■ 【横丁茶話】性の介護               西村 徹

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 2010年1月21日午後6時、毎日放送テレビ「VOICE」という番組で「性
の介護」というテーマの放送があった。放送の終わる瞬間をしか見ることができ
なかったが翌々日のホームページ*上で「"障害者の性"を知る、考える」として
文字化されたものを読むことが出来た。

http://www.mbs.jp/voice/special/201001/21_26603.shtml

介護関係者のあいだでは、すでに旧聞に属することらしいが、私にはまったくの
初耳で、介護というものの幅というより奥行きの深さに、ここまで来ているのか
と、いささかなからず驚いた。

 たとえば脳性まひなどで、両手とも不随になった人の性欲の解放を介助する仕
事のことのようである。新潟市に本部を置くNPO「ホワイトハンズ」がこの介
助を始めたのは2年前。代表の坂爪真吾さんは、もともと老人介護の活動をして
いた。いまは13都府県で事業を展開し、利用者は全国に50人(NPOホワイト
ハンズのHP上では「利用者数120人突破」になっている)、ケアをするスタッフ
は女性ばかり15人だという。2014年までに、全国47都道府県で、利用者1000名
のケアサービス・ネットワークを構築することを、目標にしているという。

 仕事の内容は、端的に言えばこれがすべてである。ここからいくつか、まった
くの門外なので初歩的な疑問がいろいろと浮かんでくる。順不同で思いつくこと
を書くので、よろしく諸賢のご教示を得たいと思う。

1. ホワイトハンズのHPに言うごとく「男性重度身体障がい者の『性機能の廃用
症候群予防』及び『性に関する尊厳と自立を守る』ことを目的としたケアサービ
ス」であり、要するにそれは男性の「射精介助」にほかならない。合言葉そのも
のが「守れ! 大切な人の射精(みらい)を!! 」となっている。

 「ちょっと待て」と、誰しもが思うのではないか。女性はサービスを提供する
側にのみ動員されて利用者のうちに数えられていないではないか。あきらかに男
性独善(male chauvinism)といわれてもしかたあるまい。しかし、たぶん日本
はまだ途上国で、活動はほんのよちよち歩きの段階だからやむをえないというこ
とだろうか。そこまで手がまわらないだけと見るべきことかもしれない。物事は
一挙には進まない。
 
海外ではどうか。毎日放送テレビによると、オランダ中部のユトレヒトの郊外
には30年近く前、1982年に活動を開始した「SAR」という団体があり、
その設立者の一人レネ・フェルグート会長自身が重度の障害者で「大きなニーズ
があると思って作りました。はじめの利用者は10人だけで探り探り進めていき
ました。 オランダでも当時は障害者の性はタブーでしたから」 という。
 
  また「SARは障害者から連絡を受けてヘルパーを派遣します。 利用者はオ
ランダ、ドイツ、ベルギーなどに900人。 ヘルパーは女性14人と男性5人
で、介護の一環で性行為までします。 利用者の希望で同性のスタッフが訪ねる
ケースも」という。

 こちらは男性の射精介助のみというような限定的なものではないらしい。ケア
サービスのうちに性行為そのものを含むのみならず、同性愛者をも視野に入れて
いるらしいことがわかる。オランダでさえここに辿りつくのに30年を要した。日
本もやがて30年経てばオランダの水準に達するかどうかは未知数だが、フェミ
ニズム仮説によれば女は男より分化が進んでいるから男より高等で、したがって
女のカスタマイズされたにすぎない男とちがって、基本仕様の女(福岡伸一『で
きそこないの男たち』光文社新書)は性的耐乏性能が高く、したがってさほどの
需要が発生しないということかもしれない。女の性的耐乏性能について、さる日
本のフェミニスト社会学者がそのようなことを誇らしげに言っていたのを記憶す
る。

 しかし、それとはやや異なる内容を示唆する事柄をNPOホワイトハンズ監事の
須藤昭夫氏が2008年11月21日の時事通信新潟支局の取材で話しているので全文を
転載する。

 「私は今一人暮らしなのですが、まだ施設にいた20年ほど前、同じ施設に、
20代後半の女性脳性まひ障害者の人がいました。ある6月下旬くらいの晴れた日
に、桜の木の下でその人がオナニーをしている場面を見てしまったんですね。手
がうまく使えないのでモジモジしているのを見て、私は黙って近づいて彼女の股
間に手をやって、ジャージズボンの上から刺激しました。お互い、無言のまま2
0分ほど過ぎて、彼女がフ~ッと吐息をついたので、手を戻して、その場を離れ
ました。その頃の事は、未だにお互い、口にはしていません。といっても別にや
ましいことではなく、お互いに理解しあっているから、特別な事ではないんです
よ。何度かそういう行為をしているので、男性障害者同様、女性障害者にも同じ
く性欲と性に関する悩みが有る事は、解ります。」

 これはたいへん重い証言で、今後の大きな課題であろうと思う。課題といえば
費用の問題もある。介護費用の単純比較はむずかしいがホワイトハンズの入会費
および別途交通費+移動費などを合算するとオランダの85ユーロ(およそ1万
1,000円)と大差はなかろう。まったくちがうのは、オランダ全土で60以
上の自治体がSARを利用した際の料金全額を行政が負担している点である。現
状の日本ではふところに余裕がないと利用できない。介護保険が適用されるとも
聞かない。サービス内容も違うからオランダとは大違いである。

2. さて、性行為をも含むことによってこのサービスは完結される。だとすると、
部外者の目にはかぎりなく風俗産業に近いものに見えてこざるをえない。それ
について「SAR」のレネ・フェルグート会長は「ヘルパーになるのは看護師や介
護士などです」とし、スタッフは「これは売春ではありません。売春は障害者か
らお金を取ることだけが目的です。しかし、私たちにとって大切なのは障害者の
ケアをするということなのです」 と言い、しかも、「性の介護」は健康管理の
一環、という考えが浸透しているのです」と言う。

 それにまったく異論はない。当然の主張にケチをつける余地はない。「ヘルパ
ーになるのは看護師や介護士など」だからほとんど聖職であるといっても過言で
はない。もっぱら利潤動機に基づく性風俗産業とは出発点からしてまったくがち
がう。毎日放送テレビによれば、ホワイトハンズの利用者の一人でもあり、既に
上記の通りNPOホワイトハンズ監事でもある須藤昭夫さんは「実は風俗も使って
ました。デリバリーとか。めちゃくちゃ罪悪感、寂しさとか悲しさが出てくる」
と語っている。一方「いま受けているケアには、必要以上の体の接触がありませ
ん。スタッフはゴム手袋を着用。30分5,500円と有料ですが入浴や排泄と
同じで、あくまで『介護の一環』と位置づけられるからこそ利用しやすい」と言
う。

 念のために言い添えると、このデリバリーは配達一般のことではなくてデリヘ
ルと呼ばれる売春の出前のようなもののことであるらしい。
  なお付け加えるなら、スタッフはゴム手袋を着用するのみならず、利用者には
コンドームを装着させるらしいからケアする側に立てば手術前の除毛などと変わ
らぬ、医療周辺行為である。すくなくともオランダとちがって日本の場合は性行
為に踏み込んでいないのだから「売春ではありません」と断るまでもない。

3. 以上を全面的に肯定した上で、利用者の側での受け止め方は、実は当然のこ
とながら必ずしもすべてがケアラーの側のようにルーティーン化された、淡々た
るものではないことをも指摘しておかなければならない。
 
  ホワイトハンズの「利用者の声」の中には「ただ単に性器を触り射精させるの
ではなく、ケアスタッフさんの下着姿だけでも見せていただければ、本当に男性
として興奮してよりいっそうの快楽を楽しめるのではないでしょうか?」とか「
本当に良かったです。なにが良かったかと言うと、スタッフのYさんがとても綺
麗な方で驚きました。内心期待していなかったので。あんなにやさしくしていた
だいて感謝します。」かと思うと「胸元が開きすぎる。つい目が行ってしまう」
と、ただでさえ汗だくのケアラーのことも考えないトンチンカンな苦情(?)も
ある。
 
  ホワイトハンズ側ではこれらの声のいちいちに対して行き届いた回答をしてお
り、売春と混同されることに非常に神経を使っていることがわかる。当事者とし
てはそれはそれでもっともではあるが、事柄の性質上利用者の願望も、それはそ
れでもっともであろう。三番目の「胸元が開きすぎる」という苦情そのものもま
た同種の願望を逆の表現で伝えるものにほかならない。そのような願望はむしろ
人間の自然であり、だからこそ性の介護が必要とされるのであろう。
 
  人間は誰も性欲から自由ではありえない。中にはルソーのように「神そのもの
のように不感不動 (impassible)―『孤独な散歩者の夢想』・第一章」になった
と称する人もあるが、女の脛を見ただけで墜落した久米の仙人のほうを私は信用
する。イエスは山上の垂訓のなかで「姦淫するなというけれど、色情を抱いて女
を見る者は既に心の中で姦淫しているのだ」(マタイ5章27,28節)と、つ
まり男は神のように不感症ではありえないと言っている。おそらく男女を入れ替
えても同じことが言えるはずである。

4. したがって問題なのは、むしろ雇用されている個々の性産業労働者に対する
見方をあらためるべきではないかということである。もし性の介護が「売春」か
ら遠ざかれば遠ざかるほどケアラーは人間からロボットに代置されることになり、
それはかぎりなく利用者のニーズからも遠ざかることになるだろう。性の介護
と「売春」とはどうしても重なる部分、入り会い部分が残らざるをえないはずで
ある。

性行為もしくはその周辺行為によって、その労働対価を得る点では、つま
り経済行為としてはケアラーと性産業従事者とは変わりがない。非営利と営利の
ちがいは運営者の側のことであって、賃金を受け取る側には直接関わらない。理
念のちがい、ケアの力点が衛生面にあるか享楽面にあるか職種のちがいがあるだ
けである。性風俗産業の背後にはかならず闇の手が忍び寄る、それはしかし貧困
ビジネスの場合と異ならない。
 
  いまや「買春」者の側に罪障感はあっても「売春」者にはほとんどそんなもの
はないらしい。2010年2月1日の「朝日新聞」-教育欄に「相次ぐ学生のAV出演
・学校苦慮」という、紙面の4分の一を超える記事が掲載されていた。大学生が
アルバイトでアダルトビデオに出演することは男女ともに珍しいことでなくなっ
ているらしい。もちろんいわゆる風俗で働く者もいる。大学の対応を見ていると
さまざまで、ちょっと学風が想像できる側面もあっておもしろい。上智、関大は
断固たる態度を見せ、立教は「関係部局と相談する」と、どっちつかずの聖公会
風だ。慶応は「職業に貴賎なし」とレッセフェールだし京大も本人の意思には介
入しにくいと自由である。
 
  古い世代は愛と性が結びつくにさえ羞恥の垣根を越さなければならなかった。
性愛から愛を捨象して性のみを独立させるには強烈な罪障意識と道連れでなけれ
ばならなかった。性交は痙攣を伴う粘膜の摩擦にすぎないというようなことを言
ったのはマルクス・アウレリウスだったと思う。今の若者はそのように還元する
ことに最初からなんの抵抗も感じないようになっているらしい。
 
性の禁忌がここまで跡形もなくなると、売春を選択するのと性の介護を選択す
るのとの間に今の世代は古い世代が考えるほどのギャップを感じないのではない
かと思う。それどころか今の若者は両者をほとんど等価と受け取っているのでは
ないかと思う。

5. 昔は悪所としてまったく否定的にのみ捉えられた「風俗」は、今日まったく
社会的にマイナスだろうか。そうは思えない側面がある。今アラフォーで結婚が
かなえられず性欲処理に悶えている男は数多い。我が散歩道の途中に国道に沿っ
て「試写室」という看板のかかる建物がある。AVビデオを見るところと知るまで
は、なぜシャワールーム完備なのか、なぜVIPルーム完備なのかを知らなかった
が、なんでも最低限ティッシュは常備されていると聞く。そういえば表から出入
りする客は皆無で、裏口からクルマで来て階上に上るようになっている。時にじ
つに粛々と出入りする中年男子をみることがある。VIPルームとは、まさに健常
者にも射精介助サービスがなされる部屋であるらしい。
 
四十をうかがう年齢の労組の委員長だが結婚できずにいる知人によると、たま
にカネに余裕のあるときは風俗で、日常余裕のないときはもっぱらビデオを見て
凌いでいるという。入院時にヴェテラン看護師女性から聞いたところによると、
女はメークで相当程度に化けることが出来るから、盛り場に男を「狩に」出かけ
ることも出来るが、いわゆるブサメン男の現状は悲惨の一語に尽きる。秋葉原の
事件もこの悲惨と無関係でないどころか大いに関係しているだろう。
  デリヘルの何たるかを知るためにインターネットで検索すると「高齢者・身障
者限定」というのがあって先ず驚く.

6.以上のあれこれについてひとりで迷走してはいけないので介護の専門家に聞
いてみた。自宅を中途障害者の作業所に提供し、さらに新築して介護ステーショ
ンを開所その運営にも携わっている大ヴェテラン60代の女性である。そのひと
は以上の話をまったく驚くことなく、まさに淡々と自明のことのように聞き、「
自分は体を重ねたことはないが介護としてそれも当然ありうるでしょう」と言わ
れた。そして性は生の滅びないかぎり滅びないことを確言された。そして驚くべ
き実例を語られた。
 
  介護ステーションにはカフェを設けている。そして集いの場がある。女の人は
他愛ないことにも笑い転げる。一人97歳のシベリア抑留生き残りの老人が混じ
っていたが耳がまったく聞こえないので談笑の輪に入れないでいる。ステーショ
ンにはいろんな人がいろんなものを提供する中にAVビデオがあった。女たちも一
通りは見て面白がりはしたが、間もなく「見せるために演じているだけ」と飽き
てしまった。そのビデオを97歳の老人に見せたら一大変化が起きた。老人は頬を
紅潮させて背筋を伸ばして食い入るように眺め続けた。あきらかにビデオには賦
活作用、回春効果があるとのことであった。
 
  こうなると親鸞百日参篭の末に六角堂の如意輪観音が告げたという「我玉女の
身と成りて犯されん」は仮に親鸞の幻想であったとしても、あるいは売春に従事
する女の心理のうちにそのような観音の慈悲が一抹隠されていることも、あなが
ちに否定できることではないのでないか。
 
  年齢を問わず性差を問わず障害の有無を問わず、性について福祉の角度からラ
ディカルな、あるいはプラグマティックな対応が、とりわけ今日のような高齢化
社会においては求められているのではないかと思う。安楽死、麻薬、売春など、
オランダに学ぶものはきわめて多いと思う。なぜ蘭学を切り捨てたのか、惜しま
れるところである。

           (筆者は堺市在住)

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