戦後70年の教育改革

侃々諤々】敗戦後70年を考える(1)

戦後70年の教育改革

斉藤 保男


 「6・3・3で12年〜」30年位前に春が近づくと流れていた学習机のテレビCMのキャッチフレーズである。この数字はそれぞれ小学校・中学校・高等学校(高校)の在学年数を表わしたものであるのは言うまでもないが、こうした学校を中心とした教育制度も、戦後大きく変化したもののひとつである。

 近代日本の教育制度が最初に定められたのが1872年の学制発布であるが、当初目指した学区制に基づく学校設置は財政面から折り合いがつかず、義務教育制度が導入されたのも1886年の小学校令発布からであった。これに対して戦後の日本国憲法では、普通教育を子女に受けさせることが国民の3大義務として定められ、小学校及び中学校の義務化が実施された。

 戦後の教育制度で大きく変革したのが、学校体系である。戦前の学校体系は、複線構造となっていた。義務教育である尋常小学校を修了した後は、大学を頂点とした進学コースや、専門学校・実業学校・師範学校などへの進学コースなどに分かれていた。また、男女も別学となっていた。

 こうした複線構造から、戦後の学校体系は小学校・中学校・高校及び大学の単線構造となり、中学校以上も男女共学が基本となった。この時、学校のあり方が大きく変わったのが大学である。戦前の大学は、帝国大学や医科大学などの官立大学と、主に明治期に専門学校として設立され昇格運動を経て大学となった私立大学とがあった。これに対して戦後は1県1大学の原則の下で医科大学や師範学校・高等学校などが統合された国立大学が発足し、また私立大学でもキリスト教系の女子大学が誕生した。

 戦後の学校は大学令や小学校令などの勅令に代わり、学校教育法と設置基準により規定されることとなった。設置基準は校地や設備、教員数などを外形的に定めたものであるが、大学においては公益法人の大学基準協会が定めるなど、アメリカにおける大学認証制度を取り入れた形でスタートしたのである。また、大学院が教育課程として整備されたのも戦後からである。

 戦後の教育改革で大学が変容したといっても、当時の大学進学率は10パーセント未満であり、高校進学率も40パーセント未満であった。教育のあり方は、社会の経済状況や人々の意識によって大きく変わることがある。関連法規や学校制度の変革は制度設計の変更であるが、実際には制度の運用や社会の変容によって制度そのものが合わなくあってきたり批判にさらされることが多いのも、教育制度の特徴である。高度経済成長期の昭和30年代では、中卒者が「金の卵」と称されるなどまだまだ義務教育段階以降の進学率は高まっていなかったが、1960年代になると受験戦争の過熱化により、「十五の春を泣かせるな」のスローガンの下に高校進学率の急激な上昇が図られた。

 日本では明治以降、上級学校への進学が立身出世の手段として捉えられ、戦後の教育改革により進学機会も均等化したことが受験戦争に拍車をかけた。同じ頃、高度経済成長を支える工業化を支える人材育成に向けて、工科系大学や工業高校の増設も進められた。一方で、戦後生まれのいわゆる団塊の世代が大学に進学する頃には、大学での学生運動が活発になり、大学管理という教育行政当局の関心と大学自治とのあり方に焦点が当てられることとなった。このことは、新構想大学としての筑波大学の設置(と東京教育大学の閉学)や、2006年の教育基本法改正による大学の目的設定などにつながったとされる。

 ただ、こうした教育行政当局の意向と社会のニーズが必ずしも一致しているわけではない。団塊の世代や団塊ジュニア世代に合わせて急増した公立高校は、近年の少子化に伴って統廃合を加速している。大学でも18歳人口が急減する2018年問題が業界内での喫緊の課題となっている。また、小学校における少人数学級は、実現を図りたい文部科学省や地方自治体と、財政負担を抑制したい財務省との間で考え方に大きな違いが現れている。近年度は、関連業界による協議や要望を踏まえて実施された法科大学院は、当初の意図とは異なり司法試験での合格率が低迷したことから入学者が減少し、補助金の削減や統廃合が唱えられている。

 誰もが何らかの形で経験していることであるからか、教育制度ほど色々な人が言及しやすいテーマもないのではないかと思えるが、一方でそれらの個人的な経験を一般論として論じられがちなのも教育制度を語るときの弊害の一つである。

 自分の意志で選択的に行えるおとなの教育はともかく、初等中等教育段階の子どもの教育は身体面や精神面の発達などに伴って行われるため、どうしても一過性のものとなってしまう。子ども時代にどのような教育を受けたかがその人の一生に関わってしまうおそれがあるため、教育制度の変革は慎重に取り組む必要があるが、出生率の低下や経済状況の変化など、戦後70年を経た現在、学校体系の抜本的な変革は必要ではないかと考える。

 実は6・3・3・4制と言われる戦後の単線的な学校制度は、基本的な部分以外ではしばしば変更されている。まず戦後すぐに大学設置が難しかった旧制の専門学校などにおいては、2年制の短期大学の設置が認められてきた。また、工業化に向けた地域の人材育成のために、中学卒業後に入学できる5年制の高等専門学校が設置された。私立の進学校で一般的に行われている中高一貫教育を公立学校でも可能にするために、6年制の中等教育学校も認められるようになった。近年は小中一貫教育も可能にするよう検討されている。

 ただこれらの新種の学校も、単線構造の学校体系を変更するものではなく、一部の例外的な学校種の追認に近い状況である。1990年代から話題に上がる不登校問題でも、サポート校での学習などでの卒業が認められるようになってきたが、基本的には小中高大の単線構造を補強する形である。

 最近、大学をグローバル化に対応した人材育成のためのG型大学と職業訓練校としてのL型大学とに分ける提案が話題になったが、似たような議論は戦前にもあった。1937年に教育改革同志会が提起した教育制度改革案では、大学・専門学校・高等学校を整理して3年制の大学校にする案があった。その後、戦時中には大学や専門学校で理工系教育が拡充されるとともに、文科系教育の縮小が行われた。

 G型大学とL型大学の議論はドイツの大学とギムナジウムなどを念頭に置いたもののように思われるが、ドイツは複線型の学校体系であり、大学段階だけ複線系というのも無理があると思われる。現在の大学の問題は単線構造の終点としての進学率上昇に伴う教育の質的変化に起因しているのではないだろうか。立身出世の手段としての大学進学の役割はすでに現在の日本では終わったと思われる。もし、職業訓練としての役割を広く与えるのならば、おとなの教育段階での選択とやり直しが行えるような複線型の高等教育を社会全体で実現することが必要ではないかと考える。

 あくまでも一私案ではあるが、小中高までの段階は仮に現在と同じだとしても、インターネットや放送・通信教育など現在のサポート校の役割を含めた教育手法を広く選択できるようにする。そして高校卒業の18歳の時点で、2年生の職業訓練学校を広く設置し、資格取得と直結させることとする。あり方としてはアメリカのコミュニティー・カレッジに近い存在である。企業は高卒者を入社時の待遇の基準とし、その後の資格取得や経験年数により採用を図ることとする。

 大学は現在の国立大学のように大学院中心の研究型大学と、医師や法曹向けの専門職育成の専門大学院とに分化する。職業訓練学校は、現行の国公立私立大学と公立高校とが連携して公立高校に併設する形で設置し、教育機会の均等を図ることとする。見かけはG型大学・L型大学に似ているが、人材育成という観点よりも、個人のキャリア形成に重点を置き、やり直しのきく学校制度に改めることが、これからの日本社会には必要ではないだろうか。

 (筆者は東京都在住・大学職員)


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