◇工藤邦彦    

≪反「反日」≫シフトをまえにして

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1)今回、突然噴き出したかに見える韓国や中国の「反日行動」と、それに対する両国政府の対応を、それぞれの国の国内矛盾の≪外≫への誘導だとか、愛国教育の故であるとする“分析”や“解説”が連日メディアにあふれ、両国への非難が高まっているが、こうした動きは石原慎太郎氏や安倍晋三氏のようなウルトラ・ナショナルな政治家たちだけの主導によるのではない。

民間のテレビ放送や右派系の新聞雑誌、週刊誌、さらにこのところしきりと目立つ愛国を気取った男性誌などは言うに及ばず、NHKや朝日新聞までを含むほぼマスコミ総体のここ数年にわたる活動(とりわけ北朝鮮問題を契機とした)と、それを基盤的に支えている20世紀末―21世紀初の大衆社会状況こそが、今後さらに強まっていくにちがいないこうした≪反「反日」≫シフトの幹であり、根っこである。

2)それゆえ現在この国で進行している動きを、なにか確固たる方向性をもった新しい道への踏み出しと考えることはできない。いまわが国を覆っているのは、アメリカに身を寄せながら大きく膨らんできた「親米的自国主義」(形容矛盾だが)にもとづく戦後政治経済の≪衰退モデル≫である、というのが本当のところではないか。

  その衰退性は、今日の政権やその政治経済的基盤たる勢力が現在の世界の軸心からずり落ちつつあることによって、ますます明白に示されようとしている。

  いま小泉政権は「郵政民営化が改革の本丸」などと、おかしなところに争点をつくって大騒ぎをしているが、この史上最も軽薄な「総理大臣」の在任期の間に、日本はユーラシア大陸のほとんどすべての場所で情勢に取り残され、ただアメリカの衍うままに行動しながら、自らのいる場所を失いつつある。

3)現在進みつつある韓中の激発と、今後いっそう広がるであろう「アジアと日本」の鋏状の乖離を、かの国々の「国内矛盾の≪外≫へ誘導」や「愛国教育」のせいにする人々は、ではそれが、≪なぜ≫、≪いま≫、≪日本だけに≫、向けられているのかを説明しなくてはならない。

  日本の侵略や植民地支配は過去のことで、日中国交回復や日韓条約の成立や村山談話等でもう決算がついているとか、戦後日本は十分にアジアに貢献してきたとか、これからは未来志向で行きましょうといった「前提」のうえに構築され、あるいは構築されようとしている東アジアの国際関係は、すべて虚構である。われわれ日本人は戦後の国内的・国際的な仕組みの構築に当たって、結果的には過去の「負の遺産」に対する根本的な決着にほとんど手つけないまま、拡大成長の道を走り、今日のポストモダンな状況に突入してしまっている。

  この間、東アジアに対して≪やった≫とされるものは自己の利益のためのものを除けば、殆どすべていわゆる≪口先介入≫にすぎないものである。

 この根本事情が解決されない限り、日本に対する「激発」や「無理解」は、朝鮮半島や中国大陸をこえて全アジアに何度でも繰り返して起こるだろうという潜在性を、われわれを取り巻く世界は内蔵している。

今回の韓国と中国における≪反日≫はそのことを日本国民が全体として自覚するための絶好機であるにもかかわらず、絶対多数を構成する体制派の人たちは、更なる反中、反韓、そして反北朝鮮を煽り立てることによって、またしてもそれを無にしてしまおうとしている。

4)最近、「東アジア共同体」や「北東アジア共同体」の必要性が、いろいろなところで叫ばれている。そして「脱亜入欧からの脱却」が、今では一つ覚えのようにメディア上で垂れ流されるようになった。ではその「脱却」とは何か。

その「アジア」とは何か。東アジア共同体とは、この地域にもう一つの経済圏を作ることでも、政治経済共同体をつくることでもない。

 ましてその共同体の指導権をどの国が執るかということではさらにない。それはヨーロッパ共同体とも南北アメリカ貿易経済圏とも違う、東アジアの≪協働≫のあり様を探ることから始まるものであろう。

私は「東アジア共同体」というものがもし構想されるとするならばそれは少なくとも次の二つのことを原理的に含んでいるものでなくてはならないと思っている。

【その1】いかなる「帝国主義」とも無縁であること。
【その2】自然との回路を失わないこと。
これは近代の日本とアジアの先人たちが見出した根本精神であり、この≪アジアの原理≫ともいうべき原理原則を踏み外した共同体は、それをたとえ日本が提唱しようと中国が主導しようと、「アジア」共同体ではない。そうしたものは世界資本主義の新しいバリエーションに過ぎないものであり、その行き先は見えている。

一方、上に述べたような原理への踏み出しあるいは回復は、おそらくこの地域の多様な、下からの知的イニシアチブによって始められるしかないものだろう。たとえば中韓をはじめ各国共同のアジア近現代史研究への大きな枠組みでのボトムアップのアプローチなど、遠回りのようだが最も有効な近道であるに違いない(たしかドイツはそれをもっと早い時期にポーランドとの間でやったはずだ)。われわれが 過去の「負の遺産」を繰り返し繰り返し、振り返って≪見る≫ことは、そうした作業のための前提条件なのである。

5)朝鮮半島の反発を引き継いで、成都と北京に始まり、広州や深に広がり、ついに上海、天津、杭州にまで飛び火した中国の反日デモの拡大を受けて、町村という外務大臣が「破壊行為」の謝罪と賠償を強く要求し、マスメディアが声高にそれを声援し、その一方で小泉首相自身は「冷静に、対立をあおることなく、将来を見通して友好を」などと抑制的な発言を演技している。

しかしいま起きていることは、じつは彼自身の政治が呼び込んだ一連のブーメラン現象のひとつにすぎない。彼は彼自身の発言や行動の歴史的な重大さに気づいていない。小泉政治の本質は≪シニシズム≫であり、それは方向を失った日本の今日的状況を表徴している。

この知的文化的には三流で、演技演出のみで状況を乗り切ってきた「総理大臣」の長期政権の下で、いま、戦争を知らない政治家たちや、アメリカ的政策操作を「グローバル化への対応」と思い込んでいる官僚たち、さらに米国留学帰りを主流とする現役世代の知識専門家たちにより、少なくとも「軍備抑制+海外派兵回避」と「戦後型社会権の拡充」だけはコンセンサスにしてきた、いうところの≪55年体制≫の最低限の成果はほぼ完全にとり崩され、そのことによって日本はいま世界と時代からの、とりわけアジアからの孤立へと確実に向かっている。

にもかかわらず目指すのは国連常任理事国入りだという。悪い冗談である。逆説的のようだが、私にはこれは、アジアに向けた≪日本の鎖国≫の現代的な形のようにさえ見えてくる。

6)ここで終えようと思っていたところで、4月18日の朝刊を見た。中国における反日行動は、北の瀋陽から南のアモイ・香港までを含むさらに数都市に拡大し、広東省の東莞というところでは日系企業の工場ストにまで進んだと報じられている(このことの意味は大きいかもしれない)。

北京では注目の日中外相会談が行なわれ、朝日、毎日、読売3紙は「中国外相、謝罪せず」の大見出しで足並みをそろえた。これからは新聞で、テレビで、雑誌で、中国非難の大合唱が始まるのだろう。

早くも日本経済新聞は同社コラムニスト・田勢康弘氏の「石は投げた人に向かう」という大見出しの論評を掲げた。「なぜ、石を投げるのか。なぜ、他国の旗を燃やしたりするのか。…中国から送られて来る直視できないような映像に、ほとんどの日本人は傷つき、怒りを抑えきれないでいる。…」というのがその書き出しである。

7)中国の現在の共産党体制にも、その経済成長政策にも、その若い世代のあり様にも、物申すことはいくつもある。だが、いま日本大使館や総領事館に石やペットボトルやインクビンを投げ、日本企業や商店の看板を足蹴にしている若者たちは、

  自国の山河が天皇を戴く軍隊によって、言い換えるならば私たち≪日本人≫の将校や兵士たちによって踏み荒らされ、家々を焼かれ、人々を殺傷・凌辱された一時代を、その祖父や祖母たち自身の時代として持っている人たちであるということ、そしてまたその若者たちの「破壊行動」を黙認し操作していると勘ぐられている中国の国家指導者たちにしても、同じ一時代を彼らの父母たちの時代として持っているのだということに思い当たる程度の感受性を、ジャーナリストなら持ってしるべきではないのか。―そんなことを感じた朝だった。(4月18日)