山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜(5)

【コラム】大原雄の『流儀』

山は、動くか。~いま、石橋湛山を読む~(5)

大原 雄


 7月に衆議院で行なわれた、いわゆる戦争法案に対する自公の強行採決は、55年前を彷彿とさせる。自民党内部での岸信介と石橋湛山の対立。執行部に直言する石橋湛山ら。今、自民党内部で岸信介の孫・安倍晋三に対してかつての石橋湛山のように直言する保守リベラルの政治家がいないのが、哀しい。保守政治家の貧困。戦後70年の節目の年、それも8月刊行の「オルタ」ゆえ、今回は、「ワイド版・大原雄の『流儀』」、ということで長めのコラムとなった。

 この項目の前回「~いま、石橋湛山を読む~(4)」では、半藤一利『戦う石橋湛山』を読み、さらに、「湛山を読む会」で評論家の半藤一利の講演を聴く機会があったので、それについて書いた。その後、「湛山を読む会」では、7月17日に会の主宰者(作家の井出孫六)が、大国主義と小国主義の系譜について石橋湛山を絡めて話(以下、「井出講義」と称する)をしたので、今回「~いま、石橋湛山を読む~(5)」では、まず、第1部としてそれを報告したい(井出孫六さんは、引用した書物を持ち込んでのお話だったが、私の方は、聞き取るだけでメモをしているので、聞き違い、記憶違い、判断違いなど不正確さは免れないかもしれないと思うが、そのまま記録しているので、ここでの間違いは、ご寛容にお願いしたい。「読む会」の会場で、このコラムの読者に声を掛けられたので、ご指摘あれば、訂正したい)。

 今回の「井出講義」を受けて、1)私なりに理解している大日本主義と小日本主義の問題、2)戦時中の大手新聞の「狂気」と石橋湛山が拠点とした東洋経済新報の「正気」の問題を第2部として中間まとめをしておきたい。

◆◆第1部)まず、「井出講義」(井出孫六の講義);
 *( )内は大原注もあり。

☆「大国主義」は、吉田松陰から始まる。幕末期。1853(嘉永6)年、長い間続いていた徳川幕府の鎖国政策は黒船来航(ペリー)で揺さぶられ始める。この日、松代藩の江戸屋敷(いわば東京事務所。今の銀座日産ビルの辺り)にいた40数歳の佐久間象山(43歳か)は、その日のうちに浦賀への黒船来航を知り、藩に馬を用意させて、翌日の早朝、浦賀に向かった。藩邸に師匠の佐久間象山を訪ねてきた弟子(当時、佐久間象山は「象山書院」という塾を開いていた。吉田松陰は、そこに通っていた。ほかの門弟としては、勝海舟、河井継之助、橋本左内、加藤弘之、坂本龍馬などがいた)の吉田松陰(24歳)は、それを聞き、徒歩で師匠の後を追って、浦賀に向かった。松陰もその日の夕方には、浦賀に着いたという。

 ふたりは、浦賀の小高い山に登り、手製の望遠鏡で黒船を観察した。4隻の黒船の周りには、幕府が手配した数隻の帆掛け船が取り巻いていた。更にその周りには、近在の農民や漁民らが小舟にそれぞれ野菜や水などを載せて、黒船の乗組員に売りつけようときていた。佐久間象山は、この様子を観ながら黒船の大きさなどを仔細にメモをしていた。

 母思いの佐久間象山は、後にその様子を母に知らせる手紙を書いているという(いわば、特派員が最新の国際情報を母親に書き送っている、という感じか。佐久間象山の人柄を偲ばせる)。

 一方、吉田松陰は、外国語や数学が苦手で、師匠の佐久間象山にいつも発破をかけられていたが、意気軒昂な男で、黒船を取り巻く帆掛け船や小舟を観て、帆掛け船などに火をつけたら、黒船にも燃え移るな、などと言って師匠に叱られたという。

 吉田松陰は、その後(1854年)、下田に黒船(ペリー)が戻った(再来航)のを見計らって、盗んだ小舟で黒船に接近し、舟に乗り込み、手真似足真似で外国へ連れて行ってくれと頼み込んだ。しかし、徳川幕府との条約交渉が進んでいたアメリカ側は、この男は、交渉をぶちこわしにする男だと判断をし、吉田松陰の申し出を断り、追い返した。

 吉田松陰は、その後、下田奉行所に自首をして出て、逮捕される。当局の取り調べに対して、吉田松陰は、「師匠の佐久間象山に外国行きを唆された」と告白してしまう(吉田松陰がジャーナリストなら、「ニュースソースの秘匿」を怠ったわけで、ジャーナリスト失格である。そうでないにしても、師匠に累を及ぼすな、と言いたい)。

 そのために、佐久間象山も逮捕される。佐久間象山は、当時の国際情勢に対する知識を踏まえて、徳川幕府の鎖国政策は、やがて終わらざるを得ず、外交が必要な時代が来ると堂々と明言する。ゆえに、吉田松陰、佐久間象山とも「無期限の蟄居」を命ぜられる。佐久間象山は松代に、吉田松陰は長州に戻される。蟄居は、あしかけ9年間続いた(1862年まで)。その間、佐久間象山は、勉強をした。

★佐久間象山は、しかし、出獄の2年後の1864年、京で殺し屋の浪士「人斬り彦斎」こと、河上彦斎らに挟み撃ちにされ、暗殺される。白馬に西洋の鞍を載せて、神聖な京の町で乗っていた(佐久間象山は、イケメンだし、顎髭など生やしていて、洒落者なのだろう)ので尊攘派に狙われた、という説もあるらしいが、いかがなものか。あるいは、佐久間象山が天皇の御座所を世情不安定な京から幕府の警護が行き届いた彦根に移そうという計画を進めていたために襲われた、ともいう。首を切られ、「御座所移設に天誅を加えた」という趣旨の斬奸状(立札)が立ち、切り取られた首が晒されたというから、真実は、こちらだろうか(佐久間象山所縁の松代は先の戦争末期に大本営や天皇の御座所を移そうとして、地下に巨大な壕を掘った跡が今も残っている。大原も、中には入ってみたことがある)。享年53歳。獄中の9年間が、日本のその後にとって、如何に重要だったか。河上彦斎はその後、自分が手にかけた佐久間象山の事歴を知って愕然となり、以後、暗殺を止めたという。

☆吉田松陰は獄中で、「幽囚録」(獄中記)を書く。その中で、吉田松陰は「武器を整えて、蝦夷を開拓し、そこを拠点にカムチャッカ、オホーツクを侵略する。琉球を従わせ、朝鮮、満州、台湾、呂宗=ルソン(フィリピン)などを侵略し、勢力拡張を図る(「今急武備を修め艦略具はり礮略足らば則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し間に乗じて加摸察加、隩都加を奪ひ琉球に諭し、朝覲会同すること内諸候と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢うを奉じ古の盛時の如くにし北は満州の地を割き南は台湾呂宗諸島を収め進取の勢を漸示すべし」)、と主張する。要するに、海外への拡張論を述べるなど、「大国主義」の源流となるような思想を形成して行く。吉田松陰が(萩城下で)主宰した「松下村塾」の出身者は、明治期の大国主義(後の帝国主義)を担った人物が多い。

★幕末期の人物を除き、明治期に活躍した門下生では、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、山田顕義などがいるという。長州出身者は大国主義者が多かった。明治の日清戦争、日露戦争など領土拡大の大国主義路線を近代日本は、敗戦まで歩み続ける(同じ門下生でも、伊藤博文と山県有朋では、海外拡張論は大分違う)。

☆一方、石橋湛山は、1884(明治17)年の生まれ。1884年は秩父事件の年である。父親は、日蓮宗(山梨には日蓮宗の寺が多い)の住職。石橋湛山の幼名は、省三(せいぞう)。母方の石橋の姓を継ぐ。翌年、父親が甲府の寺に転勤。省三も母親と一緒に甲府に移るが、1歳の省三は、なぜか、母子家庭。父親とは別居する。7歳で当時父親が住職をしていた昌福寺(当時は増穂町。現在の南アルプス市)に母とともに移る。10歳で父の同僚の望月日謙が住職をしている長遠寺(じょうおんじ)に養子に出される。長遠寺では、子どもの「虫封じ」や「虫」を抑える、というご利益を掲げ、薬も販売している。そういう環境で育った省三少年は、将来は、僧侶、教師、医師になりたいと思っていた。1895(明治28)年、県立尋常中学校(後の県立第一中学校、今の県立第一高校)に飛び級で入学した。ただし、中学校では、2回落第している。そのお陰で、札幌の農学校でクラーク博士の薫陶を受けた大島正健校長と巡り会える。18歳の時、名を湛山と改める。「湛山」は、深い山というような意味だろう。

 県立第一中学校を卒業。僧侶か医師になりたいと、旧制の一高を受験するが、2回失敗する。医師を諦める。1903(明治36)年、早稲田大学高等予科2年に編入する。1904年、大学の哲学科へ。1907年卒業。特待研究生として宗教研究科に進む。シカゴ大学でデューイの教えを受けた田中王堂からアメリカのプラグマティズムを学ぶ。

 1911(明治44)年、東洋経済新報社入社。上司の三浦銕太郎主幹に出会う(「小日本主義」は、東洋経済新報の社論であり、その軸になっていたのが、三浦であった)。「東洋経済」は、日本でいちばん古い週刊誌。石橋湛山は、明治末から戦後まで約40年間、東洋経済新報の社論・社説を書き続けた。それが、石橋湛山全集(全16巻)になった。伊藤博文から安倍晋三まで、60数人(複数を含むので、代数では、安倍は96代)の総理大臣がいるが、これだけの著作を残した総理はいない。

 書き継がれてきた石橋湛山の思想は、明治以降の大国主義(大日本主義)を批判し、大正デモクラシーを支えた大正リベラリズム、個人主義、平和主義を主張している。1921(大正10)年、「太平洋問題研究会」の設立、「軍備縮小同志会」の結成に参加した。石橋湛山の思いは、25年後、1945(昭和20)年、敗戦によって、実現させることになる。その思想は、日本国憲法に流れ込んでいる。

 1956(昭和31)年、第3回自由民主党大会の総裁選挙(保守党では、初めての総裁選挙)の決戦投票の結果、7票差で、岸信介を破り、総裁となる(石橋湛山、石井光次郎の2、3位連合が成功する。石田博英の策略)。72歳で総理大臣となる。5つの誓い:国会運営の正常化、政官界の綱紀粛正、雇用拡大、福祉国家の建設、世界平和の確立。世界的な視野を持って、国政運営に当ろうとしていた。

 1957(昭和32)年、冬場、就任拶挨のための全国遊説、早稲田大学の祝賀会出席などが続いて体調を崩し、急性肺炎で倒れる。軽い脳血栓の症状も出て、一ヶ月の休養が必要となった。ジャーナリスト時代、浜口雄幸総理の長期療養を批判したこともあり、自身の出処進退を考え、2月23日、就任後、わずか2ヶ月で内閣総辞職・総理辞任となった。2月25日、岸信介内閣成立。

★総理辞任後の石橋湛山の言動;
 ――(『石橋湛山全集』編纂委員長 大原万平氏の解説「六〇年安保をめぐる石橋の発言と行動について」をベースにした大原雄の注記)――

1959(昭和34)年、中国訪問。→ 石橋・周恩来共同声明発表。

1960(昭和35)年、以下の安保条約関連の動きを追うと、今回の戦争法案を巡る動きが、随所で二重写しに見えるのは、私だけではないだろう。

1月:渡米する岸信介への石橋湛山らの進言書(提言)=「(略)1.中華人民共和国との国交を日米共に正常化するために両国が協力すること。2.アジア安定の根本要諦協商のために、日米中ソ印の五国会談を開くこと。(略)」。しかし、岸信介は、アイゼンハワー(大統領)と改定日米安保条約を調印してしまった(孫の安倍晋三も、訪米で、まず、アメリカで戦争法案の成立を宣言してきてしまった。国会、国民軽視と言わざるを得ない)。

4月:安保条約論争の中で、岸に送った石橋メモ=「戦争はいずれの側から始めたかという事、またその正邪善悪はいつの場合でも難しい。(略)一人として今回の条約が我々にとって少しの懸念もないと断言したものはいない。(略)わが国民はいやいやながら、日独伊三国同盟に、陸軍におされて賛成してきた。これと今日の心理状態とは、全くひとつである。(略)結果の未だ分らぬ当初においては、(略)確かに亡国に導く大変なことだとは判断できぬ。そこで、皆が危いと心配しながら口に出して反対しえなかった。今から思えばこの遠慮が悪かった。気付いた者が勇気を出して言うべきであった。しからばあるいは国の大事を救えたかも知れぬ。顧みていかにも遺憾千万である。(略)岸首相は、何といっても自分の信念は曲げられぬと、非常に強気で貫こうとしているように見えるが、もっと謙虚に反対論に聞くべきである」。

5月:国会で岸信介は、野党ばかりでなく自民党の反主流派(石橋湛山派も含む)との十分な審議をせず、国会の議場に警察隊を導入し、自民党の反主流派も野党も欠席の状態で、つまり、主流派の自民党議員だけで、会期延長(50日間)をし、翌20日の未明、新安保条約と関連法案を抜き打ち的に議決してしまった。国会周辺では、これに怒った国民が、この日から35日間に亘って、「安保反対・岸退陣」の抗議デモを繰り広げる(安倍は、衆議院で7月15日の委員会、16日の本会議と自公のみで戦争法案を強行採決したため、国会周辺ばかりでなく全国各地で抗議デモが繰り広げられた。目下、参議院での審議についても抗議デモが繰り広げられている)。

6月:東久邇稔彦・片山哲・石橋湛山の3人の元総理が連名で安保条約とそれを巡る国民の反対運動に関して、岸信介に送った勧告文=「現下の政情は、わが国民主政治の死活にかかわる深刻なものであり、また民意を離れたる政治家の姑息な処置によって糊塗し去ることは不可能な状態である。(略)この際この難局から民主政治を救済するためには、事態の最高責任者たる貴下が速やかに責任をとるより他に道がない。即ち、速やかに首相の地位より退くこと(略)」。

 更に、同日、上記勧告文をベースに、3人の元総理が連名で国民向けに発表した声明=「(略)その根元は、国政担当者が大局的見地からの解決を図っていない点にあること、即ち、岸首相の退陣が、すべてに先行してなされなければならぬとの結論に達した(略)」。

6月15日、学生の樺美智子さんが国会構内で死亡。18日、新安保条約(日米双務)が自然成立。19日に予定されていたアイゼンハワーの訪日中止。

9月:石橋湛山、日ソ協会会長に就任。

1961年6月:「日中米ソ平和同盟案」を発表し、各界に呼びかける。

 ――(注記終了)――

☆井出孫六さんは石橋湛山が体調を崩すことがなければ、総理大臣を続け、日米安保体制強化よりも、日中国交回復の方に情熱を注いだのではないか、という。戦後日本は、この分岐点で、岸ではなく石橋を総理大臣のままにしていれば、アジアに対して違う選択をしていただろう、と私も思う。井出孫六さんは兄の政治家・井出一太郎(自民党三木内閣の官房長官を務めるなど、三木派の大番頭=事務局長、グループのマネージメント担当的な位置づけの政治家。党内基盤の弱い三木派を支えた)との関係もあり、生前の石橋湛山の自宅に兄の用事で行くなどして3回逢っているという。簡素な自宅で、玄関まで本人が接遇に出てきたという、その時の印象も含めて、石橋湛山は、畢竟するに、本質的に日蓮宗(鎌倉時代の健康な仏教)の僧侶であり続けた、のではないか、という。政治家の政治判断よりも、宗教家としての人生観(特に死生観)を優先した、ということだろうか。

★「鎌倉時代の健康な仏教としての日蓮宗」と井出孫六さんが言う時、鎌倉時代の世相を「末法」の世と断じた日蓮と石橋湛山が二重写しになっていたのかもしれない。法華経を唱えることのみが末法において衆生(大衆)を救済する唯一の教えだと説いて廻った日蓮は、自分の信ずる死生観を大衆に理解させようと、尽力したのだろう。この辺りは、井出孫六さんにも、もう一度、深く分析して欲しいと思っている。
 ――(今回の「井出講義」は、ここまで)――

★石橋湛山はアジアの中の日本という視点を堅持し、戦時中、ジャーナリストとして、小国主義(小日本主義)を主張したように、戦後日本の舵取り役の総理大臣として、近隣外交を重視する政策をとったことだろう。中国、朝鮮、東アジア諸国と日本との関係は、今とは違う景色になっていたことだろうと、私も想像する。

◆◆第2部)大原雄の問題意識(中間まとめ);

 その上で、不定期、随時掲戴の「山は、動くか。~いま、石橋湛山を読む~」というコラムを5回書いてきて、今回は中間まとめとして、私なりの問題意識の整理をしてみたい。石橋湛山の(1)思想と(2)行動の解析などというと、初心者の私には、荷が重すぎるが、いわば簡単な総括をここでしておこう、と思う。

◆(1)思想:一つは、時代を覆った大日本主義に対する小日本主義という発想は、どこから出てきたのか。石橋湛山が少年期を過ごした山梨の地政学的な影響も視野に入れて検討するなど、地政学的な「小日本主義」への考察は既に試みたので、今回は、経済的な視点で考察してみたい。

 ここで言う「大日本主義」とは、1910年代から始まり、その後、戦前日本の主流となった思想(その源流は、吉田松陰の「大国主義」にあり)。その柱として軍備増強、領土拡大(「列強」、つまり、当時の「普通の国」に追いつき追いこせの植民地主義)を掲げて日本は、軍部に引きずられながら国を挙げて大日本主義に傾斜して行った(現在の安倍政権の動きと似ているのではないか)。

 昭和恐慌を背景に、経済振興、人口増対策→満蒙領有論→満蒙独立論(傀儡政権)。軍部(特に、石原莞爾ら)は、最終戦としての日米戦争、更に日米戦争の戦費を生み出す、いわば「補助エンジン」として満蒙「略奪」を位置付けている。これに対して、石橋湛山ら東洋経済新報社の論客たちは、エコノミストらしく満州問題を日本国家「経営」の問題として、経済的視点できちんと見据えている。キーポイントは、経済の視点から植民地の経営などしない方が良い、という主張だろう。

 軍部では、満州事変時、「皇道派」(「皇軍」としての軍事行動派。荒木貞夫、眞崎甚三郎ら)と「統制派」(陸軍という組織を使って国家を牛耳る=統制する。永田鉄山、東條英機、武藤章ら)との派閥争い、権力争いが優先されている。石原は、「統制派」、「皇道派」ともに属せず、自称「満州派」と言っていたらしい。永田鉄山(その後、軍務局長室で皇道派の相沢三郎中佐に殺される)、東條英機、武藤章らとは反目する。陸軍を掌握した「統制派」の軍部エリートたちは、目先、足元しか見ない視野狭窄のまま続けられた派閥争い、権力争いの果てに、クーデタ、テロを含む殺人を平気で犯す。国家経営、外交的対応などについて、全く大局観無し。亡国の軍人たちであった。

 石原莞爾(1889年-1949年。満州事変の仕掛人。但し、その後の日中全面戦争や日米戦争には反対した。局地戦で勝利し、政治的な講和で権益を確保する、という戦術。勝てない戦争には、反対した。リアリストの軍人。エリート軍人の統制派とは一線を画すようになった。反東條や病身ということで、「戦犯」にならず。これもおかしい。東條ら「リアリストではない軍人たち」が日本の政治や戦術の覇権を握り、幻を求め、現実的には日本を亡国へと導いて行った)ら軍部の満蒙「略奪」論は、石橋湛山の満蒙「放棄」論との比較で、いずれ検討したい。

◯最近刊行されたもので、参考になりそうな本:
*川田稔『昭和陸軍全史』(講談社現代新書刊・全3巻)のうち、『昭和陸軍全史 1 満州事変』
*孫崎享『日米開戦の正体』(祥伝社刊)

 軍部の路線の行き着く先は、ご承知のような敗戦であった。こういう当時の時代潮流の中で、「東洋経済」という経済専門誌の社説・社論という場で、石橋湛山は、大日本主義に対比する形で、軍備縮小、満蒙放棄論に見られるような反植民地主義の「小日本主義」(戦後民主主義の先取りでもあった)を主張して、論陣を張った。

 この小日本主義は、なにも石橋湛山の独自の思想ではない。石橋湛山が、記者として就職した東洋経済新報社では、石橋湛山が入社した頃の上司・三浦銕太郎らが、東洋経済新報社の社論として、既に主張していた。この思想に共鳴した石橋湛山は、小日本主義を熟成させ、さらに体系化して行く。小日本主義は、湛山の前任者の三浦銕太郎を軸に形成され、湛山が体系化したと言われる。この辺りは、もう少し追究してみたい。

 孫崎享『日米開戦の正体』では、増田弘『悔らず、干渉せず、平伏さず』(石橋湛山の対中国外交論だが、大原未読)を底本にして論を展開しているようだ。

 「日露戦争から満州事変まで、一貫して反対してきた人の代表に石橋湛山がいます」(孫崎享)。石橋湛山は、1911年、東洋経済新報社に入社。辛亥革命の年であった。当時、新報の主幹は、植松孝昭という人で、軍拡反対論をベースに辛亥革命を評価する主張をしていた。主幹職は三浦銕太郎へ委譲。1912年、「小日本主義」を前面に出し、帝国主義と保護主義に反対する。満州放棄論が打ち出される。

 三浦らの「小日本主義」とは、イギリス自由党の「小英国主義」を模範とした、という。植民地放棄論=植民地経営費用コスト(責任や負担)の削減→日本経済の実質発展をはかる。経済の視点が貫徹される。イギリス自由党の「小英国主義」についても、今後検討したい。

 これに対して、軍部の満州「経営」論は、より大きな将来の戦争に備えて、戦費確保のために満州で戦争を仕掛ける、という戦争論であった。戦争が戦争を生む、という論理。先に触れたように戦費を生み出す補助エンジンとして満洲を位置付けている点が、大きな違いだろう。

☆東洋経済新報の当時の社説・社論(孫崎享まとめ)。

1912年の論説「産業上の第二維新」
1913年「大日本主義乎小日本主義乎」(4月15日号~6月15日号):大日本主義=大軍備主義と看破。小日本主義=領土拡張や保護政策に反対、内政改革、個人の自由、国民福祉の増進を目指す。
1913年「満州放棄乎軍備拡張乎」(1月5日号~3月15日号):満州の主人は中国。軍備拡張は、日本の経済的、財政的負担を増す。

 石橋湛山も、三浦の説を受けて、植民地経営は経済的にマイナス(負担を強いる。この考えは、第二次世界大戦以降は常識になったが、当時は、「非常識」として権力から弾圧された)。→ 小日本主義論、満州放棄論へと発展させる。

1913年「我が植民地財政と国庫の負担」、「我れに移民の要無し」:移民無用。
1914年「好戦的態度を警む」:膠州湾領有は新たな利益を生まない。軍事行動は利益をもたらさない、「戦争は止む時無き乎」、「隠れたる戦争の惨禍」:戦争は「巨額の軍資と生霊」を生むばかりか、国民の生活を困窮させる、「戦争謳歌論を排す」:現代社会の信用制度を破壊すれば、敗戦国ばかりでなく戦勝国にも利益を見出さない。勝者に利益というのは幻想。

1915年、対華二十一箇条の要求→「第二の露独たる勿れ」満州領有論批判。「無謀の挙」。理由:中国民族に反日感情。満州は価値を生み出さない。植民地領有は軍事支出を増大させ、国家財政を圧迫する。国民生活を悪化させる。米国との対立を生み、日本の国際的孤立をもたらす。民族主義の高揚で、植民地の分離独立は不可避である。

1921年「大日本主義の幻想」(石橋湛山の代表的な論文)
1928年「対支外交とは何ぞ―危険な満蒙独立論」:満州は特殊利権ではない。
1931年「満蒙問題解決の根本方針如何」:国防線は日本海。満蒙有しても無益。
1932年2月「満蒙新国家の成立と我国民の対策」:このような国家が独力で健全に経営できるとは信じられない。
 →「しかし、この頃から石橋湛山の「小日本主義」の主張が後退したとの批判がなされています」(孫崎享)とあるが、孫崎は『日米開戦の正体』の中では、「後退」の検証・論及をしていない。この辺りは、先の半藤一利講演の「三国同盟」への湛山の論調(腰が引けている?)も含めて、今後の検討課題だろう。未読の論文を読む必要がある。

 深津真澄「近代日本の分岐点」では、日露戦争以降、現実の近代日本史に幾つか分岐点があった、と解説する。深津は、「近代日本の分岐点」の一つとして、「石橋湛山と「大日本主義」の否定」という章を立てて論じている。それによると、大日本主義が、軍国主義、専制主義、国家主義という要素に分析されるとすれば、これを反面教師として批判的に発展させた小日本主義は、産業主義、自由主義、個人主義という要素に分析されるという。「産業主義」とは、世界を視野に入れた経済優先の資本主義。莫大な国家予算を必要とする軍備増強や民族意識の高まりで、いずれ民族解放が必至となる植民地主義に拘るより、国境を越えて活用される資本主義の方が、国力増強にとって有効である、という主張のようだ。領土や人口の拡大よりも、経済活動に寄る資本増強である。

 大手新聞に比べたら、「東洋経済新報」という、「弱小」な経済専門誌の社説とはいえ、軍部にも睨まれたし、会社倒産の危機をもものともせずに石橋湛山は論陣を張り続けた。経営者より言論人優先したと言える。

 石橋湛山で大事なのは、国連との関係であろう。つまり、集団的安全保障志向。国連加盟の各国との関係重視し、複数の各国との連繋を優先する。これに対して、今の安倍政権の集団的自衛権は、アメリカという同盟国一国との関係だけを重視している。

◆(2)行動:時代の「狂気」の中で湛山の「正気」は、どのようにして保たれたのか。

 既に書いてきたように(『戦う石橋湛山』や半藤一利・保坂康正の対談本『そして、メディアは日本を戦争に導いた』など参照)、この時期の大手新聞の狂気は、マスメディアの戦争責任として、研究・分析されている。

 狂気に巻き込まれた大手新聞のひとつ、朝日新聞の戦時中の主筆・緒方竹虎(戦後、当時の「自由党」の代議士、吉田茂派の重鎮になる。吉田茂の後継と見られた)は、戦後、次のようなことを書いている。

 「私は、若し朝日新聞の戦争責任が問われる日がくれば、九〇パーセント私がその責に当るべきだと考えた。だから、戦後、戦犯になったことも、追放になったことも、朝日新聞の関する限りにおいて少しも悔いはなかった」「私は昨今でも時々、新聞が太平洋戦争を防ぎ得なかったかを考えてみることがある。この自問に対する私の自答は、日本の大新聞がある早い時機(ママ)に軍を中心とする国内情勢を洞察し、本当に決意して破局を防ぐことに努力したら、恐らくは可能であったというのである。もちろんこれには言論の自由の確保されることが前提条件であり、大新聞の共同戦線を必要とする。普選以後、新聞の足並の揃わなかったのはいろんな理由があるが、各編集者間の努力の足らなかったことも事実であり、私もこの点について責を感ぜざるを得ない」(「新聞ラジオ読本」=1952年12月号、文藝春秋刊に「一老兵の切なる願い」と題して書いたという。三好徹『評伝 緒方竹虎』より、孫引き)

 孫崎享『日米開戦の正体』で、孫崎は、新右翼の鈴木邦男と対談した時の話を書いている。鈴木は次のように言った、という。「日露戦争から後の日本社会では、新聞の役割・影響力も大きくなったと思います。(略)当時の世論は危ないですね。極端に言えば、あのとき新聞がなければ第二次大戦でアメリカと戦争しなくとも済んだのではないでしょうか」。

 現代は、いまのところ、戦時中の言論統制の時代に比べれば、「言論の自由」はあるだろうが、朝日新聞の従軍慰安婦問題や福島原発事故問題での虚偽報道やテレビ朝日やNHKの個別の番組内容に対する権力の介入に際して、同じマスコミ仲間への大手新聞の冷淡ぶりや朝日問題にかこつけての自紙の売り上げアップを目指した、読売新聞などの朝日バッシングの常軌を逸したやり方などを思い起こせば、「言論の自由」「足並の不揃い」は、今も昔も変わらないように思える。現代も続くマスコミの害毒は、きちんと検証しなければならないだろう。

 自民党の勉強会と称する会合での作家の百田尚樹や会合に参加した政治家(宗教をバックにした日本会議のメンバーなど。安倍応援団という)による言論圧迫発言などを見聞きしていると、「戦争」の次に、彼らが狙うターゲットは、マスコミ、言論の自由、憲法21条だろうと思う。マスコミは、現状に対して、もっと危機感を持たなければならないし、責任感も持たなければならない。

 「各編集者(今なら、「エディター」か)間の努力」(緒方竹虎)などで改善されるとも思えない。既に引用したように、なにせ、戦時中の朝日新聞の部数の推移は、以下のようなものであった。

1931年5月、140万部。
1938年1月、250万部。

 この背景にあるのは、例えば、

1931年、満州事変。
1932年、五・一五事件。
1936年、二・二六事件。
1937年、日中全面戦争突入。

 軍部は、政党より軍部優先、軍部の派閥争い・権力争い、暴力(権力)の行使(言論封殺)、青年将校らも使って政治家を殺した。軍部の台頭は、政党政治の死であった。新聞は、軍部の尻馬に乗って、部数を増やしながら、自らマスメディアの責務を忘れ、死の商人となり果て、言論人としては死んで行った。

 日中全面戦争突入(1937年)以降、軍部に積極的に協力し、戦争熱を煽り立てて、朝日新聞は部数を7年前より100万部以上も伸ばしたのである。これは、緒方が言うようなエディターの現場での努力では抗しきれない、売り上げ倍増の大波という「狂気」に新聞社はすっぽりと呑み込まれていたのではないのか。朝日新聞に限らず、毎日新聞も、戦争熱を煽り立てるのは、当時の新聞社の経営方針だったのだろう。読売新聞は、まだ、東京の地方紙であり、全国紙になっていない。大手新聞は、戦時中、恰も「死の商人」のごとく、戦争、戦死を「ビジネス」にしていたのではないか。そういう体質は、今は、変わってきたのか。

 いつものように、石橋湛山絡みの年表を掲戴しておこう。毎回なので、頭には言っているという人は、飛ばしてください。
 
「湛山と大正・昭和・戦後という時代」
1904年、日露戦争始まる。
1910年、日本、韓国を「併合」。
1911年、★東洋経済新報社に入社。
1912年、明治から大正へ。
1914年、第一次世界大戦始まる。
1915年、中国に対して、対華二十一箇条要求を提出。
1917年、ロシア十月革命、ソビエト政権成立。
1918年、シベリア出兵。
1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動。ベルサイユ講和条約調印。
1921年、★「大日本主義の幻想」連載。
1926年、大正から昭和へ。
1931年、★「満州事変」起こる。
1932年、★「満洲国」成立。
1933年、★国際連盟脱退。
1937年、盧溝橋事件・日中全面戦争突入。
1939年、第二次世界大戦始まる。
1940年、★「日独伊三国同盟」締結。
1941年、太平洋戦争始まる。その10ヶ月程前に、東洋経済新報社の社長に就任。
1945年、★ポツダム宣言受諾、敗戦。
1946年、★日本国憲法公布。戦後レジームの象徴。
1947年、衆院選に立候補し、初当選。
1956年、★石橋湛山内閣発足。総理大臣に就任。
1957年、★2ヶ月余で、病気引退。
1960年、★日米安保条約に絡む言論。

 戦前の同時代を一方の緒方は大手の朝日新聞の編集責任者の主筆として活躍し、他方の石橋は、弱小経済雑誌の編集責任者の主幹として活躍した。三好徹『評伝 緒方竹虎』では、石橋湛山と緒方竹虎というふたりのジャーナリストを対比的には描いていない。戦後は保守の重鎮政治家としてなったふたりも吉田茂派の緒方、鳩山一郎派の石橋として素描している程度。

 石橋湛山の論文(東洋経済新報社説)の抄録は、岩波文庫の「石橋湛山評論集」で、主要論文を読むことが出来るし、石橋湛山の生涯は、同じ岩波文庫の「湛山回想」で読むことが出来るが、半藤一利さんの講演を聴いていて思ったことは、全集を読まなければダメだが、全集を読んでも、社説は新聞社の社説同様無記名で、担当者も交代で執筆されたので、湛山と特定されないまま全集に所収されず、抜けている論文がある、ということだ。石橋湛山という山は、大きく、私たちの前に聳えている。引き続き、「小日本主義と正気」という問題を軸に設定して湛山研究に努めたい。

 学ぶべきは湛山の正気維持の秘訣。湛山や竹虎の体験した時代に似た状況が近づいてる。嫌、始まっている。彼らの体験をワクチンとし、いわば「予防接種」をしておかなければならないだろう。

 今の所のヒントは、少部数の経済専門誌での論説、権力の抑圧に対して、正論も少しずつ修正しながらでも粘り強く述べ続けたということ。狂気に踏み込まない強靭な精神力、日蓮宗の死生観に裏打ちされた人生観。石橋湛山という人間の品格もあるだろう。

 贅言; 東洋経済新報社の基幹雑誌、月刊の「東洋経済新報」の部数は、1918から19年に1万部を超える。その後、週刊誌化へ。日本でいちばん初めの週刊誌。当時の社員は66人。現在は、250人。「週刊東洋経済」公称11万部。現在は6万部を割り、デジタル化で奮闘中という。

 去年暮れの総選挙で、自民党は若干議席数を減らしたものの大局は変わらず、むしろ、安倍政権は、目論見通り長期政権を約束されたかにみえた(戦争法案の強行採決以降の不支持率の急騰が、今後のキーポイント)。秘密保護法、集団的自衛権に続いて、憲法改定を俎上の載せようとしている。今後、強力な安倍政権が継続し、憲法改定まで現実味を帯びる状況になってきている。戦争法案強行採決以後の支持率の低下などが、どこまで行けるか。

 今後行なわれるだろう憲法改定では、平和主義の放棄に止まらず、人権の軽視、言論表現の自由の抑圧なども含まれて来るだろうと危惧する。言論表現の自由は、国民の知る権利という担保があるから保証されている。メディアが言論表現の自由という権利を持っているわけではない。権力に対抗して、国民の知る権利を守るためにメディアの自由(権力からの自由)があるのだ。国民の知る権利を劣化させないために言論表現の自由はある。それが出来ないメディアは、国民のためのメディアではなくなる。NHK、大手新聞など国民のためのメディアではなくなっているのではないか。

 表現活動をする者に取って、表現の自由は、所与のものではなく、また、誰かが守ってくれるものでもないと、考えている。表現の自由は、表現者自らが額に汗して、身銭を切って、守るものだ。マスコミが大同団結、共同歩調をとって、報道の自由を守っていかないと、戦後史の分岐点で、日本は方向を違えてしまう危険性がある。

 湛山が走り抜けた戦争へ傾斜する時代状況と現在との、そしてやがてきつつある近未来との、類似性(アナロジー)。そういう時代状況とジャーナリストとしての湛山の発言の関係性との検証。半藤一利は、湛山は「一貫して自由の論調を少数意見として説きつづけた」(半藤一利『戦う石橋湛山』)として湛山の言動を評価している。多数意見という時代の「趨勢」に惑わされずに、「反時代」感覚を維持し、そのために少数意見を言い続けることが大事なのだ、ということだろう。湛山論文を読み返すことで、また、歴史家、作家、評論家、ジャーナリストなどの先学たちがまとめた労作の湛山論の数々を読み比べることで、そういう時代の正気・狂気とそれに対すべきジャーナリストの正気・狂気を検証してみたい、と思っている。戦時下のマスコミは、真ッ先に狂気の旗を振ってきたし、大手マスコミは、今も同じように振っているであろうから、そこを検証することは、ジャーナリズムで長年働いてきた私のような立場の者にとって、湛山研究の最も重要なテーマだろうと思っている。

 (筆者は元NHK記者・日本ペンクラブ理事)


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