戦後70年~知られざる香港・澳門・広東の戦争の記憶

【オルタの視点】

戦後70年~知られざる香港・澳門・広東の戦争の記憶~

和仁 廉夫

◆はじめに

 和仁廉夫(わにゆきお)と申します。私は1993年に東京地裁に提訴された香港軍票賠償請求訴訟支援の必要から日本軍の香港占領史を勉強してきました。本日お話するのは、イギリス植民地だった香港の戦争時代を中心に、中国第四の大河珠江を挟んで対岸にあたるポルトガル植民地だったマカオ、そして周辺の広東省珠江デルタ地区の戦争体験に関する内容です。

◆日本の中国侵略と香港

 1931年9月18日、日本軍は奉天郊外の柳条湖で鉄道爆破を自作自演し、これを機に中国東北三省を占領しました、日本軍はさらに占領地を広げて「満州国」を建国しました。
 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で始まった武力衝突から日中両国は全面戦争に入ります。12月13日には首都南京を占領。中華民国政府は重慶に移り、民衆に徹底抗戦を呼びかけました。
 1938年、戦火は華南に拡大しました。香港は英米両国が重慶国民政府に物資を補給している援蒋ルートの要衝でしたが、海軍は香港近海の萬山群島を海上封鎖し、4月に三灶島(現在の珠海市金湾區三灶鎮)を占領して第六航空基地(現在の珠海金灣空港)を建設し、中国本土爆撃を繰り返しました。10月には広東(現在の広州)が陥落し、12月には香港に隣接する深圳も陥落。香港には大量の難民が押し寄せてきました。

 東南アジアに目を転じますと、日本軍は翌1939年に海南島を占領し、1940~41年にはベトナムにも軍を進め、東南アジアに権益を持つ米英と対立するようになりました。
 1941年12月8日、日本軍は米国東洋艦隊の拠点だったハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、英国が支配していたマレー半島コタバルに上陸しました。同じころ、広東に展開していた日本軍は深圳河を渡り香港侵略を開始し、太平洋戦争が始まったのです。香港はわずか十八日の戦闘で12月25日に陥落。地元では史上最悪のクリスマスという意味で、「ブラック・クリスマス」(黒色聖誕節)といわれています。

◆香港占領地総督部

 香港に入城した日本軍は、1942年1月、中環の香港上海匯豊銀行に香港占領地総督部を開設し、磯谷廉介を総督に任命しました。この人事については少し補足しておきたい。

 磯谷廉介は日本軍将校の中でも「支那通」で知られ、1938年5月のノモンハン事件当時は関東軍参謀長の地位にありました。予備役に退いたのち、石橋湛山ら東洋経済新報社が主催する経済倶楽部の講師として、全国を講演旅行するなど、大変人気がありました。
 いっぽう、占領直後の香港では、香港占領の主導権をめぐって陸海軍が争い収拾がつかなくなっていました。当時、香港で海軍経理部の軍属だった鈴木敏夫さんは、中環から灣仔までを陸軍、跑馬地・銅鑼湾は海軍と、縄張りがあったと証言しています。
 日本の海外占領地では、広大な地域は陸軍(例えば広東)、港湾や島嶼など狭小な要衝は海軍(例えば三灶島)が統治するという通例がありましたが、香港には英国が残した莫大な備蓄があり、その利権をめぐって両者の折り合いがつかなかったのです。そこで予備役から磯谷廉介が香港総督に担ぎ出されたのです。

 磯谷廉介は東條英機首相らとはそりが合わず、日本軍が戦争を際限なく拡げていったことに批判的な立場でした。磯谷は香港赴任の辞令を受けたとき、「香港で重慶交渉をやればいいんだな」と思ったそうですが、陸軍省で武藤章軍務局長から、「閣下は香港に行かれても重慶との接触は厳に控えて下さい」と、中国との和平工作を禁じられた。予備役かの栄転にも見える人事でしたが、東條英機首相からみれば、煙たい存在である磯谷廉介を遠く離れた香港に追いやる「左遷人事」だったのです。

 磯谷は香港着任にあたり、『読売』への吸収合併に反対して『報知』を退社した佐野増彦記者を新聞局長に招き、経営不振に陥った『香港日報』の再建を『朝日』に託しました。また、石橋湛山を説得し、斎藤幸治東洋経済九州支社長を香港に招き、香港東洋経済社を設立させ、『軍政下の香港』(1944年)を出版。次いで『月刊香港東洋経済新報』を発行させるなど、磯谷色を発揮しました。
 また、香港の主要地名・道路名を日本名に改称しましたが、中国人を無理やり日本人化することはせず、日本語教育は強制していません。
 ただ、都市インフラの能力を超えた難民がいたため、適正人口の70万人程度に減らす人口疎散政策を強行しました。路上にいた難民を拉致し、船で無理やり無人島に遺棄するなど、憲兵隊による「乞食狩り」と呼ばれる乱暴な実態があり、餓死者を出すなど問題がありました。

 香港民衆は日本軍の統治に組織的な怠業で抵抗しました。現在の香港動植物公園に建立されるはずだった香港神社は、造営主任に赴任した政所喜澄が早々に腸チフスで病逝。工事は遅滞し、完成の目途が立ちませんでした。灣仔峡のキャメロン山に建設が進んでいた香港忠霊塔は完成まじかでしたが、ここでも中国人労働者の怠業と資材不足が重なり、完成していません。
 戦局が日本の不利に転じていた1943年のある時期、香港で深刻な電力不足が起きたことがあります。真相は中国人労働者の一斉怠業だったのですが、石炭運び、風呂焚き、食事の調理、果ては便所の汲み取りまで日本人自身でやらなければならない事態となり、このとき磯谷総督はひそかに「日本の敗戦」を直感したといいます。
 敗戦後、磯谷廉介はA級戦犯に問われ、巣鴨プリズンに収監されました。のちに上海に移送され、重慶で戦犯裁判を受けました。中華民国は磯谷廉介を無罪にしようとしましたが、英国が人口疎散政策の責任者としての処罰を求め、無期刑の判決でした。その後1953年に釈放されて日本に帰国し、1967年6月6日、千葉県一宮町で逝去しています。

◆軍票問題

 香港軍政を特徴づけるのが、軍用手票(軍票)の強制でした。
 軍票は正式には「軍用手票」と称し、日本軍が占領地で発行した戦時紙幣です。資源も食料も乏しい日本は、戦争が拡大し長期化するなか、戦争遂行に必要な物資や食料を現地で軍票を使って徴発するようになりました。
 中国本土では中国連合儲備銀行券(儲備券)、東南アジアでは現地通貨単位建ての南方開発金庫券(南発券)を使いました。これらも軍票と同じ役割を持つものでしたが、儲備券には占領地で物資と交換できる価値維持工作が行われ、南発券にもいくばくかの補償がありました。ところが香港軍票にはまったく裏付けがなく、中国語で書かれた「日本円と交換する」という兌換文言しかなかったのです。
 日本軍は武力で威嚇して軍票を流通させました。1943年6月1日以後は、香督令で香港ドルを持っていただけで「軍罰に処する」としたため、憲兵の暴行で落命した香港住民も少なくなかったのです。

 じつは在留邦人も軍票で給料を貰っていました。しかし日本人の場合は使わなかった軍票を軍事郵便貯金や為替にして送金すれば、内地の郵便局で日本円に交換することができました。ところが、香港住民にこのような方法はなく、軍票は日本円と交換できなかった。多くの香港住民が憲兵隊を恐れて香港ドルを手放し、戦後無一文となったのです。
 戦後、1993年8月13日に始まった香港軍票訴訟(内田雅敏弁護団長)で、東京地裁は1999年6月17日判決で「原告(香港市民)らは、戦争の被害者ないしは損害者と推認される」と香港市民の戦争被害を認めましたが、同時に「被告(日本政府)に賠償を命じる法律は見当たらない」として、損害賠償請求を退けました。高裁も最高裁もこの判決を支持したため、日本の法廷で解決する方法はなくなってしまいました。

◆香港と珠江三角州地域での日本の戦争犯罪

 1937年に日中が全面戦争に入ると、香港や澳門では祖国中国を助けるため、さまざまな基金が成立していました。戦域の拡大と共に中国各地から難民が押し寄せ、広東・深圳の陥落後、香港には通常に倍する140万人以上の人々が暮らしていました。これら難民に、香港民衆は一碗飯運動や一元基金運動で連帯していたのです。
 なかには、戦火を逃れてきた俳優、女優、財界人、作家など著名人も少なくありません。彼らの多くは占領直後の香港から陸路・海路で脱出しましたが、茅盾の『脱険雑記』や、夏衍の『走険記』などの作品は、こうしたなかで生まれたものです。

 そして、日本軍が中国各地で引き起こしたさまざまな戦争犯罪が、香港周辺を一瞥しただけでも、ほぼすべての種類が揃うことに驚かされます。

 第一に、住民財産の略奪です。占領直後の香港では、日本兵が民家に押し入り、貴金属や時計など金目の物を奪い、婦女子を暴行する事件が頻発していました。また、クイーンズスクエアーやビクトリアパークにあった女王像やセントラルの香港上海匯豊銀行本店前の獅子像など、香港を象徴する銅像が戦争遂行に必要な金属資源にするため日本に運ばれました。そもそも住民財産の略奪は、1907年のハーグ陸戦法規に定めた戦時国際法に違反しています。

 第二に、非戦闘員の大虐殺があります。1938年4月、海軍が三灶島を占領したおり、島北部の村落(十三保)を襲撃し、三千人規模の住民が殺害されました。戦後、その遺骨を合葬して造られた萬人墳では、毎年旧暦3月13日に大規模な墓前祭が行われています。この萬人墳と魚弄の千人墳は、中国の国家文物にも指定されました。(写真2)

 第三に、労働者の強制連行があります。占領下の香港からは海南島に大勢の香港住民が送り込まれ、鉱山や発電所で働かされました。栄養失調で多くの人が命を落とし、戦後香港に戻った人はわずか3人しかいなかったといいます。
 第四に、拘束・収監された捕虜や連合国系住民に対する虐待や不当な処遇がありました。香港赤柱の聖士提反書院に収容された人々の中にはスパイ容疑で処刑された人や、日本の鉱山に移送され働かされた人がいました。
 第五に、女性を本人の意に反して慰安婦にしたことです。香港灣仔には陸軍倶楽部があり、香港酒店や六國酒店には海軍倶楽部や海軍将校倶楽部という慰安所が併設されていました。海軍が占領した珠海三灶島にも複数の慰安所があり、現在も慰安所に使われた建物が保存されています。(写真3)

 第六に、細菌兵器の使用があります。広州郊外の南石頭難民収容所では香港から逃れて来た難民にゲルトネル食中毒菌を粥に混ぜて与え、多くの香港難民が命を落としました。
 第七に、化学兵器の貯蔵と遺棄があります。南支派遣軍は、敗戦直後、珠江の河底に大量の毒ガス弾を遺棄しました。2004年に6月に広州郊外の番禺蓮花山明星村で、この毒ガス弾を拾った老夫婦と隣家の主婦が、破裂した毒ガス弾の猛毒の液体を浴び、重症を負う悲惨な事件が起きた。3人は広州の人民解放軍病院で集中治療を受け、かろうじて一命を取りとめました。(写真4)

◆遺留した戦争責任問題

 敗戦後、香港の施政権を回復した英国は中環の高等法院に香港法廷(1946~1948年)を設置し戦争犯罪人を裁きました。しかし、罪に問われたのは香港攻略時に赤十字旗が掲げられていたレパルスベイ・ホテルやセント・スチーブンカレッジの野戦病院を襲撃して傷病兵や医師、看護師を殺害、暴行した事件の指揮者や、日本軍政期間に発生した香港憲兵隊によるいくつかの暴行事件に留まり、これらは戦争犯罪のごく一部にすぎません。
 このため、軍票の損害賠償問題をはじめ、多くの問題が残されました。英国は1951年のサンフランシスコ講和条約で対日賠償請求権を放棄しました。日本は戦争責任を大幅に免責されて独立し、その後の1965年の日韓基本条約や1972年の日中共同声明で韓国政府や中国政府に対日戦争賠償請求権を放棄させたことで、被害者の賠償要求の道はふさがれたのです。

 敗戦後、ナチズムと徹底的に決別したドイツとは異なり、日本では天皇がその後も在位し続けました。誤った侵略戦争で死んだ戦死者を英雄に祀る靖国神社も存続しました。戦後日本の国旗・国歌も旧来とまったく変わらず、旧軍人や遺族には手厚い軍人恩給・遺族年金が支給されています。
 このように、日本の戦争責任追及が希薄だったため、国民には侵略戦争に対する反省が希薄で、過去の侵略戦争を正当化する願望を持つ安倍晋三首相や日本会議に代表される右翼歴史修正主義者の台頭を許しました。現状はきわめて深刻な事態と言わねばなりません。

 (筆者は香港・澳門・広東地域研究者・ジャーナリスト)

(写真1:戦時香港明治劇場広告▼戦時アニメ「桃太郎、空の神兵」の広告が躍る戦時下の香港紙。明治劇場は九龍半島にあった。)
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(写真2:三灶島の萬人墳▼直接の犠牲者は3千人と推定される。毎年事件のあった旧暦3月13日前後に盛大な墓前祭が行われている。)
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(写真3:三灶島上表にある慰安所址▼中国の国家文物に指定された。従軍作家だった長谷川伸の『事実残存抄』から、三灶島には少なくとも2か所の慰安所があったことが判明している。羅時雍手稿や、福大公司に関する史料など、裏付けるものは豊富に見つかっている。)
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(写真4:G毒氣受害住宅▼広州番禺蓮花山港明星村にある日本軍毒ガス弾による被災家屋現場。貧しい老漁民夫婦は川底に沈む弾薬を引き揚げ、くず鉄屋に売って生計を立てていたが、2004年6月、毒ガス弾が自宅前で破裂し、夫婦とも重症を負った。向かいの家の若い主婦も自転車で子供を学校に送るところで、腰部に毒ガス弾の飛沫を浴び負傷した。)
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