【オルタの視点】

戦争というもの(5)
戦争の仕掛け段階に始まる大きな過ち

羽原 清雅


 前回は日清戦争、北清事変、日露戦争、第1次世界大戦の発端から結果まで、その実態をスケッチした。今回は、第2次世界大戦に至るまでの、日本が主役となった日中戦争あたりまでに触れていきたい。戦争の実感のない若い人たちに、まずは戦闘に至るまでの政治、経済、社会などの環境、そして戦争の仕組まれ方とその後遺症を知ってもらえれば、と思っている。歴史の流れが読み取りやすいよう、若干のダブリを承知しつつ、書き進める。

 なぜ戦争になるのか。弱者に対する力ずくの強引な攻勢、無理な大義名分による領土や資源などの権益の拡大欲、蔑視的感情による敵対環境の醸成、愛国、国粋的な狭い情報や考え方の教育的定着など、昨今では考えられない無茶を通す時代があった。
 また、戦争というものは、突然に勃発するものではなく、時代の流れのなかでジワリと、あるいは一定の計算づくで戦争環境を整えつつ、意図的に仕組まれていくものだ、と言っていいだろう。歴史はそのことを裏付けている。

 では、その経験と反省は生かされているか。そこに問題がある。危険の認識乏しく「核兵器」の保有によって発言権を誇る国家、「ヒロシマ・ナガサキ」の惨状に学ばない為政者、対話と相互理解を求める外交を軽視する政治の取り組み、武力外交の背景に「殺戮兵器」をちらつかせ、膨大な予算を投入し続ける政治姿勢など、日本のみならず、あまりにも反省や成長が乏しい。「民主」「国民主権」「基本的人権」と言いながらも、人為的な個々の人間の「生と死」に対する畏怖の感覚が希薄なのだ。

 近年、民意を縛りかねない特定秘密保護法制定、地球規模の軍事展開を許容する集団的自衛権などの安保法制、拡大解釈の道を拓く共謀罪設定、あるいは核容認かと思われかねない核兵器禁止条約への消極対応など、不安を高める立法や対応が目立つ。
 すぐにどうこう、という懸念は仮にないとしても、戦争への道が開かれていく前段の歴史を見ていくと、今の社会は望ましい体制から遠のく道を進んでいる感がある。将来に緊迫を招く事態が起こると、悪い方向に突っ走りかねない状況を作りつつあるとの印象が消えない。

 戦争への「危険水域」を警戒する、との名目で軍備増強を続ければ、次第に戦争状態に接近していくことにもなる――歴史はそう教えているのではないか。和平維持の道は、やはり相違点は残しつつも、心を通じさせる豊かな対話外交と、国民各層間での分厚い民間交流を長く続けることではないか。とりわけ、海に包まれた島国の日本にとっては。
 そのような近未来を念頭に置きながら、第2次世界大戦に向かう歴史をたどりつつ、日本人のみならず、アジアをはじめ各国に多くの罪過を残した歴史を考えていきたい。

◆◇〔日中戦争・準備段階〕1931年ごろまで

●戦争への傾斜  大正の時代、つまり1912-26年の歴史は、その前半では第1次憲政擁護運動、政党内閣や護憲政権の登場、吉野作造らによる大正デモクラシーの高揚、労農運動、女性組織や水平社の結成といった意識変革の高まりなど、民主主義的な方向が求められた。
 だが、その一方で、前半の第1次世界大戦、シベリア出兵、米騒動などによる社会不安、恐慌などの経済混乱などを経て、後半には関東大震災による社会全体の混乱や多大な損害を被るとともに、普選法の一方で治安維持法という暴虐を極める悪法が生まれ、さらに軍部の発言力が強まり、各政党が混迷と非力化を重ねるという状況下にあって、権力機能が次第に強まってくる時代になっていった。

 昭和の時代に入ると、こうした環境の変化が、天皇の名のもとでの政府や軍部、さらには財閥、右翼勢の力を強め、戦争環境が急ピッチに整備されていく。
 国民もまた、言論の統制と閉塞、政府情報への集中と拘束、単一的国家教育の徹底、反対勢力の弾圧などの法制度の縛りが強められ、戦争志向が拡大強化されていった。
 それはまた、外交政策の偏狭を招き、国際社会からの孤立、さらには敵対関係を助長させることにもなっていった。国民の間には、アジア圏の国は蔑視して当然で侵略可能、欧米諸国は日本を敵視し圧迫するばかり、といった程度の誤った認識が広まり、和平の感覚は失われていった。

●政治状況  明治期の藩閥政治は、明治末期の桂太郎と西園寺公望による5期交代の桂園時代などを経て、第1次大戦終了の1918(大正7)年に原敬<第1次大戦終結、韓中独立運動、ベルサイユ条約調印、戦後恐慌など>と、継承した高橋是清<協調外交のもと、ワシントン海軍軍縮条約など調印>による初の本格的政党内閣を持つ。だがその後、海軍出身の加藤友三郎<シベリア撤兵など協調外交>、山本権兵衛<関東大震災当時、虎の門事件で失脚>の両非政党内閣、官僚出身の清浦圭吾<非政党・超然内閣>の3首相が続く。24年には、第2次憲法擁護運動の結果として護憲3派の加藤高明政権が登場するが、政権の一角の政友会は普通選挙に反対の立場をとる。

 坂野潤治はその著述「日本近代史」で、この25年以降32年の2大政党制時代について、「平和と民主主義」の憲政会<加藤高、若槻、浜口>、「侵略と天皇主義」の政友会<原、高橋、加藤友>として、護憲3派から政友会の離脱後の状況を指摘する。明快だが、そうばかりと言えるのか。やはり、その後の政治運営者としての責任を双方に問わざるを得ない。
 ともあれ、政治関係者の判断が揺らぎつつも、次第に軍部の強硬策に乗せられ、乘っていくプロセスであった。

●分水嶺としての関東大震災と世界大恐慌  大正期(1912-26年)に育ちかけた民主主義が次第に弱まっていくと、中国大陸での戦争に突き進みやすい軍事体制強化の政治状況に切り替わっていった。その分水嶺になったのは、関東大震災(1923・大正12年)と、相次いだ戦後恐慌に続いた世界大恐慌(1929-33・昭和4-8年)だったと言えよう。

 関東大震災は23年9月1日、東京を中心に静岡、山梨を含む関東一円を襲った。死者、行方不明者11万-14万、全壊家屋12万戸、全焼45万戸。直接の損害は約55億円。首都周辺の産業も壊滅状態で、生き残った者にも大きな重荷をもたらした。8月24日に加藤友三郎首相が病死し、後継の山本権兵衛の就任は震災の翌日で、どこから復興の手をつけたものか、見通しもつかない状態だった。

 震災とともに、歴史に残る異常な事件が起こる。
 まず、朝鮮人、社会主義者らが騒擾を起す、との警察などの流すデマで、自警団や警察、軍部などが各地で彼ら数千人を殺害した。第2に、甘粕正彦憲兵大尉の率いる軍隊が、社会主義者大杉栄、伊藤野枝らを虐殺する。第3に、革命的労働運動の拠点とされた南葛労働会の10人が亀戸警察署で軍隊に殺害される。第4に、在日朝鮮人の無政府主義者朴烈夫妻が天皇暗殺目的に爆弾を入手したとして逮捕、妻は自殺、朴は戦後釈放されて北朝鮮に戻った。一連の動きは、権力への批判分子に対する排除策だった。
 戦争状態に付きものなのは、他民族の蔑視、憎しみ、差別、犯罪のでっち上げ、一方的な断罪と殺害などで、震災はそうした対応に拍車をかけるものだった。しかも、責任の追及もされず、うやむやに消えたことも多かった。

 もうひとつの世界大恐慌は関東大震災の6年後だったが、第1次大戦後には20年の戦後恐慌と株の大暴落、23年の震災破綻の状況、27年の金融恐慌と続いたあとのとどめのダメージだった。ニューヨーク株式市場の崩壊は世界の資本主義国に波及、その工業生産力は約44%、貿易は約65%も低下、企業の破産倒産は数十万件、失業者は数千万に及んだという。しかもこの大恐慌は4年近く続き、経済の打撃は国際政治を揺るがすことになった。
 
●日本人の当時の心情  こうした継続的な不況、つまり貧しさからの脱却の道は、大陸進出しかなく、まずは軍隊による武力的な地ならしを、次いで豊かな大地を求めて移住を、といったアピールが国民の胸に響きやすい。しかもすでに、抗日、反日を試みる大陸中国の動向自体許しがたい、と反感すら広がる。皇国日本は八紘一宇、五族協和の精神で臨み、そのために国民精神総動員を受け入れ、聖戦に生命を擲つ覚悟がある。「天皇のため、祖国のため、家族のため」の皇軍参加の栄誉を胸に出征する。玉砕しても「靖国」が軍神・勇士として待ち、嘆きを秘める親たちにしても「靖国の母」として称賛される。銃後では「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし止まん」などと、小国民までが徹底した軍事教育のもとで、自らもその使命を担う日を待ち受ける・・・・そのような世相、意識が常識になっていたのだ。

 このように、戦前の日本では、意識としても「戦争への道」が開かれやすかった。もともと島国の日本は、国際情勢と国内政治の結び付きに関心を持つ階層は極めて薄かった。また、政府や軍部の言うことを、多様に検討するなどの感覚はなく、ただ素直に受け入れることが一般的だった。

●破綻期の3代政権  1929-32年当時の首相は浜口雄幸、第2次の若槻礼次郎、そして暗殺される犬養毅。浜口、若槻は緊縮財政と産業合理化、行政整理に取り組むが、浜口は軍部の怒るロンドン海軍軍縮条約に調印し、その不満から天皇の統帥権干犯問題を持ち出される。彼は右翼の一員に狙撃され、政権の座を降り、死に直面する。若槻も協調路線の幣原外交を守り、満州事変に不拡大方針を示したものの、軍部は戦線を拡大する。しかも閣内不統一で総辞職。後継の犬養首相は5・15事件で暗殺される。政治無力の時代に移っていく3代だった。そのあとの32-36年には斎藤実、岡田啓介の海軍政権が続く。
 
●税制と普通参政権  当時、参政権はだれにあったのか。

   制度改正時   選挙時  直接国税  参政人口   比率
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  1889(明治22)  1890  15円以上    45万人   1.1%
  1900(同 33)  1902  10円以上    98万人   2.2%
  1919(大正 8)  1920   3円以上   306万人   5.5%
  1925(同 14)  1928  制限なし  1,240万人  20.8%=普通選挙

 この表から言えることは、まず男子のみにしか参政権は与えられておらず、女性は政治への意思表示が認められていなかった。また、納税額による制限から、男子とはいえ、当初は大地主など数%の有権者の意思しか認められず、30数年を経ても有権者は5人に1人しかいなかった。富裕者の意見の反映の場であり、これが民意か、民主主義なのか、と思わざるを得ない。戦争を食い止めようにも、民意を届けようのない「民権」の議会だった。
 こうした富裕層の立場しか踏まえていない政治状況であったことを忘れてはなるまい。

●その選挙と「民意」は  上記のように1928(昭和3)年、初の普通選挙が行われた。今から90年前である。有権者は男性のみで女性は無資格、しかも国民の2割、5人に1人しか投票できないという「民意」が表明された。
 その議会はどうだったか。全466議席の93%は政友会、民政党という保守勢力が握り、いわば抵抗勢力の野党・社民党と無産党は4議席ずつ計8議席にとどまった。いきおい保守党同士の内紛、抗争に陥りがちで、不満分子扱いの野党の意見などに耳を傾ける風潮などはない。それが往時の「民主主義」の姿で、90年後の今もどこか残滓を引きずっている感もないではない。

 こうした保守勢力であるから、国を牽引する権力たる政府高官、官僚、軍部の決定に、大きな異論をさしはさむことはない。あったとしても、それは政争の具になる程度のことが多かった。戦争が国益をもたらすのだ、という自国本位の発想が権力筋から示され、多数を占める有力者の政党・議員が支持すれば、その方向に世論が誘導されることはごく当たり前だった。
 それが、国家的に意思統一しやすい日本の実態で、異論や批判の入り込むスキはほとんどなく、「戦争」もそうした風土のうえに仕組まれやすいテーマであった。

●不況と財閥の強大化  戦争に至る経済的背景を見ると、財閥の存在が大きい。
 日本は第1次大戦に参戦したとはいえ、直接の交戦圏外にあったので、経済的な恩恵を大いに享受できた。ヨーロッパ諸国は国を挙げて戦闘中で、生産力は低下し、いきおい日本の輸入は減り、逆に各国への輸出が伸び、さらに日本国内の景気上昇によって国内産品の需要、さらに軍需物資のニーズも増えて、好況を謳歌した。戦争大歓迎、といった空気さえあった。
 「日本財閥史」(森川英正著)によると、大戦勃発の1914(大正3)年から終戦翌年の19(同8)年までに、日本は工業生産4.9倍、工業労働者数1.7倍、会社数約2万社から3万7千社に、払込資本金総額21億円から65億円に急伸した。とりわけ巨大化、多角化したのは三井、三菱、住友で、この3大財閥で鉱業63.3%、鉄鋼54.2%、金属機械37.6%、紡績24.9%、運輸通信63.8%、商事貿易74.2%、銀行29.6%を握ったのだ。

 だが先にも触れたように、終戦とともに、一時の繁栄は崩れ去り、苦境が続く。1920(同9)年戦後の反動不況、23(同12)年に東京中心部や京浜工業地帯壊滅の関東大震災、27(昭和2)年蔵相失言の招いた金融恐慌、さらに29(同4)年のウォール街の株式相場大暴落に始まる世界大恐慌・・・苦悩の10年間だった。
 この相次ぐ不況は、中小の財閥、銀行などを破綻、経営難、信用失墜に追い込み、それが大財閥を強めることになる。安田を含む4大財閥はこの暗い10年間に、まず金融部門を充実する。4財閥系の銀行の預金残高は、全国の銀行総額の10.8%(1919・大正8年)から20.6%(29・昭和4年)に倍増、有価証券残高も16.3%から25.5%に伸ばした。
 重化学工業化が進む時代で、4財閥はその方面はもちろん、それ以外でも信託、生命保険、損害保険などの分野でも発言力を握った。商社では、三井物産が圧倒的優位にあったが、2番手だった鈴木商店が金融恐慌で倒産、三菱商事が急進した。

 こうした財閥勢力の拡大は、一例をあげると、軍事化の進む1934(昭和9)年に三菱造船が三菱重工業に改称し、さらに三菱航空機を合併、軍艦と航空機の2大近代兵器を生産して、さらに戦争産業として地歩を固めていく。戦争を念頭に進む国家戦略に、各財閥は軍部、そして官僚に密着して、表に裏に発言権を強めていった。

●労農運動の実態  有権者がごくわずかの限定的な時代ながら、常に異論や反論は出る。
 経済の基軸が農業から工業に移り、土着の農民が都市部中心の労働者に代われば、その生活の大きな変化とともに、意識も生活様式も変わり、また最低の生活を満たすべく政府、社会や企業に対して要求や期待が出る。だが、この大きなうねり、大衆の生活感覚についていけないと、権力サイドは従来の財政や経営的対応を持続させたく、さらにこの動向を、法制度などを駆使して権力をもって抑えようとする。長らく続いた方式を持続させたいのだ。

 その典型例が、台頭してきた労働者の争議や、江戸時代以降苦しんできた小作農民による争議だ。20世紀に入る明治末頃から、労働争議は次第に活発化し、1907(明治40)年には約270件の争議が生まれたという。大正に入ると次第に増えて、30年代の世界大恐慌、満州事変が起ったころには800件前後、5、6万人が参加し、労働組合も900台に達して、組合員も40万近くに増えている。もっとも、全体の組織率は10%にも達していない。
 一方、小作争議は日本農民組合が結成された22(大正11)年頃から増えて、凶作の年に増えるなどの変動はあったが、地主の収奪が厳しいこともあって5、6,000件、参加者も10万を超えるまでになっていた。労働争議と同様に、満州事変前後になると、小作人組合は4,000を超え、参加農民も30万人を超える年も出るようになった。

 しかし、日中戦争が激化してくると、当局の締め付けも強まって、労働争議、労組数も急速に減少、42-44年には争議は200件前後、労組数は0-3件、111人にまでとなった。小作争議も、40年頃から減っていった。
 代わって登場したのが、官製による業界ごとに設けられた「産業報国会」で、38(同13)年頃から増えて、42年には8万6,000が組織され、16万事業所、550万人が参加した(「近代日本総合年表」による)。
 これを見ても、戦争が進行すると、権力というものは国民の意思にかかわらず、国家という名のもとに進路を捻じ曲げてしまうものだ、ということがわかる。

●弾圧装置の徹底  戦争に逆らう者には弾圧の装置、つまり法的ないし非合法の横暴が待ち受ける。よほどの覚悟がない限り、この肉体的、精神的、あるいは家族の及ぶ危害や差別や弾圧に耐えることはできず、従順な追従ないし沈黙させられて従うしかない。
 無産党である堺利彦の日本社会党(1906年結成)は翌年、麻生久、浅沼稲次郎の農民労働党(25年)は即日、結社禁止となる。日本共産党は結成時から非合法(22年)でしか生まれなかった。鈴木文治の友愛会を改称した日本労働総同盟(21年)、全国水平社、日本農民組合(22年)、婦人参政権同盟(23年)なども結成はしたものの、終戦まで長く苦難の道を歩んだ。

 1900年に治安警察法、25年に普選法と一緒に治安維持法が公布、この治安維持法は28年に緊急勅令で死刑、無期刑が追加され、各地に特高警察網が置かれると、その法令の解釈は官憲のもとで自在に行われ、反政府的言動と認定された者は簡単に身柄を拘束され、暴力的に転向を迫られた。
 10年には、大逆事件として無理な解釈をもって摘発、翌年1月には幸徳秋水ら12人が死刑となった。これが天皇や政府、軍部などに逆らうかの異論を封じる弾圧の第1号だった、と言えよう。

 23年の関東大震災では、多数の朝鮮人ら、アナキスト大杉栄ら家族や、亀戸事件として労組幹部らが軍隊などに虐殺されたのは、冒頭に触れたとおりだ。
 満州事変の4年ほど前の第1回の普通選挙直後に、共産党員多数が検挙される3・15事件(28年)、翌年の4・16事件があり、このふたつの弾圧の間では労農党代議士山本宣治が右翼に襲われ、刺殺されている。
 こうしたテロ的行為は無産政党や労働者などだけではなく、原敬首相暗殺(21年)、浜口雄幸首相襲撃(30年)などの要人に対しても、政策に不満を持つ右翼らが仕掛けている。
 これらの暴力行為は、満州事変勃発前後にも相次ぐのだが、これらについては後述したい。

●軍部の発言力  維新以来の富国強兵策は、経済的に欧米の産業技術の導入によって「富国」が満たされていくと、次第に軍事面の強化と兵器等の拡充が進められて、「強兵」体制が整えられていく。さらに、先進諸国の弱小国への帝国主義的侵出が一般化する時期であったことから、日本も乗り遅れまいとする施策がとられるようになった。その是非は別として、国土や資源が狭隘僅少、そして人口過大の日本としては、海外進出と発展にすがりたい環境に置かれていた。
 そうしたなかで、軍部が発言力を強める土台がつくられた。

●統帥権問題  ひとつは明治憲法第11条の、「天皇大権」としての統帥権だった。陸海軍を統率、指揮する権限は天皇にあり、閣議や議会にあるのではない、ということである。つまり、陸海軍の出兵、撤兵の命令、軍事作戦の立案と指揮命令などは天皇の権能であり、これが軍の行政事務(軍政権)は両大臣に委託され、軍の命令権(軍令権)は陸では参謀総長、海では軍司令部総長に握られることになっていた。具体的には、両軍の総長が天皇の権能行使に当たって助言(輔弼)し、閣議などを経ずに、直接天皇に上奏できることになっていた。また、動員令、編成令、復員令といった命令権もあり、これも両大臣が上奏して裁可を得、実施できた。
 したがって、形式的には天皇の決断だとしても、実際は軍が政府を認めず、天皇を利用することで戦争を可能にできるシステムだった。これが日本の軍国主義化を進めさせる、大きな欠陥だった。

 先述したことだが、たとえば、浜口雄幸内閣がロンドン軍縮条約を締結(30年)すると、海軍は兵力削減が天皇の統帥権の干犯だと強硬に反対。結局、浜口首相は反対論を押し切り、帝国議会で可決、条約批准権を持つ天皇が枢密院に諮詢(諮問)し、本会議でも可決し裁可された。
 だが、浜口首相は1ヵ月半ののち、右翼青年に東京駅で狙撃され、翌31年4月に総辞職、時の幣原喜重郎外相の進める協調外交路線は頓挫することになった。
 これを機に、軍部は政府の決定などを無視して、天皇の命令だけが軍部を動かす、といった強引な姿勢をとるようになり、政府も政党もこれを止めることができなくなった。しかも、浜口前任の首相だった田中義一(陸軍大将)が政友会総裁として、在郷軍人会を政友会の有力な支持団体としたこともあって、軍部はさらに根を張ることになった。

●軍部大臣現役武官制問題  「陸軍、海軍大臣は現役の大将、中将に限る」と決めたのは第2次山県有朋内閣で、当時の藩閥政権下で政党勢力が内閣の座を占めることを防ぐための措置だった。1912年、立憲政友会を与党とする第2次西園寺公望内閣は財政が緊迫して、陸海軍の拡張は繰り延べ、また辛亥革命は内政問題であり不介入、列国との関係は協調主義をとる、などの方針に対して、軍部や山県系官僚が反発。上原勇作陸相は単独辞任したため、軍部からの補充ができず、総辞職となった。この制度は、軍部による倒閣の切り札、でもあった。

 翌13年、護憲運動が高まり、第1次山本権兵衛内閣は「現役規定」を削除して、武官制のみにしたが、36年の2・26事件後の広田弘毅内閣は現役制を復活、37年には寺内寿一陸相と政友会長老の浜田国松の間で「腹切り問答」があり、寺内が解散しなければ単独辞任すると言い出し、結局閣内不統一を理由に総辞職せざるを得なくなった。
 さらに、広田退陣後の大命を受けて組閣に当たった宇垣一成(陸軍大将予備役)だが、陸軍が大臣を出さなかったことで流産している。
 40年には、親米派で日独伊同盟に反対し、近衛の新体制運動にも消極的な米内光政内閣に対して、陸軍は畑俊六陸相にプレッシャーをかけ、単独辞任を仕掛けたことで、総辞職に至っている。

 このような軍部が天皇を利用した政治工作は、戦局が厳しくなるにつれ露骨になり、倒閣によって軍部の主張を実現しようとする動きが目立っていった。
 こうした反省が、戦後に自衛隊の文官を優位とする制度に導入させることにもなった。

 だが最近、防衛省の3等陸佐が野党の国会議員を国会周辺で「国民の敵だ!」などの趣旨で面罵する場面があった。これは、国会での国家総動員法案審議の説明に出た佐藤賢了陸軍省軍務課員(中佐、のち軍務局長、A級戦犯)が、議員に対して「黙れ!!」と一喝したケースに近い。軍部の怖さ、は制度が機能を緩め、関係者が増長してくると表面化する。
 さらにいえば、イラクなど派遣の部隊の日録が長らく隠ぺいされていたのも、日録からすれば、「戦闘」状態でなかったための派遣、とは言えない事態に追い込まれていた現実を隠さなければならない、との忖度が働いたためだろう。
 自衛隊が文民統治の原則を破り、将来必要とされる公的文書を隠蔽、改ざんする姿勢は、戦争に向かわせるひとつの徴候が見える、というのは過言だろうか。

●相次ぐ軍人首相  戦前の首相は1885(明治18)年に始まるが、29人のうち15人、半数を超す首相が軍人出身だった。戦前の軍事優先の思考が強調された一因、と言えるだろう。ここでは、人名だけを挙げておく。
 <陸軍> ②黒田清隆、③山県有朋、⑥桂太郎、⑨寺内正毅、⑯田中義一、㉒林銑十郎、㉕阿部信行、㉗東条英機、㉘小磯国昭
 <海軍> ⑧山本権兵衛、⑫加藤友三郎、⑲斎藤実、⑳岡田啓介、㉖米内光政、㉙鈴木貫太郎
   <○カッコ内は就任順/複数次の首相就任は除く>

◆◇〔日中戦争・本格戦争への助走〕1937年まで

●世界の潮流と日本の対応  これまで戦争に持ち込まれる背景について触れてきたが、そうした事情がどのように戦争勃発につながるのか、その点を具体的な史実から触れていきたい。
 第1次世界大戦終結直前に、日本はロシア革命(1917年)の混乱を突いて、満州の支配を強めるロシアに対抗してシベリア出兵に踏み切った(18年)。しかも、疑問視する諸外国をよそに、一国のみ長期駐留を続けた。
 また、大戦終結に伴うベルサイユ条約によって、民族自決の原則、8時間労働制、労組の公認などが合意されたことで、国内では労働争議、小作争議などが盛り上がり、国際的には独立や植民地支配への反発が強まることになった。
 日本の植民地化した朝鮮では、3・1独立運動が200万人もの決起で進められ、中国では日本の帝国主義反対などを掲げて、反日抗日の機運が高まった(19年)。
 日本政府や軍部は、このような内外の動向に対して、警戒と抑圧の策を強めたのだ。

●中国での戦闘準備  中国について、陸軍出身の田中義一内閣が警戒したのは、中国共産党の結成(21年)、国民党と共産党による「国共合作」(24年)などを経て、共産党も北方軍閥打倒のために「北伐」に参加、だが国民党・蒋介石軍が上海でのクーデターで共産・左翼勢力を排除し南京政府を樹立、また各地で抗日の動きが活発化したことなどの動向だった。そのために、田中は満州・華北の支配を続け、蒋介石軍の北上を阻止するために、山東省に陸軍4,200人を出兵した(「第1次山東出兵」27年)。その後も、蒋介石軍の北伐再開で、第2次出兵(5,000人)を試み、蒋介石軍と同省の済南で衝突(「済南事件」28年)。この事件に伴い、第3次出兵をして、満州擁護のためとして関東軍司令部を旅順から瀋陽に進めた。
 田中は27年、「支那を征服せんと欲せば先ず満蒙を征せざるべからず、世界を征服せんと欲せば必ず先ず支那を征せざるべからず」との上奏文を出したとされ、日本の大陸侵出の本音と見られた。

●謀略の張作霖爆殺  日本は、満州を支配する軍閥を率いる張作霖を満蒙権益のために支援、利用していたが、日本軍が満洲を占領するには張は排除すべき不要の存在だった。張は一時的に北京政府の実権を握りはしたが、蒋介石の国民政府軍の北伐に敗退したので、奉天(現瀋陽)に引き揚げることになったのだが、到着直前に、彼の乘った列車が爆破され、殺害されたのだ(29年)。
 それは関東軍参謀河本大作らの陰謀によるもので、国民軍の仕業に見せかけようとした。野党の立憲民政党は「満州某重大事件」として田中内閣を追及、軍部も真相をつかみながら公表などはしなかった。これを知ることになった昭和天皇が田中を咎めたことで辞職するまでの事態になった。張作霖の子の張学良は、これを機に国民政府側に入り抗日運動に転じている。

 このように、戦争のきっかけを日本側がでっち上げる謀略は、珍しいことではなかった。
 許されざることだが、戦争の現実にはこうした作為性が付きものであることは知っておくべきだ。また、こうした謀略は戦後など、一定の時間が経ってから明らかになることが多く、当座は真相がわからずに、政府や軍部の情報ばかりが流され、国民はそれを信用せざるを得なかった。

 秦郁彦著の「盧溝橋事件の研究」から謀略とされた例を、いくつか紹介しよう。

1>柳条湖事件 1931.9.18 奉天郊外 石原莞爾中佐ら/満鉄線路爆破、中国軍の犯行とした
2>第2次天津事件 1931.11.26 天津 土肥原賢二大佐ら/軍兵舎射撃を口実に錦州に前進
3>福州事件 1932.1.3 浅井敏夫大尉の命で4台湾人が福州総領事(未遂)、訓導夫妻殺害し出兵
4>僧侶殺害 1932.1.18 上海 田中隆吉少佐ら/関東軍依頼で中国人に日本人僧侶、信徒を襲撃
5>山海関事件 1933.5.20 落合甚九郎少佐/日本守備軍に投爆、中国側の犯行として山海関占領
6>海軍武官室に投弾 1933.5.20 北平 森﨣少佐ら/武官室の皇室紋章に投弾
7>親日中国人の2新聞社長殺害 1935.5.2 天津 酒井隆大佐か/藍衣社(反日、蒋介石側の秘密結社)の犯行とするが、日本軍の主張を押し付ける梅津美治郎・何応欽協定の口実に
8>豊台兵変 1935.6.22 豊台 白堅武、志村正三ら/大迫機関の謀略で北平乗取りを狙い交戦
9>福州謀略 1937.8 福州 陸軍次官の台湾軍問い合わせに、謀者の内偵中の回答 詳細不明

●満州事変前の徴候  明治期に朝鮮を植民地化した日本の次の狙いは、大陸・中国だった。西郷隆盛らが朝鮮への進出を考え、時間を経て実現したように、軍事大国化した日本は狭い日本からの人口移住、資源確保などの視点から、大陸進出が次の課題だった。
 第1次大戦の初期に対華21ヵ条の理不尽な要求を突き付け(1915年)、末期には満州を先行支配したロシアを意識してシベリア出兵に踏み切っている(18年)。さらに、大戦中に、中国本土での抗日運動の高まりの中で、内乱に乗じて3次にわたる山東出兵(27、28年)、さらにはかつて利用した張作霖を軍部の謀略で爆死させている(29年)。そして満州事変(31年)、上海事変(32年)を経て、以降の日本は国際社会からの孤立も辞さずに、戦争への道を突き進み、ついには盧溝橋事件を機に日中戦争(37年)、仏印への侵略(40、41年)に続いて、日米開戦(41年)に至る。ひとたび戦争の方向に舵をとると、止まれないのが「戦争というもの」なのだ。

 満州事変は第2次若槻内閣、幣原喜重郎外相の時代で、その国際協調外交は「軟弱」と攻撃され、日露戦争で父祖の血を流された満州確保、のアピールが戦争の熱気を高めた。事変勃発後の12月、犬養毅首相兼外相に代わるが、翌32年の5・15事件で犬養は殺害され、ここに政党内閣は終わりを告げた。

●中村大尉事件、万宝山事件  満州事変の直前、陸軍参謀大尉中村震太郎ら2人が中国軍に射殺された(31年6月、中村大尉事件)。だが、満州人に変装して農業技師として、中国東北部の興安嶺方面の作戦地誌を調査中だった。彼らは張学良の軍に捕まり銃殺のうえ、焼却され証拠隠滅された。中国軍部は言を左右し、犯行を認めたのは満州事変勃発の当日だった。日本側は、中国軍がいかに凶悪、残忍であるかを大々的に宣伝、国民は敵がい心をあおられ、満州事変へのひとつの導火線になった(同年9月)。
 中村大尉事件の翌7月には、満州・長春に近い万宝山に移住しようとした朝鮮人(当時は日本の統治下)と、土地や農業用水をとられると警戒する中国人の地主や農民ら、さらに日中の警察隊も衝突、これを日本軍や政党、メディアは大々的に取り上げ、対中戦争熱をあおった(万宝山事件)。

 ここで触れておかなければならないことは、日本側の挑発のあくどさだけではなく、被害を受けがちだった中国側も対抗するように、相当な残虐を働いていた記録も多く残されている。戦争というものは、被害者が加害者となり、加害者も被害者になる、という愚かさの応酬を招く、それが現実の戦闘、戦場だということを知っておかなければならない。戦争に踏み切る権力者は、おのれがその立場に身を置くことがないこともあって、非情な武器を用意し、愛国なり、国家への忠誠なり、家族を守るなどの題目を信じさせて、兵士らに殺人を犯させ、時に自らの命を棄てさせるのだ。

●柳条湖事件・満州事変へ  両事件のあった9月、日本軍の総力戦体制のもと満州占領を狙った関東軍参謀板垣征四郎大佐(のち大将、陸相、A級戦犯として死刑)、石原莞爾少佐(のち中将)、奉天特務機関長土肥原賢二(のち大将、A級戦犯、死刑)らが陰謀、実行したのが柳条湖事件だった。奉天(現瀋陽)近くの南満州鉄道の線路を爆破、これを張学良軍の仕業だとして奉天を占領したもので、これを機に全面攻撃に転じて、満州事変になった。
 若槻内閣は戦乱のほぼ1週間後、戦乱の「不拡大方針」の声明を出したが、関東軍はこれを無視、軍事行動を拡大させていった。この現地軍による本国の外交方針の逸脱の責任は極めて大きい。しかし、戦闘の現場にはこうした独走がありがちで、戦乱を拡大してきた。

 ちなみに、彼らの陰謀が判明するのは、太平洋戦争後になってのことだった。そうした軍幹部による悪行が隠蔽され、事実関係のわからない時間が続くと、批判の声も出ず、立ち止まることもできず、怨念の敵対感情ばかりが募り、戦乱をさらに激化させるのだった。事実関係の究明と報道の遅延は、相手国に対する非難と攻撃の国民感情を強め、打開の道を閉ざすばかりだった。

●「満州国」建立と植民地化  満州事変が起ると、その波紋は4ヵ月後の32年1月、上海事変となって拡大する。当時、上海では企業封鎖、在留日本人の帰国など日中間で緊張状態が続いていた。中国民衆の反日行動も高まり、日本軍部は満州事変に対する批判をかわす狙いもあって、上海公使館付陸軍武官補田中隆吉少佐が板垣征四郎大佐の命を受け、日本山妙法寺の僧侶、信者5人をカネで雇った中国人らに襲撃させ、殺傷した事件(前述)が発生した。田中は終戦後の東京裁判で、軍部に不利となる証言をしたとして、話題になった人物。
 この事件では日本軍も大動員をかけ、1ヵ月余の戦闘で日本兵3,000人余、中国兵と住民3万もの死傷者、不明者を出した。また、上海に利権を持った米英なども被害を受け、日本の対応に批判を強めることになった。

 だが、日本側は強気で、この年3月には「満州国」建国宣言を出す。清朝最後の皇帝溥儀を執政とする、いわば傀儡の政権だったが、これは国際連盟が日中紛争の現地調査のため、イギリスのリットンを団長とする調査団を満州に派遣することに、先手を打って既成事実化する狙いがあった。
 日本は、34年3月に満州国を帝政の国とし、溥儀を皇帝とした。だが、実態は駐満州大使、関東軍司令官のもとに日本人官僚が実権、要職を握る偽装の国家だった。その満州には、日本の零細な農民たちが開拓民として移住、軍事的な経済建設が進められた。満州人など現地の民衆は圧制や土地収奪、差別的処遇に苦しむことになった。

 ところで、満州国建国直後の32年4月に現地入りしたリットンによる報告書は、日本の経済的権益は認めながらも、①満州事変以降の日本の軍事行動を正当な自衛とは認めない、②満州国はその地の民族の自発的な独立運動によって成立したものではない、③中国の主権を認め、満州に自治政府を樹立する、とした。だが、日本はこれを黙殺し、9月には「満州国」を承認した。各国は満州国不承認とし、翌33年2月の国際連盟総会でリットン報告書を42ヵ国の賛成、日本の1票の反対で採択。日本側は、これに納得せず、3月に連盟を脱退している。ちなみに、ヒトラーのドイツもこの年に、ムッソリーニのイタリアは37年にそれぞれ国際連盟を脱退している。
 ここに、日本の国際社会での孤立は鮮明になった。

●国際関係の悪化と孤立  日本の国際連盟の脱退は、国際社会からは認めがたい外交姿勢だった。第1次大戦決着のためのワシントン会議(22年)で決められた中国の主権尊重、門戸開放、機会均等などをうたう9ヵ国条約は、37年11月の会議に日本の欠席で成果には結びつかなかった。
 同時に決められたワシントン海軍軍縮条約(英米日仏伊)はその後、1次、2次のロンドン海軍軍縮条約で修正などがあったが、日本は34年12月に条約破棄を通告し、2年後に失効した。海軍軍縮は本来、軍艦、空母などの開発、生産に巨額な経費が掛かり、世界経済の悪化、各国財政への圧迫など各国共通の負担になる問題でもあり、利害を超えた話し合いが成り立っての条約だった。それが戦争の事態となって、自国ファーストに走り、相互信頼を失った結果の条約破綻だった。

 一方で、日独伊の枢軸3国の結束は強まり、少なくとも日本国内では、この3国が世界を征するのでは、などの見方も高まった。日独防共協定(36年/広田内閣)、日独伊3国防共協定(37年/第1次近衛内閣)、さらにファシズムの世界制覇を目指す日独伊3国同盟(40年/第2次同内閣)が生まれた。
 ちなみに、イタリアのムッソリーニは19年にファシスタ党を結成、22年にローマに進軍して独裁政権を握り、エチオピアを侵略する。連合国に降伏したのは43年で、45年銃殺される。
 ドイツのヒトラーは19年に労働者党入り、まもなく実権を握りナチ党と改名、23年の蜂起に失敗するも獄中で、ナチスの理論を『我が闘争』として執筆。ドイツの賠償、世界大恐慌などへの不満をもとに、32年にナチスは第1党になり、33年の首相時に謀略ともされる国会放火事件で共産党を弾圧、34年総統に。39年にポーランド侵入で第2次大戦を起し、ユダヤ人迫害、欧州席巻などを経て45年、自殺する。
 個人的独裁の両国に対して、日本は天皇が指摘されるが、イニシアチブの実態からすれば、官僚、軍部の集団型独裁だったのだろうか。

●官僚、軍部、右翼の戦争への地ならし  戦争への地ならしをしたのは、政府官僚、軍部、右翼などの共同作業だったと言えよう。これを受け入れ、燃え、追随した国民層はどうか。情報過疎、言論弾圧、国家束ねの社会だったことからすれば、国民全般に一義的な責任を問うことはできまいが、反省と自責の念、同じ道をたどらない覚悟は必要だろう。

 クーデター、テロなど暴力による変革の動きが頻発するには、その是非はともあれ、暴力行為に訴える論理、大義名分が必要になる。ヒットラーの場合は、彼自身が論理を作り、アピールした。戦前の日本の場合、その任に当たったのは北一輝だった。彼は『日本改造法案大綱』(1923年)の著述で、国家改造の必要を訴え、クーデターによって軍部の独裁体制を作り、その政権のもとに私有財産の制限、企業の国営化、華族制度・貴族院の廃止などをうたい、天皇は国家改造のために3年間憲法を停止して軍・吏・財・党閥を排除、さらに「国家または人民」のために開戦権を持つことなどの構想を示した。
 北のイデオロギーにどれだけの納得があったかは別として、経済恐慌、都市労働者の貧窮や失業、農村の生活苦、将来展望の欠如など閉塞状態にあった社会状況をとにかく打ち破りたい、との焦燥感が青年将校などを捉え、あるいは権力闘争に臨む軍人や政治家らが論理として活用する風潮が高まったことは事実だろう。少なくとも、暴力の容認に口実を与えたことは、以下の事例から見ても確かだろう。

 ここでは戦争に向けて、仕掛けられた各種の軍部内、右翼などによるテロ、挑発、武力行使などに触れておきたい。

 ・張作霖爆殺(1928年6月) すでに触れたとおり、軍閥を率いる張作霖の乘る列車に爆弾を仕掛け爆殺した。関東軍幹部河本大作らの謀略だった。この謀略を河本に入れ知恵したのは、のち中将になった陸大出の中国通・佐々木到一だと言われている。
 ・山本宣治暗殺(1929年3月) 政府や軍部に対する激しい攻撃の主張を展開した労農党の山本代議士が右翼の黒田保久二に神田の旅館で刺殺された。
 ・浜口雄幸襲撃(1930年11月) 浜口首相が右翼の佐郷屋留雄に狙撃され、病状悪化で翌年4月死去。暴力による政権交代を進める結果に。
 ・3月事件(1931年3月) 陸軍青年将校のクーデター計画で未遂。中堅将校の橋本欣五郎、長勇らの秘密結社である桜会メンバーに、陸軍幹部の小磯国昭、建川美次ら、右翼大川周明、社会民衆党衆院議員亀井貫一郎らが参画。大衆の議会包囲、戒厳令の発令、軍の議会乱入、陸相宇垣一成を首班とする軍事政権樹立といった計画を立てた。だが、意見の不一致、宇垣の躊躇、軍部内の支持不足、計画未熟などで未遂に。戦後まで隠蔽されたが、その後のクーデターなどを誘発することになる。小磯、橋本、大川は戦後A級戦犯に、建川は終戦直後死亡。
 ・10月事件(1931年10月) 3月事件失敗の橋本ら桜会メンバー、右翼の大川、西田税らが、軍部とともにクーデターを計画。9月の満州事変に呼応したもので、若槻首相、幣原外相を殺害、戒厳令下に中将荒木貞夫首班の軍事政権樹立を狙うが、軍内部に漏れて未遂に。軍首脳部は事件を秘密裏に処理。だが、12月犬養内閣登場で荒木は陸相に就任、軍部の政治的進出の契機となった。荒木はA級戦犯で、終身刑に。
 ・井上準之助暗殺(1932年2月) 井上は日銀総裁を経て、第2次山本権兵衛内閣の蔵相として関東大震災後の処理を手掛けた。金融恐慌、世界大恐慌のころに再度の日銀総裁、浜口、第2次若槻内閣の蔵相となり、緊縮財政、公債整理、金解禁を断行したが、不況を深刻化させることになった。海軍予算の大幅削減などでも反発を買い、右翼・血盟団の小沼正に選挙演説に向かう途中に銃殺された。
 ・団琢磨暗殺(1932年3月) 三井財閥(三井合名理事長)、日本工業倶楽部、日本経済連盟理事長、会長など経済界重鎮の団は、三井のドル買い事件で反発を買い、血盟団の菱沼五郎に狙撃され死んだ。
  血盟団は、日蓮宗僧侶井上日召の率いる団体。テロで政界財界要人を殺害し国家改造計画を進めようという右翼集団で、「一人一殺」のもとに、西園寺、若槻、幣原、牧野伸顕、池田成彬らを、井上と同郷の茨城の若者(小沼、菱沼ら)や東大生(四元義隆ら)に殺害させる計画だった。
 ・犬養毅首相襲撃(1932年/5・15事件) 海軍青年将校のファシズム化、国家改造を目指すグループに、井上日召、大川周明らが協力加担、陸軍士官学校生徒らも参加し、首相官邸、警視庁、日銀などを襲撃。犬養首相は翌日死去。さらに、橘孝三郎門下の愛郷塾生による農民決死隊は、東京周辺の変電所を壊して戒厳令を引き出そうとしたが成功せず、政権確保の計画は失敗した。
  軍法会議中、若い将校らの発言内容が大きく伝えられ、その憂国の訴えは助命嘆願や、世論の扇動に貢献することにもなった。経済的困窮、不安定な世相、見通しの暗さのなか、彼らの国家変革を支持する空気は現状打開のための戦争に向かわせる気配をもたらした。
 ・神兵隊事件(1933年7月) 右翼の愛国勤労党、大日本生産党、陸軍中佐らによるクーデター未遂事件。血盟団事件、5・15事件の不調のあとを継ぐ狙いで、首相官邸などを襲い、政界要人を殺害して皇族を首班とする天皇政治に切り替えようとした。大衆の動員は成らず、120-130人が参集したが、探知されて未遂に終わった。 
 ・11月事件(1934年11月/士官学校事件) 村中幸次、磯部浅一ら陸軍皇道派の青年将校や士官候補生らがクーデター計画で検挙された事件。陸軍の皇道派と統制派の対立から、統制派の陸士教官辻政信らが摘発した。両派の対立は、真崎甚三郎教育総監の更迭(35年7月)、永田鉄山斬殺事件(同年8月)を招くことになった。
 ・永田鉄山斬殺事件(1935年8月) 軍内派閥の「統制派」中心人物の永田軍務局長を、「皇道派」の中佐相沢三郎が陸軍省内で「天誅!」と叫び殺害した事件。軍内の抗争の激しさを物語っている。永田は皇道派を抑えて総力戦体制を推進、相沢は真崎教育総監の更迭を皇道派弾圧の一環、と怒り犯行に及んだ。相沢は翌年7月死刑に。
 ・高橋是清蔵相ら殺害(1936年/2・26事件) 皇道派青年将校によるクーデター。11月事件の村中、磯部ら1,400人余の部隊を出動、「昭和維新」「尊皇討奸」を合言葉に、内大臣斎藤実(元首相、海軍大将)、高橋是清蔵相(当時岡田啓介内閣)、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、侍従長鈴木貫太郎(終戦時に首相)に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、国会、首相官邸などを占拠、真崎甚三郎(この事件で無罪)の首班を想定した国家改造を迫るが、海軍、政財界が同調せず、彼らを反乱軍とした。影響を与えた右翼論客の北一輝、西田税の死刑のほか、首謀の香田清貞、村中、磯部ら軍人とひとりの民間人計17人が死刑、26人が禁固刑、自殺が数人だった。

 このように、軍と右翼などが共同したり、主張の異なる派閥や人物を抹殺したり、武力をもって政権を打倒、おのれの主張を通そうとする動きが相次いだ。未遂事件もあったが、その意向を受けて次々に新たな謀略が進められたのは、その根が相当に深いこと、軍部内の不満が高まると名目を立てた言動がまかり通ること、暗い世の中への不満が社会の変革を求めようとし、その武力的変革をも支持する世論が強まること、などが読み取れよう。さらに、概して厳しい処理だった2・26事件は別としても、全体に決起に対する処罰が甘く、再燃の余地を大きく残していたことも反省材料のひとつだろう。

●軍部内の抗争  永田鉄山殺害の項で触れたように、軍部には当初は皇道派、のちに統制派の派閥が力を持ち、政府の組織ではなく、天皇直属の軍隊であることを奇貨として、政治をも動かした。
 皇道派は荒木、真崎らのもとに青年将校群を擁して、暴力革命をも辞さず、国家改造、軍部政権樹立、天皇親政などを主張、「君側の奸を撃つ」「国体明徴」などのスローガンを立て、2・26事件までは主流だった。陸軍大学校出身者は少なかった。
 一方の統制派は、斬殺された永田、そのあとの東条英機らがおり、陸大出身の陸軍省や参謀本部の中堅幕僚が多く、革新官僚や政財界との連携を求めていた。軍としての規律統制を重視したことから、統制派と言われた。軍部統制のもとで国家権力を握り、総力戦体制(政治・経済・思想の全面的な再編成)の樹立を狙った。10月事件以後、旧桜会の流れをくむ永田、石原莞爾、岡村寧次ら合法手段による覇権確立を目指す。34年に皇道派の荒木貞夫に代わる林銑十郎陸相就任により優勢になり、11月士官学校事件、教育総監真崎の罷免、さらに2・26事件後の粛軍で軍の主導権を握った。また林は、統制派幕僚の国家改造計画について述べた「国防の本義と其強化の提唱」(いわゆる陸軍パンフレット)の配布(34年10月)を認めた。

 政府とは別に天皇直下の組織として、巨大な権限を持ち、武力を擁する軍部が国の進路を決めていく。さらにノーチェックで戦争に向かわせていく力を握る軍部の台頭は、いつの時代にも、世界のどの国でも見受けられるのだが、ひとたび台頭してくると、国家の体制変革や戦争への異論排除など、ブレーキがかからなくなる。それが軍部という危険な存在である。

●思想、学問等の弾圧  戦争の方向に向かう中で、邪魔なのは権威と影響力を持つ学者、政党政治家らの存在だ。これを、無理な理屈をつけ、法制度を悪用し、また暴力を振るってでも、とにかく戦争に反対する存在を封じ込めなければならない。そうしなければ、戦争に活路を求めようとする軍、政府、財閥などの権力者の道は閉ざされかねないのだ。
したがって、権力下部の警察、憲兵隊などはこうした存在をやみくもに、かつ広範囲に押さえつけ、一方であまり理解の進まない一般階層を巻き込み、メディアを懐柔して、一定の方向に導こうとする。今の時代からすれば、まさかの世界が展開したのだ。
 しかし、そのような言動の抑圧は突然にやってくるものではなく、じわっと真綿の柔らかさで包みつつ、気付くと首を絞めつけてくる。その気配を早めに察知することは、意外に難しいのだ。
 当時の、いくつかの事例を見ておこう。

 ・滝川・京大事件(1933年) 京都帝大教授滝川幸辰(刑法学)の著書『刑法読本』が自由主義の学説、共産主義的として批判され、休職後退官に。法学部教授全員が抗議して辞表を提出、佐々木惣一、末川博の辞表は受理され、恒藤恭らも免官に。大学の自治、学問の自由を求めた運動は各大学にも波及したが、この事件を機に学生運動は弾圧され、大学の自治も崩れた。
  時の文相は鳩山一郎。戦後、滝川は京大総長に。
 ・天皇機関説問題(1935年) 東京帝大教授(憲法学)美濃部達吉は著書『憲法講話』(12年)で、天皇は国家の最高機関として憲法に基づいて統治権を行使する、との天皇機関説を主張した。
  だが、同じ東大教授で保守主義者の中核だった上杉愼吉は皇国史観に立ち天皇主権を主張、「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」として美濃部論をはげしく批判した。
 ・国体明徴声明(1935年8月、10月) 美濃部の天皇機関説は、貴族院議員で軍人出身の菊地武夫が反国体的学説だと猛攻撃、また不敬罪で告訴される。岡田啓介内閣は美濃部の著書を発禁、貴族院議員を辞職させる。この内閣は「所謂天皇機関説は神聖なる我国体に悖(もと)り、其本義に愆(あやま)る」との声明を、2度にわたり表明した。これには、政友会、右翼、軍部などが同調し、在郷軍人会なども動いた。  
 ・矢内原事件(1937年) 東京帝大教授矢内原忠雄(植民地政策)が「中央公論」に「国家の理想」のタイトルで書いた、国家の理想は正義だとの主張が反戦的だとして批判される。教授を辞職。戦後、東大総長を務めた。
 ・第1次人民戦線事件(1937年) 衆院議員加藤勘十、黒田寿男、社会主義者山川均、日本無産党書記長鈴木茂三郎、荒畑寒村、岡田宗司、向坂逸郎、大森義太郎ら446人が、反ファシズム人民戦線を計画したとして検挙。
 ・第2次人民戦線事件(1938年) 大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、宇野弘蔵、美濃部亮吉、佐々木更三、江田三郎ら労農派学者、活動家38人が検挙。国体論への疑問、私有財産制限などの主張を問題視された。3・15、4・16の両事件(28、29年)で共産党員が根こそぎ検挙された事態に続くもので、影響のある人物に対する広範囲の左翼弾圧とされた。
 ・河合事件(1938年) 東京帝大教授河合栄治郎(経済学)は自由主義者だが、『ファシズム批判』『時局と自由主義』などの著書が発禁処分とされ、休職に。出版法違反で起訴され、最高裁で棄却に。
 ・津田事件(1939年) 早大教授津田左右吉(東洋史学)は、『日本書紀』の聖徳太子の実在性などの批判的記述を、右翼の蓑田胸喜らに不敬罪だと批判され、出版法違反で裁判を受けたが、時効で免訴に。戦後、津田史観として注目された。

●左翼の転向、右翼の台頭  1928(昭和3)年は第1回の普通選挙が実施され、少数議席とはいえ無産政党の進出ぶりに政府や軍部は驚いた。その直後に、3・15事件、4・16事件と呼ばれる共産党活動家の大量検挙があった。その際、共産党最高幹部の佐野学、鍋島貞親も検挙されたが、満州事変後の1933年には獄中にあって厳しい圧迫、肉体的な拷問などの前に思想的に転向する。
 これを機に、同党シンパにとどまらず、自由主義、社民主義、あるいは労農運動などに関わる人々は相次いで転向、この流れは当然、戦争に反対する勢力を大きく抑えることになった。

 一方、戦争遂行による日本の大陸進出を進める国家社会主義グループなど右翼の動きが高まっていく。戦争に期待を持つ国民各層は、この威勢の良い集団の動きを受け入れ、それが世論に溶け込み、戦争の高揚につながっていく。民意は大きな流れに引き込まれやすく、とくに戦時下では異論をはさむことは難しく、大勢に追従しがちな傾向を証明した。

 左翼に論客、理論家がいるように、右翼にも理論を構築し、共鳴する人々を行動にかき立てる機能がある。左翼が弾圧されれば、右翼が頭を持ち上げるのだ。右翼グループは多様で、分流しがちだが、傾向としては天皇・国家への忠誠、反共産・社会主義、民族心や愛国教育重視、国粋主義、伝統や古来の文化尊重と排外傾向、家父長的家族制度尊重、軍事力強化論、教員を含む知識層やメディアへの警戒、直情的行動力などの点で共通すると言えるだろうか。国家社会主義のような国家力による統制政治をも含む。
 また、理論派から行動派まで、さまざまである。このグループの一部は、血気にはやり、暴力に走ることもあり、また大陸浪人など素行上の問題があったり、金品の不正があったり、また戦後につながる右翼集団、あるいは右翼を名乗る暴力組織にも近いものもあり、理論逸脱の一面が脅威を誘うこともある。

 時代を超えて触れれば、国粋的な立場で資本論を大正期に翻訳し、もともとは左翼理論に組みした高畠素之。先に触れたように独自の右翼の立場を理論化した北一輝。無産党、労働運動から国家社会主義に転向した赤松克麿。帝大教授として天皇主権説を説き、岸信介、安岡正篤を教え、興国同志会、帝大七生社などの右翼学生の源流となる組織を設け、学外では赤尾敏、津久井竜雄、蓑田胸喜、大川周明、平沼騏一郎らの右翼の面々と運動をともにした上杉愼吉。血盟団事件参加の帝大生の4人は上杉の関わる興国同志会メンバー。さらに、大アジア主義の玄洋社の頭山満。ロシアに反感を抱いた黒龍会の内田良平。それらの思考は多彩だった。

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 こうして戦争ムードが高まると、国情は一枚岩的に好戦ムードに包まれる。国際的感覚が乏しく、特殊なプライドに固まった日本は、混迷を続け、国力を弱めた中国、国際的に仲裁機能を発揮できない帝国主義的侵略を進めてきた先進国を相手に、独走していく。
 次回は、泥沼化した大陸での戦闘を仏印、現代のインドシナ半島から太平洋に向けて転進させ、さらにアメリカなどを相手に第2次世界戦争に「転進」していった実態と背景に触れていこう。

 (「オルタ編集委員、元朝日新聞政治部長)

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