【横丁茶話】

幸福な家庭と不幸な家庭

                    西村 徹


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 トルストイの場合
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 「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」。レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』冒頭の言葉である。などと今更言うまでもないことかもしれない。訳文は中村白葉(1926年)。残念ながらロシア語を知らない私は、今のところコンスタンス・ガーネットの英訳(1901年)“Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.”を気に入っている。

 ウラジーミル・ナボコフはガーネットの翻訳に批判的であるが、他の訳を知らないので、それは棚に上げる。とにかく英語として美しいと思う。ついでに言うと中国語の周揚の訳もいい。発音もできないのだが「幸福的家庭都是相似的,不幸的家庭各有各的不幸」は目で見ただけでもいい。音節が五、五、五、六と整っていて気持ちがよい。なにしろ述語部分は連結詞(copula)そのものを必要としないのだから中国語はすごい。

 結局何語に訳しても、いいものはいいというだけのことかもしれないが、とにかく私はガーネット訳を好む。この一節については、こよなくといっていいほど好む。理由はこの英文を音読すればわかると思う。英訳などどうでもいいようなものだが、検索すると日本語訳14種類、英訳6、フランス語訳3、スペイン語2。それぞれ固有の言語をそれぞれの国語として持つ国で訳されていない国はほとんどないのではないかと思われる。

 せめて英訳のひとつも例示しないでは義理が立たないので私的に親しいガーネット訳を挙げた。いまひとつ、「家庭」というと、クリスチャンホームなどというように、ただの風景になってしまうので社会システムとしての「家族」をも指すことにも触れておきたいと思う。ロマンス諸語訳もドイツ語訳も訳語として英語の family と語源を同じくする語を採用している。

 つまりそれゆえ日本語にするならば「家庭」よりも「家族」がより近かろうと推察される。日本語訳でも「家庭」でなく「家族」を採っているものもある。トルストイのロシア語原文はシミヤで、もし「家庭」ならドーマとか言うのがあるような気がする。ドーマはダモイという形でシベリア抑留者の帰還を迎えた私どもの世代には馴染みのある言葉だ。

 さてトルストイのこの一節が心に響くのは1870年代ロシアの現実を典型的に表出しているからである。結婚は秘蹟(正教では機密)であった。夫婦は「ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マルコ10章;マタイ19章)のであり、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20章)とあるところに従って恩寵に満たされた家庭を築くことこそが「あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるため」(同上)であったからである。

 ところが、プロテスタントが結婚を秘蹟から除外したのが遠因でもあろうが、欧米、とりわけ英米で、状況はトルストイ以後百年を待つことなく音を立てて崩れはじめた。キリスト教の伝統をほとんどまったく欠いたまま、敗戦以来アメリカの属国であり続ける日本にも当然その波は押し寄せた。核家族化が進み、性の解放があり、離婚が急増し、次いで趨勢は、ときに(決して常にではない)利己主義とも絡み合って非婚「おひとりさま」化を助長し、家族のかたちは見る影もないものになった。

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 不幸は共有しやすいか?
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 幸福は家族や家庭を単位として捉えられるものではなく、個人(孤人)を単位としてしか考えようのないものになった。古市憲寿という、近頃人気の若い社会学徒がいるが、最近テレビでこんなことを言っていた。「不幸は共有しやすいけれど(人が亡くなるとか病気になるとか)、幸せは多様で、希望もおなじで合意とりにくい」。

 きわめて似たようなことを11年前の朝日新聞天声人語が言っている(2002年11月19日)。「幸福はさまざまだが、不幸は驚くほど一様である」と。たしかに生老病死は個々人誰しもの共有するものだ。不幸は共有できるということになる。幸せのほうはカネのある人・ない人、カネがあるくせに幸せでない人・カネがなくても幸せな人といった具合に多様だ。

 私はトルストイの言葉が念頭にあって、それはもはや価値観として今に通ずるところがないことへの名残を惜しむ心持もある状態でこれを聞いたから、ちょうどトルストイと真逆の分類そのものに一瞬「なるほど」と頷いたのでもあった。しかし、どうもそうはいかないというわだかまりもあった。共有できない不幸もあるはずだ。生老病死のようなとどのつまりの普遍的な不幸のほかに個人の置かれた状況によって千差万別さまざまに違ってくる不幸もありうる。

 たとえば、法は改正されるおもむきにあるが、同じ兄弟姉妹でも嫡出子と婚外子と、どちらに生まれるのが幸か不幸か? 金持ちの方が貧しい人よりいい大学に入りやすい。どちらが幸か不幸か。人は見かけが9割という。美形に生まれるか否かだけ見ても不幸は共有しやすいと簡単に言えまい。
 古市氏自身も「過酷な労働環境で働きながら、それを誰のせいにもできずに自分で抱え込んでしまう『優しい』若者がいる。本当につらい人はデモをする余裕さえもないんです」(日経新聞11年11月)と言っている。古市氏自身が「不幸は共有できない」と2年前には言っていた。あきらかに2年前の認識のほうが正しい。

 天声人語を紹介しているブログはこう付け加える。「おそらく、トルストイの言葉は、不幸な者から見た場合の言葉。天声人語の方の言葉は、いわゆる日本人らしい中流の暮らしをしている人から見た場合の言葉かなって思う」と。天声人語氏も古市青年もなに不自由ない中流目線で、軽いとっさの思いつきをそのまま言葉にしたのであろう。

 トルストイは幸福と不幸について考えに考え抜いた。そして『戦争と平和』のなかでプラトンという人物を描くことによって「人間が幸福で完全に自由な状態であるという状態が存在しない以上、不幸で不自由な状態もありえないこと」、「すべての不幸は不足ではなく過剰から生じる」ことを知った。少欲知足の大切をトルストイは知り抜いていた。

 それが今の時代に合う合わないを超えて『アンナ・カレーニナ』冒頭の重みになっている。いずれ人類が正気を取り戻してトルストイの言葉が時代遅れでない時代が再び来るかもしれないことを十分に予想させる重みになっている。

 ニーチェ『ツァーラトゥストラ』に「善と悪とに与えられた名称のすべては比喩である。それらの名称は、内容を言いつくしているのではなく、暗示しているだけである。それらの名称をもとに知識を得ようとする者は愚か者だ」(手塚富雄・訳)とある。「善と悪」を「幸福と不幸」と読み替えても当てはまるのでないかと思う。(2013/11/11)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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