市井三郎のキーパーソン論

市井三郎のキーパーソン論とカオス論     木村 寛

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 山田慶児は市井の告別式(1989.6.30)において、「あなたの哲学
の核心は、歴史哲学におけるキー・パースン論でした。それは一言でいえば、
人間の歴史においては、時折、起きる確率の極めて小さい出来事が起こり、新
しい価値を生み出して歴史を方向づけてゆく、というのです。それは必然と偶
然、決定論と非決定論ないし確率論にかかわる問題でした。
 
  1970年代に生まれた新しい数学、いわゆる数学的<カオス>の理論は、
あなたを狂喜させました。数学的決定論にしたがって、それに反するようなカ
オス、あるいは確率的な過程が生じる場合がある、と主張していたからです。
それは必然と偶然を結びつけるカテゴリーの必要を示唆していましたし、さら
に言えば、[キー・パースン論]に新たな普遍的表現を与える可能性をはるか
に示唆していました。・・・私たちに残されたのは、<数学的【カオス】の哲
学的意味>と題する、短い論文一篇です。・・・」と述べた(鶴見俊輔・花田
圭介編『市民の論理学者 市井三郎』所収 <弔辞>137頁、1991、思
想の科学社)。
 
  市井自身は、日本の誇るべき思想家、故中井正一の<歴史の重い扉を押しひ
らく小指の力>の話を引用した後で、「本書で私がもっとも力を注いだのは、
その問題の追及であった。それは哲学的には、[必然性]、[偶然性]、[可
能性]といった諸カテゴリーの再検討を要求する問題であるが、同時にそれ
は、歴史における反事実的条件命題の当否とか、古来からの自由意志対決定論
の問題、微視現象と巨視現象との相関、等々の諸問題を本質的にまきこんでお
り、しかもそれらの原理的諸問題は、ある意味では時々刻々我々に迫ってくる
市民としての実践問題の中核をさえ成すほどの、切実な日常的問題性をはらん
でいるのである。少なくとも私は、そう感じてこの数年を過ごしてきた」(市
井『哲学的分析』まえがき、1963、岩波書店)。
 
  市井は都島工業、大阪高校、大阪大学理学部(仁田勇研究室、X線結晶構造
解析)出身であり、敗戦後、思想を求めて哲学に転身し、イギリス留学で鍛え
られたわけであるから(ロンドンではクエーカーの家に下宿していたらし
い)、ラッセルらと軌を一にする行動をとったことは自然なことであった。
  市井のキー・パースン論は、<カオス論>からはどのように理解可能なのだ
ろうか。
  数学の世界でカオス研究の端緒がひらかれ(カオスの定義は<リー(李)-
ヨークの定理>として知られ、このあたりの幾度もの出会いと偶然を伴う物語
は、山口昌哉『カオスとフラクタル』1986、講談社に詳しい)、それが物
理学の世界でのカオス現象の探求となっていった時代の流れの中で、私の知る
故富田和久京都大学理学部元教授の退官記念講演(1985)は、端的に<カ
オスの意義>であり、これは哲学的意味をも含むもっと総合的な意味であっ
た。 「対象化する記述の内部に、因果性を把握することの困難なカオス領域
が存在するという事実は、そもそも我々の思考の出発点に、元来対象化できな
い意識の内面が存在していることを強く暗示しているように思われます。--
この認識は機械論的恐怖から人間を解放し、精神を自由にする糸口となるので
はなかろうか。--もしそうだとすれば、<カオスは人間を自由にする>と
言ってもよいのではないかと思います」(『日本物理学会誌』第40巻99
頁、『富田和久著作集』第一巻巻末89頁、著作集刊行会1994)。
 
  カオスは決定論から完全に自由であるかといえば、そうではない。別名、カ
オスは<決定論的・カオス>と言われることからいえば、半分は決定論的であ
り、半分はカオス的である(グリック『カオス』-新しい科学を作る-大貫昌
子訳、1991、新潮文庫)。すなわちカオス挙動の大枠は<決定論的に>予
想可能であるが(これを根拠に<カオス制御>が可能となる)、枠内の挙動の
小さな予測は<カオス的>に不可能である。
 
すなわち、カオスが根底にある世界では人間がいくら対象を厳密に把握しよ
うと努力しても、カオス挙動の振幅(この領域では因果律は成立しない。註
1)を含んだ形でしか把握できない。したがってこのカオス領域に富田先生の
言われた<カオスは人間を自由にする>という余地が成立するし、また市井の
<キー・パースン>の活躍領域も成立するはずであり、<反事実的条件命題>
を考察する余地も成立する。
 
  それでは、もしその人間がこれを選択せず、あれを選択していたら・・・と
いう反事実的条件命題はどのように理解できるのだろうか。気象学者ローレン
ツのカオスのアトラクター(軌跡)は、蝶が二枚の羽をひろげたように、左右
に分かれる(註1、120頁、図10)ことからいえば、これは<あれか、こ
れか>をアナロジー的に考えるにはぴったりの表示である。すなわち<あれ
か、これか>の選択がカオス状態の中で発現すると理解できる。これこそまさ
に、市井が<カオス>研究の先に展望したものだったのではないだろうか。こ
こに人間の自由意志の成立するカオス的基盤がアナロジー的に明瞭な形で示さ
れているといえないだろうか。
         (筆者は理学博士・堺市在住)

註1、拙書『生きるためのヒント』-自然認識の歩みから-、第四章カオス論
-自由な世界、121頁図13、125頁図15参照、2002、東方出版

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