【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

復興の途を歩むモンゴルの仏教

荒木 重雄


 モンゴル国の仏教事情を見るなら、まず、首都ウランバートルにある、モンゴル仏教の総本山ガンダン寺を訪れるのがよいといわれる。だが、その由緒を知ろうとすると、たちまち、モンゴルの歴史の闇と直に向き合うことになる。
 まずはウランバートルという都市の成立ちである。

◆◆ 史上2番目の社会主義国

 モンゴルへの仏教の伝播は、13世紀の初め、モンゴル諸部族を統合して帝国を築いたチンギス・ハーンが、西夏に遠征したおり仏教文化に触れたことに遡るともされるが、ゲル(天幕)を寺院に仕立てたのは、豪族出身のザナバザルが、1639年、5歳で出家して、チベット仏教の高僧ターラナータの転生活仏と認定され、ジェプツンダンパ・ホクトク1世の称号を得たときといわれる。

 木製の骨組みをフエルトで覆うゲルの寺院は、ホクトク1世や領民とともに遊牧地を移動していたが、やがて一か所に定住するようになり、活仏の寺院(王宮)を中心に多くの寺院が建立されることとなった。これが現在のウランバートルの始まりだが、当時はイフ・フレー(大きな、活仏を中心とする集団)と呼ばれていた。

 時は移って1911年、辛亥革命によって清朝が倒されると、イフ・フレー周辺のモンゴル民族は独立を宣言。8世となっていた活仏ジェプツンダンパ・ホクトクをボグド・ハーン(皇帝)とする政権が樹立された。
 独立運動は、もとより、清朝に支配されていた全モンゴル人の統一・独立を目指すものであったが、ロシア・中国(中華民国)・日本を中心とする国際関係の中で、外モンゴル(現モンゴル国)、内モンゴル(中国)、ブリアート・モンゴル(ロシア、現ブリアート共和国)に分断されることとなった。

 1921年、複雑な国際関係を経て、モンゴル国はソ連の支援のもとモンゴル人民革命党政権に移行。史上2番目の社会主義国となった。だが、ボグド・ハーン(皇帝)はただちに廃絶されることなく、24年のホクトク8世の死去をもって、活仏転生の終焉が告げられた。活仏信仰の強いモンゴル仏教で活仏制の廃止は、仏教が成り立つ根幹にかかわる。
 この年、イフ・フレーの名称も、「赤い英雄の都市」を意味するウランバートルに変わった。

 初めはモンゴルの伝統や文化を尊重していた人民革命党政権であったが、1936年から39年にかけて、ソ連のスターリンの直接指導によるとされる仏教の大弾圧が行なわれた。全土に約900あった寺廟はことごとく破壊されるか倉庫や学校、博物館などに転用され、経典は焼き捨てられ、2万人におよぶ僧侶が「反革命」の罪で処刑されたといわれる。

 こうした歴史の淵をくぐって、私たちはようやくガンダン寺の門の前に立つのである。

◆◆ モンゴル仏教復興の主軸として

 ガンダン寺は、弾圧前は約400あったといわれるウランバートルの寺廟の中で、細々ながらも信仰の機能を維持してこられた唯一の寺院であった。かつては、九つの僧院と図書館を備え、5000人の学僧が住む大学問寺であったが、五つの僧院が破壊され、四つはソ連の官僚の住居と厩舎に転用された中で、僅か数名の僧侶だけに修行が許されたという。

 ガンダン寺の「名物」の一つは巨大な十一面観音立像である。1911年、清朝からの独立を記念して建立されたものだが、38年、ソ連に持ち去られた。それを90年の民主化の翌年、早々に国家事業として再建したのである。高さも以前の像と同じ25.5メートル。黄金色に燦然と輝いている。
 参詣者は後を絶たず、善男善女が観音像の足元に設けられたマニ車を回していく。
 現在、300名余りの修行僧がいるが、この寺院の誇りは、苦難の歴史を守りぬいてきた数万冊に及ぶチベット語訳やモンゴル語訳の経典である。とりわけモンゴル語大蔵経は、経・論完備の貴重なものであるという。

 同寺にはザナバザル仏教大学が併設されていて、仏教学部と芸術学部から成り、仏教学部は、一旦は途絶えたモンゴル全土の仏教調査・研究と復興計画に携わる一方、芸術学部は絵画(仏画)、彫刻(仏像)、仏像鋳造の3コースがあり、モンゴルの仏教芸術の伝統を継承・発展させるとともに、人民革命党政権時代に破壊された仏画や仏像の修復・復興に力を注いでいる。

◆◆ さらに訪ねるならカラコルムへ

 ウランバートルから西へ約320キロ進むと、果てしない大草原にハラホリンという村がある。ここはその昔(1235年)、チンギス・ハーンの息子でモンゴル帝国第2代皇帝となったオゴディが帝国の首都カラコルムを開いた故地である。第3代皇帝のクビライは都を東方の大都(現北京)や上都(内モンゴル)に移すが、ここカラコルムは14世紀中頃まで、マルコポーロも訪れた東西交易の中心都市として栄えた。だが現在は、茫漠とした草原に16世紀末に建てられた学問寺エルデニ・ゾーの跡があるのみである。

 エルデニ・ゾーは、1辺が約400メートルの外壁に囲まれた正方形の境内に、かつては多数の伽藍が聳え、最盛時には1万人に近い学僧がいたとされるが、現在残るのは、北西隅の三つの寺と、北東隅の経堂、そして外壁上の108基のストゥーパ(舎利塔)だけである。社会主義政権時代には博物館となっていた。

 17世紀初頭の建立とされる、モンゴル・チベット・中国の様式が混淆した三つの寺の内部は、祭壇の釈迦像を中心に、ゲルグ派の開祖ツォンカパ像、忿怒相の護法神ヤマーンタカ(大威徳明王)、ヤブ・ユム(男女交合)形の諸仏・諸神など、極彩色の仏像・仏画が溢れていて、現在は信仰の場に復しているが、たしかに、まるごと博物館にするにはふさわしい。

 一方、経堂では、地域の住民が集って勤行が催される。バター茶が振舞われ、読経のCDや漫画入り『正しい作法』の本が頒布されるなど、賑やかで穏やかな時間が流れる。人々の日常の中に仏教が復活していることが実感されるひとときである。

 (元桜美林大学教授)


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