【オルタの視点】

戦後70年の8月15日
 ― むのたけじさんとの長い旅(5)

河邑 厚徳

 戦後70年の2015年8月15日。その当日もむのたけじさんに密着してカメラを回した。出演のためTBSラジオに向かう車のなかでインタビューした。8月15日の意義を聞くとむのさんは
 「大きな意義があると思います。やっぱり70年の年月が様々な姿を描き重ねてきたわけですけど、変わらない部分と変わった部分とね、ここ数日いろんな場に身を置いてね。私は変わっていくという動きを感じます。戦争を続ける世の中を許すのか、それとも戦争を終わらせる世の中にするのか、2つに1つです。」

 「なんかあの、日本の民衆がごよごよ動き出したという、もぞもぞと。まだ波も形は見えませんけどね、これは100年生きてきて、物心ついて90年になるけど、変わってきたことですね。

 私が一番小さい頃、幼少年期の時代の私は、一番いやな言葉は大人たちの言葉でした。大人たちが地域で問題があって、神社やお寺で寄り集まって相談していると、子供らは聞きにいったもんです、こうやって。で、大人のやることを見ていておかしいとか笑ったりするんだけど、いつもおかしいのは、最後の方になると、いよいよ何か結論をだして行動をするかしないかとなると、大人が言う言葉があったんです。
 秋田弁で言えば、「おらがみてたものは、何言ったってかに言ったって世の中、変わるもんじゃない。出る釘はぶたれるぞ。まあまあ話はここらあたりにして、どぶろく飲むべ」と、そういう言葉がすぐ出るんですよ。
 それを聞きながら子供心に、なにか自分の親たちの世代が情けないような、自分で自分を卑下する。それがずっと心の中にあって。今その、おれが見ていたものが、動かなきゃ変わらないというものがね、そういう感じが今あるんじゃない?

 だから講演に行って、終わってね、見も知らない70~80歳のおじいちゃん、おばあちゃんが「元気出して。俺もがんばるから」と寄ってきてね、手を握ったり、ほっぺたをくっつたりする人がいてね。それがやっぱり嬉しいのよ、私。胸の奥のどこかを触られてね。もっと自分で自分の人生を生きるぞという、そういう人が今はまだ少ないかもしれないけど、確実に増えているんじゃないかな。だから日本が生まれ変わっているようなね。これが当たり前なんですよ。普通に戻るというようなね。
 あと何年生きるか分からないけど、この動きが続いていって世の中が確実に変わるぞと確信できるまで、あと何年生きるか分からないけど、可能性は低いけど、生きられるなら是非生きたいなというような気持ちがするんですよ。もう新聞記者をやったり、『たいまつ』を作ったり、平和運動をやったりしたのは、それがほしいから。それをみんなと一緒に作りたいと思ったから。ただ、喜びとか感動がわく時は非常に静かです。私の中では。本物というのは静かじゃない? けばけばしいものは皆ニセモノだという気がするの。本当のものというのは、ごくごく平凡で静かで当たり前のものだと思うんで。そういうのを今感じるの。」

 むのさんは、TBSラジオ「永六輔その新世界。戦後70年特別企画。1万人の声。戦争体験談を聞く」に出演した。控室に行くと俳人の金子兜太さんが話していた。トラック島で敗戦を迎え翌年復員した。戦争には絶対反対である。

 金子「年をとればとるほどね、おれはそういう気持ちで帰ってきたんだと。そういう気持ちを忘れてはいけないと思うようになっていますね。そのために何をするか。戦争体験の話をして、戦争はこんなにむごいものなんだと、こんなことは絶対やってはいけないと申し上げればいいと思っています。他はやらんでいいと思う」

 金子兜太さんからむのたけじにバトンタッチ。
 「むのさん。70年前の8月15日はどちらに?」

 「そのとき私は朝日新聞の記者をしていて、浦和のもとぶという、昔、村だった集落の借家に住んでました。15日もそこで、14日の夜、朝日を去るときに、明日からここにこないから、さよならと言って・・・私はもうこの会社には来ませんといって、14日の夜に浦和のもとぶの家に帰ったの。

 「もともと従軍記者をしていらっしゃったんですよね。だけど、いいことしか新聞にはのらなかったんでしょ?」

 「でも、載るように工夫して書いたのがありますんで、私がいまこうやってしゃべるものだから、むのたけじはどんな記事を書いたのかと、それを調べる方がいて、縮刷版で残っているんです。そしてそれが、番組などで紹介されますが、そんなに恥ずかしいことは書いてないね。負けた戦を勝ったなんて書いてないし。
 そんなに大して嘘はついていないけど、一番大切なことはね。日本と中国の関係で言うならば、中国の軍人や政治家でなく、むしろ一般の民衆。女性や子供達まで、日本には決して妥協しないと、日本の攻撃は許さないと、子供の中にまでその思いが染みこんでいることを日本に伝えて、戦はやめて、ここで話し合いで折り合いをつけて、わびることは詫びてね、中国ともう一度手を握り合って、助け合わなきゃいかんということを書かなきゃいかんけど、それは直接かけないわけ。
 もしそれおを書いたら、軍部が国家の政策に弓を引く悪いやつだと、下手すれば治安維持法で死刑ですからね。死ぬわけにはいかんから、それは書かないけれど、なんとなくそれが伝わるような記事を書こうとして努力したことは、いまの古新聞を見ても分かるわけです」

 「永さんと私が会ったから申しますけど、私はずっと前から名前は存じていました。活動も。でも、わずか数年前からこういう風にお会いするようになって、あちこちの県で講演に出かけたときに、そこに永さんが来てこういう話をしていったというのを聞いていて、今日、また久しぶりに永さんに会うなあ、で、ぜひ言いたいことがあったの。
 永さんは文化人とか知識人と言われるのが好きかどうか分からないけど、人々の前でお言葉を述べる仕事をなさっている方のなかで、私の知っている範囲では、あなたのように、社会の色々な階層の人々に触れるように気を配って生きてきた方は少ないです。多分、あなたのように偏見なしに、社会の色々な土地・職業の、いろいろな立場の人々に声をかけられて、講演をしたり対話を求められたりしてきた方はないと思います。そういう意味では、今同じだと思うのよ。
 いま、この日本の社会状況を、戦争のない平和な国に導くかどうかの決め手は、肩書きをもった偉い方じゃなくて、社会のいろんなところにいて、もがきながら納得のいく生き方を求めている方々みなが声をあげなきゃいけないと思うのよ。危ない危ない、こうしよう、力をあわせよう、どうしたらいいんだってね。それがちょうど永さんがいろんな人に会って語り合ってきたその歩みと重なるもので、改めて私、永さんに敬意を表しようと思って来ました。」

 永「とも子さんを通じてこういうふうにお話できて、僕には夢のようです」

 映画『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』の公開前のプレス試写を続けている。公開は東京では6月3日より恵比寿のガーデンプレイス内の写真美術館と有楽町のヒューマントラストシネマである。様々な人からコメントをいただいている。永六輔さんの長女千絵さんからもすばらしい文章をいただいた。

 「誰もがこんなふうに生きられるわけではないとわかってはいます。ここにとんでもないお手本を見せていただいたわたしたちは、少しでも笹本さんのようにむのさんのように生きたい、と姿勢を正すことから始めます。
 「むのさん可愛い」と、失礼ながら思っていました。「笹本さんかっこいい」と、そのお姿拝見して憧れます。おふたりのそれぞれに筋の通った生き方を自分は少しでも真似できるだろうか、考えさせられました。
 父(永 六輔)は生前、ラジオのスタジオに来てくださったむのさんの前で子どものように泣きじゃくりました。同じように笹本さんにも敬意の念を抱いていました。この『笑う101歳×2』の映画を拝見して、父が泣いた、その意味があらためてわかりました。
 姿勢を正して、筋を通して、むのさんと笹本さんが見つめ続けてきた(続けている)この国がどこへ向かおうとしているのか。おふたりのことを知ったら、わたしたちも見て見ないふりをするわけにはいきません。 映画エッセイスト 永 千絵」

 (映画監督)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧