戦争というもの(4)

羽原 清雅

 戦争に至るには、その前段の「準備段階」がある。
 社会的低迷、景気の不調、産業界の期待、世論の不満、敵対勢力の設定と嫌悪的イメージのあおり、国際的な緊張、権力者の驕りと狭隘な思考、為政者の軍事予算や増強優先の姿勢、迎合右翼勢力の跳梁、野党勢力の内部的混迷、さらに和平努力の軽視と対決姿勢の先行などなど。

 為政者たちは、戦争の「大義名分」を考える。その方向が示されると、作家や学者、芸能界など著名人が支持の論を述べる。メディアは客観の域を超えて、愛国の論調を書きたて、事態を長期化させ、本質を見えなくさせる。戦争を機に稼ぐ機会を得ようと、企業集団や不純な団体が権力の背後で動く。経済も世論の流れも、いったん方向性が固まると、容易には止めることはできない。
 ひとたび戦闘ともなれば「勝つこと」しかなく、勝てばその「成功」「戦利」を喜び、大半の国民のあいだに熱狂を生む。ポピュリズムはますます高まっていく。
 そこには、軍人軍属、まして民間の戦争犠牲者が発生することへの思いはほとんどない。戦争の残すマイナスには目がとどかない。死者が出ても、礼賛の儀礼によって遺家族の悲しみを惑わす。そこにあるのは、「国家」であって、「人間」は存在できない。ポピュリズムの変わり身は激しく、責任を問うことのできない存在であるところに難しさがある。

 そして、戦後には必ず恐慌が襲う。急激に膨張した経済規模は、終戦によって縮減せざるを得ない。生産の低迷、失業、生活苦、また政治運営への不満などが生じてくると、ふたたび戦争による復調へ、との期待を生む。産業界は、消耗度や経済効率の高い砲弾、戦闘機材、艦船、戦闘機などの軍需と、その波及効果に景気回復を念じて、為政者への工作に走り、環境整備に努める。
 若干の反対論は、眼の見えない大勢の世論と、官憲の圧迫によって消えていく。戦争礼賛の風潮が強まると、メディアは次第に狭隘な愛国心を煽り出す。為政者は国家の情報統制、異論弾圧の法令や統制装置を強めると、メディアも追従せざるを得ず、おのれの首をおのれで絞めることになる。
 ポピュリズムが反省するのは、敗残し、多くの犠牲を払ったあと。だが、それもいつしか忘れられて、若返った為政者とともに昔の道を歩き始める。

 この繰り返しが、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、日中戦争、そして第2次世界大戦を生んだ。ブレーキはかからず、多くの犠牲者を出す。国民の生命・財産を守るという、いわゆる国家の使命に大きく反する統治を進めてきた。これが、戦前の長い時代を覆ってきた日本の現実だった。
 単なる教科書的な簡単な整理で恐縮ながら、もう一度、戦争の歴史的実相を振り返り、若い世代に伝えることができれば、と思いつつなので ご海容を。

◆◇〔日清戦争〕1894~95年

●江華島事件と日本の軍略  日本側が江華島事件(1875・明治8年)を仕掛けたのかどうかはとにかくとして、これが朝鮮への第一歩の争いだった。
 日本が朝鮮海域で海軍の演習や海路測量を進めたことが挑発にもなって、朝鮮側が砲撃の挙に出て、日本は結果的に朝鮮の開国、3港開港による通商貿易、一方的で不平等の領事裁判権の規定などを手にしている(日朝修好条規)。この江華島事件を機に、日本は朝鮮の独立を認め、代わりにそれまでの清国を宗主国とする関係を否認。このことは宗主権を握ってきた清国と対立することでもあった。
 85年の天津条約では、日清両軍の撤退、出兵時には互いに事前通告をすることになった。

 ここで、日本の対朝鮮、対清国の取り組みを整理しておこう。
 明治新政府は、すでに戦争経験を持っていた。台湾で54人の琉球の漂流漁民が殺害され、日本側は出兵して清国から約77万円の賠償金を取り付けていた(74・同7年)。翌年には、琉球の清国への朝貢を禁じ、琉球処分につなげている。ここで、戦争のメリットを感じるとともに、朝鮮の宗主国である清のもろさを感じただろう。
 底流には「征韓論」があった。これは明治期早々、強国論に立つ西郷隆盛、板垣退助らが主導し、結果的に殖産興業による富国論の推進を主張する大久保利通らに敗れて、反主流派の西郷は下野(73・同6年)して、西南戦争(77・同10年)につながっていく。
 しかし、この征韓論の流れは消えず、いわばいつ発動するかの違いだけで、いずれは朝鮮への進出を、という思いは主流派にも生きていたのだろう。今も人気を誇る西郷だが、政治行動については冷静に見なければなるまい。

 1878(明治11)年の参謀本部設置とともに初代本部長になる山県有朋は、すでに「清国脅威論」を唱えており(80・同13年)、根底に脅威の存在を開戦の契機とする考えを持っていた。
 藩閥政府に反対する自由党総理の板垣退助も、もとは西郷らとともに征韓論を主張しており、「東洋の大勢上より我国の形勢を鑑みれば、軍備拡張は万已むを得ざるなり。したがって国庫の支出を要する事も、また万已むを得ざるなり」として軍備拡張、増税新税による軍拡予算を認めた。政府自体も、それまでの行政費削減、地租軽減の政策を棄てて、積極財政に転換している。

 明治新政府の軍事的な取り組みを見ると、徴兵令を決め(73・同6年)、軍人勅諭をつくり(82・同15年)、3度の改正を経て国民皆兵制度を確立していた(89・同22年)。この89年は、大日本帝国憲法の公布の年で、「天皇は陸海軍を統帥す」とする天皇主権の体制を整えている。
 憲法の公布に先立って、山県有朋首相は帝国議会の施政方針演説で、国家独立自衛の道として、第1に「主権線」の守護、第2に「利益線」の保護、と発言した(88・明治21年)。つまり、主権線は国内を守ることで、利益線は他国である朝鮮の保護を意味する。

 当時、列強諸国の清国侵略の帝国主義が強まろうとしていた。また、ロシアは満州から朝鮮半島への南下を狙っていた。そこで、清国を宗主国とする鎖国状態の朝鮮を、日本も保護にあたることが必要、との見方が生まれ、「利益線」という発想が台頭した。本音は朝鮮を確保して利益を得よう、ということである。この指針が、朝鮮をめぐる「日清戦争」の大義名分になった、と言えよう。

●朝鮮混迷の弱みと日清戦争  日清両国対立の舞台となったその朝鮮では、身内の権力闘争が続き、そこに清国、ロシア、日本という外国への傾斜が絡んでいた。壬午事変(82・同25年)、甲申事変(84年)、甲午農民戦争(東学党の乱/94年)と混迷が続いた。
 この反侵略・反封建の東学党の乱は各地に波及、朝鮮政府はこの鎮圧のために清国に出兵を要請、そこで日本も日本居留民の保護を名目に、直ちに24万の兵を派遣した。
 両軍は当然、にらみ合いとなる。7月には豊島沖の海戦が始まり、海軍は制海権を握り、陸軍は平壌を占領、さらに鴨緑江を渡って遼東半島を制圧、95年には山東半島の威海衛を攻撃して、清国の北洋艦隊を全滅させた。

 日本の予想以上の勝利ではあったが、開戦の決定に至るまでには、懸念を持つ明治天皇、当初慎重の伊藤博文首相らに対して、外相の陸奥宗光が民衆の反乱の鎮圧、内訌変乱の将来的な予防、を主張して対清国開戦論を説いていた。日本にとって、この初めての大きな戦争に十分な勝算は持てなかったのだろう。
 また、開戦前に、政府が韓国の日本公使館に命じたのは「曲ヲ我ニ負ハザル限リハ イカナル手段ニテモトリ 開戦ノ口実ヲ作ルベシ」というものだった。戦争の大義名分自体、そのような黒い影を帯びていたのだった。

●下関条約と3国干渉  95年3月、日本が勝利して下関で全権の李鴻章と講和条約を調印、朝鮮の独立を清国が認め、日本は清国から遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲させ、巨額の賠償金を手にした。
 だが、露独仏3国は遼東半島の返還を日本に要求、まだ力の弱い日本はこの要求を受諾せざるを得なくなる。いわゆる「3国干渉」である。
 日清戦争後、親ロシアの閔妃が日本を排して政権を奪還すると、日本公使三浦梧楼の扇動により、日本人壮士らの手で閔妃を殺害する(95・同28年)。三浦は罪を問われるどころか、その後、政界に隠然とした発言力を持つ。
 当時のこととはいえ、国際的には許されない覇道が横行することになった。

●陶酔のあとに  2億2千万円の戦費に対して、清国から得た賠償金は約3億6千万円。戦争は儲かるばかりか、揚子江沿岸の重慶、蘇州などを開港させ、台湾や澎湖諸島を割譲させて植民地を持つ大国になった。
 巨額の資金はまず、陸海軍の拡張(陸軍師団の7→14への倍増、海軍の戦艦4、巡洋艦6の建設計画)、臨時軍事費の繰り入れに使われる。官営の八幡製鉄所の建設、鉄道の敷設や電信電話の普及、日本勧業銀行など金融機能の整備、金本位制の確立(97・同30年)といった殖産興業や、帝国大・高専・実業学校・高女など教育環境の整備、さらに台湾、朝鮮という植民地経営などに使われた。この限りでは、戦争商売、捨てたものではない。

 日本の資本主義を成立させ、近代化の促進剤になったことは間違いないが、戦争国家に進む土壌を拓く大きな契機になった側面を見落としたくない。
 そして、なによりも明治維新から30年足らずで、国際的な地位を確保した意義も大きかった。
 だが、そうした国民的な高揚のなか、下関条約で手に入れた大陸の遼東半島を、ロシアを中心とするドイツ、フランスの3国干渉によって返還させられる事態は、戦勝に酔った国民を激高させることになった。ロシア許すまじ、として「臥薪嘗胆」が合い言葉になり、これがその後の対ロシア関係の底流となり、10年後の日露戦争につながっていく。

●戦争の経済的側面  この戦争までの日本の財政に占める軍事費の割合は30%前後だったが、戦争勃発の1894年度の軍事費は69%、翌年度は65%を占めた。
 また、戦後の1900年から翌年にかけて、相次ぐ企業の勃興と株価の高騰の反動によって企業の倒産、銀行の休業が発生、主要産業の紡績業で操業短縮などを招いた。ちなみに、八幡製鉄所の操業はそんな不況期の1901年だった。
 戦争に要したのは戦争継続期間10ヵ月で約2億2千万円だったが、その負担は先行き長く負い続けなければならない。戦争はそういうものだ。その事情は、戦争のない昨今でも、国際緊張を喧伝することによって軍事関係予算が膨らんでいく状況となんら変わっていない。近年の予算編成でも、その影響は一般の教育、福祉、学術研究などの予算の削減にしわ寄せされている事実を考えればわかりやすいだろう。

 戦後は、軍備の増強と工業化の設備の拡大が進められた。97年にはそれまでの銀本位制から、清国の賠償金を準備金として金本位制の採用に切り替えられる。円の国際的価値を安定させ、外資の導入を図るためで、これにより戦後経営の財源を確保していくことになった。

●藩閥政治と政党の関係  明治憲法制定(1889年2月発布)直後で、立憲政治未定着の時期の政治状況はわかりにくいので、その流れを簡潔に触れておきたい。日清戦争に至る前夜の状況である。

 立憲前の政治は、薩長を中心とする閣僚、官僚が実権を握る藩閥政治が続いていた。90年、最初の衆院選が行われ、自由党、立憲改進党といった反藩閥をうたう「民党」が台頭、政府寄りの「吏党」は少数派だった。すでに憲法制定直後には、黒田清隆首相、伊藤博文枢密院議長は、政府は政党の動向に制約されることなく、いわば黙殺というべき「超然主義」の政治姿勢をとった。
 このためひところは、藩閥政府が軍事力増強の予算案を出しても、民力休養・政費削減をいう「民党」が多数を占める帝国議会では反対や否決が多く、その打開策として一部議員を切り崩したり、衆院解散に訴えたり、天皇の証書によって予算を成立させたりしていた。

 とはいえ、政党の大きな存在は超然主義では対応しにくくなり、戦争直前の93年ころから変化していった。山県有朋らは反政党の姿勢を続けたが、伊藤博文らは政党と妥協して議会を動かす方向に向かい、反政府的だった自由党なども官僚の必要性を感じ、財界関係の期待に添うべき事情もあって、妥協的な姿勢に変わっていった。
 日清戦争後に政府は、軍事増強などの税収増を求めて地租増徴案を出すが、地主層を基盤とする旧自由党が母体の新憲政党はこれを受け入れた。さらに98年には短期間ながら、初の政党内閣として大隈重信、板垣退助の、いわゆる「隈板内閣」が登場している。

●好戦世論の喚起  為政者が戦争の旗を振っても、それだけでは世論はついてこない。ひとつは「大義名分」の説得性だが、もうひとつは戦争機運を高めるための知識階層によるプロパガンダが必要だ。
 キリスト教指導者の内村鑑三は、この戦争を欧州列強に対抗するための「義戦」として正当性を主張した。もっとも、彼は日露戦争では、開戦に反対して非戦論に転じている。
 国民新聞の徳富蘇峰は海外膨張論を説いた。また、若い泉鏡花も「予備兵」などを執筆して盛り立てた。福沢諭吉は「文野の戦争」として文明対野蛮の闘いとし、朝鮮、清国への蔑視を誘った。新聞では「支那人の迷妄」「満州人の無智」などと書いた。この著名人らによる正当化の論理が、国民各層を戦争の容認に持ち込む説得力になる。
 大衆には、川上音二郎の壮士芝居が大人気で、戦争機運を高めることになった。

 戦争熱が高まると、民間に私設の義勇軍結成の動きも出て、ヤクザまでが志願する始末。義捐金や物品の献納の動きも高まった。
 「死んでもラッパを離しませんでした」で、小学校の修身の教科書にまで載った木口小平をはじめ、勇猛な兵士や将官の礼賛が続く。勝利や凱旋のイベントが政財界や新聞社などの手でこぞって行われる。子どもの遊びも戦争ごっこ一色、サーベル、ラッパ、鉄砲などが大人気で、絵本や雑誌も派手に取り上げる。軍歌も大いにうたわれた。
 戦争の犠牲になった兵士たちは靖国神社に祀られ、各地に巨大な鎮魂の記念碑が建てられ、本人や家族の悲しみをよそに、あるいはそうした感情を押し殺すかのように、戦争による死を讃えあげた。

 「戦争は最大の教育なり」と新聞が書いたように、教科書などは正義の戦争の宣伝、勇敢な軍人の礼賛、国家への奉仕・忠勇の大切さを取り上げた。これは、貧富の格差などを超えた国民の一体感を醸成することに役立ち、また偉大な天皇の存在、忠君愛国の思考を徹底させることになった。

 なお、藤村道生の『日清戦争』(岩波新書)では、この戦争について「以後五〇年にわたる日本帝国主義の中国侵略戦争の発端をなすものであり、一九五四年の日本帝国主義敗北にいたる日中五〇年戦争の第一次戦として位置づけられるべきである」と締めくくっている。

◆◇〔義和団の乱=北清事変〕1900年

●義和団の変と北清事変  日清戦争と日露戦争の10年の間に、北清事変がある(1900・明治33年)。日本が帝国主義に染まり、他国に侵出していく大きなステップの戦争、と言えよう。
 ドイツの進出が激しくなった山東省では、宗教性の強い拳法を扱う秘密結社・義和団が列強帝国主義に反発、「扶清滅洋」のスローガンを掲げて武装蜂起し、華北一帯に進出、ついには北京にまで攻め上った。鉄道の破壊、キリスト教会の破壊、信者らの殺害など、次第にその取り組みは拡大していった。

 中国民衆の立場に立って考えれば、列強の横暴な侵略に手も出せず、内面にこもった怒りが義和団の蜂起によって爆発、見境のない行動に走らせた、と言えよう。民族や宗教の誇りは、時に想像もつかない暴動や虐殺などに駆り立てるが、そのことの非と合わせて、武力など優位に立つ者の、相手への想像力が働かないこともまた責められなければならないだろう。戦争根絶には、強者が偏狭にとどまることなく、包容力ある判断力が求められるのだ。

 日清戦争以来、急激に力を落とした清国・西太后は、この義和団のエネルギーに頼ることで列強諸国に対して宣戦布告を出す。国内問題のはずが、対外的な挑戦との印象を与え、戦線をさらに広げることになった。

●日本帝国主義の成立  この内乱状態の鎮圧に乗り出したのが、英米仏露独伊墺の欧米7列強と日本の8ヵ国連合だった。アジア唯一の日本は、ロシアを警戒する英国の要請によって、総勢7万2,000の兵力のうち、3割を占める2万2,000の軍隊を派遣した。
 日本国内では、イギリスと組むか(日英同盟)、ロシアと組むか(日露協商)の両論があった。日清戦争後のロシアとはまずは平穏な関係にあったという選択肢だったが、イギリスは露仏の接近を警戒し、反ロシア感情の強い日本に接近してきたこともあり、日本はイギリスとの関係強化を選んだのだった。世界制覇を目指すイギリスは、東アジアでの軍事力を日本に期待し、朝鮮や大陸に目を向ける日本の狙いとも合致したのだ。これが、このあとの日英同盟の締結となり(02年)、「アジアの憲兵」といわれたように日本の国際社会のデビューにも役立ち、日本の帝国主義を成立させることにもなった。

●「眠れる獅子」が「生ける屍」に  日清戦争に敗れた清国は、国内改革に迫られる一方、列強諸国からはやりたい放題の仕打ちを受ける。列強による中国の分割、である。辛亥革命による清国滅亡の10余年前である。
 アヘン戦争(1840-42年)、ペリー来日(53年)、アロー号事件(56-60年)、インド・セポイの反乱(57-59年)、そして太平天国の乱(51-64年)と、産業革命を経た欧米先進国では、産業の販路を広げ、国富を確保しようと、遅れたアジアへの進出の機運が高まるばかりだった。その行動は、後進諸国への蔑視、軍事力による脅迫、無軌道な侵略など、傍若無人の帝国主義思考そのものだった。
 英国、ロシアよりも中国進出の遅れたドイツは1897年11月、同国の宣教師2人が殺害されたのを機に、膠州湾を占拠、99年間の租借地とし、山東省一帯に権益を広げていった。

 列強の侵攻について続ける。
 ドイツの膠州湾租借を知ったロシアは、清国に対して「安全保障」を条件に旅順、大連の25年間の租借を飲ませた。
 ロシアは1896年、日清戦争の対日賠償金の借款供与をフランスとともに受け入れ、代わりに露清密約を結び、満州の権益を握ることになる。この際、下関条約締結に臨んだのは、清国の閣僚に当たる欽差大臣の李鴻章。彼はロシア側から50万ルーブルの賄賂をもらった、とされている。戦争の裏側の悪事、はこのようなところでも見受けられたのだ。
 イギリスは、ロシアの租借に怒るが、98年に自らも山東省東部の港・威海衛を租借する。イギリスはアヘン戦争のあと、香港対岸の九龍を租借し、揚子江一帯の権益を手に入れていた。フランスも同年、広州湾の租借に成功、広東、広西、雲南の各省に影響力を持ち、さらにフランス兵殺害を機に租借地や利権を伸ばしている。
 中国はズタズタの扱いを受けたのだ。そこに、被害者の怒りが渦巻いても不思議はない。

 戦争の発端として、軍部等の手で事件をでっち上げて、偽りの戦乱の契機を作り上げる。さらに正当化するための大義名分を設定する。イラク戦争時の発端、そしてアメリカに追随した日本などの諸国の対応を思い出したい。
 このことを忘れてはなるまい。次号で触れよう。

◆◇〔日露戦争〕1904~05年

●憎しみがベースに  日清戦争、北清事変の際にも、背後に満州、朝鮮半島に向けて不凍港を求めるロシアの存在があった。この戦勝によって朝鮮半島の支配権をほぼ手にした日本は、さらに中国大陸への進出が課題だった。ロシアとの利害関係を見ると、日本としては、3国干渉によって遼東半島返還を受け入れざるを得なかったことが怨念となり、「ロシア憎し!」「いつかは!」の思いが国内に充満していた。そのことが、この戦争の背景にあった。

 さらに、日本は自らの戦力を過大に自負するようになり、清国自体のもろさが敗因であることを十分に分析できていなかった。
 それでも日本は戦勝後、陸海軍の装備を強化し続けたこともあって、ロシアに対しても強気の気構えが濃厚だった。いわば、日露戦争に臨む「大義名分」を立てる以前に、戦争に持ち込む状況がすでに備わっていた、と言えるだろう。

●戦争歓迎の機運  日本国内は次第に戦争を歓迎する好戦ムードが盛り上がっていった。
 その大きな支柱になったのが、戸水寛人、寺尾亨、小野塚喜平次東大教授ら7法学博士の、桂太郎首相への建議書だった(03年6月)。韓国を確保し、満州をロシアに引き渡すな、開戦も辞さない、という強硬な態度表明だった。著名な人物の主張は、ロシア憎しの風潮を大いに刺激し、こうした論議を大義名分にして戦争を受け入れるムードが高まっていった。
 当時、満州をロシアが、朝鮮(韓国)を日本が、というロシアと妥協する満韓交換論、ロシアの動向を警戒するイギリスと組むロシア牽制策などが出ていたが、すでに前年に日英同盟ができており、ロシアへの対決機運があおられる風土もできていた。

 当時の大衆紙「万朝報」は当初開戦反対の論陣を張ったが、社主黒岩涙香の転向により、幸徳秋水、堺利彦が退社して「平民新聞」を興した。日清戦争を支持した内村鑑三も、このころは戦争反対を主張して黒岩のもとにあったが、幸徳らとともに退社している。
 若い石川啄木は開戦の直後、「(この戦争は)戦のための戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為に戦ふのである」と書いた。一方で、与謝野晶子の著名な「君死に給うこと勿れ」と出征した弟を思う厭戦歌に対して、詩歌人で随筆家の大町桂月は「国家観念を蔑視した危険なる思想の発露なり」と論争を挑んだ。

 激戦の旅順を1万5千の兵士の死によって陥落させた乃木希典は、2人の子の戦死に遭い、哀しみの一方で長く讃えられることになった。広瀬武夫中佐の死も悲劇よりは、英雄としての礼賛になった。
 真下飛泉の、ここはお国を何百里…の「戦友」をはじめ「出征」「征露の歌」などの軍歌が風靡し、戦後には少将にまで昇進した櫻井忠温の戦争の記録『肉弾』(06年)はベストセラーとなった。
 いずれにせよ、好戦の論理が広まり、情的に戦争を歓迎するムードが高められる環境が出来上がっていった。戦争は、自国を正当化するばかりで、相手を知り、相手の立場に思いを致す風潮が乏しいところに生じやすいものだ、ということを示している。

●右翼の台頭  ここで触れておきたいのは、右翼団体の存在。この台頭が、日本の戦争の背後で動き、政財界や軍部に対して少なからぬ発言権を握り、また大陸などで暗躍、あるいは不穏な情報源にもなり、その後も隠然とした一大勢力を作ってきた事実を見落としてはなるまい。とくに第2次大戦では、活発になる。

 まずは「玄洋社」。もともと政治に関心のある集団で、当初は国会開設運動に参加した征韓論の士族らが集結、その一部が民権運動から離れ、国家主義の団体を結成した(1881年)。平岡浩太郎のもとに、のちリーダーとなる頭山満らが皇室尊重・国家重視・対外強硬論の立場で、玄洋社員が条約改正問題で大隈外相を襲撃(89年)、衆院選での政府の大干渉に動き(92年)、日清、日露戦争では強硬策を主張、政府や軍部などを批判しつつも、裏の世界では協力していた。

 その頭山らの言動の流れのなかで、内田良平の率いる「黒龍会」(1901年)ができ、日露戦争では対露強硬論を、戦後には朝鮮併合を主張、大陸浪人を抱えて軍部等に協力した。国内では盛んになってきた労働運動、社会主義運動を攻撃、ファシズム台頭の波に乗って満蒙問題、海軍軍縮などで政府、軍部の姿勢を攻撃し、戦乱の方向に拍車をかけた。
 中国の混乱に乗じて、配下の者たちが侵略の先兵、密偵として情報収集や地方状況の調査などに動き、政治家、軍部、財界などから資金援助を受けて、集めた情報により政治工作や利権あさりに動いた。いわゆる「大陸浪人」と呼ばれた面々である。戦後も、そうして稼いだ不透明なカネを握る児玉誉士夫らが政界等に強い影響力を持ったことは記憶に新しい。

 日露戦争では、国家主義の立場をとる「対露同志会」が開戦を叫び、その会長には近衛篤麿、相談役に頭山らがいた。ロシアとの講和が所期の期待を満たしていない、として反対し、大衆を煽って日比谷焼打ち事件などに動いた。
 こうした右翼集団は児玉誉士夫らの事例に示されるように、第2次大戦後も生き残り、ヤクザと見まごう一面を持ちながらも、政界ばかりか一般の団体などにも入り込んで、それなりの影響をもたらしている。

●ロシアの存在  強大国のロシアには、急速に台頭してきた日本について、単なる小国としてしか目に映らなかっただろう。ロシアはすでに満州における支配を強めており、つぎに進出を狙う朝鮮(1997年に大韓帝国となる)に立ちはだかった小国日本の存在は不快だったに違いない。
 ちなみに、当時のロシアのニコライ2世には、日本との微妙な関わりがあった。1891年に皇太子として来日した際に、大津市で警官津田三蔵に襲撃され、負傷したのだ。ただ、このことが日露の緊張した関係に影響があったかどうかはわからない。
 また、戦争のさなかの1905年1月、ロシアでは労働者や民衆の不満、反抗の高まりから血の日曜日事件が起き、最初の革命を招いた。このときは国会開設などで鎮圧したものの、第1次大戦中の17年のロシア革命では、ついに帝政ロシア(ロマノフ王朝)は崩壊、当のニコライ2世は虐殺されている。そして、革命勢力内での争闘を経てレーニンを首班とするソビエト政権が登場する。そうした混乱のなかでの日露戦争から第1次大戦だった。

 戦争に至るまでに、日露間で和平的な交渉も行われたが、03年7月ころから思わしい進展は望めなくなっていた。翌04年2月には、外交関係は断絶。ほぼ同時に、日本陸軍は戦争の道を選び、朝鮮・仁川から上陸しソウル(京城)から旅順に向かう。
 戦闘については、ごく簡単に触れるだけとするが、①旅順陥落(05年1月)②奉天(瀋陽)会戦(同年3月)③日本海海戦(同年5月)、などを経て、予想外にも日本の勝利となり、日本国内は燃え上がり、国際的にも日本が注目されるようになった。ロシアは、折からの国内の動乱鎮圧に軍隊の力をそがれたことが指摘されている。

●米国ポーツマスでの講和 終戦後の05年9月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって、米ポーツマス軍港で日露間の講和条約が締結された。ルーズベルトは、ラテン・アメリカにはモンロー主義をとったが、アジアでは門戸開放政策を打ち出すとともに、ロシアの満州占領に反対して日本を支援していた。
 和平交渉は難航、日本全権の小村寿太郎(桂内閣)は、自国にこれ以上戦争を継続する力はないと見て、結局賠償請求などの要求をやめ、①朝鮮での日本の優越権を認める ②関東州(旅順、大連など遼東半島の南端部)の租借地、南満州鉄道(長春-旅順間)などの割譲 ③南樺太の譲渡 ④沿海州の漁業権の日本人への提供、などで講和の条件をまとめた。

 17億円の戦費は6年分の国家予算に相当し、しかも増税、内債9億円と外債8億円という苦しい財政事情を抱えていたのだが、日本海海戦などで勝って興奮に酔う民衆は、政府の説明を聞く耳を持たなかった。日本側の譲歩は弱腰だ、として納得せず、期待はずれの賠償の結果に不満が爆発。とくに右翼的な国家主義団体などは講和反対の運動を起こし、日比谷公園で開かれた講和反対の集会に集まった民衆が、政府寄りの国民新聞社をはじめ、内務大臣公邸、多くの警察や交番などに放火、戒厳令が出る騒動となり、各地にも波及した。

●深刻な恐慌到来と進む資本主義化  この戦争の継続期間は19ヵ月。その戦費は18~20億円。公債と一時借入金73%、増税10%などで賄ったが、公債のうち外国債が56%を占めた。未償還の国債は開戦前の03年末の6億3,000万円が、戦後の05年末には18億7,000万円に膨れ上がっていた。
 1886-95年の10年間の実質成長率は年平均で4.3%だったが、96-1903年では年平均1.2%に鈍化している(杉山晋也「日本経済史」)。

 そのような経済状況にもかかわらず、戦後にはロシアを仮想敵国とする帝国国防方針が決められ、陸軍は日露戦争時の4個師団増設に加えて2個師団を設け、計19師団25万人体制を、海軍は戦艦8、装甲巡洋艦8の「88艦隊」の拡張に進む(1907・明治40年)。民間では、巨額の投資の必要な鉄道の国有化、電話事業の拡充などの運輸通信面に力を入れた。
 だが、この年にニューヨークの金融恐慌が起り、そのあおりで内外の公債市価が低落、国内に金融パニックが生じて、積極財政が行き詰まるのだった。金融、産業界では倒産、休業が相次ぎ、慢性的な不況に陥った。だがその一方で、経営に苦しむ銀行、紡績、鉱業などの企業を吸収、合併するなどして財閥が膨張し、企業の大規模化、多角化、産業の寡占化が進んだ。

 先の杉山の著述によると、財閥は1880年代後半の経済成長の時期に力をつけ始め、「財閥」という用語は1900年前後に生まれたという。
 先取りして触れれば、三井、三菱、住友、安田の4大財閥のほかに、第1次世界大戦によって急成長したものの、20年代の不況で破たん、縮小したのが古河、浅野、川崎(松方)、鈴木、藤田、大倉、久原などの中小財閥、地方では茂木(野田/醤油)、中野(新潟/石油)、伊藤(名古屋/呉服)、安川(福岡/鉱業)などだった。20年代の重化学工業化が進むなかで、急成長したのが日本産業、日本窒素、昭和電工、日本曹達、理化学研究所など、としている。
 これらのなかには、その後も生き残り、存在を続けている企業も少なくない。財閥グループが戦争によって拡大して、今日に至っていることが示されている。

◆◇〔第一次世界大戦〕1914~18年

●ヨーロッパの国家対立  第1次世界大戦の引き金になったのは、オーストリアの皇太子夫妻が旅先のボスニアの首都サラエボで、セルビア人によって暗殺されたことからだった(1914・大正3年6月)。翌月、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、さらに8月、ドイツがフランスに向けてベルギーに侵入する。ロシアはバルカン半島からの後退を避けようと、セルビアに加担し、オーストリアに対峙する。

 複雑な国際関係を整理しよう。このころ、植民地拡大をめぐる世界的な対立が進み、バルカン、中近東を中心に、先行するイギリスに挑戦するドイツが対立。ドイツはオーストリア、イタリア(のち離脱)と「3国同盟」を結び、イギリスはフランス、ロシアとの「3国協商」を設け、2極化が進んでいた。前者にはトルコ、ブルガリアが、後者には日本、ルーマニア、ギリシャが参戦して、初めての国際戦争が始まった。
 結果として、イギリスなどの協商側が勝つが、全体で850万から1,000万人の死者を出し、負傷者も2,000万人にのぼった。戦費は4,000億円ともいわれる。

 また、第2次大戦の項でも触れるが、国際連盟の結成(1920年)、海軍軍縮条約(22年)などの戦乱への反省を生む一方、対ドイツの過大な賠償金負担などの事態はヒトラー、ナチズムの台頭、イタリアのムソリーニなどファシズムの興隆を招く。その後、世界大恐慌(29年)を引き起こし、さらなる世界的な混迷、困窮に拍車をかけることになった。
 ひと言でいえば、第1次大戦の結末が各国の政治、経済状況に混乱をもたらし、第2次大戦勃発の土壌を培ったと言えるだろう。戦争は、後を引くものなのだ。

 ちなみに、第1次大戦はヨーロッパ中心の戦いであったが、大国化途上にあった日本は形式としては日英同盟の関係から、実態としては中国侵出を強めたい狙いから、参戦に踏み切った。国際関係や国情の流れに、ブレーキの利かないのが戦争というものだった。  
 ここでは、この日本参戦の様相に限定して触れていきたい。

●日本参戦の経緯  日本国内では、ヨーロッパ中心の戦争であり、日清、日露戦争時のような熱狂的な盛り上がりはなかった。だが、オーストリア、ドイツが参戦したあと、日本はいったん中立を宣言したが、すぐにドイツに参戦を布告している。
 この時の政権は第2次大隈内閣で、開戦を強く主張したのは外交畑の経験のある加藤高明外相だった。元老の山県有朋は慎重論ながらも、対中国政策をどうするか、にこだわった。当時の中国は、辛亥革命(1911年)で清国が倒れ、各地に軍閥が割拠して内乱状態にあった。したがって、大陸侵出を狙う日本にとって、中国への取り組みは重大だった。日英同盟を結んでいた日本は、名目としては対ドイツに身構えるイギリスの要請もあっての参戦だったが、本音としては、先行したドイツに対抗して大陸侵出の契機をつかむ格好のチャンスでもあった。
 9月には、日本軍はドイツが租借し、鉄道、鉱山の利権を持つ山東半島南部の膠州湾に上陸、その中心部の青島を抑える一方、ドイツ支配の南洋諸島に進出してパラオ、トラックの諸島やサイパン島などを入手する。

●強引な対華21ヵ条要求  欧州の戦争を機に、中国大陸に乗り出したい日本は、混乱する中華民国の袁世凱総統に対して、①山東省でドイツが握っていた権益の引き渡しと期間延長 ②南満州、東部内蒙古の日本の優越性確保、など21ヵ条を強硬に要求し(15年1月)、受け入れさせる(同年5月)。これは、関東州租借、鉄道経営の期限が近づき、この延長を狙ったもので、きわめて強引な武力外交だった。このことは中国人の反日、抗日意識を強め、その後の日本政府と軍部の横暴に対する怒りの源泉にもなっていった。
 このころまでは、清国時代からの対日留学生は普通の大学、軍の学校などに多数学んでいたが、辛亥革命のころから激減、日本を知る彼らの多くが本国の革命運動などに参加、指揮を執っている。そこには、侵略する日本の実態を目の当たりにしての怒りがあった。周恩来もまた、そのひとりだった。

●米騒動  大戦の終盤の1918年7月ごろから、富山県魚津の主婦らの蜂起に始まった米騒動は全国主要都市に広がった。参加者は70万以上にのぼり、数万の人が検挙されるという、異例なほどの大衆行動だった。追い詰められた怒りの、究極の表明だった。
 これは、先に戦時経済について触れたように、戦時はインフレが進んで物価が高騰、米価は戦前の4倍にもなって、実質賃金は低下した。そこで、もともと豊かとはいえない主婦たちが、これ以上食べていけないとして抗議に立ち上がったものだ。江戸時代の百姓一揆になぞられよう。この事態に、陸軍出身の寺内正毅内閣は総辞職せざるを得なかった。

●シベリア出兵  米騒動の発端は8月3日で、その前日に寺内首相はシベリア出兵を宣言している。
 帝政ロシアでは先に触れたように、すでに1905年に第1次革命が発生、これは鎮圧したものの、反動的な政治に反発する労働者、農民らの闘争は続き、14年の第1次大戦突入を機にさらに高まっていった。ついにはニコライ2世を退位させ、17年11月にはレーニン首班のソビエト政権が樹立された。

 この混乱の状況下に18年3月、日米英仏などの諸国がチェコスロバキア軍捕虜の救済名目でシベリア出兵に踏み切った。日本は当初、1万2,000の派兵協定を結ぶが、3ヵ月後には協定に反して7万3,000の兵力を送った。他国は20年6月までに撤退するが、日本は日ソ復交の22年まで居残り、北樺太からの撤兵は25年までの長きにわたった。
 そればかりではなかった。日本軍はニコラエフスク(尼港)でパルチザン(ボルシェビキ一派)に包囲されて降伏、だが奇襲反撃に出た結果、兵士、居留民700人余が犠牲になった。その後、パルチザンは130人余の日本人捕虜や反革命派全員を殺害する。日本は25年の日ソ復交交渉で賠償請求をするが実らず、日本国内ではもともとあったシベリア出兵反対論に加えて、この泥沼化した犠牲によって一層の批判の声が上がった。

●ベルサイユ条約とその波紋  ドイツ側の敗北によって、パリ講和会議が開かれた(1919年1月)。この講和の前提になったのは、アメリカ大統領ウィルソンが示した14ヵ条の原則で、軍備縮小、民族自決(植民地の公平な調整)、国際連盟の設立、秘密外交の禁止、公海の自由などで、その後の世界の動向に大きな影響を与えている。この原則が示されたのはまだ戦争のさなかで、講和会議の1年前のことであった。

 講和会議(同年6月)は、いわば帝国主義列強の要求を抑え、妥協を迫る舞台となり、またそれまで大国ながら孤立主義の立場だったアメリカが国際舞台でのイニシアチブを握る契機にもなった。これを受けて、21(大正10)年から22年2月にかけてワシントン軍縮会議が開かれ、軍備の制限、中国問題が取り上げられ、①中国の門戸開放を進める9ヵ国条約 ②太平洋での互いの権利尊重と紛争処理を決めた4ヵ国条約(日英米仏) ③戦艦の保有トン数の比率を米英5・日3・仏伊1.67とする海軍軍縮条約、などが決められた。

 戦争によって大きく発展した資本主義だが、1920年に戦後不況に陥ると、労働者の解雇、国内企業の縮小、また植民地依存を高め、社会不安を招くことになった。財閥は経営を守ろうと、陸海軍や政府に接近、軍需生産に期待をかける方向に向かった。

●民族自決― 3・1運動、5・4運動  第1次大戦後のウィルソン大統領の提起や、ベルサイユ条約の「民族自決」などの流れは、国外にもかつてないほどの大きな刺激を与えた。
 1919年、朝鮮では3・1独立運動が発生した。10年に朝鮮総督府の統治下に置かれて以来、朝鮮は日本官憲の厳しい監視のもとに置かれ、民衆の間には不満、反発が続いており、これに火をつけることになった。3月1日以降、全土で200万が蜂起し、8,000人の死者を出しながらも反日・独立に向けた動きが高揚した。
 さらに中国でも、日本帝国主義反対の北京大学の数千の学生をはじめ全国的に民衆が蜂起、とくに15年の対華21ヵ条の要求に反発して、反日、抗日運動が高まっていった。

 中国では辛亥革命によって12年に清王朝が倒れ、孫文のあと、北洋財閥の袁世凱が大総統に就任、5月に対華21ヵ条を受諾させられたものの、彼は6月に病死する。後継は黎元洪、内閣総理は袁直系で日本側に近い段祺瑞。列強諸国は中国各地の軍閥と結んで進出、支配を強めており、こうした国内の混迷にも不満が強まっていた。一方で、国内の民衆たちの怒りのイニシアチブをとっていたのが蒋介石の国民党軍と、毛沢東らの共産党軍で、この双方は衝突したり、手を結んだりしつつ、抗日運動を続けた。このあたりも後述したい。

●戦後経済への影響  第1次大戦勃発時の日本経済は不況のどん底にあった。しかし、大戦開始とともに、連合国から軍需、日用物資、食糧などの輸出が急速に高まり、開戦翌年の15(大正4)年の輸出総額は7億8,000万円、16年11億2,700万円、17年16億300万円、18年19億6,200万円とうなぎ上りになっていった。経済全般の活性化は、大小多数の「成金」を登場させ、日露戦争の項で触れたように、財閥はさらに膨張して近代的工業国家に様変わりさせていくことになった。

 戦時下の産業の疲弊はヨーロッパ全土に広がっていた。だが戦争が終わると、戦闘のため生産能力の落ちていた欧州各国は復調し始めて、戦争の波に乗って好調だった日本の輸出は停滞、日本経済は大きく落ち込んだ。物価も14年の指数を100として、17年179、18年230、19年248、20年273と、戦前の3倍近くに暴騰した。一部に戦争富裕層は生まれたにしても、一般の生活者の収入では追いつけない状態だった。これが、米騒動を引き起こす時代背景でもあった。
 さらに、20年春には株式相場が大暴落、次いで米、綿糸、生糸などが恐慌状態となり、これが22年まで2年弱続くようになった。取り付け騒ぎの銀行169行、大手の会社や商店の破産275社など。また農業にも波及して、まゆ、米などの農産物の価格も暴落し、大地主や富農を巻き込んだ。小作農たちはもっと苦しい生活に追い込まれた。
 戦争は儲かるものではなく、国家が舵取りを誤れば、そのツケは国民の命を奪い、生活の維持すらも困難に追い込む。そして、軍縮に不満の軍部、景気の復調を望む財閥、弱体化する政党政治などの諸要素が絡み合い、さらに不安定な方向に突き進んでいく。

●労農運動など活発化  この戦争の時期に、一部の財閥は資本を蓄積し、他企業を吸収合併して独占資本主義を強化、片や中小の企業は倒産や大手への吸収などに苦しめられた。
 だが、このころから労働運動、農民運動、さらに社会主義運動などが活発化する。労働争議は1921年246件5万8,000人の参加が年々増えて、昭和に代わる26年には469件6万7,000人のストとなった。小作農民の争議も20年の408件が、翌年には1,680件と4倍を超えて、その後も増え続け、参加者は10万人以上になった。もっとも、労組の組織率は6.5%以下という低さだった。

 労働組合は、労使協調的な友愛会(1912年)が工場労働者の増加を受けて、日本労働総同盟(21年)となり、8時間労働制、労組結成の公認などを主張。また20年には第1回メーデーが開催された。日本農民組合も22年に生まれ、約1万人が参加。この年、未開放部落の全国水平社が結成された。さらに、女性の参政権を求め、男尊女卑の風潮を変えようとの婦人運動も高まっていった。平塚らいてうの青鞜社(11年)が新婦人協会(20年)となり、市川房江の婦人参政権獲得期成同盟会(24年)などが結成され、女性の地位向上の動きが具体化していった。
 1910年の大逆事件を機に抑圧され、息をひそめた社会主義者も堺利彦、山川均、大杉栄らを中心に日本社会主義者同盟(20年)、非合法の日本共産党(22年)などの組織が結成された。

 こうした動きを刺激したのは、ベルサイユ条約で国際連盟の機関として国際労働機関(ILO/19年)が生まれて8時間労働制、労組の結成の自由などが叫ばれたこと、戦時下で経済的な困窮の度が増して不満が堆積してきたこと、民主的な憲政擁護運動や普選運動などによる意識の高まりがあったこと、ロシア革命が成功したこと、中国や朝鮮で民族自決の動きが加速したこと、などがあげられよう。また、4年間にわたる戦時下で、社会全般に生活苦や、多くの犠牲者を出したことによる厭戦の気分が流れていたこともある。

 戦争とその影響による政情不安定が、各方面での社会的なニーズを変え、社会のアンバランスを引き起こし、変化の必要を訴え始めさせたのだ。

●吉野作造、美濃部達吉と大正デモクラシー  大戦前後に、大正期の民主主義の盛り上がりのけん引役となった二人の存在がある。ひとりは東大教授の美濃部達吉。『憲法講話』(12年)を刊行して天皇機関説を説き、議会主義、政党政治の理論的論拠を示した。ただ、この主張は満州事変後の35年になって、ファシズム礼賛が盛り上がるなかで、天皇機関説は排撃され、貴族院議員辞任、著書発禁などの圧力を受けた。
 また、広い範囲に影響をもたらし、インテリ層に民本主義を啓発したのが、東大教授で当時の論壇で活躍した吉野作造だった。憲政の本義、言論の自由、普通選挙を主張して大正デモクラシーの定着に寄与した。だが、その後の関東大震災や戦争への加速の動きの中に、現実には埋没していった。

 まさに大正時代は、国際的にも国内的にも民主主義の流れが加速するのだが、その潮流は続かず、一方で大陸進出などの軍事行動に拍車がかかり、結局はファシズムへの準備が進んでいく、いわば境目の時代でもあった。

●政権交代とその周辺  冒頭でも簡単に触れたが、大戦前後の政治状況について整理しておこう。

 明治維新以降の日本の政治は、薩長中心の藩閥、軍閥の強い発言力のもとに展開され、明治末の1901年から大正の始まる1912年までは、桂太郎、西園寺公望の交代による計5代の政権が続いた。そして、大戦前の12年末から議会・政党を中心に据えた民主政治に切り替えるべきだとして、第1次憲政擁護運動がおこる。その後の政権について、ごく簡単に触れておく。

 ・第2次大隈重信内閣。1914(大正3)年の第1次大戦に参加したあと、翌年には対華21ヵ条の要求を突き付ける。
 ・16年10月から寺内正毅首相のもとで米騒動、シベリア出兵の事態に。
 ・18年9月の総辞職のあと、原敬首相が初の本格的政党内閣として登場。原内閣のもとで普通選挙を求める動きが高まり、大隈の憲政会などの政党を巻き込んだ。第1次大戦終結からベルサイユ条約締結、選挙権の拡張などを果たすが、朝鮮での3・1独立運動、中国での5・4運動、国内の社会運動には抑圧策をとり、シベリア出兵を継続。21(同10)年11月暗殺。
 ・後継の高橋是清首相のもとに海軍軍縮条約、9ヵ国条約が生まれる。軍備縮小と緊縮財政を進めようとするが、閣内不統一で半年余で総辞職。
 ・22年6月、加藤友三郎首相は海軍軍縮の実行、シベリア撤兵には成功するが、翌23年8月病没する。
 ・加藤、第2次山本権兵衛の両首相は海軍軍人出身。山本は加藤病没直後に発生の関東大震災に取り組むが、4ヵ月後の12月、摂政の裕仁・のちの昭和天皇を襲った難波大助による虎ノ門事件の責任を取り、翌1月に総辞職する。
 ・あとを継いだ清浦圭吾は貴族院と官僚中心の非立憲藩閥内閣で、第2次憲政擁護運動を迎える。5月の総選挙に敗れ、護憲3派の政権にとって代わられる。
 ・24年6月-26年1月、護憲3派連立の加藤高明首相になるが、25歳以上の男子なら納税額に関係なく選挙権を持つ普選法成立の一方、悪法の治安維持法を発布。

 この時期に注目されたのが第2次憲政擁護運動。加藤友三郎内閣時の22年、憲政、革新両党が憲政擁護大会を開き、24年には清浦内閣に憲政会、政友会、革新倶楽部が反対。政党内閣の確立をめざして普選実施・貴族院改革・行財政整理を主張してこの総選挙に大勝、加藤高明の護憲3派内閣を生み出した。
 この時に具体化したのが「憲政の常道」の考え方。これは、衆院第1党の党首が内閣首班になり、その政権が失政・総辞職の場合には野党第1党の党首に政権の座を明け渡す。だが、首班の病気、死亡の場合には与党から後継首班が出、元老が内閣首班を推薦する、という仕組み。
 
●兵器の発展・死者の激増  飛行機の完成は1903年、第1次大戦から登場したが、まだ空中戦展開の技量に達せず、日本の利用度は偵察、爆撃程度。飛行船は、ドイツが第1次大戦から「ツェッペリン」でパリロンドンを空爆したが、被弾するとガスが爆発するなど実戦向きではなかった。
 小型の潜水艇は日露戦争で輸入して利用したが、本格的な潜水艦の利用は各国とも第1次大戦から。戦車の歴史も古いが、本格化するのは第1次大戦から。火焔放射器、毒ガスもドイツが早く開発、第1次大戦からの出現。長距離砲、ロケット弾も第1次大戦末期にドイツが実戦化したとされる。航空母艦は米英が先行して第1次大戦で登場し、日本も1922年に「鵬翔」を建造したが、本格的な使用は第2次大戦からだった。

 このように、戦争技術と機器は第1次大戦から大きく進展、これに伴って犠牲者、負傷者は激増し、大量殺りく兵器の開発競争が展開されるようになった。

               ・・・・・・・・・・・・・・・・

 こうして、時流は第2次世界大戦に向けて、不穏な道を歩き始めていく。
 次号では、日中戦争と太平洋戦争の動向、背景などについて整理していきたい。

 (元朝日新聞政治部長)

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