【コラム】大原雄の『流儀』

戦争体験を引き継ぐ・歴史を学ぶということ
〜映評:『祖父の日記帳と私のビデオノート』・『海へ 朴さんの手紙』、劇評:『郡上の立百姓』〜

大原 雄


★★ 映評:戦争体験を引き継ぐ
 『記憶の中のシベリア 祖父の想い出、ソウルからの手紙』

 シベリア抑留体験について映像を通じて若い世代にも引き継ごう、と決意した30歳代の女性監督・久保田桂子作品(ドキュメンタリー映画)が10月8日から21日まで、東京・新宿の映画館で初めて劇場公開されている。公開は『祖父の日記帳と私のビデオノート』・『海へ 朴さんの手紙』2作品同時。その後は、各地で上映活動を続ける予定。

 ひとつは、『祖父の日記帳と私のビデオノート』。久保田監督の祖父に生前にインタビューをしながら、戦争体験をベースに晩年の祖父の生活ぶりを孫娘の視点で描いたもの。テーマは違うが、前号のコラムで紹介した蔦哲一朗監督作品「蔦監督」も、孫の世代の映画監督が高校野球の監督(池田高校野球部)だった蔦監督という、祖父の人生を描いたものだった。
 もう一つの作品は、『海へ 朴さんの手紙』。祖父と同世代で日本軍の軍隊体験とシベリア抑留体験のある韓国人の戦争体験についてインタビューを主体にしながら描いている。

 ふたつの映画に登場する人物たちの関係年表を作っておくと理解し易いと思うので、まとめてみた。敬称略。

 1)『祖父の日記帳と私のビデオノート』関係

・久保田直人(久保田監督の祖父)
 1920年、長野県生まれ。農業青年。1940年日本軍入隊、戦場は中国・北支。1945年シベリア抑留、1949年帰国。農業に従事。2012年、没。92歳。

・久保田桂子(監督)
 長野県生まれ。2004年よりドキュメンタリー製作を始める。

 2)『海へ 朴さんの手紙』関係

・朴道興(パク・トフン)
 1924年、朝鮮半島の北部、平安南道生まれ。家具職人(指物師)を経て、1944年、植民地下の朝鮮半島で、第1期(300人)として徴兵され日本軍入隊、北海道の色丹島、船舶部隊に配属。ここで、同年の日本人青年の山根秋夫と出会う。兄弟のよう、一心同体の関係となる。1945年一緒に捕虜となり、シベリア抑留、1948年病気(凍傷)になり、朴の入院などをきっかけに色丹島の軍隊・シベリアの収容所と生活を共にした山根と生き別れとなった。以後、会えず。1949年北朝鮮に帰国。1950年朝鮮戦争で北朝鮮軍に入隊。捕虜として釜山沖の収容所へ。解放後、北朝鮮への帰還を拒み、韓国軍に入隊。除隊後、技術を生かしてピアノ工場に勤める。ソウル郊外で生活していたが、今年、2016年8月逝去。92歳。久保田監督作品も完成を見ることなく亡くなった。
 日本軍隊生活、シベリア抑留生活をともに体験した山根の消息を求めて、記憶に残る不確かな住所宛に戦後、手紙を出し続けたが、全て届かなかった。

・山根秋夫
 1924年、広島県生まれ。貨物船の仕事。1944年日本軍入隊、北海道の色丹島、船舶部隊に配属。ここで朴道興と出会う。1945年一緒にシベリア抑留。1948年、色丹島の軍隊、シベリアの収容所と生活を共にした朴の入院を経て、生き別れとなった。1949年帰国。会社員、共産党入党、地域の党活動に従事。1952年職場の同僚だったみすえと結婚。1963年、没。39歳。

・山根みすえ
 広島県生まれ。復員後の山根秋夫と結婚。秋夫没後、秋夫の弟と再婚。

★映画のテーマ(1)

 『祖父の日記帳と私のビデオノート』のテーマは、農村出身の純朴な青年たちはいかにして日本軍兵士になったか。ある元農業青年出身兵へのインタビューの試みを通じて2世代前の、普通の青年たちの戦争体験を再現し、それを引き継ごうという試み。祖父たちの世代から直に戦争体験、特に軍隊体験(90年以上前)を聞くことができるのは、そろそろ限界、という危惧がある。

 孫の監督久保田桂子に強く残る祖父・久保田直人の記憶は、いつも黙々と畑を耕し、市販の農業日記の記述欄に、天気、作物の出来、身辺雑事を几帳面に書き留めていること。その日記は、もう何冊にもなっている。祖母を亡くした後、独り住まいをし、老後の生活を慎ましく生きている、普通の農業老人。監督が訪ねると畑で作った作物を食べさせてくれる。スイカなどは土産に持たせてくれる。普通の農業老人は、普通の農業青年として生きて来られたかもしれない。普通の農業青年が結婚をし、普通の農業中年になり、普通の農業老人になってもおかしくはない。そういう人生の方が多いかもしれない。

 ところが、祖父には青春期に戦争という重い影が覆い被さってきた。幼くして父を失い、苦労した。やがて20歳になり、青年は1940年に軍隊に入隊し、中国の当時の北支(現在の中国北部。第二次世界大戦頃まで日本国内では同地域を「北支」、「北支那」などという名称で呼んでいた)へ、派兵された。
 5年間の軍隊生活では、当然戦闘行為にも駆り立てられたことだろう。異国に侵略した軍隊の要員として青年たちは皆、強いられて、異国の人々を殺めたかもしれない。異国の兵士を殺したことはあったかもしれない。異国の普通の生活者を殺したかどうか。日本軍の仲間が異国の兵士に殺される。あるいは民間に紛れたゲリラ兵、便衣兵(べんいへい。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする兵士のことをこう言った)に襲われ、対抗して銃を撃ったかもしれない。剣で殺したかもしれない。戦闘行為の中で仲間が殺されれば、兵士となった青年の気分は、異常な高揚状態に置かれるだろう。
 敵対する、あるいは抵抗する、あるいはたまたま遭遇した、全ての異国の人が「敵に見えてくる」と、口の重い祖父でさえ、インタビューに答えている。戦場に駆り出された青年たちの共通の感覚かもしれない。国家から兵士にさせられた普通の青年が異国に派兵されて、場合によっては、全ての異国の人が敵に見えてくる生活を余儀無くされる。それが、戦争というものだ、というテーマが浮き彫りにされて来る。安保法制化が強行採決されるような時代だから、今、余計にリアリティがある。

 敗戦後、祖父は直ちに日本への帰郷は叶わなかった。敗戦と同時に侵攻してきたソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留されたのだ。クラスノヤルスクの収容所に入れられた。極寒の地で4年間に及ぶ過酷な労働を強いられた。
 ところで、今年10月4日〜10日、東京・九段下の「九段生涯学習館九段ギャラリーで、平和祈念展示資料館主催の「シベリア抑留を描く」という展示会が開催された。収容所、強制労働、遺体処理などのテーマで描かれた絵画を筆者(私)も見る機会があったが、収容者たちの記憶に基づく生々しい絵画の数々は、まさしく、「記憶の中のシベリア」だ。久保田監督の祖父も、同様の体験を強いられたことだろう。祖父は1949年、舞鶴経由で長野県に帰郷した。以後、結婚をし、故郷の地で死ぬまで農業に従事する。

 軍隊生活、シベリア抑留生活、合わせて9年間。語りつくせないほどの体験を青年時代の祖父はしたことだろう。また、普通の人が己の体験を他者に判るように伝えることは、難しかろう。記憶も日々薄れてゆく。祖父の証言は断片的で、監督の得心には至らない。そういうもどかしさが画面から伝わって来る。やがて、祖父は認知症になり、以前にも増して孫娘とのコミュニケーションが取りにくくなって来る。祖父の死後、監督は祖父の書き残した農業日記を読み、従軍中の写真、戦前の家族の写真などを元に祖父の戦争体験を記録しようとする。

★映画のテーマ(2)

 『海へ 朴さんの手紙』のテーマは、人生の「同伴者」(時空を共にする人)になったことで、さらに時空を超えて「想い」を共有する人々を描く。

 朴道興(パク・トフン)が出てくる画面を見ていて、とても印象に残った言葉があった。久保田監督の「日本軍」に徴兵された感想を尋ねるインタビューに答えて朴は、こう言ったのだ。「おもしろかった。楽しいこともあった」と。監督も、あるいはこのドキュメンタリー映画を観る観客も、こういうインタビュアーの問に対して、徴兵を呪うか、抑圧する植民地の軍隊を批難する言葉が出てくると思ったのではないか。実は、筆者(私)も画面を見ていてそう予想した。そしたら、朴は、「おもしろかった」と、心底からにこにこしている感じで、言い放ったものだ。

 朴は5歳で父親を亡くし、家族離散、8歳で奉公に行った。軍隊に入る前に、幼い時から過酷な人生を経験している。軍隊では、上下関係がはっきりしている、同年なら同じ待遇、皆、同じ服を着ていて、差別されない。1944年に日本軍に徴兵され、北海道の色丹島に派兵された。シベリアほどではないにしても、極寒の地である。苦労もしたであろうが、軍隊では徴兵前の生活で受けたような差別がなかったという。軍隊の上下関係ははっきりしていたので、命令を受けても苦にならなかった、という。その辺りが朴のいう軍隊は「おもしろかった」という感慨に繋がっているのだろうが、まだ、画面を観ていて私には腑に落ちない。
 やがて、朴にとって軍隊体験というのは日本人青年・山根秋夫との出会いだったことが判ってきた。韓国人・朴道興にとって、日本人・山根秋夫との運命的な出会い、戦時中の軍隊生活から戦後のシベリア抑留の捕虜生活まで、苦楽を共にした同年の青年同士の、いわば「珠玉の青春時代」は、朴にとって、ほかの苦境を乗り越えて、「おもしろかった」という一言でしか表現できないような凝縮された至高の時空だったのだろう。異国の地、色丹島での下級兵としての軍隊生活。同じく異国の地、シベリアでの捕虜としての抑留生活。ともに過ごした山根秋夫という青年との同伴生活を思い起こせば、すべての労苦も吹っ飛び、山根秋夫との、兄弟同様、一心同体の、時空共有の生活という、「おもしろかった」思い出にのみ収斂されてしまうのではないか。

 朴は、戦後も苦境を生き抜く。1949年、シベリアから朝鮮半島北部の故郷に帰った。1950年、朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争に北朝鮮軍の兵士として参加、北朝鮮軍の侵攻の果ての退却で、韓国で捕虜になり、釜山沖の収容所に収容される。収容所から解放されると韓国軍に入隊。除隊後は、韓国に住み、工場勤め生活を送る。生活が落ち着いた頃から、日本軍・シベリア抑留時代の親友・山根秋夫の消息を求めて手紙を書き出す。ただし、宛先の住所は、うろ覚えのママ。「広島県秋田郡 山根秋夫様」。何通も送ったが、全て届かなかった。

★ふたつの映画に共通するもの

 久保田監督は、『祖父の日記帳と私のビデオノート』製作をきっかけに祖父の世代のシベリア抑留体験者に興味を抱くようになった。日本ばかりでなく韓国にも体験者に会いに行くようになり、7人のシベリア抑留を体験した韓国人の「元日本兵」から話を聞いた。この中に朴道興がいた。ほかの人たちが、植民地時代や日本軍での苦労を踏まえて、日本への憎しみなどを語るのに対して、朴は、日本軍時代に出会った日本人青年・山根秋夫のことを語った。「おもしろかった」「今も彼を思い出す」。届かない手紙のことについても触れてきた。朴が覚えているという山根秋夫の住所は不完全で結果的には架空の住所だった。

 やがて、久保田監督は、「広島県秋田郡」というのは、「広島県安芸郡」の間違いではないかと、思いついた。朴が言う山根秋夫の生まれた地の特徴などから安芸郡の中のある町(坂町、さかちょう)が推測され、坂町役場に問い合わせた結果、朴に依頼されてから2年後、山根みすえと連絡が取れ、山根秋夫の消息も判った。山根秋夫はすでに亡くなっていたが、久保田監督は、秋夫の弟と再婚していたみすえ夫人に会うために広島へ向かうことになった。久保田監督は、みすえ夫人と話をすることで、山根秋夫の魅力を知らされる。

 朴を魅了した山根秋夫は、みすえ夫人をも魅了していた。みすえ夫人は、結婚前に職場の同僚である山根秋夫に書き送ったラブレターを今も大事に保管していた。朴の山根秋夫への届かなかった手紙。これもラブレターのようなものではないか。みすえが結婚前に書いた山根秋夫への真のラブレター。

 これらは、時空を超えて、男女の性差や民族の違いを超えて、人と人を繋ぐ「想い」というようなものではないのか。貫く一本の棒の如きものではないのか。朴道興=山根秋夫=みすえという存在が連鎖する。3人は、魂の色が似ているのかもしれない。3人を繋ぐのは、魂が直接触れ合ったような想いの共有意識。

 自分の幼い頃の写真を持ち出したみすえ夫人は、久保田監督が自分の少女時代の顔と似ていると言い出す。想いが、それぞれの顔に出て、似て見える、のではないか。

 「風景の中に彼らの存在を感じます。朴さんやみすえさんは、こんな風に日々山根さんと再会し、ずっと一緒に生きてきたのだろうと思ったのです」。映画を完成させた久保田監督の言葉である。山根秋夫から発せられた想いは、久保田監督にも貫かれているように私には見えてくる。シベリアに抑留されたと言われる約60万人のうちには、亡くなったり、消息不明になったりした人たちも多いと推定される。こうした人々への思いも、時が経つにつれて、歴史の隙間に落ちて行く。落ちてしまえば、もう取り戻せない。

 こうした一人ひとりに、同じような物語が秘められていることだろう。そういえば、久保田桂子の祖父への想いも、やはり愛に裏打ちされている、ように感じ取れた。

*この映画は、10月8日(土)から21日(金)まで、東京・新宿の K's cinema(ケーズシネマ/03-3352-2471)で公開されている。
*さらに、10月22日(土)から28日(金)まで、名古屋・シネマスコーレ、10月30日(日)は、松本 cinema セレクトで、それぞれ公開されるほか、その後も大阪・第七藝術劇場、横浜シネマリンなどで順次公開される予定という。

★★ 劇評:歴史を学ぶ
 『郡上(ぐじょう)の八幡(はちまん)出て行く時は 雨も降らぬに袖絞る…』

 青年劇場第115回公演『郡上の立百姓(たちびゃくしょう)』を観た(9月)。岐阜県郡上市の城下町・郡上八幡に400年前から伝わっている盆踊り「郡上踊り」(7月中旬から9月上旬まで33夜、徹夜踊りを含め毎夜踊り続けられる)には、江戸時代、年貢の収め方を「定免取(じょうめんとり・定額徴収)から「検見取(けみとり・検地を元に収穫高で徴収。結果として実質的な増税になる)」に変えるために長い間実施されなかった検地をしようとした当時の藩主(金森頼錦・かなもりよりかね)に対抗して一揆を起こした百姓たちの歴史が刻まれている。「郡上一揆」として語り継がれた。青年劇場公演の『郡上の立百姓』は、1754(宝暦4)年の一揆から1758(宝暦8)年の処断まで、実に足掛け5年に及ぶ農民たちの粘り強いレジスタンス(農民闘争)を描く群像劇だ。東京の紀伊国屋ホールでの上演を観たが、100人に及ぶ劇団員総出演の舞台は狭かった。歌舞伎座のような広い舞台で上演できたら、もっと迫力があったと思う。しかし、舞台だけでなく、観客席の通路をも十二分に活かして、迫力のある舞台を展開してくれた。

★「寝百姓」と「立百姓」

 1754年、農民たちは庄屋を先頭に南宮神社(八幡町)に集まり、「唐傘(からかさ)連判状(丸く円形に署名する。首謀者を判らなくする意味もあったが、特にリーダーがいない集団指導制だった証でもある)を認(したた)めた後、八幡城御蔵会所(おくらかいしょ・年貢を受け付ける窓口)に押し寄せ、「検見取」反対を申し入れた。5年に及ぶレジスタンスの始まりだった。

 郡上八幡の百姓一揆では、闘争の過程で藩政に従順な百姓たちを「寝百姓(ねびゃくしょう)」と呼び、対抗した百姓たちを「立百姓(たちびゃくしょう)」と呼んだ。郡上藩当局ばかりでなく、江戸幕府も介入し、収拾を図る「評定(裁判)」は、1758年7月から12月まで半年も続き、300人もの農民たちが、遠く江戸の「御白州(おしらす・法廷)」まで呼び出された。裁判では、喧嘩両成敗で、「騒いだ」農民だけでなく、騒ぎの元を作った郡上藩主を含む藩の役人、途中から介入した江戸幕府の役人らも処断された。藩主は、南部藩預かりとなった。もっとも苛烈に処断されたのは、やはり農民で、駕籠訴(かごそ・登城途中の老中の駕籠に強引に訴状を提出する)や箱訴(はこそ・評定所の目安箱に差出人明記で訴状を入れる制度)をした故に、獄門(ごくもん・斬首の果ての晒し首)となった3人を含む死罪14人など、合わせて100人近くが処分された。

 藩主処断の後、新たに郡上藩主となった青山幸道(よしみち)が、藩内の士農工商の融和を図ろうと無礼講の踊りを奨励したのが「郡上踊り」の始まりというが、定かではない(青山幸道は、後に飛騨藩の同じような検地をめぐる「大原騒動」にも隣藩として要請を受けて一揆鎮圧に協力している。贅言;東京の「青山」は、郡上藩の青山氏の江戸屋敷があり、地名の謂れとなった)。踊りは10種類で、江戸時代郡上八幡城下のあちこちの村で踊られていた踊りを集めた、という。いわば地域連合の踊りだ。

★青年劇場の舞台

 青年劇場の芝居『郡上の立百姓』は、二幕構成、休憩15分を挟んで、正味3時間20分に及ぶ。幕の構成は以下の通り。

*プロローグ「南宮(なんぐう)神社(宝暦四年)」。
*第一幕・第一場「定次郎の家(宝暦五年)」、第二場「母野(はんの)」、第三場「同(数時間後)」、第四場「那留ケ野(なるがの)」、第五場「前谷(まえだに)村」、第六場「長瀧(ながたき)神社の山の中」、第七場「南宮神社の祭り」。
*第二幕・第一場「下川(宝暦六年)」、第二場「庄屋又左衛門の家」、第三場「牢獄(宝暦七年)」、第四場「歩岐島(ほきじま・宝暦八年)」、第五場「定次郎の家」。
*エピローグ「八幡(宝暦九年)」。

 芝居では、庄屋を巻き込んだ農民たちの激しいレジスタンスで、郡上藩は農民の要求を一旦は受け入れながら、1年後には、庄屋衆を切り崩す。次いで、組頭が切り崩される。庄屋衆、組頭の裏切りで、逆に農民たちは団結を強める。

 「へいへい言っとったら骨の髄までしゃぶられるんやぞ」「百姓もんなあ、丸いばかりじゃだちかんのや」。

 しかし、農民たちも切り崩され、立百姓と寝百姓に分断されて行く。農民闘争における内部対立。貧富の差の拡大。本百姓の中にも、村役人を務める「大前(だいまい)百姓」とほかの「小前(こまい)百姓」に分かれる。先鋭化した農民たちは、村の帳元(ちょうもと・指導者)を軸に、江戸幕府を相手に駕籠訴、箱訴へと運動をエスカレートさせて行く。芝居では、定次郎の家族を中心に描かれる。訴人の一人として江戸の徳川幕府より郡上藩主に引き渡された定次郎は、郡上で牢獄に繋がれる。その果てに、梟首となる。芝居の進行に合わせて、適宜、郡上踊りの数々が挟まれる。その哀調が芝居を盛り上げる。

★農民コミューン

 『郡上の立百姓』の原作者の、こばやしひろしは、次のように書いている。
 「立百姓の苦悩はどの時代でも同じである。自分を保つことが、人間の尊厳を守りぬくことが、いかに大へんであるかを示していた。私はそこに歴史の重みを感じた。私が(郡上一揆に/注・引用者)取りつかれた理由はそこにあった。それだけではない。もう一つ注目しなければならないのは、この一揆を見るに、そこにすでに農民の自立があったということである(略)。郡上の農民は一時的ではあるが、庄屋の入国を拒否し、庄屋の治めない農民コミューンをつくったのである。そして年貢の納入を拒否したのだ」(青年劇場『郡上の立百姓』パンフレット掲載文より孫引き)。

 明治維新期の自由民権運動に私は思いを馳せる。士族民権から豪農民権、さらに「秩父困民党」に象徴される農民の民権運動へと進化して行くプロセスと郡上一揆の「百姓もんなあ、丸いばかりじゃだちかんのや」という、農民の人権意識の進化とが重なって見えてくる。江戸期の郡上一揆 → 明治期の自由民権 → 去年から今年にかけての、安保法制化から憲法改変に向けての一連の動き。それに対抗する反・安倍政権運動へと、市民のコミューン運動に潜む地下水脈は、今も脈々と流れている、と思うべきだろう。そして、世間を抑圧する右傾化を抑えこみ、新たな澪へ、たどり着けるか。

 (ジャーナリスト・元NHK社会部記者・日本ペンクラブ理事・オルタ編集委員)


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