用である」。「資本さえあるならば、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくないのである」。「資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚であろう」。

 「而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営の代りに学校を建て、軍艦の代りに工場を設くるにある。陸海軍経費約8億円、仮にその半分を年々平和的事業に投ずるとせよ。日本の産業は、幾年ならずして、全くその面目を一変するであろう」。この辺りも経済通らしい湛山節で、その調子も上がっている。

 「移民問題」は、日米開戦の根っこの所にある重要な問題だから、これからもこのコラムでも折に触れて出て来るだろう。移民よりも経済で日米磨擦の緩和をはかろうとするのも、目の前の現象にとらわれずに、ちょっと先に視線を送らせることが出来るエコノミストらしい、しっかりした視点だと思う。

 3回に亘って社説で述べてきた「大日本主義の幻想」論の結論である。
 「朝鮮・台湾・樺太・満洲という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない」。

 英米が邪魔をするなら、「我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲すべし。この場合においては、区々たる平常の軍備の如きは問題ではない。戦法の極意は人の和にある。驕慢なる一、二の国が、いかに大なる軍備を擁するとも、自由解放の世界的盟王として、背後に東洋ないし全世界の心からの支持を有する我が国は、断じてその戦に破るることはない。もし我が国にして、今後戦争をする機会があるとすれば、その戦争はまさにかくの如きものでなければならぬ。しかも我が国にしてこの覚悟で、一切の小欲を棄てて進むならば、おそらくはこの戦争に至らずして、驕慢なる国は亡ぶるであろう」。

 しかし、戦前の日本の現実は、残念ながら、湛山の主張とは真逆の戦争への坂道を加速しながら下って行くことになる。湛山の思考は、戦中の苦い体験を経て、戦後の日本「再建」という視点を得て、初めて、理解されたのである。

 しかしながら、戦後70年を前にしながら、数年前から「戦後レジーム(日本国憲法などの法令を始め、敗戦後に出来上がった政府の体制や制度)」の否定=小日本主義の放棄、という権力思想が色濃くなり始め、再び、大日本主義の世界に戻ろうとしている。小日本主義という原点に立ち、戦後レジームの軌道を敷いてきた小日本主義は、大日本主義に化粧をし直され、同じ軌道を逆走させられようとしているように思えるのは、私だけではないだろう。

 戦後レジームを否定する政治家、政党があるが、湛山の小日本主義こそ、まさに戦後レジームそのものの先取りであった。戦後日本は、ある時期まで、湛山の小日本主義を実践してきたということではないのか。例えば、今話題になっている村山談話(戦後50年で発表)には、石橋湛山の思想が滔々と流れ込んでいる。戦後70年の平和的な国家運営、豊かな生活を保障した経済運営を支えてきたのは、石橋湛山の思想、およびその継承だったのではないか、と改めて、しみじみと感じさせる「大日本主義の幻想」という論文だったと言えるのではないか。

 小日本主義という戦後レジームの根幹思想。植民地の放棄、軍縮・平和主義、武力より道徳(モラル)・経済重視。短命で終わってしまったが、もし石橋政権が長期に亘って継続し、小日本主義を徹底させた国家運営をしていたら、日本を取り巻くアジアの環境は大きく変わっていただろう。戦後70年を標榜し、村山談話を見直そうと準備している安部政権。それは、小日本主義の否定、大日本主義への回帰でしかない。

 思えば、石橋湛山は、1956年、自民党の総裁選挙で岸信介と争い、総裁に選出され、石橋湛山内閣を成立させる。しかし、急性肺炎で倒れ、内閣総辞職、総理大臣を辞任してしまう。代わりに、岸内閣が成立する。戦後レジームのターニングポイントが、ここにある。
 1960年、日米安保条約問題に関して、岸首相への辞職勧告文を元首相らとの連名で岸の元に届けるなど、石橋湛山と岸信介の確執は続く。

 2015年、岸信介の血を引く、孫の安倍晋三首相は、戦後70年の節目に当り、村山談話を見直し、事実上「否定」するような安倍談話を準備しているようだ。小日本主義を唱えた石橋湛山の思想は、村山談話に流れ込み、満州建国・大日本主義を実践した岸信介の思想は、安倍談話に流れ込もうとしている。
 石橋湛山と岸信介の確執は、60年後の現在も続いている、と言えよう。この確執は極めて大事だ。「民主主義の原理的な闘い」と言っても過言ではなかろう。そういう時期に石橋湛山の思想を学ぶ「湛山を読む会」が活動を続けている。

 このコラムは、「大原雄の『流儀』」というタイトルの下に、ほかの人とは違う「流儀」で、世相や歴史、中でも芸能、文化などを切ってみせようという狙いを持っている。その上、私が石橋湛山の論考を作家の井出孫六さんらと一緒に読む集まり、「湛山を読む会」に世話人として参加したことから、石橋湛山絡みの事項が3ヶ月に1回程度のペース(不定期)でこの連戴コラムに入って来ることになった。

 去年10月から、東京の岩波書店会議室で始まった読書会の動きにあわせたり、あわせなかったりしながら、私の勝手で石橋湛山がらみの事項を「山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜」という通しタイトルで不定期的に紛れ込ませようという仕掛けになっていることを改めてお知らせする。

 次回の「湛山を読む(4)」では、ことしの2月に開催された「戦う石橋湛山」の著者・半藤一利さんの講演について報告したい、と思っている。高齢の半藤一利さんは、「講演はお断りしている。残された書く時間がとても惜しい。この講演が最後」と言いながら、熱演でお話ししてくださった。

 (筆者は、ジャーナリスト。元NHK社会部記者。元日本ペンクラブ理事)