憲法九条についての極私的考察      佐藤 学

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●改憲をどう考えるか


 安倍政権は憲法改正を政治日程に載せ、既に教育基本法改正に成功した。続い
て国民投票法の早期成立を目論む状況の中で、日本国憲法のこれまでの評価と今
後をどのように考えるかを、自分の中で明瞭にしておくために、本稿をお引き受
けした。しかし、自分が、不明瞭な将来像しか描けないことに改めて直面した。
ここで述べるのは、思考の断片でしかないことを、予めお断りしておきたい。
 私は政治学専攻であり、憲法学は門外漢である。政治学には、法律学のような
明瞭な構造がなく、未分化な学問領域である。それは政治という現象を扱う以上
不可避のことではあるが、一方、政治学的立場から憲法を考えるには、原理原則
を適用することでは済まないということでもある。
 
最初に明言しておくが、私は自民党の改憲案には反対である。第9条の問題を
措いて、自民党の憲法観は、大日本帝国憲法の国家主義を復活させることを主目
的としている。国民主権・基本的人権の尊重という二点に関して、自民党改憲案
は、戦後六十余年に亘り、これらの原則を覆すべく待ち構えていた地下水脈が、
遂に機会を見出して噴出してきたものである。どのような装いを施しても、自民
党改憲案は、この二つの原理・原則を否定することを最終目的としたものである。
私は、国民主権と基本的人権の尊重を、現代から将来に向けて当然守るべき原則
であると考える。その点には妥協の余地が無い。よって、今般の改憲については、
断固反対である。
 
そもそも、社会の閉塞感を打破するために憲法を変える、という議論が成立す
ること自体が、憲法の役割が理解されていない証拠である。あるいは、六十年経
ったから、その間の変化に対応して変えるべきであるという議論も、日本国憲法
のような硬性憲法の性格を理解しない議論である。「だからこそ国民投票法を制
定する必要があるのだ」という主張に対しては、もし、それが絶え間ない憲法改
正を想定し、それを望むべき姿とするならば、理論としては成立するだろう。す
なわち、ある意味で軟性憲法化して、民意により憲法自体を常に変え続けるとい
うことを一つの理想とする考え方はありうる。しかし、明らかに自民党案は、「戦
後体制の打破」が目的であり、そのような直接的かつ恒常的な民意の反映を制度
化することを目指していない。ポピュリズムにより、自民党案に沿った改憲が成
功すれば、日本人は自らの政治的自由を進んで放棄することになる。私はそれに
は反対する。
 
 しかし、第9条と平和主義の問題も、第9条断固死守で良いとは私は考えな
い。防衛省への昇格がなされ、自衛隊の地位は既に大きく変わった。米国との
軍事同盟の拡大も続いている。安倍政権が目的とする集団的自衛権の行使を可
能とする憲法体系の整備が実現すれば、第9条第1項を維持しても、実際には
意味を持たなくなる。
 
第9条を変えるべきとする議論には、復古的・国家主義的な意図のものと、そ
れとは異なり、解釈改憲により、あたかも制約がないかのように拡大してきた自
衛隊の軍事力と役割に対して、憲法による明確な枠をはめるべきとするものがあ
ることは、改めて指摘するまでもない。この後者の考え方には、論理的な明確さ
を求める立場からすれば、賛成すべきと考える。私は、理想的には、第9条を現
実の自衛隊への縛りをはっきりとさせる形に変えるべきであると考える。自衛隊
の存在を認めた上で、その軍事力の行使を、日本の領土・領海内に限るとする制
約を加えるべきである。専守防衛の理念を具体化する方策は、これに尽きると考
える。敵基地攻撃論の存在を考える時、「専守防衛」という理念による縛りには
実効性が無い。現在の世界で、侵略戦争を始めると宣言して軍事力行使を始める
国は無い。全ての戦争は、防衛戦争として始められる。91年のイラクによるク
ウェート侵略すら、祖国防衛・領土回復が大義名分であった。
 しかし、現在の改憲の流れに含まれるものとしての第9条改変は、復古的国家
主義憲法体制を目指す誤った改憲である以上、認められない。「理想的」な第9
条改変を行う条件は現在のところない。解釈改憲の拡大がもたらす第9条を巡る
諸問題の方が、自民党改憲案の問題点よりは、まだ対処の仕様がある。


●「国際貢献」について


 しかし、軍事力行使を領土・領海内に制限すれば、現在の改憲論の重要な大義
名分の一つになっている「国際貢献」の道を閉ざすではないか、という批判が当
然予想される。私は、この点に関しては、日本は非軍事的貢献に特化し、それに
まい進することで、より大きく実質的な貢献を実現できると考える。
 真の国際貢献とは、すなわち軍事力の派遣であり、それ以外は見下される、と
する考え方は、第一次湾岸戦争後の日本で支配的になった。巨額の財政支援を行
ったにも関わらず、日本は自衛隊をイラクに派遣しなかったために、ブッシュ
(父)大統領の戦勝演説における謝辞で無視され、それが日本外交の心的外傷と
なったと言われる。90年代に日本が国際的な評価を下げたのは、内向きの平和
主義のせいである。だから自衛隊の海外派遣を実現しない限り、名誉挽回は出来
ず、国連常任理事国入りも不可能である、との言説が浸透した。その結果が、P
KO法であり、イラク特措法であった。
 
私は85年から02年まで、米国に在住し、その間11年間にわたり、大学非
常勤講師として政治学を担当した。日米関係を扱う科目も多く教え、学会報告も
複数回行った。そのごく狭い経験のみからの観察であるが、米国において日本の
威信が湾岸戦争「不参戦」によって低下したという実感も、カンボジアへの自衛
隊派遣により、それが回復したという実感も無い。90年代に日本の威信が低下
したのは、バブル経済崩壊後の経済衰退に加え、正規の実業に組織暴力団が恒常
的に関わっている有様、政治・行政と経済の構造的汚職構造、女性の人権が軽ん
じられている社会の様相等が、米国メディアにより広範に報道され、隠されてい
た日本社会の裏面が明らかにされたためと考える。自衛隊派遣云々は大きな論点
ではなかった。
 
軍事力行使を領土・領海内に限るとすれば、民族虐殺や独裁政権による国民虐
殺を防ぐことが出来ないとの批判もあろう。世界は、あるいは、米国が主導する
世界は、第二次世界大戦終了時の価値感が支配するところである。その価値感の
中では、米国は、第二次世界大戦で「非の打ち所がない正義」の立場を代表し、
自由と民主主義を世界中に確立するために戦ったのであり、他方、弁護無用の極
悪非道な敵が、ナチス・ドイツであり、日本であった。米国はその後の戦争で、
必ず「ナチス」を必要とするようになった。敵をナチスと位置づけ、自らを正義
の守護者と規定する。そして敵をたたき潰すことが、正義の確立であり、敵との
交渉は、全てネヴィル・チェンバレンの宥和政策なのである。二次に亘る湾岸戦
争で、米国はサダム・フセインをヒットラーに擬え、交渉、あるいは査察続行は、
チェンバレンの宥和政策の誤りを繰り返すことであると断じた。その結果が何で
あったか、今、私たちは良く知っている。
 
先制攻撃をしなければ、敵が世界を脅威に曝す、という政治宣伝が流布される
時、私たちは眉に唾して見なければならない。第二次世界大戦のような、米国が
一点の非もない正義の立場を誇れる戦争など(だからこそ、圧倒的多数の米国人
は、原爆投下は正義であると信じ込まされている)、もう起きない。米国にとり、
ナチスの再来を防ぐという目標は、至高の道義的・倫理的地位を保証するもので
ある。そして、同盟国に対しても、自らに従わねば、ナチスの再来に手を貸すこ
とになるとの威嚇を行う。英国のブレア首相が、米国の虚偽情報を鵜呑みにした
イラク戦争支持(「イラクは45分で核ミサイルを発射できる」)を行ったのも、
このためである。日本が、米国のこの論理に付き合う必要はなく、付き合うべき
でもない。改憲して米国にどこまでも付いていく志向は、どの戦争においても第
二次世界大戦の再現を目指す彼等の道具になることである。私たちは、本当にそ
れを欲しているのか?
 
日本の国際貢献は、軍事力以外で行う。どのような事態になろうと、その覚悟
を貫く。日本が、主体的にこの政策を選ぶことこそ、真の名誉回復である。慌て
て米国の尻馬に乗らねば、人道に反することになるような戦争は無いのだ。 で
は、ルワンダはどうなのか。カンボジアはどうなのか。人道の危機を止めるには、
軍事力介入しかなかったのではないか?軍事力行使が、虐殺を防ぐこともあるの
に、日本はそこから目を背けるのか?そういう問いかけがあろう。しかし、ここ
では、二者択一なのである。もし、軍事力で全ての虐殺・人権侵害を止めようす
るならば、世界は絶え間ない「イラク戦争」が続く場になる。

それが本当に虐殺を止めることになるのかと、逆に問いかけたい。民族虐殺が
起きる場合、宗教虐殺が起きる場合、そこには必ず虐殺に至る過程がある。も
し、本気で日本がそれらを止める役割を果たす覚悟があるならば、非軍事的に
その過程に入っていくしかない。それが出来ないならば、虐殺を止めるための
戦争に日本が参戦しても、成果は挙げられないであろう。日本が行うべき国際
貢献は、米国式の武力行使による「正義」確立ではないはずである。それは、
実は、米国の尻馬に乗る兵力派遣よりも、はるかに困難な政策努力を必要と
し、国民を挙げての合意が必須である。しかし、長期的に、真の国際貢献を達
成するには、イラク戦争の愚を繰り返してはならない。日本の貢献は、非軍事
に特化し、しかし、現在よりもはるかに高度化させる、それが私の考える今後
の国際貢献である。


●東アジアの軍事緊張をどうするのか


 軍事力行使を領土・領海内に限るとして、それで北朝鮮の核ミサイルや、中国
の潜在的軍事力行使に対処できるのか、という批判、あるいは、未だに残る冷戦
構造に対応するためには、とりわけ沖縄の軍事基地強化が急務であるという意見
をどう見るか。
 まず、第一に、日本は憲法を変えて、自衛隊を国軍としようと、あるいは、米
軍との共同作戦を強化しようと、軍事力では国を守れないという厳然たる事実を
直視しなければならない。東京一極集中の是正ということが、50年間に亘り、
地域政策の柱として掲げられてきた。しかし、90年代以降の東京一極集中は、
更に加速してきたことは、「格差社会」問題の一環として広く認知されている。
軍事力でたたこうとするならば、これほど容易な国はない。核兵器など必要ない。
東京に通常爆弾を落とせば、それで日本全国が麻ひする。日本経済は崩壊する。

もし、本気で軍事力による防衛を志すならば、政府は首都機能と、経済機能の東
京集中を、即刻、強制的に分散する政策を採らねばならない。今の東京は、守り
ようのない巨大都市である。その東京に全く手を付けていないのは、表面的な言
説に反して、現今の防衛論が、実は軍事力による国土防衛を真剣に目指していな
い証拠である。改憲論は、日本国民と国土を、いかに守るべきかの考察から引き
出された結論ではない。全く異なる目的=国家主義的改憲のために、東アジアの
軍事緊張が口実に使われているのである。
 
今後予想されるのは、先島諸島での自衛隊・米軍増強である。尖閣・台湾を見
据えて、中国の軍事力に対抗するには、先島に軍事力を展開すべきであるとの議
論が、既に盛んに行われている。東京にとっては、遠い沖縄の、そのまた遠隔地
である。そこでの軍事的緊張は、中国に対する国威発揚手段として、自らには跳
ね返らない他人事として捉えられる。しかし、当事者としての沖縄には、一体何
が起きるか。中国との小競り合いすら、沖縄の観光業を崩壊させることは間違い
ない。9.11後に沖縄で何が起きたか、あるいは爆弾テロ以降のバリ島観光が
どうなったか。実際の軍事的衝突が起きれば、沖縄への観光客は絶無になる。さ
らに、国民保護法制が出来たことで、戦争になっても国民の生命は守られるとい
う建前が信じられているようであるが、仮に軍事的対立が生じた時に、軍の動員
を行う一方で、一体、どうやって10万人以上の先島諸島全住民を迅速に疎開さ
せることができるのか。
 
ここで具体的な提言をする余裕はないが、沖縄は、緊張緩和をもたらすための
積極的な役割こそを果たすべきである。沖縄は、東アジアの軍事対立の前線に置
かれれば、食べていけないという事実をも、見据えねばならない。


●米軍をどう考えるのか


 在日米軍をどう考えるか。ここに私の中の矛盾点がある。私は在沖縄米軍の削
減を求める言論活動をしてきた。最終的には、沖縄の米軍基地は全面撤去される
ことが望ましいと考える。しかし、現在の日本の国内政治環境、対中国、対韓国、
対北朝鮮の関係を考えた時に、米軍の存在は、それが、「居るだけの抑止力」で
ある限りは、むしろ緊張激化を防ぐ役割を果たしているとも考える。米軍が即時、
全面的に日本から撤退する状況を想定するのは非現実的であるが、もし、それが
実現した時に、排外的・復古的ナショナリズムが高まっている中で、日本の「国
軍」が、全ての米軍を置き換える事態を恐れる。

典型的な「瓶の蓋」論であるが、日本が単独で軍事力強化を行う将来は最悪で
あると考える。米軍が引いた後で、日本独自の軍事力を増強しない選択肢を採
るならば良いが、その条件は、日本の国内政治に当分は存在しないであろう。
米軍が抑止力として存在している間にアジア諸国との間で、紛争解決制度・平
和維持機構を構築し、長期的には、米国も含めたアジア・太平洋共同体に繋げ
る努力をする。その中で、軍事力の必要性を下げていくこと。その政策への国
民的合意を作ること。そうした、着実な脱軍事力を目指す方策を採ることが、
沖縄にとり、また日本にとり、実は最も現実的な生き残り策であると考える。
その意味で、沖縄の米軍削減を真っ先に実現させていく必要がある。
 
果たして、「居るだけの抑止力」という役割に、米軍を制約することが可能で
あるかは、どのような基地を認めるかにかかっているであろう。はっきりしてい
るのは、返野古沿岸新基地を建設すれば、それは攻撃目的の基地として使われる
ことであり、米国の政権・政策次第で、新基地からアジアでの、活発な軍事攻撃
が行われるであろうということである。この意味で、稲嶺前知事が一時掲げた海
兵隊の完全撤退という目標は、実は抑止力限定という目的に合致する政策であっ
た。たびたび指摘されるように、在沖海兵隊は、中国に対する抑止力にはならな
いのである。
 沖縄においてだけでなく、在日米軍全体の役割を縮小させること、しかし、そ
の代替としての日本独自の軍事力増強を引き起こさないこと、そのための国民的
合意と、国際環境を作っていくこと。本気で日本の安全とアジアの平和を実現す
るには、これが最善であると考える。その中で、沖縄での新たな基地建設は、絶
対に認めてはならない。


●第9条の歴史的役割と今後


 第9条は、第二次世界大戦後の日本を戦争から守ってきた、あるいは、日本が
戦争に加わることを防いできた、という主張に対して、それは、沖縄が置かれて
きた状況と、その根源である日米安保体制に目をつぶった議論であるという主張
がある。第9条は、沖縄に矛盾を集中することで、県外の日本に恩恵をもたらし
たという批判である。
 第9条があるからソ連は日本進攻しなかったというのは、事実ではない。同時
に、冷戦下、米軍と自衛隊の存在があったためにソ連は日本に侵略しなかったと
いう理解も単純に過ぎるし、ソ連が何のために日本を攻撃・占領しうるのかを考
えると、時代が下れば下るほど、その想定は、軍事上も政治経済上も、非現実的
であったと私は考える。

 しかし、問題は、第9条擁護を主張し、日米安保を批判する政治勢力の中心が、
ソ連や中国、あるいは北朝鮮を規範と考えていた点にある。ソ連の崩壊、中国の
市場経済化のより、共産主義経済体制は信ぴょう性を完全に失った。にもかかわ
らず、親ソ・親中思想の下で、それらの共産党一党独裁体制への批判は80年代
半ばに至るまで一貫して弱いままであった。現実の共産主義経済が崩壊したこと、
ソ連が崩壊したことで、この問題はご破算になったかのようである。
 
しかし、そこでの総括を怠ったことが、今、「護憲」勢力が全くの劣勢にある
大きな理由であろう。なぜ、ソ連や中国を理想化し続けたのか、いつの時点でそ
の過ちを明らかにすべきであったのか、彼等の第9条擁護は、ソ連、中国、北朝
鮮と、どのような関係にあったのか、そうしたことがらは、理論上の議論として
はなされたであろうが、現実政治の中では、終わったこととして放置されてきた
のではないか。日本社会党が解体したからといって、その責任は霧散するもので
はない。私が第9条の問題に関して完全な「護憲」の位置に立てない理由の一つ
は、ここにある。今となっては、この議論には、もう意味が無いかもしれない。
しかし、この総括をすることからやり直さなければ、「護憲派」の説得力は回復
できない。

 では、第9条は、破綻した共産主義を信奉する人々が掲げた、破産した理念な
のだろうか。第9条が果たした役割で最大のものは、東アジアにおいて日本が軍
事大国に「なれない」◎となったことである。「なれない」は、「ならない」とは
違う。日本は、戦後60余年で、遂に「ならない」主体的選択をしなかった。軍
事大国には「なれない」、なぜならば第9条があり、日米安保の枠があるために、
他律的に「なれない」のである。第9条を内面化し、「ならない」選択を自律的
に行ってきた結果ではない。したがって、東アジアの軍事状況が変われば、「な
る」選択に変えることには、大きな抵抗が無い。第9条を内面化し、軍事力によ
らない国の「守り」を、ぎりぎりの努力で作り出していく、そのような自律的な
決断は、遂になされなかった。

沖縄への米軍基地集中に、自らの問題として直面してこなかった大きな理由
も、ここにある。第9条を、自らの手を汚さずに済む御守としてのみ考えてき
た人々が、あまりにも多かったのではないか。第9条は内面化されてこなかっ
たと考えざるをえない。 そうではあっても、第9条が◎
として機能したことの積極的な意味は否定しえない。また、今後の日本が、軍事
力によらない外交・紛争解決をしていくという、将来に向けての指針にはなりう
ると思われる。一方、日本は米国の庇護の下で、第二次世界大戦の「責任」から
目を背けることが可能であったが、この問題においても、戦後共産主義の影響力
とその破綻が、「戦争責任」問題を歪めていることは間違いない。中国や韓国・
北朝鮮に対して、日本が行ったことの責任を認識することと、それらの国の現在
を全肯定すること、あるいは賛美することは、本来、全く別である。しかし、責
任を直視しようとする人々と、中国や北朝鮮を支持する人々が、重なっていたこ
とで、今日、日本では、過去の責任を自ら問うことが「自虐史観」であるとされ、
強く批判されるようになった。

 私は、自分の国である日本を、英・仏・スペインのような、自己の植民地主義
が、他地域に引き起こした歴史的惨禍に頬かむりするような、恥知らずな国にし
たくない。私の「愛国心」は、日本が歴史の責任を背負って行くことを欲する。
それをして、初めて、中国や北朝鮮が現在抱える問題を批判する有効な足場を持
つことができるはずである。そして、それが出来るまでは、第9条の◎が未だ必
要であると考える。そして、その後に、軍事力によらない平和構築を目指す上で、
また、復古主義に引きずられない、全うな日本の将来像を構想する上で、第9条
を内面化し、止揚することが必要なのである。
                     (筆者は沖縄国際大学教授)

○追記
  オルタ」に始めてご寄稿いただいた佐藤教授はアメリカに1985年から
2002年まで在住された。主著は『米国議会の対日立法活動――1980年~90
年代対日政策の検証』で米国政治と地方自治を専門とされる気鋭の政治学者
である。ブッシュは、自ら不条理なイラク戦争を始めて泥沼にはまり、大統
領選挙での共和党の敗北も必至の模様であるが、奇しくも、佐藤教授は2004
年11月号の雑誌「世界」で大統領選挙を直前に控えた米国の社会状況を『ブ
ッシュ優勢のなかでー米国社会の今を考えるー』という論文を発表されたア
メリカ研究の第一人者である。

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