【コラム】風と土のカルテ(54)

幻に終わった農村医科大学構想

色平 哲郎

 今年は、「すべての人にとっての健康」を目指すアルマアタ宣言から40周年に当たる。1978年9月に国際会議で採択された同宣言は、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)の基本的活動項目として、健康教育、水供給と生活環境、栄養改善、母子保健と家族計画、予防接種、感染症対策、簡単な病気やケガの手当て、基本医薬品の供給などを挙げている。

 先進国の日本で暮らしていると、これらはとうに達成されたと感じるかもしれない。しかし、「すべての人」が対象となれば、日本でもいまだ道半ばといえようか。PHCは、理想の高みを追い続ける活動であり、強いモチベーションを持った医療者の教育が重要な鍵を握る。

 PHCの思想と実践を先取りしていた佐久総合病院の故若月俊一名誉総長は、自負と共感をもって農村で働く医師養成のための「農村医科大学構想」を抱いていた。慢性的に医師不足だった農村で自前の医師を育て、不足を解消しようというプランだった。
 筆者の先輩医師によれば、1964年末には若月院長(当時)の提案で、全国厚生農業協同組合連合会に農村医科大学の設立準備委員会が設置されており、1970年の全国農協大会でも佐久を候補地として医科大学をつくる決議がなされたという。

 ところが、1970年に第三次佐藤栄作内閣の秋田大助自治大臣が、へき地医療従事者養成のための医学専門学校構想を表明。雲行きが怪しくなる。1972年、各都道府県が共同で自治医科大学を設立し、若月先生の農村医科大学構想は幻に終わった。

●恩に報いる」ため故郷に戻る医師たち

 日本では実現しなかった農村医科大学だが、実はフィリピン共和国で具現化している。本コラムでも何度か触れた、フィリピン国立大学医学部のレイテ分校(通称SHS)だ。SHSの学生たちは生まれ育った町や村の推薦を受けて、フィリピン全土からレイテ島に集まり、学費は奨学金で賄われる。

 入学した学生は、まず助産師資格を持つコミュニティ・ヘルス・ワーカーを目指す。週の前半は教室で授業を受け、後半はグループでレイテ島やサマール島の村々に張りつき、有資格者の先輩の指導の下、お産や保健指導、予防接種などのノウハウを身につける。2年勉強して助産師資格を取る。
 さらに勉強を続けて看護師、医師を目指す学生の場合は、出身地域の基礎自治体の人々に認められれば、看護師養成コースに進める。その後、入学者の全員ではないが、正規看護師、医師へとステップアップ。卒業したら、自分を送り出してくれた故郷へ帰る。医師の頭脳流出が激しいフィリピンで、SHS卒業生の9割以上が国内の島や山といった、経済的に恵まれない地域に留まっている。

 近年は、佐久総合病院の研修医たちも毎年、SHSに足を運び、地域で鍛えられる医学生たちに強い刺激を受けて帰ってきている。使命感を呼び覚まされるようだ。
 それにしても、SHSの卒業生は、なぜ海外や大都会に行かず、貧しい国内に留まっているのか。SHSを詳しく取材している山岡淳一郎氏の著書、『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書126ページ)には、こう記されている。

 「フィリピンの現地語で『ウータン・ナローブ』という言葉があります。日本語で『恩に報いる』という意味です。フィリピン社会は、ごく少数の豊かな人と圧倒的多数の貧しい人びとから成り立っています。みんなでお金を出しあって公的なしくみをつくるのが難しい社会です。と、なると個人的に受けた恩には必ず報いるという暗黙のルールで支えあうしかありません。これに反すると『ワランヒア(恥知らず、人でなし)』と批判されます。奨学金を出してくれた地元の恩に報いるために学生たちは、故郷に戻るのです」

 日本では、地域や診療科による医師の偏在が著しい。医療過疎地、社会的へき地は、今も厳然とある。豊かな日本では、好きな場所で医者になれる。その代償として偏在が進む。「ウータン・ナローブ」に代わるモチベーションを、日本の医師教育は見つけられていない。

 (長野県・佐久総合病院・医師・オルタ編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2018年10月31日号から転載したものですが文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201810/558417.html

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