【オルタの視点】

戦争というもの(2)
― 個人としての戦争への思い ―

羽原 清雅


 今回はきわめて個人的な戦争前後の体験を書きたい。
 「オルタ」前号に紹介した命がけの戦争体験に比べて、私的なことであり、きわめてささやかな経験なので、書いたものかどうか迷った。ただ、戦争下の体験や思いは一人ひとり、それぞれの環境や年齢によって異なるものであり、小学生前後の幼い世代にも、それなりの「戦争禍」が及んでいた、という証言があってもいいか、と思い直した。

 筆者は昭和13(1938)年9月、東京・新宿に生まれ、育った。終戦の同20年4月、国民学校1年生となり、8月に終戦を迎えている。以下、記憶するままに具体的に記していきたい。

<戦前>

・献納 6歳ころだっただろうか、近くの小学校校庭に、乳母車や門扉、鍋釜などが雑然と大きな山状に積み上げられ、すごいなあ、と感じた記憶が鮮明に残る。各家庭が献納したものだ。町内会を通じて、それぞれに知らせが届いたのだろう。いま思えば、物資のなくなった敗戦に近づくなかでの、あがきに思える。ただ、その協力が国家への忠誠だったと考えると、決して強制による行為ではなく、最後まで戦おう、戦地で命をかける兵士たちへの国民の支援と感謝の表明だったのだろう。戦争には、そうした国民の一体性を生み出すものがある。

・召集 同じころ、召集令状を受けた大学生の異母兄が、我が家に軍服姿で現れ、長刀を抜いて見せてくれた。ゲートルというものに興味を持ったら、防空頭巾とともに、母が作ってくれた。今でいうなら「カッコいい!」雄姿だった印象がある。さいわい、彼は外地に出ることはなく、戦後は高校教師として長寿を全うした。

・軍歌 町内から、出征兵士が出ることがあり、日の丸の小旗を振る割烹着姿の女性や年寄りらに送られる様子を見た。にぎやかで明るかった。「勝ってくるぞと勇ましく」「ちぎれるほどに振った旗」「海行かば水漬く屍、山行かば…」「月月火水木金金」「エンジンの音轟々と」などの軍歌は、意味もわからずに戦後も歌うことができた。悲壮感というか、高揚感というか、戦争というものを美化し、誘い込む魔力があった。

・縁故疎開 空襲が次第に増えていく終戦の1年余前の昭和19年、相模湾のある神奈川県二宮町の農家を頼って、姉と2人だけで縁故疎開した。海浜の大きな松を根から掘り起こし、松脂をとるために木を燃やしていた。越冬用に落葉を掻き、サツマイモを穴に埋めた。苗代を作った。当初は、豚も1頭いた。海に行き、魚の水揚げを見た。いろりの鉄鍋には、魚が煮込まれ、納屋のカマスには地元産の小粒のミカンがあり、食べ放題だった。トイレの紙は新聞紙で、びっくりした。
 戦争をよそに、なんとなくのどかな農村の風景があった。都会生活にはない、農業の自然の営みを体験できたことは、今も忘れられない。

・戦争の遺産 この地に、戦争がらみの、ふたつの文芸作品が生まれている。
 ひとつは、二宮町に疎開して、父を米軍の機銃掃射で失った高木敏子(1932—)が書いた戦争体験記『ガラスのうさぎ』(1977)。ブームになった感動の書だ。いま、二宮駅前に平和祈念の像が建つ。彼女の疎開先がごく近かったことを、のちに知った。
 もうひとつは、山川方夫(1930—65)の「夏の葬列」(1962)。日本画家だった父親の別荘がこの二宮にあり、その付近で機銃掃射を受けた少女とその後を題材とした。優れた小編で、心に残る。二宮沖の相模湾は、海から陸地を攻撃する米軍の格好の場所。長じて沖縄戦の状況を知り、戦闘が激化していたら、この地で死んでいたか、と思った。
 山川は34歳の若さで、二宮駅そばの横断歩道で交通事故に遭い、亡くなっている。

・学童疎開 疎開先の二宮町を離れ、実家に戻って近くの小学校に入学。と同時に、学校ぐるみで学童疎開に出された。行先は栃木市の圓通寺で、地元の小学校へ。寺では毎晩、布団の縫い目にはびこるシラミ取りが日課。クレゾールの入った小瓶に丹念に入れる。
 空腹続きで、順番に米粒の密集度の高いオコゲを弁当に詰めてもらうのが楽しみなのに、ある日これを上級生に盗まれた。学校には、兵隊らが詰めており、朝昼晩と大釜にコメを炊き、みそ汁を作っていて、その匂いがたまらない。これが、子ども心に軍隊を嫌うひとつの理由になった。4年生がひとり、東京まで歩いて脱走した。みな、とにかく親が恋しかった。

 ボール紙にガーゼを張り付けたようなランドセルを背負ったが、疎開児そろって走って登校の途中、おはぐろトンボの飛び交うあぜ道で、肩のベルト部分がちぎれて教科書などが散った。泣くしかなかった。
 当時も、いじめはあった。大柄な大将格の6年生が、ややのろまな感じの5年生くらいの男子に、ドンブリについだ水を無理やり飲ませているのだ。みな、見ているだけ。6年生の姉も、なにも言わず、止めようとしなかった。
 昨年、この寺を訪ね、伽藍や居間、庭園の池などを見せてもらったが、ほとんど変わっておらず、70年余の歳月を超えて、当時のシラミ取りなどの悪夢が、少し懐かしくよみがえった。

<戦後>

・カラの遺骨箱 終戦から間もなく、母の実弟(筆者の叔父)の遺骨というものが届けられた。詳しくはわからないが、中はなにもなかった、という。この叔父は、豊島師範在学中に「アカ」呼ばわりされて招集、旧満州の牡丹江で死んだ、という。
 母は、この死によるだけではなく、日ごろから「戦争はだめ!」「何もかも壊してしまう」と言い続けていたことが心に残る。

・帰京 疎開先の栃木から戻ったのは9月初めだった。押し合い圧し合いの東武線で浅草につくと、いわゆる浮浪児の群れ。大きく広がる焼け跡。風呂屋の跡では、鉛管から水が飛び散っていた。さすがに、もう焼死体などはなかった。
 なんと、筆者は栄養失調と診断された。卵や牛乳など、めったに手に入らない。なぜか、カボチャの花を10以上も、ミソをつけて食べるのが日課にされた。さらにレントゲンの結果、肺結核の疑いがあると言われたが、器械の写りが悪く、黒ずんでいたためだ、とわかり、両親はやたらに喜んでいた。

・住 疎開先から戻ると、自宅はすでに、B29の空襲による延焼防止のために強制撤去されていた。家なし、である。そのため、一時は小学校の裁縫室を間仕切りし、2、3の家族が同居した。住むところが見つかるだけ、運が良かった。フクシマの原発事故のとき、郷里を棄てさせられた人たちの途方に暮れる姿を見て、思い出した。
 3階の部屋から、真っ暗な学校の廊下を通って、1階のトイレに行く。停電が連日のように多く、懐中電灯などはなくて、この暗さと心細さは忘れがたい。とにかくまだ1年生なのだ。
 気の毒に思った母親の知人が親切に、部屋を貸してくれた。炊事は野外、食事は壊れかかった小屋。うるさくしないように、ときつく抑えられた。その後、さらに2ヵ所を転々とした。

・食 とにかく食べ物がない。父親に連れられ、小岩あたりの農家に出かけて母の着物と、イモなどと交換してもらう。小さなリュックサックに詰めた。挨拶する親が卑屈に見えた。
 焼け跡にカボチャを植える。姉がコヨリに日付を書き、取り入れ時を見守る。水っぽいカボチャが毎食のように出され、押し入れには何十個も積まれていた。カボチャは今も食べたくない。食用になるアカザなど、道端の雑草もとった。
 ブリキを張った即製のパン焼き器で、フスマ入りのパンを焼く。米の配給は乏しく、腐りかかったイワシがバケツ一杯配給されるのだが、臭くて口に入らない。たまに入手できた玄米をビール瓶に入れて、棒で突くのが子どもらの仕事だった。

・衣 皆が着た切りスズメの状態だった。風呂も、冬場はドラム缶を活用したもの、夏は蚊の襲来におびえながらの行水だ。姉も同じだった。洗濯だけは何とかしてくれていたようで、いたずら盛りで汚しがちだったが、叱られなかった。部厚な毛布を加工したオーバーを着せられ、いやでたまらなかったが、親の気遣いにそんなことは言えなかった。
 青洟を垂らす子どもが多く、拭いた袖の光ったのも目に付いた。

・学校 疎開から戻ると、入学した学校は空爆を受けて、跡形もなかった。しばらくすると、その校庭の跡地に、掘っ立て小屋の被災者住宅が建ち、学校が復活するまでには10年以上かかることになった。筆者は、1年生の2学期から焼け残った近くの小学校に転校し、そこで卒業した。その校舎には一時、都立4中(現戸山高校)が間借りしていた。
 雨が降ると、欠席する子どもが増えた。子沢山の時代だし、傘は貴重品でもあって、末っ子にまで傘が用意できないのだ。
 また、給食などは当然なく、昼時になると「うちで食べてくる」と言って、校庭で遊ぶ子も何人かいた。弁当が持てず、我慢していた。親が最もつらかっただろう。脱脂粉乳のミルクがユニセフから届くのはもっとあとのことだった。

 終戦から3、4年経つと、疎開や外地から東京に戻る人々が増え続けて、教室は5、60人も詰め込まれ、前の席は白墨の粉が舞い、通路が取れないので机やいすを踏んで自席につくなど、昨今の30~35人以下の教室など夢のようだった。
 そのために、午前午後の二部に分けた授業も行われた。居間の広い家庭に数人ずつ集まって勉強し、そのあとで学校に行って授業を受けるのだ。
 やせた子が多かった。勉強を強いるゆとりなど親になく、遊ぶばかり。叱られながらも、電車のレールに釘を敷いてつぶし、それを地面に刺し合った。焼けた風呂屋のタイルをはがして、収集した。ビー玉やメンコの普及は、しばらく後だった。

 女子医大、旧陸軍病院の解剖室の窓ガラスが壊れ、覗くと水槽の遺体が何体も見えるので、怖さ半分で出かけて行った。飯田橋駅そばの濠に、するめの足を結んだ糸を垂らしてザリガニをとった。
 学校のプールが使えるようになるのは数年後だったが、夏休みに泳ぐと、必ずトラホームや結膜炎になり、連日の眼医者通いでクラスの仲間とぶつかることが多かった。治って泳ぐとまた眼医者行きとなり、ひと夏にいくらも泳げず、上達のチャンスがない時代でもあった。

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 戦時下で、戦闘に参加させられた人々、内地で苦労に苛まれた人たち、そして命を奪われた多くの犠牲者からすれば、たいした経験ではない。そのことは承知している。子どもにして、これだけの苦労をさせられた戦争というものを、今の若い世代に知っておいてもらいたい、と思う。

 今もクラスメートが集まると、「みんな貧しく、それぞれの貧しさがわかっていたので、仲が良かった。いじめもなかったし、勉強や成績などは二の次だったなあ」とよく話す。戦争のくれたメリット、というのではない。無駄な戦争をせずに、互いの生命と存在を理解し、尊重しあえば、苦境の中にも「平和」はあるし、努力次第で実現可能だ、ということである。

 次号では、戦争というものがどれだけの生命を奪ったか、検証してみたい。

 (オルタ編集委員、元朝日新聞政治部長)

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