【コラム】大原雄の『流儀』

戦場で孤絶するということ……『戦争』とはなにか。

大原 雄


 この夏、話題になりそうな2つの戦争映画を試写で観た。映画「野火」(日本)と「ベルファスト71」(イギリス)。たまたま、ほぼ同時期に一般公開される映画ということなのだが、国会の戦争法案審議を横目に見ながら、二つの映画批評の共通性を大原流で見つけ出してしまったので、一緒にして「戦場で孤絶するということ……『戦争』とはなにか。」というタイトルをつけて、映画批評として書いてみた。

◆1.映評「野火」 : 兵士が人肉を喰らう時。

 映画の「野火」というタイトルについている英語名は、Fires on the plain である。直訳すれば、「平原のあちこちに上がる火」ということか。春先の野の枯葉を焼き、虫を駆除する野火というよりも、「古事記」なら、「民のかまど」の炊煙であろうか、と私は思う。

 「民のかまど」とは、難波を拠点に天下を治めた仁徳天皇の「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑わひにけり」のことで、竃(かまど)から炊煙が立ち上っていれば、煙の下に人が生活をしている、ということであろう。為政者の民の管理法のひとつ。

 「野火」ではどうか。人が生活をしているということは、同じだろうが、ここは、もっと即物的で、つまり、食べ物があるということである。つまり、映画の「野火」の、英語の名の Fires on the plain とは、極限的な飢餓状況に追い込まれた兵士たちが夢見る食べ物の有り処。食事をし、排泄をし、時にセックスをする平常の人の営みの場を意味し、「戦場」に追い込まれている兵士とは、対局の環境を象徴している。クレジットタイトルの後に展開される作品世界は、小説であれ、映画であれ、「平常」の営みの対極にある「異常」の戦場、それも極め付けな、「異常」の世界を描いている、ということだろう。

 小説『野火』と言えば、日本人は、多くの人が大岡昇平原作を思い浮かべるに違いない。日本戦後文学の代表作の一つであり、第二次世界大戦を素材にした世界規模の戦争文学の「金字塔」と言っても過言ではない名作である。

 大岡昇平がフィリピン・レイテ島での自分の戦争体験を作品化した。戦場を彷徨し、死を目前とした極限状況のなかで人間は如何に振る舞えるか。否、振る舞うべきか。否否、振る舞わざるを得ないか。殺人、人肉喰い。戦場というこの世の地獄は、神の怒りの痕跡をとどめているのではないか。そういう問題提起の書である。この作品は1951(昭和26)年に雑誌「展望」に掲戴された後、翌1952年に創元社から単行本が刊行された。

 これに先だって1948年に発表された『俘虜記』は、特に前半の俘虜になる前の同じような兵士が戦場彷徨のなかで遭遇した敵のアメリカ兵を狙撃しなかったとき、主人公は神の意思を感じる。『俘虜記』が神の意思による凶行の引き止めを提起したなら、『野火』は、凶行に突き進んでしまった果ての狂気に対する神の怒りの掲示だろうか。この両作を合わせ読むとき、この頃の大岡文学は神のあり方をテーマとした一種の宗教小説であることも判る。

 この作品では、戦争は、他国の敵と戦うだけが戦争ではなく、戦場という極限状況を作る装置の下では、場合により、兵士は仲間の兵士を殺すことにもなる、と提示する。否それだけではない。飢餓の状況では、自国の仲間の兵士と殺し合いを演じた果て、殺してしまうだけではなく、殺した兵士の遺体を解体し、恰も「精肉」のように「食品」加工をし、それを喰らう、という行為までなさせる、ということを文学化するものだということ、いわば実体験を基底に極限状況の「検証」を試みた作品であるということが判る。

 いま、国会で審議されている、いわゆる「戦争法案」は、「◯◯事態」などと抽象的な概念で議論をしているが、戦争とは、戦場とは、こういう状況に人間を追い込むものであり、そういう場だということを具体的に思い浮かべながら政治家は議論すべきだろう。国会の審議で繰り返し述べられているような安倍政権の抽象的な答弁のまやかしを飛ばすような起爆性がこの反戦映画にはある。
 そういう意味では、当初の予定通り6月末に国会が終わった後ではなく、国会の会期が秋まで大幅に延長されたただなかで、この映画「野火」が公開され、それを契機に原作の『野火』や『俘虜記』が多くの人たちに読まれることを期待したい。『野火』や『俘虜記』を読み、あるいは読み返しながら、国会の政治家たちの抽象的な論議の実相(先の戦争のように、後方支援=兵站が断たれると最前線の戦場では、兵士同士の人肉喰いもあり得る、というリアリズム)を見抜いて欲しい。

 馬肉人肉あさる犬らよ枇杷の花  藤花

 大岡昇平の『野火』という作品では、知的なサラリーマン出身の兵士を経験した作家らしく知的な衣装を着ている。仲間を殺し、その人肉を喰らうという行為がこの作品のテーマなのだが、大岡は、それにキリスト教の神の問題を絡めて作品化している。

 この小説『野火』には、実は映画「野火」という作品が、ふたつある。最初のものは、雑誌掲戴から8年後、1959(昭和34)年、1960年の安保「騒動」、日米安保条約の締結問題を巡る事件の前年に公開されている。監督は、市川崑。主演の田村一等兵役に船越英二、その他の主たる出演者として、永松にミッキー・カーチス、安田に滝沢修。この他、癖のある脇役として、浜村純、中條静夫、佐野浅夫、石黒達也などの名前が見える。御殿場でロケをしたというモノクロ作品。私は残念ながら未見。

 極限状況の人間の異常さがテーマとなっているが、小説映画を問わず、この作品の象徴的な場面となる人肉を喰らうというシーンだが、市川崑監督作品では、主人公の歯が悪いことを理由に人肉を喰らうことを描いていない。

 映画化に当っては、「リアルに伝えなければいけない」(塚本晋也)。今回の塚本晋也監督作品では、小説の原作通りに、田村一等兵(塚本晋也)に猿の肉と称する人肉を喰らわせる場面がある。仲間の安田(リリー・フランキー)を永松(森優作)が殺して、まず、生き血をすする。スクリーンの外から、音が聞こえる。更に、安田の手足を切り捨て、精肉に加工する場面も間接的な映像(即物的ではない描き方。観客の脳内に想像力を働かせようという演出)ながら描かれる。

 この象徴的な場面こそ、小説と映画・市川崑監督作品、塚本晋也監督作品という3つの『野火』の違いを強調するポイントになるだろうと思う。ただし、どの作品も、文学も映画も、表現は、戦争を告発する、という基底は共通している。

 さて、そろそろ、今回の主題の塚本晋也監督作品の『野火』に触れて行こう。映画化の構想、実に、20数年という。発端は高校生のときに読んだ監督の文庫版の『野火』読書体験。塚本晋也は、長年、いろいろな構想を元に準備を進めながらも、資金難などでなかなか映画化に漕ぎ着けられなかった。3つの案を考えていたという。1)小規模なアニメーション映画の製作。2)出資会社を見つけて、大規模なスペクタクル実写映画の製作。3)小規模な実写映画の製作。現実的なのが、1番。当時いちばんやりたかったのが、2番。出資会社が興行的に二の足を踏んでいると思っていたら、世の中右傾化してきていて、反戦映画への支持の低下に気づかされた、という。

 しかし、2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島原子力発電所の未曾有の事故体験。原発による環境破壊は、戦争による環境破壊と同じだ。否、それ以上かもしれない。そもそも原発推進計画の背後には、戦争の影がある。つまり、原発製造能力=核兵器製造能力の誇示(抑止力)があるのではないか。いつまでも待ってられない。監督自身の会社の自主製作・自主配給での映画化という道しか残されていない。現実的なのは3番しかなかった。塚本晋也監督は、なんと製作・監督・主演・編集・脚本・撮影の6役を兼ねた。資金倹約のためだし、結局は塚本監督の映画術の基底にも添うことだったのだろうと理解する。2012年、塚本の映画化へのエンジンにスイッチが入った。2013年3月、大岡昇平の遺族からの映画化許諾の実現となった。

 原作者・大岡昇平と基本的に等身大と思われる主人公の田村一等兵(塚本晋也)は、肺病病みの、軍隊では厄介者。原隊からは、わずかな食糧を持たされて、野戦病院へ行けと追い出される。患者で満杯の野戦病院の軍医には、食糧を取り上げられた挙げ句、「治った」と早めに宣言されて、病院からも追っ払われる。以後、田村一等兵は、原隊と野戦病院の間を振り子のように行来させられるが、行き場所が無くなる。飢餓の果ての迷走状態に陥る。極限状況での戦場彷徨の始まりである。ひもじい。食糧も何も持たない敗残兵。誰も相手にしてくれない。絶対的な孤独。独りぽっちで、フィリピンの密林地帯を彷徨う。ロンリー・ソルジャーにとって、密林は凶器以外の何者でもない。田村一等兵の精神が次第に狂い始める。

 密林の中の教会。海から舟でやってきた男女。現地の人は非戦闘員であっても、侵略戦争の兵士にとっては、最早皆敵である。教会に隠れていた田村一等兵は恐怖に駆られて女を殺す。男を逃がす。床下の塩を見つけて、奪う。やがて、同じように彷徨する日本人兵士たちに出会う。塩を与えて、仲間入りする。兵士たちは、仲間の兵士たちを殺して、「猿の肉」と称して、人肉を喰らっていた。ロンリー・ソルジャーにとって、自分以外は、皆敵である。だんだん、そういうことが判って来て、田村一等兵も生き延びるために人肉を喰うか喰わないか、という難題にぶち当る羽目に陥る。

 大岡原作の小説『野火』では、性欲と飢餓状況での人肉喰らいは、(神から見れば)同等のもの(突き動かされる)という大岡文学では、やがて主人公は人肉を喰らうようになる。凶悪な狂気の世界に突き進んでしまった田村一等兵。しかし、野火を見て、民の竃(フィリピン人の住居)の火を求めて、敵前に身を暴露し、襲撃されて、捕虜になり、アメリカ軍の野戦病院で治療を受けた後、田村一等兵は復員する。出征前に一旦棄教したキリスト教の神に救いを求めるが、神と狂気の狭間で狂ってしまった田村は、精神病院に入院させられ、病院内とでフィリピンの戦場での戦争体験を手記にまとめる、という結末を迎える。小説の結末は有神論の世界。

 塚本晋也監督作品の「野火」では、小説の原作通りに、民の竃(フィリピン人の住居)の火、野火を求めて、敵前に身を暴露し、襲撃されて、捕虜になる。アメリカ軍の野戦病院で治療を受けた後、復員するが、結婚をし、若い妻と同居しながらも入院せず、部屋に引きこもる。フィリピンの戦場の延長線上にある部屋のなか。幻覚も聞こえる。統合失調症か。田村は机の前に座り込み手記を書いているが、盛んに己を責め立てて、両手で机を叩いている。映画では、小説のような神の問題は提起されず、狂気の果ての男の引きこもりとして描かれている。障子を開けて、食事を運んできた若い妻は、不安そうな表情で夫の不穏な様子を見ている。

 その後、主人公は廊下に立ち、能面のような無表情なまま、外を凝視している。東京に戻っても、田村は、ロンリー・ロンリー・ロンリー・ソルジャー。その顔に外の明りが、不安定な光を投げかけている。戦争で、フィリピン・レイテ島の密林を彷徨した孤絶の敗残兵は、その地で何を見たのか。映画の結末は無神論の世界。

 スクリーンから主人公の声のみが聞こえた。
 「また、始まった。また、始まった。止めてくれ」。

 田村一等兵の余生を狂気の世界へ追い込んだ悪夢。幻覚か夢か。夢にうなされる敗残兵の戦後。

 2013年7月のフィリピン・ミンダナオ島ロケ。11月の沖縄ロケ。12月のハワイロケ他、国内ロケ。2013年暮れのクランクアップ。2015年7月の公開。

 自主製作映画は、資金もスタッフも役者も不十分。ツイッターでスタッフも役者も募った。だから、俳優もスタッフもほぼボランティアという。プロは、少数派だ。テーマに共鳴した力を参加者の工夫と熱情に替えて映画は完成された。

 工夫とは?
 ミンダナオ島ロケは、現地の豊かな自然の風景、狂気を幻視する光景のほか、主人公と現地の人たちの出演シーンが撮影された。沖縄、ハワイは、ミンダナオ島ロケに近い映像を求めて、また、往復の飛行機代を節約して、代用撮影された。国内ロケは、さらに経費節約で代用撮影された。戦場の戦闘シーンや野戦病院の爆撃炎上シーンは、例えば、荒川土手などで撮影された。そういう節約は、衣装、大道具、小道具についてもなされた。偽装された武器。廃品利用の道具。プロとアマ混在のスタッフや役者。カメラを通じて伝えられる観客の「錯覚」さえ塚本晋也は利用した。例えば、腐敗した肉体に湧くウジ。初めに本物の蠢くウジをアップで見せておけば、その後のウジは、ウジ色の「パスタ」であっても、観客にはウジに見えるという。

 そうやって幾重にも工夫して紡ぎ出された、まさに「切れ目のない」(まるで、いま流行の◯◯事態、××事態の論戦のような科白か)映像の構成で映画は、一本に繋がった。映画館という薄暗闇のなかで光の束となった映像の精巧さ。それが、スペクタクルな戦争映画では描けないような戦場を再現する極め付きの反戦映画として観客の前に出現してきた。

 塚本晋也監督の言葉。「今、実際に戦争の痛みを知る人がいよいよ少なくなるに連れ、また戦争をしようとする動きが起こっているような気がしてなりません。今作らなければもうこの先作るチャンスがないかもしれない。また作るのは今しかないと思い、お金はありませんでしたが、多くの力強い協力を得て完成に至りました。戦争体験者の肉声を身体にしみ込ませ反映させたこの映画を、今の若い人を始め少しでも多くの方に見てもらい、いろいろなことを感じてもらいたいと思いました、そして議論の場に使っていただけたら幸いです」と話している。

 この映画は、自主上映のため、上映される映画館は限られる。7月25日から東京・渋谷のユーロスペース、立川シネマシティほかで、順次全国的に封切り公開される予定だ。

◆2.映評「ベルファスト71」 : 殺人が、戦争に変わる時。

 ヤン・ドマンジュ監督作品、ジャック・オコンネル主演のイギリス映画。2014年製作。

 北アイルランドの首都・ベルファストの1971年のある日を描く映画。南北アイルランドの対立が背景にある。アイルランドは、イギリスの西にある島。数世紀に及び全島がイギリス領だったのが、1920年代から南部が分離し、自治制度を導入した。1949年には、南アイルランドにアイルランド共和国が成立。北アイルランドは、9州のうち6州(アルスター地方)がイギリスに残留した。現在のイギリスの正式な国名が、グレートブリテンと北アイルランド連合王国というのは、その歴史を示す名称だ。

・歴史:
 この分離独立でアイルランドの政情がスッキリと安定したわけではないのは、ご承知の通り。アメリカの黒人たちの公民権運動(差別政策撤廃要求)に目覚めて、アイルランドでは、1960年代から続くカトリック系住民の公民権運動が盛り上がりを見せていた。特に、カトリック系住民のプロテスタント系住民への反発が強く、行動も過激化してきた。1969年8月の、ロンドンデリーやベルファストでの両派住民の騒擾が起きた。これをきっかけにイギリス陸軍が治安維持を理由に北アイルランドに駐留するようになる。陸軍の駐留は、この後、2007年7月まで、38年も続くことになる。

 北アイルランドの政情には、様々な対立の背景がある。まず、以前から続くプロテスタントとカトリックという宗教対立。宗派は、ほぼ40パーセントずつ。残りは無宗教か無回答。さらに、経済や政治をめぐる対立もある。プロテスタントでイギリスのへの帰属を願うユニオリスト(連合派)とカトリックでイギリス離れを主張するナショナリスト(独立派、南北統一派)の対立。中でも、ロイヤリスト(王国忠誠派、ユニオリストの過激派)とリパブリカン(共和派、ナショナリストの過激派)の私兵組織の武装対立が激化する。ロイヤリストには、イギリス陸軍や地元のアルスター警察が味方する。リパブリカンには、アイルランド共和軍が味方する。1969年の騒擾をきっかけにアイルランド共和軍は、ラジカルな暫定派と正統派=穏健派と呼ばれるグループに分裂し、事態を複雑にする。その結果、両派住民の対立による死傷事件は、1971年から75年にかけて、激増することになる。98年の和平合意(「ベルファスト合意」と呼ばれる)までの死者3600人のうち、半分が、この5年間の死者だ。

 こうした中、1972年1月30日に「血の日曜日事件」が起きている。事件は、ロンドンデリー(北アイルランドの首都はベルファスト。ロンドンデリーは、北アイルランド第2の都市)で行われた公民権運動のカトリック系市民デモ(27人参加)を阻止しようとしたイギリス陸軍が非武装の住民たちに発砲し、14人が死亡した、というもの。ビートルズのうち、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーがアイルランド系。ビートルズには「血まみれの日曜日」という歌がある。

 映画は、血塗られた日曜日事件の前年、1971年のベルファストの住民対立を鎮めようと治安出動させられた部隊に混じっていた新兵の物語である。アイルランドの両派住民の対立が激化し始めた時期に焦点を合わせて描いて行く。

 治安出動したのは実戦体験のないアーミテージ中尉が率いる部隊。住民対立の治安出動ということで、過度の刺激を避けようとヘルメットも被らず、ベレー帽で出動した。その中に、両親のいない青年新兵(二等兵)ゲイリー・フックもいる。たった一人の弟を孤児院に預けて、弟との今後の生活設計のために入隊したばかりだった。

 住民対立の地域に着いた途端、地域の子供たちから糞尿弾のお見舞いを受ける。カトリック系の過激派住民の子供たちだ。住民の対立もエスカレート、住民の一部は体を張って軍隊にぶつかってくる。現場の雰囲気に飲まれた住民は石を投げるなど暴動化する。石が当たり倒れた兵隊の銃を過激派の住民の子供が奪って逃げて行く。ゲイリーともう一人の新兵トンプソンが、奪われた銃を取り返そうと子どもの後を追う。周りの状況判断ができない新兵二人。いつの間にか、二人はカトリック過激派の住区に入り込んでしまう。実戦に不慣れなアーミテージ中尉は、新兵二人の安否を確認しない。二人を現場に残したまま、置き去りにしてしまう。

 やがて、追っていた子供を見失ったばかりでなく、カソリック過激派に見つけられて二人は袋叩きに合う。アイルランド共和軍IRAの過激派(暫定派)のハガティがトンプソンを射殺する。ゲイリーは、隙を見て逃げる。銃を撃ちながら追いかけるハガティら。カメラは、固定と手持ちとを使い分ける。逃走劇はカメラマンも手持ちで俳優たちを追いかける。ぶれる画面がリアルさを強調する。

 何とか逃げ切り、トイレに隠れたゲイリーは、夜を待つ。武器もなく、「戦場」に孤絶した状況に追い込まれた新兵のゲイリー。実戦経験も無い二等兵が独りで、どうやって窮地を脱出するのか。映画「野火」もそうだが、戦争は兵士を想定外のシチュエーションにいとも簡単に置くものだ、ということが良く判る。

 闇に紛れて忍び出るゲイリー。カトリック系住民に父親を殺されたプロテスタント系の子供がゲイリーの逃亡を助けてくれる。新兵は、いとも簡単に見つけられてしまう。ゲイリーは迷路のような裏道を案内されて子供の知合いのプロテスタント系住民が経営するパブに案内される。カメラは、昼の撮影に使われた16ミリフィルムのカメラ(レンズはアナモルフィックレンズ使用)からデジタルカメラに替わる。

 パブの奥の部屋では、治安部隊とは別に地区に入り込んでいる工作員のルイス軍曹がプロテスタント系住民に爆発物を供与し、扱い方を説明している。ルイスは同じ陸軍でも部隊の違うゲイリーに見られたことで警戒心を抱く。ルイス軍曹はゲイリー二等兵にパブから出るなと命じた上で工作部隊の上官の将校ブラウニングに報告と今後の対応を相談しに行く。帰りの遅いルイスを待ちわび、ゲイリーがパブの出入口から外に出ているとパブの内部で爆発が起こる。ルイスの部下が爆弾の扱いを誤ってしまったのだ。吹き飛ばされるゲイリー。怪我をしたようだが、命には別条なかった。焼けたパブの中に戻ると、案内してくれた子供は爆発の巻き添えを食って既に死んでいた。

 街へ逃れ出たゲイリーは、途中で気を失って倒れてしまう。通りかかったカトリック系住民の父娘に助けられ、高層アパートの自宅へ運ばれ手当てを受ける。父親は元衛生兵で治療の心得があった。父親は、さらにアイルランド共和軍の穏健派のベテラン兵士ボイルに新兵の処理を相談に行く。ボイルはイギリス陸軍工作部隊の将校ブラウニングと密かに接触を試みる。ボイルに託した父親は自宅に戻る。ボイルとブラウニングの取引は、こうだ。新兵のゲイリーをイギリス陸軍に返す代わりにアイルランド共和軍の持て余し者の過激派クイン(ハガティの兄貴分)を殺して欲しい、というものだった。映画は丹念に史実を踏まえながら、それぞれの歴史的なエピソードを象徴する人物たちを配置している。

 カトリックの父娘の自宅で意識を取り戻したゲイリーは、父娘に黙って高層アパートの部屋を忍び出る。ブラウニングとの取引を終えて、カトリックの父娘の自宅を訪ねてきたボイル(アイルランド共和軍穏健派)。そのボイルの後を密かにつけてきた者たちがいる。ゲイリーを殺そうというアイルランド共和軍過激派のハガティと兄貴分のクイン、弟分のショーン少年だった。ゲイリーを取引に使おうというボイルに続いて、ゲイリー救出をきっかけに目指す陸軍工作部隊のブラウニング、ルイス、さらに陸軍の兵士たちも高層アパートヘ。ボイルをつけてきたクインらがカトリックの父娘の自宅を襲うが、ゲイリーは、既に逃走した後。

 高層アパートのフロアや階段で、逃げるゲイリーと追うハガティ、クイン、ショーンら。さらに追う陸軍の工作部隊。工作部隊のルイスは、爆弾工作の現場を見られてしまったので部隊の異なるゲイリーを殺そうとしている。追いつ追われつ。臨場感溢れる逃亡・追跡劇。ゲイリーは、クインらに見つけられ、高層アパートの地下室に連れ込まれる。クインは、過激派見習いのショーン少年に銃を渡し、ゲイリーを殺せと命じる。その時の科白。

 「これは殺人じゃない。戦争なんだ。一人前になれ!」

 そう、戦争は、「国家が命じる人殺し」なのだ、というメッセージをこの映画は発信する。いわゆる戦争法案が国会で審議中の日本が頭をよぎる。「これは自衛(戦争)じゃない。人殺しなんだ。普通の(一人前の)国になれ!」

 しかし、ショーン少年は、引き金を弾けない。「一人前になれないなら、いらない」。業を煮やしたクインがショーン少年を撃ち殺す。地下室にやってきたアイルランド共和軍穏健派のボイルがカトリックの過激派クインを撃ち殺す。陸軍工作部隊のルイスがボイルを撃ち殺す。ルイスは、ゲイリーを助けるふりをして、締め殺そうとする。追ってきたイギリス陸軍の兵士がルイスを撃ち殺す。ゲイリーは、救出される。殺し、殺され。殺しの連鎖。これが戦争なのだ。

 ゲイリーは、アイルランド島を離れる船に乗り込む。亡くなった新兵のトンプソンと自分の認識票を船上から海に投げ捨てる。兵士をやめて弟の待つ孤児院へ戻る。幼い弟を抱き締める。これは、反戦映画だろう。

 この映画のテーマは、「分断」だという。宗教だけでなく、歴史、言語、文化、政治的、経済的な利害、風俗、民俗、生活習慣などでコミュニティが二分されている社会がアイルランドだ、という。「分断社会」(コミュニティの分断)の境界線は、見える者には見える。境界を越えてこようとする者は制裁の対象になる。分断が紛争を生み、紛争が新たな分断を生む。アイルランドの70年代は、誰が味方で誰が敵か、判らないカオスの時代だった、という。

 対イギリスのテロ闘争を標榜していたアイルランド共和軍の暫定派は、2005年に武装闘争終結宣言をし、武装解除した、という。一方で、リアルIRA(アイルランド共和軍)というのが分派して生き残っている、という。分断は続いているのだろう。

 グローバル化の中で、富と貧困に象徴されるよう分断社会、格差社会は、いま、形を変えて現代社会にますます蔓延している。ロシアが介入したウクライナ、イスラエルなどの中近東、ロシア、中国、朝鮮半島、日本、アメリカなどなど、コミュニティやコミュニケーションを分断する境界線は、見える者には見える。多数決と少数意見尊重の共存を標榜してきた民主主義にとって、分断された社会は、難敵だろう。民主主義は、分断社会の中で生き残れるのか。アイルランドの提示した問題性は、普遍的で現代的だ。

 この映画は、エンターテインメントのサスペンス・スリラー映画だが、史実をきちんと踏まえた脚本と顔の知られていない俳優群の活用で、ドキュメンタリー映画の色合いも濃くなっている。手持ちのカメラワーク。すでに触れたように昼と夜の場面の撮影では、昼は16ミリフィルムのカメラ(レンズは、横に長い映像撮影が可能なアナモルフィックレンズ)、夜はデジタルカメラと使い分けている。映像の繋ぎには支障がない。1970年代のベルファストの雰囲気を出すためにイギリスのブラックバーンとリバプール(ビートルズの出身地)に再現した建物や道路も赤煉瓦の街並でのロケ。今のベルファストには、もう、70年代の街の面影がない、という。煉瓦の質感を画面で出すためにもフィルムカメラを使用した、という。色調的にも70年代のベルファストが再現できたというから、その辺りもお見逃しなく。

 この映画は、8月1日から、全国でロードショー公開される。

 (筆者はジャーナリスト・日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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